【熊本相撲史】

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肥後細川藩と相撲の史実
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注】写真は雲早山関の物です。大山沢右衛門の資料はありませんでした。






大山沢右衛門

土俵歴

出身地は不明。
寛政十一年(1799)十一月、最初から東大関に付け出された。
翌十二年四月場所も大関で荒滝と改めた。

寛政十二年十月引退しました。





雲早山森之助

土俵歴

天明七年(1787)天草郡二江村現天草郡五和町に生まれる。
文化五年(1808)大阪から江戸に行きました。
勝ノ浦与一右衛門の弟子になり、翌六年二月、轟滝之助と名乗って
東幕下十四枚目に登場しました。
翌十月には、東幕下十枚目に進んだが成績は一勝二敗一無勝負六休
文化八年十一月場所は再び東幕下十枚目に進み、
成績は九勝一預かりの好成績をあげ雲早と改めました。

文化九年四月場所は東幕下六枚目で全休、
十一月場所は東幕下一枚目で六勝四敗、
翌十年十一月東前頭八枚目に入幕した。
負け越したのは、最後の場所となった文政六年十月のみで、
十一年間十七場所の長い幕内の在位中全休二場所、負け越し一場所のほかは、
ほとんど毎場所好成績をあげ、勝率は六割七分二厘、関脇以下で終わった

強豪力士の一人です。。

文政七年一月引退しました。

最高位は小結。
文政八年(1825)一月二日没、39歳の若さでした。







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注】上の写真は代目光衛門ではありません。下が二代目光衛門です。


不知火光右衛門


  土 俵 歴

 安永4年(1775年)玉名郡下村平野(現玉名市)の平野半兵衛の子として生まれる。兄弟は三人であったといいます。
 21歳で、大阪の陣幕長兵衛の弟子となり、寛政7年(1795年)江戸に出て八ツヶ峰往右衛門の弟子となり、翌8年10月、磐石荒五郎と名乗って東小結に付け出された。ときに22歳であった。同場所は四勝四敗一預かり一休の成績。

 翌9年3月には東関脇に進み、同場所は八勝一敗一休の好成績で、これは当時無敵の強豪と謳われた雷電為右衛門と同成績であった。当時は優勝制度がなかったが、今日ならこの磐石と雷電による優勝決定戦が行われるところであった。
 この好成績にもかかわらず翌10月には東小結に下げられている。同場所の成績は五勝三敗二休、なお、この場所から 不知火光右衛門 と改めた。

 寛政10年(1798)3月には東大関に進み、7日目まで勝ち放しだったが、8日目に千田川に、9日目に雷電に敗れて二敗した。しかし、七勝二敗一休と大関の貫禄を示した立派な成績であった。にもかかわらず翌10月には、木幡山が看板大関に付け出されたため一場所で大関の座を譲り、東関脇に下げられている。同場所は三勝三敗一無勝負三休であった。
 その後、同12年10月に引退するまで小結、関脇と三役をつとめ、幕内の在位5年、八場所を一度も平幕に落ちなかった強豪である。<strong>最高位は大関</strong>で、幕内の勝率は六割六分七厘、大関だけの勝率は七割七分八厘となっている。文化元年(1804)7月14日没、30歳。

史跡

お墓は玉名市、唐平(とうのひら)にあり、碑面には次のとうり刻されている。
文化元子年
(表)不知火光右衛門
7月14日

下村若者中
浅霧茂助
緑藤楡不毛
国見嶽梶右エ門
(裏)矢剣清次
清之浦和助
八島喜三
口関武三
龍門金七

戦後、元横綱双葉山とその弟子不動岩(後述)がこの墓に詣でています。


逸話

下村で引退相撲が行われたときに、御花に出された米五俵を置座にのせたままかかえていたという


いわゆる熊本県の大津の横綱  不知火光衛門ではありません4名いる不知火の内2代目の関取です。


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この三関取の資料写真は御座いませんので勧進相撲の絵図(錦絵)を御覧ください








岸石岩右衛門 大山源太左衛門 鏡山増右衛門



 岸石岩右衛門
 
  土 俵 歴
 
 出身地は不明。宝暦十一年(1761年)十月、岸石浦之助の名で東幕下一枚目に登場したが同場所は全休。
翌十二年三月には、岸石岩右衛門と改名し東前頭二枚目に入幕した。同場所は一勝五敗二休と不振、翌十三年四月場所は西幕下五枚目に落ち同場所は全休。同年十月引退した。
 幕内の在位は一場所で、最高位は前頭二枚目。

  



 大山源太左衛門

  土 俵 歴
 
 相撲今昔物語に「生国は肥後長洲といえるところの産なり」とあることから現在の玉名郡長洲町の出身と思われます。
また同書には、大空円右衛門の弟子とあり、陣幕長兵衛の弟子の部にも記されてます。
 明和二年(1765年)三月、江戸に出て芝明神の相撲に大山源太左衛門と名乗って東関脇に付け出された。同場所は一勝七敗。
同年十月には東前頭三枚目に下がり、同場所響灘源太左衛門と改めた。同場所も一勝四敗三休と不振で大阪に帰ってしまった。
同四年(1767年)には大阪で大山と名乗って西大関をつとめ、以後、安永年間から天明元年まで十五年間、上方(京都、大阪)の幕内上位で活躍、上方では相当の強豪、実力者であったようです。
 この間、安永三年(1774年)十月、同四年三月、同十月、同七年三月の四場所は江戸に出て幕下でとっているが、江戸では全般に不振であった。天明元年、大阪で前頭十四枚目限りで引退して二代目陣幕長兵衛を襲名し、大阪屈指の大部屋である陣幕部屋を守りたて、同八年(1779年)まで頭取(年寄)をつとめました。
 江戸相撲の幕内の在位は二場所で、最高位は関脇。

   



 鏡山増右衛門

  土 俵 歴
 
 出身地は不明。陣幕長兵衛の弟子で、安永六年(1777年)十月、東関脇に付け出された。
翌七年三月には鏡ケ嶽増右衛門と改めた。翌八年三月には東小結。天明二年(1782年)十月引退した。
 幕内の在位は三場所で最高位は関脇。




平成20年2月25日(月)

本日のNPO活動報告

熊本菊池郡大津町【不知火光衛門の生まれ故郷】の、教育委員会事務局の室長様に面会し大津町に相撲文化で、お役に立てることが出来ないか相談してきました。

まずは、つつじ祭りの子供相撲を見学に行くお約束をし来年度行事からイベント参加出来るよう頑張っていきます。




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大空円右衛門

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    大空円右衛門
    


土 俵 歴


出身地は不明。

出家の出身で、のち僧籍から転向して竹島甚四郎の門人となり、姫路酒井藩のお抱え力士となりました。
 寛延年中(一七四八年〜一七五〇年)吉田司家第十七代善左衛門追風から故実門人を許されています。 


宝暦六年(一七五六)五月、小結付け出しで、初土俵を踏み、同八年に江戸入りし、同年三月東幕下三枚目(幕下の十枚目までは今の十両、以下同じ。)に付け出されました。
 

同八年十月、東前頭四枚目に入幕したが、次の場所幕下三枚目に落ち、十二年三月、東前頭四枚目に再入幕した。三場所幕内にいて、明和元年(一七六四年)十月再び幕下三枚目に落ち、翌年三月と五年九月の二場所幕下に在位し、同六年三月引退しました。


江戸相撲の幕内の在位は四場所で、最高位は前頭二枚目。


宝暦十一年五月、大阪場所で同じ出家からの転向者大童子峰右衛門と対戦、大空の腰くだけで大童子の体力に凱歌があがったが、当時評判の好取組であったという事です。


子明山人は、相撲今昔物語で、「大空は上手なれども元来美男にて女難多く、この相撲腰よりくだけたり」と書いています。

大空の子孫の竹村さんは・・・・・

    
    「錦絵から抜け出したようないい男だったときいている。」
    
・・・・といっていた。

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不知火光衛門【初代】

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不知火光衛門【初代】




熊本県の郷土力士の中で不知火の名前がついた力士は4人います。

その 初代 不知火光右衛門が、この人です。


出身地は不明

出家の出身で、竹島甚四郎(吉田司家の故実門人)の門人で、はじめ沖の助という名前でした。

寛延年中(1748年〜1750年)、司家第十七代 吉田善左衛門追風 から故実門人を許されました。

宝暦七年(1757年)、江戸に上り姫路酒井藩のお抱え力士となりました。

その年の十月、江戸相撲の第一号の番付けに東前頭四枚目に付け出されました。

江戸相撲幕内在位は、六場所で最高位は前頭三枚目でした。

宝暦十三年三月引退



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