|
今回から行司のことについて、おって記事を追加して行こうと思っています。 伊藤勝治さん(大相撲の立行司、34代木村庄之助) 横綱同士による千秋楽相星決戦の熱気を背に、慣れ親しんだ軍配に別れを告げた。来月、行司の定年である65歳となるため、今場所が仕事納め。座布団の舞う大阪府立体育会館で朝青龍に勝ち名乗りをあげ、最後の大役を果たすと、「両横綱にこんな舞台を用意してもらって本当に幸運です」と感謝した。 東京都墨田区の両国中学に通いながら、初めて土俵に上がったのは昭和31年夏場所。「当時は朝の6時に取組が始まり、暗い中、両国から蔵前国技館まで走ったのを、きのうのことのように覚えている」。以後、52年間の行司人生は「あっという間だった」と振り返る。 初土俵は「頭が真っ白になって東も西も正面も分からなくなった」という。新弟子時代は、立行司の庄之助(当時は22代目)といえば雲の上の存在で、話しかけられても「ハイ」と返事するのが精いっぱいだった。 昨年夏場所にその庄之助の名跡を継いだ。「まさか自分がなるとは思わなかった」。裁くのは常に結びの一番。心を砕いたのは立ち合いだった。「手をつかなかったり、じらしたりといろいろあったが、公平に立たせることが身上だった」という。 相撲に取り組む姿勢を一変させる一番がある。お客さんもまばらだった幕下時代。4度の取り直しを経て決着し、倒れ込む両力士に「気が済んだだろう」と声を掛けると、返答は「納得できません」。 『その時、勝負にかける力士の心をかいま見た。』 庄之助を襲名してからは、日付と対戦力士の部分を空白にした進退伺を懐に忍ばせてきた。「差し違えたら出す」と悲壮な決意を込めた進退伺は、もはや無用。「これからはゆっくり相撲を見ることにします」。重圧から解放され、37代式守伊之助に最高位を譲る。(奥山次郎) 昭和18年、東京都江戸川区生まれ。両国中学在学中の31年夏場所に初土俵を踏む。55年に十両格、平成4年に幕内格、17年に三役格に昇進した。18年に式守伊之助を襲名し、立行司となる。 三役格4場所での立行司昇進は史上最短。昨年夏場所に木村庄之助となった。現在64歳。 産経ニューススポーツより参照 http://tomoiteruya.otemo-yan.net/ ランキングへ←ここをクリツク 『皆様の温かいクリックを宜しくお願い足します』 『おてもやんブログ熊本の地元のランキングです』 『現在4位です』
|
【日本相撲史】
[ リスト | 詳細 ]
|
http://tomoiteruya.otemo-yan.net/ 行司←ここをクリツク 『皆様の温かい応援を宜しくお願い足します』 『おてもやんブログ熊本の地元のブログサイトです』 吉田司家由来記 吉田司家は、文治二年(1186年)後鳥羽天皇より、相撲の故実旧例に精通したとして越前から召し出され 「相撲の古き伝統を守り伝えよ」 という使命を「追風」という号に託し賜り、相撲司を命じられた吉田豊後守家次を初代とし、以来八百年の間、代々国技相撲道を守り今日まで歩んで参りました。 万治元年(1658年)肥後藩主 細川綱利公に仕え、熊本に移り、相撲屋敷を定め、徳川幕府より諸々の列式相伝及び免許を司る本朝相撲司を許されましたが、吉田司家が相撲界に於いて最も重きをなすに至ったのは、 十一代将軍家斎公の江戸城吹上御殿での寛政の上覧相撲にて、十九代追風(吉田 善左衛門)横綱制度を考案し、谷風・小野川に横綱を免許し、土俵入りの型や、土俵祭の形式を定めた事で、以後国技相撲道の普及発展に寄与して参りました。 そしてまた、これからも日本相撲界の発展に寄与して参ります。 以上 吉田司家宝物館パンフより参照
|
|
相撲三神(すもうさんしん) |
|
国技相撲道を守り伝えて800年 司家家訓 【その弐】 |
|
【上の写真は23世 吉田追風が横綱、梅ヶ谷と常陸山に立ち合いの阿吽の呼吸(あうんのこきゅう)を伝授している所です。】 |



