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写真は有りませんので錦絵をお楽しみください。 土 俵 歴 文久元年(1861)熊本府(現熊本市)に生れる。本名は浜崎太治郎。 初め京都に出て出水川の弟子となり、のち上京して境川浪右衛門(14人目の横綱)の弟子となった。明治20年1月、吉野山と名乗って東十両九枚目に進んだ。 明治二十一年一月場所は西十両四枚目で七勝三敗の好成績をあげ、翌5月に西前頭十枚目に入幕した。なお、一月に芳ノ山と改めました。 入幕後三場所は連続して勝ち越し、順調に昇進していったが、明治23年1月場所から不振を続け、明治24年1月には脱走して京都相撲に加わった。 同年5月には帰参したが次の明治25年1月場所は全休し、翌6月には東十両一枚目に落ちた。しかし、明治26年1月場所は東十両四枚目で七勝二敗の好成績をあげ、翌5月には東前頭十枚目に再入幕した。 同場所は三勝六敗一休と負け越し、場所からその名を消した。 これより先、明治22年には師匠の境川(明治20年に没)の名跡を相続することがきまり、二枚鑑札になっていたが、境川を名乗ることもなくして東京を去り、4月の大阪場所には西前頭五枚目に出場しました。しかし、たった一場所でまた姿を消した。 幕内の在位は8場所で、最高位は前頭四枚目。 土 俵 歴 嘉永5年(1852)玉名郡長洲町に生れる。本名は五島林七。初め京都に出て出水川の弟子となり羽登と名乗りました。 その後、上京して境川浪右衛門(14人目の横綱)の弟子となり、黒雲と改め、明治19年1月には東十両八枚目に進んだ。 十両五場所目の21年1月場所は、西十両五枚目で四勝一敗一引き分け一預かり三休の好成績をあげ、翌5月に西前頭十一枚目に入幕しました。 入幕後は、二場所出場のあと二場所休場し、明治23年5月には東十両張出となったが出場せず脱走して大阪相撲に加わった。 幕内の在位は四場所で、最高位は前頭六枚目。 史 跡 玉名市光尊寺に過去帳があり 本名 五島林七 死亡年月日 明治四十三年1月十三日五十九才 戒名 釋了現信士 となっています。 玉名郡長洲町の五島大助氏(明治44年生れ)は、五島林七の孫にあたり、子供のとき黒雲雷五郎という墓があったことを覚えているそうです。 【行司】オフィシャルサイトへ!→ http://tomoiteruya.otemo-yan.net/ ←研究の成果発表 『おてもやんブログ熊本の地元のブログサイトです【クリック無料】募金ではありません(笑)』
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