【熊本相撲史】

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肥後細川藩と相撲の史実
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【 桑ノ弓 鬼太朗 】


土 俵 歴

 熊本府(現熊本市)の出身。初め鳩ノ浦、ついで桑ノ弓新五郎と名乗り、その後桑ノ弓鬼太朗と改めた。
伊勢ノ海部屋に所属し、文久2年(1862)11月西幕下8枚目に進みました。

幕下を七場所つとめ、慶応2年(1866)3月西前頭八枚目に入幕した。細川藩のお抱え力士となり、また郷土の先輩不知火光右衛門の横綱土俵入りには露払いをつとめていた。

明治元年1月からはじまった東北戦争(戊辰戦争)のとき、東北と北越の諸藩は奥羽越列藩同盟をつくり、旧幕府軍を応援したが、肥後藩主細川韶邦の弟承昭が津軽順承の養子になっていた津軽藩など数藩はこれに参加しなかったので同盟軍の攻撃をうけることになった。

そこで細川藩では津軽を応援することになり、明治2年1月2日、藩士350人が東京を出発、海路から津軽に向かった。しかし翌3日、上総国河津村(現千葉県勝浦市)沖で暴風雨のため座礁沈没し、210名の水死者を出したが、このなかに桑ノ弓もいたのである。

当時、主家の大事に際し、これに参加した力士はこの桑ノ弓のはかに陣幕、朝日嶽などがいたが、当時の力士の気質が推察できます。  

幕内の在位は六場所で、最高位は前頭五枚目。



史    跡

熊本市横手町の安国禅寺内に上総沖遭難者供養碑があり、碑面には次のとおり刻されています。
 
 (正) 上総沖溺死碑
 (右) 十行目に久兵衛・駒蔵・桑乃弓・釈迦之峰・杉田川・山鹿屋人足
           四十九人
            作平
 
     桑ノ弓以下3人の従軍力士の名がある。
 (左) 明治十五年夏五月玉名国友昌撰水野直書



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不知火光右衛門


 
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土 俵 歴

文政8年(1825)3月、合志郡陣内村下町(現菊池郡大津町下町)に生まれました。  本名は原野峰松。
 父母は普通の人とあまり変わらなかったのですが、隔世遺伝とでもいうのか、祖父の儀右衛門は体格も優れて、この地方の草相撲で荒牧と名乗り、近隣に名を轟かせていた大関でした。

峰松もその血を享け継いだのか、力が強く、祖父に従って近村の宮相撲を回り飛び入りに出ているうちに、体格も力もめきめき力量をつけ、草相撲の大関を張るようになりました。

そして、熊本にある肥後相撲の半ば職業化した集団に迎えられ、農閑期になると近隣の郷村を興行して歩き、ますます相撲の技も上達してゆき、相手になる者もいなくなったといいます。

「陣内志談」(児島貞熊著、大正6年3月25日発行)によれば、 

「・・・生まれながらにして祖父の力量を禀け継ぎ、剛力無雙幼少の頃より三度の飯よりも好む方にて加うるに身長相貌相協ひ顔立ち好く髪毛あくまで黒く光る源氏の流れを汲みしかと思う程の美男子なれば、遠地近地の宮相撲に往いて方屋に上がると其相撲を見んよりは寧ろ立派なる峰松の男振りを見物すると云う位の人気を集めたりしぞ・・・」とあります。

 やがて、天下の力士を志し、弘化3年(1846)22歳のとき村の郷士坂本十郎左衛門から誘われて大阪に出て、すでに江戸から帰阪していた郷土の先輩である8人目の横綱不知火諾右衛門の部屋に弟子入りし、殿(しん)峰(がり)松と名乗って翌弘化4年(1847)5月大阪場所に初登場しました。

 大阪に、約4年、六場所いて、さらに発奮して嘉永3年(1850)7月場所に江戸へ下り、当時江戸相撲の世話役(取締)筆頭、筆脇をつとめて角界随一の権勢家といわれた境川浪右衛門のもとに弟子入りし、同年11月、殿峰五郎の名で江戸で初土俵を踏み、西幕下三十六枚目に付け出されました。

時に光衛門26歳の初冬でした。 
 同場所は三勝二敗。

幕下十一場所を四十八勝十五敗と好成績をあげましたが、先代不知火同様10人目の横綱雲龍などと同様に大阪のぼりのせいか江戸出身の関取のようには、容易に昇進しなかったそうです。


安政3年(1856)11月、幕下付け出しになってから7年目に西前頭七枚目に入幕、ときに32歳でした。
このとき殿勝五郎と改めました。

細川藩のお抱え力士となったのはいつかというと、嘉永5年3月の「金剛伝」には細川藩の印紋の化粧まわしをつけている絵姿があるので、江戸初登場の嘉永3年には召し抱えの沙汰とともに化粧まわしを藩主から賜ったであろうと思われます。

入幕した場所は、五勝一預かり四休の土つかずで将来の躍進ぶりを思わせ次の安政4年1月には六枚目に進み、ここで不知火光右衛門と改めました。

「不知火光右衛門」の四股名としては前述のとおり宝暦、寛政の光右衛門についで3人目になります。寛政の大関不知火にあやかっての藩主からの命名であったという事です。

 その後毎場所二敗の成績を続け、安政5年11月は西前頭一枚目(筆頭)、6年1月には一躍西関脇に上がりました。

11月場所は小結にあがったが六勝一敗一引き分け二休、次場所は同じく小結で八勝一引き分け一休の土つかずの幕内最優秀成績をあげ、万延元年(1860)10月には関脇になりました。 

文久元年(1861)十月場所は、陣幕に一敗したものの、十人目の横綱となった雲龍を倒すなど六勝一敗一預かり二休で、翌二年二月には兄弟子の大関境川の引退で空いた穴を埋めて入幕後十二場所で雲龍と相対して西の大関となりました。

其の時、強敵鬼面山は東小結、大鳴門は前頭筆頭、陣幕は二枚目であり、不知火光衛門の出世は早かったようです。

文久三年(1863)十月、吉田司家第二十二代善衛門追風から故実門人に差し加え、横綱を授与され、十一代の横綱免許を受けたのです。

光衛門三十九歳の秋でした。

六年間の間に十三場所在位しましたが、元治元年(1864)四月場所は七勝一敗二休、翌十月場所は七勝一預かり一引き分け一休で、二場所連続して幕内最優秀成績をあげ、現在で云えば、二場所連続優勝に当たる好成績でした。
三場所おいて慶応二年(1866)十一月からは東大関を務めました。

同三年三月場所の四日目、西前頭三枚目の両国梶之助と対戦しました。
両国は小兵ながらも怪力で鬼面山・陣幕までも悩ませる存在でしたが、技名人同士の対戦とあって大変な人気を博しました。

光右衛門は、足取り専門の曲者両国に普通に勝っては面白く無いと思い、足を狙ってきたところを、簡単にあしらい逆に足を取り土俵中央にゴロンと転がしました。

当時の花柳界の相撲甚句には、この取組みを、 『足を取る相撲上手の両国関も足を取られてスッテンコロリン』

と謳いはやされました。

両国は不知火の相撲上手とても褒めていたと言います。

明治二年四月場所、六勝二敗二休の成績を最後に、次の十一月場所は全休し引退を表明しました。

この年は四月場所以降は光衛門はすでに故郷の熊本に帰省しており、熊本の下河原での十日間の興行は、大盛況でした。

幕内の在位は十四年、二十八場所(うち一場所は火災で中止)

勝率は、七割七分三厘、最高位は大関(横綱)

幕内最優秀成績三回(優勝)

好敵手(ライバル)は、雲龍・鬼面山・陣幕・響灘・大鳴門等らですが、雲龍には初顔で一敗しただけで、
その後は、六勝して断然光衛門の方が強く、響山にも引き分けは多いが一回も黒星は取られなかったそうです。

鬼面山とは、互角の勝負を観せたそうです。

ただ、陣幕とは十四回対戦して十二敗二引分けに終わり一代苦手としました。

十一代横綱は身長1m76cm、体重124kg、身体の柔らかい中肉中背で組んで良く、離れてよく、技の数も多く、右を差したら磐石といわれました。

また、その土俵入りは、先代の不知火諾衛門が創始した不知火型をさらに華麗にしたもので、巧妙を極め、

『白鶴の翼を張れるが如し』

の形容で、華麗さを極め観る者を魅了しました。

光衛門の土俵入りは歴代横綱の土俵入りの中でも逸品と言われ、
明治時代の角界の間では、幕末維新のころのちまたの話題は不知火光衛門の土俵入りの綺麗さについてでした。

その上光衛門は、今で言う大変な美男子(イケメン)で、光衛門を描いた錦絵は飛ぶように売れたといいます。

引退後は、師の恩に報いるため大阪に戻り翌明治三年三月、明治維新後に独立した大阪相撲に加入し不知火諾右衛門と改名して、大阪相撲の約員の推挙により不知火部屋を創設、頭取不知火となって晩年を送り、

良く養父不知火諾衛門の未亡人を世話し、大阪相撲に貢献しました。

同十二年二月二十四日没、五十五歳。

大阪市 天王寺区下寺町の遊行寺に手厚く葬られた。

熊本県下町にも分骨され町民光衛門を偲ぶ憩い集いの場所になっています。

没後、不知火型の土俵入りをしていた吉葉山(四十三代横綱)が現役時代に詣でています。

私見ですが、不知火型の土俵入りをされる方々(横綱)は、不知火型の両横綱の墓前に是非詣でて頂きたいもので御座います。現在相撲界のあるのも、すべて諸先輩方の人生の積み重ねによるよる所の功績なのですから・・・・・

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この不知火諾衛門の墓所は、実は、私の母のお墓のすぐ近くなのです。
場所は旧宇土城跡の近くです。栗崎という所です。

少し行けば、宇土市轟町で私の父の故郷になります。


駐車場はすぐ手前に3台分確保してあります。

みなさんも、ぜひ1度訪れてみてください!


不知火8代横綱郷土は、熊本の誇りです。

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              錦絵は不知火と剣山の取り組みの場面です



不知火諾右衛門  (しらぬい だくえもん)

  




江戸時代、角界に熊本出身の名横綱がいました。「不知火型土俵入り」の創始者、第8代横綱”不知火諾右衛門”です。

 
享和元年(1801) 宇土市轟村栗崎(現宇土市栗崎)に生まれる。
本名は近久信次。父親は嘉平は農業を営み、郡の役人も兼任していました。

文化十三年(1816)信次が十六歳の時父が他界されたのを受け家を継ぎ郡の役人になります。
機敏で大力で地元に徴用されました。
やがて池田氏の娘を嫁に迎え二人の男子を授かります。

二十三歳の時、浦山の天神社の祭礼で宮相撲に参加し相手を投げ飛ばしてしまいます。
このことが、原因で相手を死亡させてしまいました。
信次(諾衛門)は、残された家族と顔を合わすことが苦痛でいたたまれなくなり故郷を去り大阪に出ました。
妻子を郷土に残しての相撲修行は恐らく他にはないでしょう。

大阪の名門湊部屋に入門して、湊由良右衛門の弟子となり、白川(熊本の川の名前)と名乗り、
初土俵を踏みました。当時の力士としては、知的で取り組みも鋭敏で才能を遺憾なく発揮していきました。

諾衛門は体格も良く、並外れた腕力と稽古熱心な甲斐があってメキメキ頭角を表していきました。
大阪では、たちまち入幕を果たし戸立野と名を改めます。

持ち前のガッツで上り詰め大阪相撲の大関に昇進し黒雲竜五郎と改名しました。
前頭から一躍大関に昇進したのは、七代横綱の玉垣と、この不知火諾衛門二人のみです。


その当時は、芝居は大阪、相撲は江戸と言われ、相撲の本場が江戸と言うこともあり、
又更に、文政十三年(1830)の十一代将軍 徳川家斎の上覧相撲の盛儀を聞いた
黒雲(諾衛門)は、師匠に了解を求め、天保元年江戸に出発します。

江戸では、神田の本郷金助町の浦風林右衛門を訪ね弟子となり入門後、
天保元年十一月場所に、西幕下二十八枚目に付け出され回向院の江戸での初土俵を踏み、
同時に出雲国松平藩のお抱え力士となったのです。

この時、諾衛門三十歳、この場所の成績は七勝一敗の好スタートでのデビュー戦です。

幕下十場所を通じ五十七勝十四敗という好成績でありながら七年も昇進しなかったのは、
当時の大阪上がりの力士の成績と昇進が合致しない大阪(ハンデ)であった当時の角界の通説の故だったようです。

江戸相撲八年目に入り天保八年(1837)一月、ようやく西前頭四枚目に入幕し、濃野里諾衛門と改めました。

入幕したのが三十七歳で全盛期は過ぎていたものの、同年十月には、前頭三枚目に上がり、
手柄山、黒岩という大関・関脇を破り、翌九年二月には、前頭筆頭に昇進、
さらに翌三月場所では、西の大関の稲妻が休場したため関脇追手風、小結鷲ヶ浜を抜いて一躍
西の大関に二人抜きで昇進し、東の大関平石七太夫と相対しました。

小結・大関を経ずに大関になったのは、看板大関以外では異例で、このようなことから、
功績を認められ郷土細川藩のお抱え力士となりました。

この場所は、二勝四敗四休と不振におわり、翌十一月に稲妻が現れたので西の関脇にもどり、この時に、 不知火諾衛門 と名を改めました。

所以は、領主細川公から、『領地の名物八朔(八月一日)の神火(不知火)は天下の奇観である。郡内に生を受けた汝は、
郷名を轟かすような不知火と名乗れ』 と名を賜ったということです。

翌十一年二月には、大関稲妻の引退を受け大関に復帰して八勝二休の幕内優勝を果たしたのです。
そしてこの年の十一月に、

吉田司家第二十一代善左衛門 追風から故実門人に差し加え、横綱を授与された。八人目の免許を受けたのでした。不知火諾衛門四十歳の時でした。

当時の横綱は、地位ではなく称号でした。(降格有り)

諾衛門の戦歴の中で特筆にあたる出来ごとは、天保十四年(1483)九月二十五日の江戸城吹上御殿での十二代将軍 徳川家慶の上覧相撲のでの華々しい光栄です。

その日は、朝から雨が降っていたとのですが、昼ごろからはパット晴れ上がって諾衛門は上覧相撲土俵の上で、一代の面目を施しました。この歴史的瞬間は諾衛門の長年の夢がかなった瞬間でした。

その土俵入りは、高根山・黒雲の二人を伴い免許を許された横綱を締め、堂々とした横綱の歩みで土俵に上がり、刻の将軍家慶に天下無双の豪快な土俵入りをお目にかけ、山も崩れんばかりの力技で見るものすべてを魅了したものでした。


いよいよ上覧相撲も最後の結びの一番、剣山対不知火の大関戦となり不知火が力で剣山に勝り寄り切って勝ったのです。
諾衛門は行司より弓を渡されるやいなや、土俵中央に踊りでて自ら堂々たる弓取り式を行いました。


そして時は流れ四十四歳になった天保十五年(1844)一月場所で、諾衛門は引退を表明しました。

幕内在位八年 十四場所、勝率七割六分二厘、

最高位は、大関幕内最優秀(優勝)一回。

秀ノ山(第9代横綱)、剣山と並んで、天保の三傑と言われました。

身長1m76cm、体重135kgの当時としては堂々たる体格でした。

引退後は、師の恩を返すため大阪に戻り、湊諾衛門を名乗り大阪相撲の頭取となり門下の養成に専念し、

優れた弟子を数多く生み出し江戸相撲に送り出しました。

中でも最も有名なのが第十一代横綱不知火光衛門(熊本県大津下町出身)です。

不知火光衛門は又後日、ここで、ご紹介致します。

そして嘉永七年(1854)七月二十四日没、五十四歳でした。

辞世の句は

こわれても かたちは失な露の玉




史跡


墓所は、生地の宇土市栗崎の山の中腹に、近くに住む子孫の佐久間家の墓地にあります。

熊本県宇土市の教育委員会では、昭和五十一年五月に、市の文化財に指定し保護に努められてます。

初代若乃花が大関時代に詣でたこともあります。

この様な歴史を後世につたえなければ、二度と熊本から横綱が誕生することはないでしょう・・・・・

みなさん、墓所にいってみてください!

よろしくおねがいします。




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大空武左衛門

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大空武左衛門(えんくうぶざえもん)


上益城上田所村(現上益城矢部町)の出身です。
矢部町の戸屋野にある墓石の記事から逆算すると
寛政八年(1796)の生まれ、文政十年五月に
細川藩侯のお供をして江戸に上がった時は
20歳か22歳であったという説がある。
この説なら文化三年か五年生まれである。

細川藩のお抱え力士となり、文政十年五月、
藩主斉護公の参勤交代のお供をして江戸に上がる。
年寄り勝ノ浦の門人となって大空武左衛門と名乗った。
そして同年十一月場所にたった一度の土俵入りだけで、
一度も取り組みはしなかった。

番付にも乗らず、人目につくことを嫌い早々と翌年
帰郷してしまったという。

江戸の町に現れた時、釈迦ケ嶽雲右衛門以来の巨人ということで、
その身長は江戸っ子達の肝をひやし江戸中のうわさ話になった。
錦絵もかなり多く描かれた・・・・
その巨人ぶりは錦絵なので宣伝され、吉田司家にある画像には
『身丈七尺五寸(2m27cm)説が有力です』



史跡

墓所は、上益城郡矢部町田所戸屋野の山中にあり、
台石を三段に重ねられて、七尺五寸に高さにしてあります。

逸話


十歳ばかりの時、矢部の浜町に行こうと思って小原までくると、
大きな牛が道を塞いで通れなかったとき、村人が困っていると、
武左衛門は平然と牛をまたいで歩いていった逸話が残ってる。

江戸への道中で立っている牛を跨いだので、細川藩公から、
『牛跨(うしまたぎ)』という名をもらった。

 





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