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この不知火諾衛門の墓所は、実は、私の母のお墓のすぐ近くなのです。
場所は旧宇土城跡の近くです。栗崎という所です。

少し行けば、宇土市轟町で私の父の故郷になります。


駐車場はすぐ手前に3台分確保してあります。

みなさんも、ぜひ1度訪れてみてください!


不知火8代横綱郷土は、熊本の誇りです。

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              錦絵は不知火と剣山の取り組みの場面です



不知火諾右衛門  (しらぬい だくえもん)

  




江戸時代、角界に熊本出身の名横綱がいました。「不知火型土俵入り」の創始者、第8代横綱”不知火諾右衛門”です。

 
享和元年(1801) 宇土市轟村栗崎(現宇土市栗崎)に生まれる。
本名は近久信次。父親は嘉平は農業を営み、郡の役人も兼任していました。

文化十三年(1816)信次が十六歳の時父が他界されたのを受け家を継ぎ郡の役人になります。
機敏で大力で地元に徴用されました。
やがて池田氏の娘を嫁に迎え二人の男子を授かります。

二十三歳の時、浦山の天神社の祭礼で宮相撲に参加し相手を投げ飛ばしてしまいます。
このことが、原因で相手を死亡させてしまいました。
信次(諾衛門)は、残された家族と顔を合わすことが苦痛でいたたまれなくなり故郷を去り大阪に出ました。
妻子を郷土に残しての相撲修行は恐らく他にはないでしょう。

大阪の名門湊部屋に入門して、湊由良右衛門の弟子となり、白川(熊本の川の名前)と名乗り、
初土俵を踏みました。当時の力士としては、知的で取り組みも鋭敏で才能を遺憾なく発揮していきました。

諾衛門は体格も良く、並外れた腕力と稽古熱心な甲斐があってメキメキ頭角を表していきました。
大阪では、たちまち入幕を果たし戸立野と名を改めます。

持ち前のガッツで上り詰め大阪相撲の大関に昇進し黒雲竜五郎と改名しました。
前頭から一躍大関に昇進したのは、七代横綱の玉垣と、この不知火諾衛門二人のみです。


その当時は、芝居は大阪、相撲は江戸と言われ、相撲の本場が江戸と言うこともあり、
又更に、文政十三年(1830)の十一代将軍 徳川家斎の上覧相撲の盛儀を聞いた
黒雲(諾衛門)は、師匠に了解を求め、天保元年江戸に出発します。

江戸では、神田の本郷金助町の浦風林右衛門を訪ね弟子となり入門後、
天保元年十一月場所に、西幕下二十八枚目に付け出され回向院の江戸での初土俵を踏み、
同時に出雲国松平藩のお抱え力士となったのです。

この時、諾衛門三十歳、この場所の成績は七勝一敗の好スタートでのデビュー戦です。

幕下十場所を通じ五十七勝十四敗という好成績でありながら七年も昇進しなかったのは、
当時の大阪上がりの力士の成績と昇進が合致しない大阪(ハンデ)であった当時の角界の通説の故だったようです。

江戸相撲八年目に入り天保八年(1837)一月、ようやく西前頭四枚目に入幕し、濃野里諾衛門と改めました。

入幕したのが三十七歳で全盛期は過ぎていたものの、同年十月には、前頭三枚目に上がり、
手柄山、黒岩という大関・関脇を破り、翌九年二月には、前頭筆頭に昇進、
さらに翌三月場所では、西の大関の稲妻が休場したため関脇追手風、小結鷲ヶ浜を抜いて一躍
西の大関に二人抜きで昇進し、東の大関平石七太夫と相対しました。

小結・大関を経ずに大関になったのは、看板大関以外では異例で、このようなことから、
功績を認められ郷土細川藩のお抱え力士となりました。

この場所は、二勝四敗四休と不振におわり、翌十一月に稲妻が現れたので西の関脇にもどり、この時に、 不知火諾衛門 と名を改めました。

所以は、領主細川公から、『領地の名物八朔(八月一日)の神火(不知火)は天下の奇観である。郡内に生を受けた汝は、
郷名を轟かすような不知火と名乗れ』 と名を賜ったということです。

翌十一年二月には、大関稲妻の引退を受け大関に復帰して八勝二休の幕内優勝を果たしたのです。
そしてこの年の十一月に、

吉田司家第二十一代善左衛門 追風から故実門人に差し加え、横綱を授与された。八人目の免許を受けたのでした。不知火諾衛門四十歳の時でした。

当時の横綱は、地位ではなく称号でした。(降格有り)

諾衛門の戦歴の中で特筆にあたる出来ごとは、天保十四年(1483)九月二十五日の江戸城吹上御殿での十二代将軍 徳川家慶の上覧相撲のでの華々しい光栄です。

その日は、朝から雨が降っていたとのですが、昼ごろからはパット晴れ上がって諾衛門は上覧相撲土俵の上で、一代の面目を施しました。この歴史的瞬間は諾衛門の長年の夢がかなった瞬間でした。

その土俵入りは、高根山・黒雲の二人を伴い免許を許された横綱を締め、堂々とした横綱の歩みで土俵に上がり、刻の将軍家慶に天下無双の豪快な土俵入りをお目にかけ、山も崩れんばかりの力技で見るものすべてを魅了したものでした。


いよいよ上覧相撲も最後の結びの一番、剣山対不知火の大関戦となり不知火が力で剣山に勝り寄り切って勝ったのです。
諾衛門は行司より弓を渡されるやいなや、土俵中央に踊りでて自ら堂々たる弓取り式を行いました。


そして時は流れ四十四歳になった天保十五年(1844)一月場所で、諾衛門は引退を表明しました。

幕内在位八年 十四場所、勝率七割六分二厘、

最高位は、大関幕内最優秀(優勝)一回。

秀ノ山(第9代横綱)、剣山と並んで、天保の三傑と言われました。

身長1m76cm、体重135kgの当時としては堂々たる体格でした。

引退後は、師の恩を返すため大阪に戻り、湊諾衛門を名乗り大阪相撲の頭取となり門下の養成に専念し、

優れた弟子を数多く生み出し江戸相撲に送り出しました。

中でも最も有名なのが第十一代横綱不知火光衛門(熊本県大津下町出身)です。

不知火光衛門は又後日、ここで、ご紹介致します。

そして嘉永七年(1854)七月二十四日没、五十四歳でした。

辞世の句は

こわれても かたちは失な露の玉




史跡


墓所は、生地の宇土市栗崎の山の中腹に、近くに住む子孫の佐久間家の墓地にあります。

熊本県宇土市の教育委員会では、昭和五十一年五月に、市の文化財に指定し保護に努められてます。

初代若乃花が大関時代に詣でたこともあります。

この様な歴史を後世につたえなければ、二度と熊本から横綱が誕生することはないでしょう・・・・・

みなさん、墓所にいってみてください!

よろしくおねがいします。




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大空武左衛門

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大空武左衛門(えんくうぶざえもん)


上益城上田所村(現上益城矢部町)の出身です。
矢部町の戸屋野にある墓石の記事から逆算すると
寛政八年(1796)の生まれ、文政十年五月に
細川藩侯のお供をして江戸に上がった時は
20歳か22歳であったという説がある。
この説なら文化三年か五年生まれである。

細川藩のお抱え力士となり、文政十年五月、
藩主斉護公の参勤交代のお供をして江戸に上がる。
年寄り勝ノ浦の門人となって大空武左衛門と名乗った。
そして同年十一月場所にたった一度の土俵入りだけで、
一度も取り組みはしなかった。

番付にも乗らず、人目につくことを嫌い早々と翌年
帰郷してしまったという。

江戸の町に現れた時、釈迦ケ嶽雲右衛門以来の巨人ということで、
その身長は江戸っ子達の肝をひやし江戸中のうわさ話になった。
錦絵もかなり多く描かれた・・・・
その巨人ぶりは錦絵なので宣伝され、吉田司家にある画像には
『身丈七尺五寸(2m27cm)説が有力です』



史跡

墓所は、上益城郡矢部町田所戸屋野の山中にあり、
台石を三段に重ねられて、七尺五寸に高さにしてあります。

逸話


十歳ばかりの時、矢部の浜町に行こうと思って小原までくると、
大きな牛が道を塞いで通れなかったとき、村人が困っていると、
武左衛門は平然と牛をまたいで歩いていった逸話が残ってる。

江戸への道中で立っている牛を跨いだので、細川藩公から、
『牛跨(うしまたぎ)』という名をもらった。

 





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注】写真は雲早山関の物です。大山沢右衛門の資料はありませんでした。






大山沢右衛門

土俵歴

出身地は不明。
寛政十一年(1799)十一月、最初から東大関に付け出された。
翌十二年四月場所も大関で荒滝と改めた。

寛政十二年十月引退しました。





雲早山森之助

土俵歴

天明七年(1787)天草郡二江村現天草郡五和町に生まれる。
文化五年(1808)大阪から江戸に行きました。
勝ノ浦与一右衛門の弟子になり、翌六年二月、轟滝之助と名乗って
東幕下十四枚目に登場しました。
翌十月には、東幕下十枚目に進んだが成績は一勝二敗一無勝負六休
文化八年十一月場所は再び東幕下十枚目に進み、
成績は九勝一預かりの好成績をあげ雲早と改めました。

文化九年四月場所は東幕下六枚目で全休、
十一月場所は東幕下一枚目で六勝四敗、
翌十年十一月東前頭八枚目に入幕した。
負け越したのは、最後の場所となった文政六年十月のみで、
十一年間十七場所の長い幕内の在位中全休二場所、負け越し一場所のほかは、
ほとんど毎場所好成績をあげ、勝率は六割七分二厘、関脇以下で終わった

強豪力士の一人です。。

文政七年一月引退しました。

最高位は小結。
文政八年(1825)一月二日没、39歳の若さでした。







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注】上の写真は代目光衛門ではありません。下が二代目光衛門です。


不知火光右衛門


  土 俵 歴

 安永4年(1775年)玉名郡下村平野(現玉名市)の平野半兵衛の子として生まれる。兄弟は三人であったといいます。
 21歳で、大阪の陣幕長兵衛の弟子となり、寛政7年(1795年)江戸に出て八ツヶ峰往右衛門の弟子となり、翌8年10月、磐石荒五郎と名乗って東小結に付け出された。ときに22歳であった。同場所は四勝四敗一預かり一休の成績。

 翌9年3月には東関脇に進み、同場所は八勝一敗一休の好成績で、これは当時無敵の強豪と謳われた雷電為右衛門と同成績であった。当時は優勝制度がなかったが、今日ならこの磐石と雷電による優勝決定戦が行われるところであった。
 この好成績にもかかわらず翌10月には東小結に下げられている。同場所の成績は五勝三敗二休、なお、この場所から 不知火光右衛門 と改めた。

 寛政10年(1798)3月には東大関に進み、7日目まで勝ち放しだったが、8日目に千田川に、9日目に雷電に敗れて二敗した。しかし、七勝二敗一休と大関の貫禄を示した立派な成績であった。にもかかわらず翌10月には、木幡山が看板大関に付け出されたため一場所で大関の座を譲り、東関脇に下げられている。同場所は三勝三敗一無勝負三休であった。
 その後、同12年10月に引退するまで小結、関脇と三役をつとめ、幕内の在位5年、八場所を一度も平幕に落ちなかった強豪である。<strong>最高位は大関</strong>で、幕内の勝率は六割六分七厘、大関だけの勝率は七割七分八厘となっている。文化元年(1804)7月14日没、30歳。

史跡

お墓は玉名市、唐平(とうのひら)にあり、碑面には次のとうり刻されている。
文化元子年
(表)不知火光右衛門
7月14日

下村若者中
浅霧茂助
緑藤楡不毛
国見嶽梶右エ門
(裏)矢剣清次
清之浦和助
八島喜三
口関武三
龍門金七

戦後、元横綱双葉山とその弟子不動岩(後述)がこの墓に詣でています。


逸話

下村で引退相撲が行われたときに、御花に出された米五俵を置座にのせたままかかえていたという


いわゆる熊本県の大津の横綱  不知火光衛門ではありません4名いる不知火の内2代目の関取です。


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