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上の写真は、司家が建設した肥後相撲館(熊本国技館)
下の写真は、ネット初公開の内部写真(現在博物館としての再建計画中)
やっと設計図が見つかりました!もう一度熊本に国技館を!
肥後相撲館建設について
1. 肥後相撲館の開館
大正二年十月十一日は十三代 追風が没してから三百年の忌辰にあたった。
これより先き善門は、郷土の斯道(しどう)奨励のため相撲常設館の建設のもくろみをもって、
相撲役員等と熟議の上、十三代追風の三百年忌辰の記念事業として常設館の新築を決定した。
熊本市辛島町六番地に熊本相撲の殿堂としての常設館は見事にその偉容をあらわした。
開館式は十月二日行われた。 善門の嫡子長助が、方屋祭、開口、方屋開きを執行した。
善門自らは横綱大刀山と大錦の故実三段構を合わせた。
第六師団長、熊本県知事の赤星典太、熊本市の長山田珠一、その他の人々が祝辞をのべた。
それから東西幕内力士の揃踏、横綱太刀山の独手数入りがあり、それから取組が数十番行われた。
つづいて同年同月十一日、木の香も新しい肥後相撲館で、十三代追風の三百年祭が厳かにおこなわれた。
当日祭式の中に式相撲が執行され、善門は一切の故実相撲を司式した。
この日も横綱太刀山の独手数入り、そして古式相撲の取組が十数番あった。
2.太刀山の十人掛懸賞相撲
有名な太刀山の十人掛の懸賞相撲があったのもこの肥後相撲館の大相撲興行中であった。
開館式のその日から興行は始まったが、十日間ぶっ通して取組みが行われたあと、太刀山の十人懸りがあった。
しかし太刀山の強豪は無敵といってよかった。
一体どの位強いか、というところから十人掛の懸賞相撲になった。
太刀山は横綱でも大関でもかまわぬというのを善門の声がかりで関脇以下東西きっての
精鋭十人(東京方、大蛇潟、金の花、小野ヶ崎、御舟潟、大阪方、放駒、千舟川、秀の海、加古川、小染川、男山)
ときまり、太刀山は、余裕しゃくしゃくとして、ただ一度叩きこみしただけで、
あとは片はしからつかんで放り出すといった有様で、強敵十人を総なめにし懸賞金五百円をもらったのであった。
いかにも天下無敵日下開山らしい強豪ぶりであった。
3. 肥後相撲館の解体
大正六年五月には十九代 吉田追風の百年祭をいとなんだ他、大相撲の巡業はいつもここで行われ、太刀山、大木戸、鳳、西の海、大錦、栃木山、二代目大錦、宮城山、源氏山、常の花などがこの相撲館で新横綱を張ったのものだ。
それはどれだけ相撲愛好者を熱狂させたかはかりしれなかった。
かねては映画館として熊本市民に親しまれた。
当時映画常設館としては電気館、世界館などがあったが相撲館は西洋物の映画を上映するところとして知られていた。
あとでは松竹系統となって松竹の映画監督をしていた熊本出身の牛原虚彦が手がけた映画がよく上映され
熊本市民をよろこばせた。
こうして大相撲と映画館として長く郷土の県市民に親しまれてきた相撲館が、熊本市発展の動力をなす
市電の敷地となるため、解体しなければならなくなったのは惜しいことであった。
昭和三年十一月二十二日から四日間最後の相撲巡業として横綱常ノ花一行がやってきて、
連日熱狂につつまれついにはNHK松内則三が相撲の中継まで行った。
この盛況ぶりは当時の九州新聞で報じられた。
そして昭和三年十二月九日解体式があげられた。
相撲館が建設された大正二年から数えて十五年の間の歴史であった。
相撲館の市電敷地となった残り全部は現在辛島公園となって市民の憩いの場所で
【追記】 色々な他のサイトで、吉田司家の記事や説明を目にしますが、あまりにも事実無根な記事が多く、大変遺憾に思います。
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