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天保元年(1830)熊本府紺屋町(現熊本市紺屋町)に生まれる。 初め大阪に出て、頭取湊由良右衛門(8人目の横綱不知火諾右衛門)の弟子となり、鬼鹿毛と名乗った。嘉永7年(1854)2月江戸に下って阿武(おおの)松(まつ)の門に入り、九段目に付け出されました。 この場所5戦5勝。同年11月東幕下四十八枚目に鬼鹿毛平助の名で登場。 安政5年(1858)1月には西幕下十七枚目に進み、雲生嶽と改め、翌6年11月場所は西幕下九枚目に進み、七勝二敗一休の好成績をおさめました。 万延元年(1860)10月西前頭六枚目に入幕し、小柳平助と改め、細川藩のお抱え力士となった。 同場所は二勝四敗一休と成績は良くなかったが、翌場所は剛勇鬼面山を破るなどして五勝三敗二休の星をあげた。 文久2年(1862)2月場所は西前頭三枚目に進み、初日より快進撃で、5日目には四戦四勝の横綱雲龍を破り、7日目には「負けずや」と謳われた陣幕と対戦しました。 陣幕は阿波藩のお抱え力士で、それまで不知火光衛門には3連勝していた。「打倒陣幕」は2人というより肥後藩の面子にかけての悲願となっていた。陣幕が双上手から体力にまかせて土俵いっぱいに寄りつめたところを小柳は土俵際で耐え、思いきって陣幕を東溜に打棄ったのでした。 意外の勝負に満場総立ちとなり、拍手喝采は天地も揺らめくばかりで、座蒲団、土瓶、茶碗などが飛んで山をなし、一時は凄まじい程の騒であったという。物言いはつかず、陣幕の24連勝にストップをかけ、この日まで四勝二預かり一休という土つかずでした。 同日夜、小柳は陣幕に勝った祝宴より肥後部屋に帰ったときはかなり酔っていた。肥後部屋というのは、本場所中、肥後細川藩の方で本場所に近い下総屋という宿屋を一軒借りきって藩の抱え力士を宿泊させ場所に通わせていたところである。 小柳は、部屋にいた不知火の若い者(付け人)である幕下の殿峰五郎と、小柳の若い者である3段目の不動山岩吉の両人を摑えて理不尽にどなりちらした。そこで両人は日頃からの不満が爆発して、ついに意を決して小柳が眠ったのを見すまして太刀を浴びせた。(寝込みを襲われた) 怪力で闘志満々、肥体をぶっつけて一気に突進してゆく取り口は後年の横綱玉錦や東富士タイプであったといわれ、人気も先輩横綱 不知火光衛門に迫るものがあり、将来は大関・確実の超大物だといわれただけに当時の相撲界にとっては、実にショッキングな事件であり、 幕内の在位は四場所で、最高位は前頭三枚目。 史 跡 墓は東京都保谷市ひばりが丘4-22-4大谷派の墓地内にあり、碑面には次のとおり刻されています。 (正) 小柳平祏之墓 (裏) 昭和十二年七月再建 施主 山本きよ子 大阪市四天王寺の無縁墓群の頂にも“肥後小柳平助”と刻まれた大きな自然石の墓碑があります。
静岡県の相撲研究家杉浦弘氏の調査の過去帳には 法刃 文久二戌年四月十六日 深川御船蔵前町言之清地借 角力年寄阿武松庄吉弟子 小 柳 平 助 三十三歳 とあり、さらに同月14日夜西ノ大関不知火光右衛門弟子不動岩岩蔵、殿峰蔵両人に傷を負わされて死亡、奉行所の役人石ヶ谷因幡守殿らが見分上土葬を申渡という意のことが付記されていました。 |
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