過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

イメージ 1

相撲三神(すもうさんしん)



もともとは、京都の相撲三神として崇拝されていました。


吉田家が十三代追風の時代、朝廷の崇拝神として天照大神・住吉大神・戸隠大神の三神を奉斎した。


その後15代追風の時代武家奉公で細川藩に仕えることになった時、京都から熊本に移設された。


この相撲三神は歴代の横綱及び、三役以上の行司、相撲関係者の中の故実門人として、認められた者のみが、
   
                   
                                                                     
相撲三神前で免許状を授与されて来たのです。



全国の相撲関係者の崇拝神として祭られてきました。


この相撲三神は、国技相撲道の真髄である『心・気・体』を表す神々です。



天照大神(サイト参照→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E

住吉大神(サイト参照→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A5%9

戸隠大神(サイト参照→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE

追記:戸隠神社の奥社には、手力男神が祭られています。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




【行司】オフィシャルサイトへ!→ http://tomoiteruya.otemo-yan.net/ ←ここをクリツク

『目指せ熊本一番ブログへ、皆様の温かい応援を宜しくお願い足します。

『おてもやんブログ熊本の地元のブログサイトです【クリック無料】募金ではありません(笑)』



【吉田司家に関する記事の営利目的の転載及写真の無断使用はしないでください。NPO法人行司】
ヤフーブログ内限定での営利目的以外の記事転載に関しては、大歓迎です!転載お願いします!

イメージ 1

イメージ 2

上の写真は、熊本市碩台小学校校庭にある本山彦一氏の生誕記念碑
下の写真は、写真は学生横綱になった同志社大学服部祐児に絹手綱を渡す25世吉田長孝氏


大正八年十月大阪毎日新聞は初めて全日本学生相撲選手権を開催することになった。同社社長 本山彦一氏は、二十三世 追風吉田善門に大会個人優勝者に横綱を授与してほしいと懇願してきた。この本山彦一氏は善門より三歳上の熊本での幼馴染で本山彦一氏は、嘉永六年(1853年)の生まれで善門と同じく肥後藩校 時習館に学び、その後慶応大学に進み卒業後一時兵庫県へ奉職したが後に官界を去り、時事新報に入りその後、明治二十六年大坂毎日新聞社五代目の社長となった。善門は、ことに本山彦一氏の依頼であり、これを快諾し、アマチュアの横綱に対し、横綱ではなく練絹としての絹手綱(きぬたずな)を授与することにした。そして大阪相撲協会行司木村正直等を引き連れて大会に臨んだのであった。第一回の優勝者となった神戸高等商学校 田中四郎に、この絹手綱を善門は、授与したのであった。(この絹練りの手綱は身にまとう物ではなく、頂ものである) その後、昭和七年(1932年)本山彦一氏八十歳の時 郷里熊本市の碩台小学校校庭の一角に建設された彼の誕生記念碑序幕式に出席し同席した善門と久々の旧交を暖めたものであった。

第54代 横綱輪島は本大会で学生で二回の学生横綱になり、大相撲の横綱と合わせて三回の横綱を25世吉田追風から授与された。


【吉田司家に関する記事の営利目的の転載及写真の無断使用はしないでください。NPO法人行司】

ヤフーブログ内限定での営利目的以外の記事転載に関しては、大歓迎です!転載お願いします!

イメージ 1

国技相撲道を守り伝えて800年 司家家訓 【その弐】



その壱からの続きです。
いよいよ、十五代 追風の時代になると、朝廷が衰微し相撲節会も中断となったので、相撲愛好家として知られる肥後藩主 細川綱利公に仕え(前記事参照)、万治元年(1658年)熊本に移り、細川家好遇のもとで相撲屋敷を定めた。


徳川幕府より国技相撲道の諸々の礼式の相伝、免許を司どる許可を得て、武家相撲及び将軍上覧相撲の式故実作法を定着させました。


このように吉田司家も国技相撲道の変遷とともに朝廷の相撲司から、武家の本朝相撲司御行司へとその役目も移り変わりますが、相撲界に於て最も重きをなすに至ったのは、


十九代追風が将軍家斎公の江戸城吹上御殿での上覧相撲にて横綱制度を考案、谷風・小野川に横綱を免許し、


現在も行われている土俵祭(本場所の前日)の式法や、横綱の土俵入りの型を定めた事で、以降横綱に『綱』を授与し、故実門人(歴代の横綱及び三役格以上の立行司の免許を授与していました。


また明治維新(西洋思想影響)の旧物破壊(日本古来の文化否定)の大怒涛のなかで裸体でとる相撲は未開野蛮人の行為で国辱だと相撲廃止論が起こったとき相撲宗家としての地位と矜持をもって国技相撲道の護持のため獅子奮迅の活躍をみせた。


二十三代追風は、東京・大阪両相撲会所の対立に於いても『一味清風』の家訓を基に一本化を図り日本相撲協会の設立、国技相撲の発展に多大な貢献をして参りました。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




【行司】オフィシャルサイトへ!→ http://tomoiteruya.otemo-yan.net/ ←ここをクリツク

『目指せ熊本一番ブログへ、皆様の温かい応援を宜しくお願い足します。

『おてもやんブログ熊本の地元のブログサイトです【クリック無料】募金ではありません(笑)』








【吉田司家に関する記事の営利目的の転載及写真の無断使用はしないでください。NPO法人行司】

ヤフーブログ内限定での営利目的以外の記事転載に関しては大歓迎です!みなさん転載お願いします!

開く トラックバック(1)

イメージ 1

        ◆吉田家始祖豊後家次が、後鳥羽天皇より賜った獅子王の団扇



国技相撲道を守り伝えて800年

農耕民族である日本人が、五穀豊穣を神に祈った年占いの神事に起源を持つ相撲は、朝廷の公例行事「三度節」のひとつである相撲節会、武家相撲、そして広く一般庶民に親しまれるようになった勧進相撲を経て、現在の大相撲や全国各地で催される奉納相撲、アマチュア相撲に、その伝統は受け継がれております。

 

後鳥羽天皇の御代、文治二年(1186年)それまで中断されていた相撲節会復興に際し、相撲故実旧例に詳しい吉田家始祖豊後家次は、越前の国より後鳥羽天皇に召され相撲節会の典儀を故実旧例に従い無事勤め、 「国技の古き伝統を守り伝えよ」という訓を「追風」の号に託し獅子王団扇とともに賜り、相撲の司として以来800年の間、国技相撲道の普及発展に尽力して参りました。

 

弘治年間(1555年〜)当時角力と称し、唯一の協議として人気のあった相撲は、単に力くらべとなり相撲本来の礼儀礼節を尊び古例旧式にならう相撲道から大きく離脱の様相に、十三代追風は、土俵上の登場礼式(力士が土俵にあがり行う動作及び型)を定め、神儀であった相撲を国技の「 道 」として確立。時の正親天皇より永禄元年(1558年)相撲全般をとり仕切る行司官を、命じられ、「マカロオ」の団扇を勅賜。元亀年中(1570年〜1572年)関白二条晴良公より「一味清風」の四文字が記された団扇を授与された追風は、以降国技相撲道に二派はなく、常に一味(ひとつの派のみ)の作法でもって相撲道を守ることを相撲界はもとより、吉田司家の家訓として代々伝授してきた。

*************************************

私の個人的所感ですが・・・・・・

私は、地元の小学校のPTAの役員をしているのですが、挨拶の出来る校区は、比較的に子供たちの非行もすくないような気がします。

礼節・・・・・・これは、人の社会にとって、一番大切なことでは無いでしょうか・・・

私の大好きな書の中に・・・・・このような一説があります。

 それ一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂主、師、親これなり。又習学すべき物三つあり、所謂儒、外、内これなり。
(すべての民衆に尊敬すべきものが、三つあり、主、師、親の三徳である。身につけねばならぬ物が三つあり、儒教、仏教以外、仏教の教えもこれにおさまる。とあります・・・・・

主、師、親の三徳・・・・・

主の徳、師の徳、親の徳、現在の日本に、一番掛けた部分ではないでしょうか?

親が、自分の子供の教育には、命がけで責任を持つこと、また気がついた者が見て見ぬぬふりを、せねばもっと良い社会になるのではないでしょうか・・・・・・日本本来の礼儀礼節、一番大切な教育ではないでしょうか?・・・100年後の日本のために・・・・・・。

イメージ 1

イメージ 2

上の写真は、司家が建設した肥後相撲館(熊本国技館)
下の写真は、ネット初公開の内部写真(現在博物館としての再建計画中)

やっと設計図が見つかりました!もう一度熊本に国技館を!






肥後相撲館建設について


1. 肥後相撲館の開館
 
大正二年十月十一日は十三代 追風が没してから三百年の忌辰にあたった。
これより先き善門は、郷土の斯道(しどう)奨励のため相撲常設館の建設のもくろみをもって、
相撲役員等と熟議の上、十三代追風の三百年忌辰の記念事業として常設館の新築を決定した。

熊本市辛島町六番地に熊本相撲の殿堂としての常設館は見事にその偉容をあらわした。
開館式は十月二日行われた。 善門の嫡子長助が、方屋祭、開口、方屋開きを執行した。

善門自らは横綱大刀山と大錦の故実三段構を合わせた。
第六師団長、熊本県知事の赤星典太、熊本市の長山田珠一、その他の人々が祝辞をのべた。

それから東西幕内力士の揃踏、横綱太刀山の独手数入りがあり、それから取組が数十番行われた。
つづいて同年同月十一日、木の香も新しい肥後相撲館で、十三代追風の三百年祭が厳かにおこなわれた。
当日祭式の中に式相撲が執行され、善門は一切の故実相撲を司式した。
この日も横綱太刀山の独手数入り、そして古式相撲の取組が十数番あった。




2.太刀山の十人掛懸賞相撲

有名な太刀山の十人掛の懸賞相撲があったのもこの肥後相撲館の大相撲興行中であった。
開館式のその日から興行は始まったが、十日間ぶっ通して取組みが行われたあと、太刀山の十人懸りがあった。
しかし太刀山の強豪は無敵といってよかった。

一体どの位強いか、というところから十人掛の懸賞相撲になった。
太刀山は横綱でも大関でもかまわぬというのを善門の声がかりで関脇以下東西きっての
精鋭十人(東京方、大蛇潟、金の花、小野ヶ崎、御舟潟、大阪方、放駒、千舟川、秀の海、加古川、小染川、男山)
ときまり、太刀山は、余裕しゃくしゃくとして、ただ一度叩きこみしただけで、
あとは片はしからつかんで放り出すといった有様で、強敵十人を総なめにし懸賞金五百円をもらったのであった。
いかにも天下無敵日下開山らしい強豪ぶりであった。




3. 肥後相撲館の解体
 
大正六年五月には十九代 吉田追風の百年祭をいとなんだ他、大相撲の巡業はいつもここで行われ、太刀山、大木戸、鳳、西の海、大錦、栃木山、二代目大錦、宮城山、源氏山、常の花などがこの相撲館で新横綱を張ったのものだ。

それはどれだけ相撲愛好者を熱狂させたかはかりしれなかった。
かねては映画館として熊本市民に親しまれた。
 
当時映画常設館としては電気館、世界館などがあったが相撲館は西洋物の映画を上映するところとして知られていた。
あとでは松竹系統となって松竹の映画監督をしていた熊本出身の牛原虚彦が手がけた映画がよく上映され
熊本市民をよろこばせた。

こうして大相撲と映画館として長く郷土の県市民に親しまれてきた相撲館が、熊本市発展の動力をなす
市電の敷地となるため、解体しなければならなくなったのは惜しいことであった。

昭和三年十一月二十二日から四日間最後の相撲巡業として横綱常ノ花一行がやってきて、
連日熱狂につつまれついにはNHK松内則三が相撲の中継まで行った。
 
この盛況ぶりは当時の九州新聞で報じられた。
そして昭和三年十二月九日解体式があげられた。
相撲館が建設された大正二年から数えて十五年の間の歴史であった。
相撲館の市電敷地となった残り全部は現在辛島公園となって市民の憩いの場所で



【追記】 色々な他のサイトで、吉田司家の記事や説明を目にしますが、あまりにも事実無根な記事が多く、大変遺憾に思います。


当サイトでは常に吉田司家25世吉田長孝氏の監修の下、史実・資料を基に忠実に作成致しております。


【吉田司家に関する記事の営利目的の転載及写真の無断使用はしないでください。NPO法人行司】

ヤフーブログ内限定での営利目的以外の記事転載に関しては、大歓迎です!転載お願いします!

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.
sasasa
sasasa
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29

標準グループ

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事