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助っ人外国人列伝

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【5月27日】1969年(昭44) 遠い異国で現役中に“孤独死”した助っ人ジャクソン

http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1105/jpeg/G20110527000890230_thum.jpg
アトムズの中軸として活躍したジャクソン 
Photo By スポニチ
 米ルイジアナ州出身の黒人助っ人は、最愛の妻にも娘にも看取られず、東京都内の病院で33歳の若さで死去した。
 “黒い弾丸”“おとぼけルー”の異名をとった、アトムズ(現、ヤクルト)のルー・ジャクソン外野手が、すい臓壊疽(えそ)のため、東京・慈恵医大病院で息を引き取ったのは27日午前0時5分。現役の外国人選手が日本で亡くなったのは、後にも先にもジャクソン一人だけである。

 来日3年目のジャクソンが入院したのは3月27日。前日26日、東映とのオープン戦(後楽園)で3打数無安打1三振に終わった直後に胃痛を訴えた。吐き気がひどく水も飲めない状態で、著しい脱水症状も出ていた。体重は正常時の80キロ台から60キロ台まで激減。「水分を受け付けず、肌はカサカサ。衰弱しきって精密検査もできない」と、付き添った川小渉外部長は厳しい病状を別所毅彦監督に説明した。

 主治医は「胃かいようと本人は思い込んでいるが、すい臓炎の疑いもある。検査をしてみて手術が必要になるかもしれないが、復帰までには時間がかかる。もう野球選手としては無理かもしれない」と主治医。実際にはすい臓がんだったようで、すでに手遅れの状態だったという。

 カブス、オリオールズでメジャーの経験のあるジャクソンは大の酒好き。毎日のようにビールを浴びるほど飲み、来日してチームメイトに連れて行ってもらった居酒屋で覚えた焼き鳥の味が気に入り、これも毎日のように食べていた。偏食は著しく、「ビールを飲んでいないときはコーラかドクターペッパー。焼き肉とかステーキとか肉しか食べず、野菜を食べているのを見たことがなかった」。仲が良かった、同僚外国人のデーブ・ロバーツ外野手や高山忠克外野手はそう証言している。

 加えて日本でプレーすることに反対していた夫人との離婚問題も抱えており、まだ2歳の愛娘となかなか会えないことがよりいっそう寂しさを増し、それが酒に手を伸ばす大きな原因でもあった。

 日ごろの不摂生に球団首脳部も眉をひそめ、67年に28本塁打79打点、打率2割9分6厘の成績を残しながら、解雇寸前までいったが、代役が見つからず渋々契約した。

 日本で最後に放った本塁打は68年9月16日の阪神26回戦(神宮)でのサヨナラ満塁本塁打。その時の表情を高山はよく覚えている。「3年間付き合っているが、あまり笑顔を見せないルーが笑っていた。あんなに笑っているのを初めて見た」。

 このころから胃痛を訴えていたこともあったが、家族とのことを思い悩み、ジャクソンはその豪快な打撃とは裏腹に常に物憂げな表情を浮かべていた。

 ジャクソンが亡くなった翌日の28日、都内の教会で球団葬が営まれた。キャンプ中での打撃練習の写真が遺影となり、祭壇は白菊でいっぱいに飾られた。アトムズナイン、関係者だけでなく、阪神のウイリー・カークランド外野手、西鉄のカール・ボレス、元阪急のロベルト・バルボン氏らも駆けつけた。しかし、ジャクソンの家族で参列したのは義母のモンゴメリーさんだけ。妻と娘は姿を見せなかった。

 日本での通算成績は3年間で309安打68本塁打181打点。打率2割5分7厘で67年にはオールスターにも出場した。

焼き鳥は大好きだが食べ過ぎはよくない!生前よっぽど妻子にひどかったのだろうな!
俺もきをつけよう!

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O・J・シンプソン

NFLデビュー経歴通算成績
(1979年までの成績)
通算ラッシング獲得ヤード  平均獲得ヤード  ラッシングTD  パスキャッチ数  通算レシーブ獲得ヤード  レシービングTD  NFL.comよりの成績受賞歴・記録NFL殿堂入りカレッジフットボール殿堂入り
O・J・シンプソン
O. J. Simpson  No. 32
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/O.J._Simpson_1990_%C2%B7_DN-ST-91-03444_crop.JPEG/300px-O.J._Simpson_1990_%C2%B7_DN-ST-91-03444_crop.JPEG
O・J・シンプソン(1990年)
ランニングバック
生年月日:1947年7月9日(65歳)
出身地:http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a4/Flag_of_the_United_States.svg/25px-Flag_of_the_United_States.svg.png アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ
身長:6' 1" =約185.4cm体重:212 lb =約96.2kg
1969年バッファロー・ビルズ
大学南カリフォルニア大学
NFLドラフト1969年 / 1巡目(全体の1番目)
 所属チーム:
  11,236ヤード
  4.7ヤード
  61回
  203回
  2,142ヤード
  14回
O・J・シンプソンOrenthal James Simpson , 1947年7月9日 - )は、カリフォルニア州サンフランシスコ出身の元プロフットボール選手、俳優
O.J.(アメリカ合衆国でオレンジジュースの略語)のイニシャルで知られ、「ジュース」の愛称で呼ばれた。引退後、アメリカンフットボール選手としてプロフットボール殿堂入りした。1994年に発生した元妻の殺害事件(O・J・シンプソン事件)の被疑者となったことでも

生い立ち [編集]

経歴 
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アフリカ系アメリカ人の両親の元に生まれる。子供の頃に栄養失調ガニ股となった。当時ギプスを買うお金もシンプソンの家にはなかった[1]
ガリレオ高校に在籍中に、高校のアメリカンフットボールチーム「ガリレオライオンズ」に参加する。
サンフランシスコ市立大学の短期大学部での2年間で2,445ヤードを走り54タッチダウンをあげる活躍を見せ、その能力を見込まれ南カリフォルニア大学に編入学し、わずか2年間の在籍で当時のパシフィック・テン・カンファレンス新記録となる3,423ヤードを走った[2]、35タッチダウンをあげ[3]。4年次の1968年には、1,880ヤードを走り、カンファレンス記録となる23TD、ハイズマン賞[2]マックスウェル賞を受賞、「(オレンジ)ジュース」のニックネームがつけられた。

プロ入り後 [編集]

1969年のAFL、NFL合同ドラフトで前年度に1勝12敗1引分というリーグ最悪の成績を残したバッファロー・ビルズに全体1位で指名されて入団した[3]。当時ヘッドコーチのジョン・ラウチはカレッジフットボールと違い1人のランナーが30回、40回とボールキャリアとなることに否定的で、シンプソンをランニングバックとしてだけでなくレシーバーやブロッカー[3]、スペシャルチームでリターナーとしても起用しようと考えた。これはスタールーキーとヘッドコーチとの間に摩擦をもたらした(ラウチコーチは試合当日の朝にも筆記試験を行い、そうしたことでベテラン選手の何人かは嫌気がさしてチームを去っていた。)[4]オークランド・レイダーズのようにより早くより遠くを目指すオフェンスをゲームプランにしていたラウチコーチは高齢となり怪我も多くなったジャック・ケンプからハーベン・モーゼスマーリン・ブリスコーへのロングパスを多用する攻撃を好んでおりランプレイでもウェイン・パトリックビル・エンヤットらと併用されたシンプソンは1試合あたり13回のボールキャリーで[3]697ヤードのランに終わった[4]
2年目の1970年シーズンもQBデニス・ショーによってレイダーズのようなオフェンスプランが継続して使用された。ニューヨーク・ジェッツ戦では95ヤードのキックオフリターンTDをあげたがシーズン半ばのシンシナティ・ベンガルズ戦のパントリターンでシーズン絶望となるひざの怪我を負い488ヤードの獲得に終わった[3][5]
1971年シーズン開幕直前にラウチコーチは解任されハーベイ・ジョンソンが就任した[6]。シーズン開幕後オフェンスラインに怪我人が続出し6試合連続TDが奪えず4試合連続で完封負けするなど[6]NFL最悪の1勝13敗に終わった[3]。この頃、シンプソンは「ハドルの中に知らない奴がいるから自己紹介をしなくてはならないくらいだ。」と語った[6]。この年シンプソンは742ヤードを走り5TDをあげた[6]
1972年にビルズに元ヘッドコーチのルー・セイバンがヘッドコーチとして復帰した。シンプソンのポテンシャルを見抜いたセイバンによってクッキー・ギルクリストが任されたようにシンプソンがオフェンスの中心として起用されるようになった。チームはドラフト2巡目で後にカレッジフットボール殿堂入りを果たすオフェンスラインのレジー・マッケンジーを獲得した。シンプソンが左、シンプソンが右、シンプソンが中央といったプレーが中心となり、ハイズマン賞受賞RBであるシンプソンは一躍リーグでも有数のRBとなった。この年1,251ヤードを走り、シンプソンはNFLのリーディングラッシャーに初めてなった[7]
1973年にシンプソンはNFLの年間記録として初めて2,000ヤードを越える2,003ヤードのランを記録し(それまでの記録は1963年、ジム・ブラウンの1,863ヤード[8]。)、当年のMVPを受賞した。後に年間2,003ヤードの記録は破られるものの、当時は1シーズン14試合制であり、連続14試合での獲得ヤードでシンプソンの記録を超えたNFL選手は未だ現れていない(1978年以降は1シーズン16試合制)[9]。。この年開幕週のニューイングランド・ペイトリオッツ戦で250ヤードを走り1試合のラッシング獲得ヤードNFL記録を作った[3][8]。その後4試合連続で100ヤード以上を走り5試合終了時点で813ヤードとなったシンプソンにはジム・ブラウンの記録更新の期待が高まった[3]。スーパーボウルチャンピオンのマイアミ・ドルフィンズ戦では55ヤードと抑えられたが、10月29日のカンザスシティ・チーフスとのマンデーナイトフットボールで157ヤードを走り[10]、シーズン前半7試合で1,000ヤードを突破した[3]。続く2試合で79ヤード、99ヤードに終わったが続く4試合で100ヤード以上を走りシーズン2試合を残した時点で1,584ヤードまで記録を伸ばした[3]。吹雪が舞う中で行われた地元リッチ・スタジアムで行われたニューイングランド・ペイトリオッツ戦で21回のキャリーで219ヤードを走ったシンプソンはジム・ブラウンの記録まで残り1試合で63ヤードまで迫った[3]。最終節シェイ・スタジアムで行われたニューヨーク・ジェッツ戦も雪の中での試合となったが第1Qにジム・ブラウンの記録を更新し2000ヤード達成直前の2プレーでQBファーガソンがシンプソンを休ませるためにFBジム・ブラックストンにボールを持たせたプレーには記録達成の瞬間を心待ちにした敵地ジェッツのファンからもブーイングが起きた[3]。最後はブラックストンが空けた中央にシンプソンが走るプレーで7ヤードを獲得しこの試合200ヤード、シーズン通算2003ヤードの記録を達成した[3][11][12]。この年新人QB、若い2人のWRであったため、パス攻撃はほとんど選択されず、OJが左、OJが右、OJが中央といったプレーコールがほとんどであった[13]。シンプソンの新記録の影にはタイトエンドも含めたエレクトリックカンパニーと呼ばれる10年で最高のオフェンスラインの存在もあった[8]。この試合残り8分となったところでQBジョー・ファーガソンハドルで「OJの2000ヤード達成まであと60ヤードだぞ。」とチームメートに声をかけた[8]。新記録達成後の記者会見にシンプソンはオフェンスの全選手を同席させ1人1人を特にレジー・マッケンジーへ感謝の言葉を述べた。またシンプソンはオフェンスの選手やコーチたちに純金製のブレスレットを贈った。その総額は2万ドルを超えたという[8]
シンプソンは1973年の活躍に対して当年の最優秀のプロスポーツ選手に与えられるヒコックベルトを受賞した。シンプソンはNFL記録である6回の1試合200ヤード獲得(そのうち3回は1973年、1973年と1976年には2試合連続で)を記録した。
1974年はNFL2位の1,125ヤードを走り3TD(1レシーブTDを除く)をあげた。

「O・J・シンプソン事件」 [編集]

1994年に、白人の元妻のニコール・ブラウンとその友人のロナルド・ゴールドマンを殺した容疑で逮捕される。この事件は捜査員の人種差別的思想の過去など様々な人種問題も絡んでアメリカ国内で非常な関心を集め、テレビ中継されたフリーウェイ上でのカーチェイスの上の逮捕から判決までの期間、裁判等の動向は逐一トップニュースとなり、社会的な現象となった。なお刑事裁判では無罪となったが、民事裁判ではシンプソンによるゴールドマンへの殺人が認められた。また一連の裁判による多額の借金のためシンプソンはハイズマン賞のトロフィーを売却する羽目になった[21]。シンプソンはこの事件について「If I did it(もし私がやっていたとしたら)」という著書を出版しようとしたが、遺族の猛反対で断念した。

その後の事件 [編集]

2007年9月16日、5人の男と拳銃で武装してラスベガスのホテルに押し入り、多数のスポーツ記念品を盗んだ容疑で逮捕された[22]。被害者の一人はかつてシンプソンからハイズマントロフィーを購入した人物で、シンプソンは「盗まれた記念品と妻子の写真を取り戻そうとしただけで、銃など持っていなかった」と主張したが、これは退けられ、2008年12月5日に合計33年の懲役刑が言い渡された。仮出所は最短でも収監9年目以降となる[23]。2013年5月、裁判のやり直しを求めた[24]

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基本情報国籍出身地生年月日身長
体重
選手情報投球・打席ポジションプロ入り初出場最終出場経歴(括弧内は在籍年)
ウィリー・カークランド
Willie Kirkland
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a4/Flag_of_the_United_States.svg/25px-Flag_of_the_United_States.svg.png アメリカ合衆国
アラバマ州シェルビー郡
1934年2月17日(79歳)
186 cm
93 kg
右投左打
外野手
1953年
MLB / 1958年4月15日
NPB / 1968年4月6日
MLB / 1966年9月26日
NPB / 1973年10月22日
ウィリー・カークランドWillie Charles Kirkland , 1934年2月17日 - )は、アメリカ合衆国アラバマ州出身の元プロ野球選手外野手)。

目次

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来歴・人物 [編集]

1953年にニューヨーク・ジャイアンツと契約し、球団名がサンフランシスコ・ジャイアンツとなった1958年メジャー初昇格。1961年に移籍したクリーブランド・インディアンス時代と合わせ、1959年から1962年まで4年連続20本塁打以上をマークした。
1968年阪神タイガースに入団。同年は37本塁打を放ち、主軸打者に定着。以後6年間在籍し、阪神には少ないホームランバッターとして貴重な存在だった。特に対巨人戦になると活躍し、1969年には1イニング2本塁打、1970年には1試合3本塁打を記録した。その反面、引っ張り専門のバッティングで三振も多く打率も.250前後であった。
いつも、「爪楊枝」をくわえてプレーをする姿が当時人気のあった「木枯し紋次郎」に似ていることから「モンジロー」というニックネームでファンに親しまれた。
日本での最後の打席は、1973年10月22日の対巨人最終戦、9回裏2死から阪神最後の打者となり、高橋一三の前に三振を喫した。この直後、阪神の惨敗に怒った観衆が暴徒と化してグラウンドに乱入するという事件が起きた。
掛布雅之の前に背番号31を着けていた選手でもある。

詳細情報 [編集]

年度別打撃成績 [編集]















































O
P
S
'64計
1958SF12247041848108256141875632044375695.258.332.447.779
195912651146364126223222206853034233846.272.335.475.810
19601465675155913021102123465127224484864.252.315.454.769
1961CLE14658552584136225272499570474841773.259.318.474.793
19621374704195684912115872913543306210.200.272.377.649
19631274784275198132151604782234551998.230.303.375.677
1964BAL661721501430503442232131741260.200.281.293.574
WS23211010282260543130020600301.216.259.422.681
9828225222521108873532332341561.206.272.345.618
19651233373123872

http://www.youtube.com/embed/UOLi49b5IFg
今日のホームラン(抄)<1991年4月はじめ>
ラルフ・ブライアント/ラルフ・ウェンデル・ブライアント(Ralph Bryant/Ralph Wendell Bryant, 1961年5月20日 - )は、プロ野球選手(外野手)、プロ野球指導者。

プロ野球選手時代は日本の近鉄バファローズの主砲として活躍。三振を全く恐れないパワフルな打撃で多くの伝説的な本塁打を放ち、ファンの注目を集めた。

アメリカ合衆国・ジョージア州出身。エイブラハム・ボールドウィン農業大学在籍中はアメリカンフットボールに没頭していた。ポジションはワイドレシーバー。

1980年のMLBドラフトではロサンゼルス・ドジャースから、翌1981年の一次ドラフトではミネソタ・ツインズから指名を受けるも双方とも拒否。同1981年の二次ドラフトで1位指名を受け、ドジャースに入団した。

1985年にMLBデビューを果すが、以降はマイナーリーグとの往復を余儀なくされており、1988年5月、ドジャースと友好球団であったNPBセ・リーグの中日ドラゴンズに移籍した。


1988年 [編集]
1988年、NPBパ・リーグのペナントレースは当初西武ライオンズが首位を独走、近鉄は懸命に西武を追う立場だった。しかし当時の主砲、リチャード・デービスが同年6月7日、大麻不法所持により逮捕され退団。この突然の事態に近鉄が急遽リストアップした外国人選手が、中日の二軍で変化球に対応できず三振を繰り返していたブライアントであった。二軍戦で下手投げの軟投派投手である佐々木修(近鉄)からバックスクリーンに本塁打を叩き込んだのを目の当たりにした近鉄首脳陣は、ブライアントの獲得を中日に打診したという。

中日の二軍スタッフはブライアントの将来性を高く評価しており放出に反対したが、当時は一軍登録の外国人枠は2名であり、中日では郭源治とゲーリー・レーシッチが活躍していたため、長打力はあるが三振があまりにも多すぎるブライアントの出番はなかった。中日は近鉄からの申し入れを受け入れ、6月28日、ブライアントの金銭トレードが成立した。中日二軍が属するウエスタン・リーグでの成績は、26試合、6本塁打、打率.275、24三振。

その後、ブライアントは2度の1試合3本塁打を記録するなど、移籍後の74試合の出場で34本塁打を放ち、近鉄の最大ゲーム差8からの驚異的な追い上げに貢献。なお、同年のセ・リーグ最多本塁打はカルロス・ポンセの33本である。この頃は2点本塁打が多かったことから「ミスター2ラン」とも呼ばれていた。シーズン終盤、父親が危篤となるも、日本に最後まで残りチームに帯同。その最後の2試合こそ伝説の「10.19」であり、シーズン最終戦となったダブルヘッダー第2試合で34本目の本塁打を放っている。ちなみに当時近鉄はナゴヤ球場でも試合を行っていたが、中日ファンの観客から「ブライアントを返せ!」のヤジがよく飛んでいたという。

この年の267打数34本塁打は本塁打率7.853であり、規定打席到達者の記録である7.857(1974年王貞治、385打数49本塁打)を上回り、シーズン10本塁打以上を記録した選手では最高記録である。また、シーズン2度の1試合3本塁打は1950年の川上哲治、1971年の江藤慎一、1979年のレオン・リー、1985年の落合博満と並ぶタイ記録だった。


1989年 [編集]
1989年、ブライアントは開幕から本塁打を量産したが、6月は月間本塁打2本、打率.191と大不振に陥る。5月20日から6月21日にかけ22試合連続三振を喫する(当時のパリーグ記録)。チームも6月は8勝10敗1分けで6月末時点で首位オリックスに8.5ゲーム差をつけられた。しかし7月1日の対福岡ダイエーホークス戦、8回裏に井上祐二から14試合58打席ぶりの逆転2ラン本塁打をバックスクリ−ンに放ちチームの連敗を6で止めると、7月は月間本塁打11本と復調、8月17日にはプロ野球記録となるシーズン3度目の1試合3本塁打を記録。チームもオリックスを猛追、さらには西武も含めた3球団による熾烈なペナント争いが終盤まで展開された。そして最後の天王山、10月12日の西武球場での西武とのダブルヘッダーを迎えた。

第1試合、ブライアントは0-4のビハインドから4回表に郭泰源からチーム初得点となる46号ソロ本塁打、6回表にも郭泰源から47号同点満塁本塁打を放つ。8回表には、来日以来ブライアントに対し被本塁打0と抑えていた渡辺久信がスクランブル登板するも、物ともせずに48号勝ち越しソロ本塁打を放ち、近鉄が6-5で勝利した。ブライアントの1試合3本塁打は通算6回(シーズン4回)となり、王貞治の持っていた通算5回を上回る新記録となった。

そして第2試合、第1打席は敬遠四球だったが、3回表の第2打席では高山郁夫から2-2の均衡を破る49号ソロ本塁打を放ち4打数連続本塁打を達成、自身、西武にこれで止めを刺したと確信しているというものでもあった。続くハーマン・リベラがソロ本塁打、鈴木貴久が2ラン本塁打しこの回一挙に4得点。先発のエース阿波野秀幸の好投もあって、近鉄が14-4で勝利。ブライアントはダブルヘッダー連勝の立役者となり、ヒーローインタビューでの言「アンビリーバブル!」は同年の流行語となった。渡辺久信は現役引退の際、最も心に残った場面として、ブライアントから勝ち越し本塁打を打たれたことを語っている。

当時のスポーツニュース、翌日の新聞では「神様、仏様、ブライアント様」「奇跡の4連発」という言葉が使われた。10月14日の対ダイエー戦に勝利し近鉄は悲願のリーグ優勝を決めたが、仰木彬監督の次に胴上げされたのはブライアントであった。

こうして、この年の近鉄のリーグ優勝に大きく貢献したブライアントはリーグMVPに選出された。なお、西武はこの1989年を除けば1985年〜1988年、1990年〜1994年とリーグ優勝を果たしており、仮に1989年に優勝していれば10連覇を記録していたことになる。ブライアントは日本プロ野球の歴史に楔を打ち込む活躍であったと言える。


その後 [編集]
その後も近鉄の主砲として活躍。1990年6月6日、東京ドームで角盈男(日本ハムファイターズ)から天井スピーカーを直撃する一打を放ち、東京ドーム特別グラウンドルールにより本塁打に認定された。設計上スピーカーに当てることは不可能と予測されており、この本塁打は推定飛距離160mとされている。長らくこの認定本塁打を記録する選手は現れなかったが、2008年6月7日、フリオ・ズレータ(千葉ロッテマリーンズ)が左翼天井の照明を直撃する一打を放ち、18年ぶり2本目の東京ドーム認定本塁打を記録した。

同年7月24日、オールスターゲーム第1戦(横浜スタジアム)で斎藤雅樹から左中間スタンド最上段の広告板を直撃する先制2ラン本塁打を放ち、次の打席では木田優夫から振り逃げというブライアントらしい活躍でMVPに選ばれた。

1991年7月2日、二塁ベース帰塁の際、右膝半月板を損傷し、手術のためアメリカに帰国。このまま引退かとファンを心配させたが、翌シーズン無事に復帰した。

1992年5月3日、逆風8メートルの千葉マリンスタジアムでロッテの今野隆裕からスコアボードを直撃する本塁打を放ち、電光掲示板を破壊した。

1993年4月18日、福岡ドームの公式戦第1号本塁打をダイエーの若田部健一から放つ。TV中継のアナウンサーは「打つべき人が打つものですね」と語った。

1995年のシーズン途中、怪我で一軍登録を抹消されるとその年限りで自由契約となった。そのオフの近鉄ファン感謝デーに前ぶれなく飛び入り参加し、最後までファンサービスに努めた。通常、解雇された外国人選手がシーズンオフも日本に残り、しかもファン感謝デーに参加することはない。

引退後 [編集]
引退後は故郷に戻り古本屋を経営していたが、OB戦などで数回来日している。

1999年11月21日、近鉄球団創設50周年記念に大阪ドームで行われた読売ジャイアンツとのOB戦では、両軍唯一の外国人OBとして出場。2002年のモルツドリームマッチでのホームラン競争ではライトスタンドのJ-PHONEの看板を直撃しそうな大ホームランを放った。

2005年、仰木彬監督の招聘でオリックス・バファローズの打撃コーチを一年のみ務めた。

同年の交流戦では、横浜スタジアムにて試合前のイベントとして横浜ベイスターズ打撃コーチの田代富雄とホームラン競争を行っている。田代は0本だったが、ブライアントはバックスクリーン横に2発、ライトスタンドに1発の計3本のホームランを放ち、パワー健在を見せ付けた。来日した際ブライアント本人や仰木監督が語ったところによると、近鉄時代のホームランには1本あたり10万円のインセンティブが付けられていたという。当時の相場は1本100万円であったらしく、本人は当初「ケタを一つ間違えているのではないかと思った」と語っている。


プレイスタイル・特筆 [編集]
細身の体格ながらスイングスピードが非常に速く、強烈なライナーの打球が持ち味だった。

しかし豪快な打撃の反面三振が非常に多く、1シーズン200三振以上(204三振、1993年)を記録した日本で唯一の打者である。現役時代はシーズン130試合制であったにもかかわらず日本のシーズン三振最多記録の上位4位までをブライアントが独占している。豪快なバッティングのため「ホームランか三振か」「ミスターK」「大型扇風機」と言われた。しかしフォークボールを打つのは非常にうまく、それをセンター前にはじき返すバッティングは一級品と言ってもいいほどのものであった。

外野手としては守備範囲は狭かったが、強肩であった。

近鉄時代の応援歌の元曲は『仮面ライダーV3』のオープニング・テーマ「戦え!仮面ライダーV3」。ブライアント以降は、マリオ・バルデス に使われただけだった。

同年齢でもある俳優エディ・マーフィに風貌が似ていることから、チームメイトに「エディ」とニックネームをつけられた。金村義明ら当時のチームメイトによると、本人がこのニックネームで呼ぶことを強要していたとも言われる[要出典]。1989年10月12日のダブルヘッダーで、奇跡の4打数連続本塁打で西武を倒した翌日のスポーツ紙にはこう記載された。「エディ・マーフィにそっくりのブライアントがいるのではない。エディ・マーフィがブライアントに似ているのだ」[要出典]

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ブライアン・トラックスラー(本名Brian Lee Traxler , 1967年9月26日 - 2004年11月19日)は、米国イリノイ州出身で、福岡ダイエーホークスに在籍したプロ野球選手。主なポジションは一塁手。左投左打。日本での愛称はコロコロちゃん。

1988年ドラフト16位でロサンゼルス・ドジャースと契約。米国でのキャリアはマイナー暮らしが長かったが、1991年にメジャー初昇格。11打席で唯一のヒットを放ったのが当時メッツの大エースであったデービッド・コーンであったのが本人の自慢話となっていた。しかし、当時のドジャースには同じ一塁にエリック・キャロスら有望選手が多く、再びマイナー暮らしに逆戻りとなった。

1994年に当時ドジャースと友好関係を築こうとしていたダイエーに入団。ダイエー球団ではなく、ダイエー本社海外部が2年契約で獲得した。新興球団であるダイエーに対する伝統あるドジャース側の態度は悪く、後日訪問した巨人や中日のキャンプ地では熱心な技術指導まで行ったのに対して、ダイエーのキャンプ地は短時間視察を行ったのみであり、友好関係は程なく消滅した。

前半戦は、よく似た体型ながら1993年にフィリーズをワールドシリーズへ導く働きを見せたジョン・クラック一塁手を髣髴とさせるパワーと巧打ぶりを発揮し、クラック同様に主砲・秋山幸二の前を打つ3番打者としてなかなかの働きを見せた。守備範囲は狭いもののグラブ捌きも悪くなく、身長175cmながら100kg近い体型もあって「コロコロちゃん」の愛称で親しまれた。後半戦は弱点をつかれ、凡打に終わることが多くなり成績も急降下。チームもAクラス入りを逃した。なお、前半戦での活躍に気をよくしたダイエー本社海外部が本塁打に出来高払いをつけるという裏契約を持ちかけたため、後半戦では本来の持ち味である巧打が陰を潜めて本塁打狙いの凡打が増えてしまった、という報道がシーズン終了後にされた。

1995年はケビン・ミッチェル獲得により、1994年にプレーしていたケビン・ライマー又はトラックスラーのどちらかが解雇されることになった。当時のチーム事情からトラックスラーを解雇することが決定的であったが、トラックスラーはダイエー本社海外事業部のお墨付きで獲得した選手であったことから、簡単に解雇することができなかった。結局、トラックスラーはキャンプ中に解雇されたが、これによってダイエー本社とミッチェルとの関係にヒビが入り、その処遇にあたって悪影響を及ぼすものとなった。ライマーも満足な成績を残すことなくその年限りで解雇。

ビール好きでも知られ、ビールをジョッキで何杯も美味そうに飲み干す様子が報じられていた。帰国後、マイナーリーグや台湾・中信ホエールズ(登録名は威力強)でプレーを続け、現役引退後はドジャーズ傘下のマイナー組織で打撃コーチを務め、福岡放送のホークス応援特番で元気に後進を指導する様子を見せ、第2の野球人生を順調に歩んでいる様子であったが、2004年11月19日、米国テキサス州サンアントニオで急死。37歳の若さであった。アルコール中毒による肝硬変が死因とされ、好きな酒が寿命を縮めることになった

エピソード [編集]
ダイエーは主力選手をモチーフとした博多人形を売り出したが、トラックスラーを模した博多人形は当時の売り上げ1位であった。
一度にビール1ダース飲む事が知られており、自室のベッドはビールケースであった。
福岡ドームへは自転車で通っていた。
テキサス育ちであることから、常にカウボーイハットを被っていた。試合前にカウボーイスタイルで登場し、輪投げのパフォーマンスを披露するなどしてファンの心をつかみ、打席に入る際には福岡ドームのホークスビジョンには、トラックスラーがカウボーイ姿で敵を懲らしめるアニメーションが流れた。
トラックスラーをカタカナ表記にすると長すぎるため、球場によっては電光掲示板で全て出すことが出来ず、トラックで終わってしまう球場や、トラクスラーと表示される球場もあった。福岡ドームでは、5月以降「トラック」と表記されていた。
その鈍足から、犠牲フライでのタッチアップで刺殺されたり、ライトゴロになることがあった。

日本での通算成績 [編集]
129試合 打率.263 15本塁打 62打点

2004年に亡くなっていた!ということ誠に驚きである!!

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