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※写真は、代々の吉田司家の祖先が眠る(熊本市坪井の真浄寺)墓所です。



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    第十二回(昭和三十四年度顕彰)



?H1>吉 田 善 門 翁

  家  系


 吉田善門の家系は遠く後鳥羽天皇の時代にさかのぼる一名門ということが出来る。源平の兵乱にわずらわされて朝廷の儀式などもすたれたことがあったが、そのうち兵乱もおさまったので、これらのすたれた儀典を復興しようと志されたのが後鳥羽天皇であった。

相撲節会の復興もまたその一つであった。そこで天皇はこれまで相撲行事官として長く仕えた志賀家の子孫を四方にさがされたが、その家は安徳天皇にしたがって壇ノ浦に消えて、断絶してしまったらしく見出すことが出来なかった。それではと、これに代る人を天下にさがされた結果、志賀氏の伝をうけてこの道の故実旧例に精通している吉田家次という者が越前国にいることがわかった。もと木曾義仲の家臣であったが、義仲の行動にあきたらず、退いて生地に螢居していたのである。


 そこで後鳥羽天皇はたゞちに越前国から家次を召され、相撲司を命じ、従五位上に叙し、名を追風と賜った。時に文治二年(一一八六)六月である。こうして吉田司家は生れた。吉田善門はこの家次から数えて二十三世にあたっているので二十三世追風といった。


 初代追風家次は後鳥羽天皇から獅子王の団扇と木剣を拝領している。むろん相撲節会に行事官として大いにつとめた功によるものである。第二世は豊後守追風といった。その頃承久の乱がおこって都はまた騒がしくなったので、追風は万一をおもんばかって勅賜の品々や家伝の書類を持って遁れ、河内国の一族のもとに非難した。それから代々大和摂津の間に流寓することになる。


 第三世から第十二世追風まで、この間、北条、足利、戦国時代とつゞくため、都に出ることも少なく、したがってさしたることもなかったようである。


 十三世追風にいたって特記すべきことがおこった。十三世は名を長助といった。時の帝は正親町天皇である。天皇はふたたび相撲節会の復興を念じられ、長助を召して行事官とし、豊後守と称させた。その時の相撲節会の奉仕の功を賞して「マカロオ」の団扇を勅賜された。関白二条晴良は長助を呼んで相撲の故実について種々下問したが、その答えが実に立派であったので、「一味清風」の四文字を記して長助に与えた。


この 一味清風 というは日本相撲の法二派に分るゝ時は必ず道が乱るゝから作法を一味にして相撲道を守る、これ清風なり、という意であるとつたえられ、また一説には相撲の初祖志賀清林の清と追風の風をとって一味清風と書かれたものともいう。とにかく


吉田家と相撲と離すべからざることをいったものであろう。


関白近衛晴嗣もまた式につかう烏帽子、狩衣、四幅袴を投与している。織田信長も豊臣秀吉も、また徳川家康も、ともに団扇を授け、信長は長助の力をかりて武家相撲の例式を定め、家康は将軍上覧相撲の規程を定めた。吉田家ではこの十三世追風を中興の祖とよんでいる。

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