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今日のホームラン(抄)<1991年4月はじめ>
ラルフ・ブライアント/ラルフ・ウェンデル・ブライアント(Ralph Bryant/Ralph Wendell Bryant, 1961年5月20日 - )は、プロ野球選手(外野手)、プロ野球指導者。
プロ野球選手時代は日本の近鉄バファローズの主砲として活躍。三振を全く恐れないパワフルな打撃で多くの伝説的な本塁打を放ち、ファンの注目を集めた。
アメリカ合衆国・ジョージア州出身。エイブラハム・ボールドウィン農業大学在籍中はアメリカンフットボールに没頭していた。ポジションはワイドレシーバー。
1980年のMLBドラフトではロサンゼルス・ドジャースから、翌1981年の一次ドラフトではミネソタ・ツインズから指名を受けるも双方とも拒否。同1981年の二次ドラフトで1位指名を受け、ドジャースに入団した。
1985年にMLBデビューを果すが、以降はマイナーリーグとの往復を余儀なくされており、1988年5月、ドジャースと友好球団であったNPBセ・リーグの中日ドラゴンズに移籍した。
1988年 [編集]
1988年、NPBパ・リーグのペナントレースは当初西武ライオンズが首位を独走、近鉄は懸命に西武を追う立場だった。しかし当時の主砲、リチャード・デービスが同年6月7日、大麻不法所持により逮捕され退団。この突然の事態に近鉄が急遽リストアップした外国人選手が、中日の二軍で変化球に対応できず三振を繰り返していたブライアントであった。二軍戦で下手投げの軟投派投手である佐々木修(近鉄)からバックスクリーンに本塁打を叩き込んだのを目の当たりにした近鉄首脳陣は、ブライアントの獲得を中日に打診したという。
中日の二軍スタッフはブライアントの将来性を高く評価しており放出に反対したが、当時は一軍登録の外国人枠は2名であり、中日では郭源治とゲーリー・レーシッチが活躍していたため、長打力はあるが三振があまりにも多すぎるブライアントの出番はなかった。中日は近鉄からの申し入れを受け入れ、6月28日、ブライアントの金銭トレードが成立した。中日二軍が属するウエスタン・リーグでの成績は、26試合、6本塁打、打率.275、24三振。
その後、ブライアントは2度の1試合3本塁打を記録するなど、移籍後の74試合の出場で34本塁打を放ち、近鉄の最大ゲーム差8からの驚異的な追い上げに貢献。なお、同年のセ・リーグ最多本塁打はカルロス・ポンセの33本である。この頃は2点本塁打が多かったことから「ミスター2ラン」とも呼ばれていた。シーズン終盤、父親が危篤となるも、日本に最後まで残りチームに帯同。その最後の2試合こそ伝説の「10.19」であり、シーズン最終戦となったダブルヘッダー第2試合で34本目の本塁打を放っている。ちなみに当時近鉄はナゴヤ球場でも試合を行っていたが、中日ファンの観客から「ブライアントを返せ!」のヤジがよく飛んでいたという。
この年の267打数34本塁打は本塁打率7.853であり、規定打席到達者の記録である7.857(1974年王貞治、385打数49本塁打)を上回り、シーズン10本塁打以上を記録した選手では最高記録である。また、シーズン2度の1試合3本塁打は1950年の川上哲治、1971年の江藤慎一、1979年のレオン・リー、1985年の落合博満と並ぶタイ記録だった。
1989年 [編集]
1989年、ブライアントは開幕から本塁打を量産したが、6月は月間本塁打2本、打率.191と大不振に陥る。5月20日から6月21日にかけ22試合連続三振を喫する(当時のパリーグ記録)。チームも6月は8勝10敗1分けで6月末時点で首位オリックスに8.5ゲーム差をつけられた。しかし7月1日の対福岡ダイエーホークス戦、8回裏に井上祐二から14試合58打席ぶりの逆転2ラン本塁打をバックスクリ−ンに放ちチームの連敗を6で止めると、7月は月間本塁打11本と復調、8月17日にはプロ野球記録となるシーズン3度目の1試合3本塁打を記録。チームもオリックスを猛追、さらには西武も含めた3球団による熾烈なペナント争いが終盤まで展開された。そして最後の天王山、10月12日の西武球場での西武とのダブルヘッダーを迎えた。
第1試合、ブライアントは0-4のビハインドから4回表に郭泰源からチーム初得点となる46号ソロ本塁打、6回表にも郭泰源から47号同点満塁本塁打を放つ。8回表には、来日以来ブライアントに対し被本塁打0と抑えていた渡辺久信がスクランブル登板するも、物ともせずに48号勝ち越しソロ本塁打を放ち、近鉄が6-5で勝利した。ブライアントの1試合3本塁打は通算6回(シーズン4回)となり、王貞治の持っていた通算5回を上回る新記録となった。
そして第2試合、第1打席は敬遠四球だったが、3回表の第2打席では高山郁夫から2-2の均衡を破る49号ソロ本塁打を放ち4打数連続本塁打を達成、自身、西武にこれで止めを刺したと確信しているというものでもあった。続くハーマン・リベラがソロ本塁打、鈴木貴久が2ラン本塁打しこの回一挙に4得点。先発のエース阿波野秀幸の好投もあって、近鉄が14-4で勝利。ブライアントはダブルヘッダー連勝の立役者となり、ヒーローインタビューでの言「アンビリーバブル!」は同年の流行語となった。渡辺久信は現役引退の際、最も心に残った場面として、ブライアントから勝ち越し本塁打を打たれたことを語っている。
当時のスポーツニュース、翌日の新聞では「神様、仏様、ブライアント様」「奇跡の4連発」という言葉が使われた。10月14日の対ダイエー戦に勝利し近鉄は悲願のリーグ優勝を決めたが、仰木彬監督の次に胴上げされたのはブライアントであった。
こうして、この年の近鉄のリーグ優勝に大きく貢献したブライアントはリーグMVPに選出された。なお、西武はこの1989年を除けば1985年〜1988年、1990年〜1994年とリーグ優勝を果たしており、仮に1989年に優勝していれば10連覇を記録していたことになる。ブライアントは日本プロ野球の歴史に楔を打ち込む活躍であったと言える。
その後 [編集]
その後も近鉄の主砲として活躍。1990年6月6日、東京ドームで角盈男(日本ハムファイターズ)から天井スピーカーを直撃する一打を放ち、東京ドーム特別グラウンドルールにより本塁打に認定された。設計上スピーカーに当てることは不可能と予測されており、この本塁打は推定飛距離160mとされている。長らくこの認定本塁打を記録する選手は現れなかったが、2008年6月7日、フリオ・ズレータ(千葉ロッテマリーンズ)が左翼天井の照明を直撃する一打を放ち、18年ぶり2本目の東京ドーム認定本塁打を記録した。
同年7月24日、オールスターゲーム第1戦(横浜スタジアム)で斎藤雅樹から左中間スタンド最上段の広告板を直撃する先制2ラン本塁打を放ち、次の打席では木田優夫から振り逃げというブライアントらしい活躍でMVPに選ばれた。
1991年7月2日、二塁ベース帰塁の際、右膝半月板を損傷し、手術のためアメリカに帰国。このまま引退かとファンを心配させたが、翌シーズン無事に復帰した。
1992年5月3日、逆風8メートルの千葉マリンスタジアムでロッテの今野隆裕からスコアボードを直撃する本塁打を放ち、電光掲示板を破壊した。
1993年4月18日、福岡ドームの公式戦第1号本塁打をダイエーの若田部健一から放つ。TV中継のアナウンサーは「打つべき人が打つものですね」と語った。
1995年のシーズン途中、怪我で一軍登録を抹消されるとその年限りで自由契約となった。そのオフの近鉄ファン感謝デーに前ぶれなく飛び入り参加し、最後までファンサービスに努めた。通常、解雇された外国人選手がシーズンオフも日本に残り、しかもファン感謝デーに参加することはない。
引退後 [編集]
引退後は故郷に戻り古本屋を経営していたが、OB戦などで数回来日している。
1999年11月21日、近鉄球団創設50周年記念に大阪ドームで行われた読売ジャイアンツとのOB戦では、両軍唯一の外国人OBとして出場。2002年のモルツドリームマッチでのホームラン競争ではライトスタンドのJ-PHONEの看板を直撃しそうな大ホームランを放った。
2005年、仰木彬監督の招聘でオリックス・バファローズの打撃コーチを一年のみ務めた。
同年の交流戦では、横浜スタジアムにて試合前のイベントとして横浜ベイスターズ打撃コーチの田代富雄とホームラン競争を行っている。田代は0本だったが、ブライアントはバックスクリーン横に2発、ライトスタンドに1発の計3本のホームランを放ち、パワー健在を見せ付けた。来日した際ブライアント本人や仰木監督が語ったところによると、近鉄時代のホームランには1本あたり10万円のインセンティブが付けられていたという。当時の相場は1本100万円であったらしく、本人は当初「ケタを一つ間違えているのではないかと思った」と語っている。
プレイスタイル・特筆 [編集]
細身の体格ながらスイングスピードが非常に速く、強烈なライナーの打球が持ち味だった。
しかし豪快な打撃の反面三振が非常に多く、1シーズン200三振以上(204三振、1993年)を記録した日本で唯一の打者である。現役時代はシーズン130試合制であったにもかかわらず日本のシーズン三振最多記録の上位4位までをブライアントが独占している。豪快なバッティングのため「ホームランか三振か」「ミスターK」「大型扇風機」と言われた。しかしフォークボールを打つのは非常にうまく、それをセンター前にはじき返すバッティングは一級品と言ってもいいほどのものであった。
外野手としては守備範囲は狭かったが、強肩であった。
近鉄時代の応援歌の元曲は『仮面ライダーV3』のオープニング・テーマ「戦え!仮面ライダーV3」。ブライアント以降は、マリオ・バルデス に使われただけだった。
同年齢でもある俳優エディ・マーフィに風貌が似ていることから、チームメイトに「エディ」とニックネームをつけられた。金村義明ら当時のチームメイトによると、本人がこのニックネームで呼ぶことを強要していたとも言われる[要出典]。1989年10月12日のダブルヘッダーで、奇跡の4打数連続本塁打で西武を倒した翌日のスポーツ紙にはこう記載された。「エディ・マーフィにそっくりのブライアントがいるのではない。エディ・マーフィがブライアントに似ているのだ」[要出典]
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