生い立ち [編集]
経歴
[編集]
ガリレオ高校に在籍中に、高校のアメリカンフットボールチーム「ガリレオライオンズ」に参加する。
プロ入り後 [編集]
1969年のAFL、NFL合同ドラフトで前年度に1勝12敗1引分というリーグ最悪の成績を残したバッファロー・ビルズに全体1位で指名されて入団した[3]。当時ヘッドコーチのジョン・ラウチはカレッジフットボールと違い1人のランナーが30回、40回とボールキャリアとなることに否定的で、シンプソンをランニングバックとしてだけでなくレシーバーやブロッカー[3]、スペシャルチームでリターナーとしても起用しようと考えた。これはスタールーキーとヘッドコーチとの間に摩擦をもたらした(ラウチコーチは試合当日の朝にも筆記試験を行い、そうしたことでベテラン選手の何人かは嫌気がさしてチームを去っていた。)[4]。オークランド・レイダーズのようにより早くより遠くを目指すオフェンスをゲームプランにしていたラウチコーチは高齢となり怪我も多くなったジャック・ケンプからハーベン・モーゼス、マーリン・ブリスコーへのロングパスを多用する攻撃を好んでおりランプレイでもウェイン・パトリック、ビル・エンヤットらと併用されたシンプソンは1試合あたり13回のボールキャリーで[3]697ヤードのランに終わった[4]。
1971年シーズン開幕直前にラウチコーチは解任されハーベイ・ジョンソンが就任した[6]。シーズン開幕後オフェンスラインに怪我人が続出し6試合連続TDが奪えず4試合連続で完封負けするなど[6]NFL最悪の1勝13敗に終わった[3]。この頃、シンプソンは「ハドルの中に知らない奴がいるから自己紹介をしなくてはならないくらいだ。」と語った[6]。この年シンプソンは742ヤードを走り5TDをあげた[6]。
1972年にビルズに元ヘッドコーチのルー・セイバンがヘッドコーチとして復帰した。シンプソンのポテンシャルを見抜いたセイバンによってクッキー・ギルクリストが任されたようにシンプソンがオフェンスの中心として起用されるようになった。チームはドラフト2巡目で後にカレッジフットボール殿堂入りを果たすオフェンスラインのレジー・マッケンジーを獲得した。シンプソンが左、シンプソンが右、シンプソンが中央といったプレーが中心となり、ハイズマン賞受賞RBであるシンプソンは一躍リーグでも有数のRBとなった。この年1,251ヤードを走り、シンプソンはNFLのリーディングラッシャーに初めてなった[7]。
1973年にシンプソンはNFLの年間記録として初めて2,000ヤードを越える2,003ヤードのランを記録し(それまでの記録は1963年、ジム・ブラウンの1,863ヤード[8]。)、当年のMVPを受賞した。後に年間2,003ヤードの記録は破られるものの、当時は1シーズン14試合制であり、連続14試合での獲得ヤードでシンプソンの記録を超えたNFL選手は未だ現れていない(1978年以降は1シーズン16試合制)[9]。。この年開幕週のニューイングランド・ペイトリオッツ戦で250ヤードを走り1試合のラッシング獲得ヤードNFL記録を作った[3][8]。その後4試合連続で100ヤード以上を走り5試合終了時点で813ヤードとなったシンプソンにはジム・ブラウンの記録更新の期待が高まった[3]。スーパーボウルチャンピオンのマイアミ・ドルフィンズ戦では55ヤードと抑えられたが、10月29日のカンザスシティ・チーフスとのマンデーナイトフットボールで157ヤードを走り[10]、シーズン前半7試合で1,000ヤードを突破した[3]。続く2試合で79ヤード、99ヤードに終わったが続く4試合で100ヤード以上を走りシーズン2試合を残した時点で1,584ヤードまで記録を伸ばした[3]。吹雪が舞う中で行われた地元リッチ・スタジアムで行われたニューイングランド・ペイトリオッツ戦で21回のキャリーで219ヤードを走ったシンプソンはジム・ブラウンの記録まで残り1試合で63ヤードまで迫った[3]。最終節シェイ・スタジアムで行われたニューヨーク・ジェッツ戦も雪の中での試合となったが第1Qにジム・ブラウンの記録を更新し2000ヤード達成直前の2プレーでQBファーガソンがシンプソンを休ませるためにFBのジム・ブラックストンにボールを持たせたプレーには記録達成の瞬間を心待ちにした敵地ジェッツのファンからもブーイングが起きた[3]。最後はブラックストンが空けた中央にシンプソンが走るプレーで7ヤードを獲得しこの試合200ヤード、シーズン通算2003ヤードの記録を達成した[3][11][12]。この年新人QB、若い2人のWRであったため、パス攻撃はほとんど選択されず、OJが左、OJが右、OJが中央といったプレーコールがほとんどであった[13]。シンプソンの新記録の影にはタイトエンドも含めたエレクトリックカンパニーと呼ばれる10年で最高のオフェンスラインの存在もあった[8]。この試合残り8分となったところでQBジョー・ファーガソンはハドルで「OJの2000ヤード達成まであと60ヤードだぞ。」とチームメートに声をかけた[8]。新記録達成後の記者会見にシンプソンはオフェンスの全選手を同席させ1人1人を特にレジー・マッケンジーへ感謝の言葉を述べた。またシンプソンはオフェンスの選手やコーチたちに純金製のブレスレットを贈った。その総額は2万ドルを超えたという[8]。
シンプソンは1973年の活躍に対して当年の最優秀のプロスポーツ選手に与えられるヒコックベルトを受賞した。シンプソンはNFL記録である6回の1試合200ヤード獲得(そのうち3回は1973年、1973年と1976年には2試合連続で)を記録した。
1974年はNFL2位の1,125ヤードを走り3TD(1レシーブTDを除く)をあげた。
「O・J・シンプソン事件」 [編集]
1994年に、白人の元妻のニコール・ブラウンとその友人のロナルド・ゴールドマンを殺した容疑で逮捕される。この事件は捜査員の人種差別的思想の過去など様々な人種問題も絡んでアメリカ国内で非常な関心を集め、テレビ中継されたフリーウェイ上でのカーチェイスの上の逮捕から判決までの期間、裁判等の動向は逐一トップニュースとなり、社会的な現象となった。なお刑事裁判では無罪となったが、民事裁判ではシンプソンによるゴールドマンへの殺人が認められた。また一連の裁判による多額の借金のためシンプソンはハイズマン賞のトロフィーを売却する羽目になった[21]。シンプソンはこの事件について「If I did it(もし私がやっていたとしたら)」という著書を出版しようとしたが、遺族の猛反対で断念した。
その後の事件 [編集]
2007年9月16日、5人の男と拳銃で武装してラスベガスのホテルに押し入り、多数のスポーツ記念品を盗んだ容疑で逮捕された[22]。被害者の一人はかつてシンプソンからハイズマントロフィーを購入した人物で、シンプソンは「盗まれた記念品と妻子の写真を取り戻そうとしただけで、銃など持っていなかった」と主張したが、これは退けられ、2008年12月5日に合計33年の懲役刑が言い渡された。仮出所は最短でも収監9年目以降となる[23]。2013年5月、裁判のやり直しを求めた[24]。