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豪打列伝

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1992 日本シリーズ 杉浦亨 代打満塁サヨナラHR (鹿取義隆)

杉浦 享(すぎうら とおる、1952年6月8日 - )は、日本のプロ野球選手(外野手)・指導者・野球解説者。1975年から1980年の登録名は杉浦 亨。愛知県幡豆郡幡豆町出身。

愛知高校から1971年ヤクルトアトムズにドラフト10位で投手として入団。その後、打者に転向。翌1972年に一軍に上がり、一塁手のレギュラーを獲得した。1973年に新人の小田義人が入団、1975年には日本ハムより大杉勝男が移籍してきたため控え・代打要員が続くが、1977年から一塁手から外野手へコンバートされ、レギュラーに定着。翌1978年打率.291、17本塁打、67打点の成績で初優勝に大きく貢献する。1980年にはセ・リーグのベストナインに輝き、大杉引退の翌1984年からは四番を任せられ、1985年には自身最高の34本塁打をマークし、再びベストナイン。1987年にカムバック賞を受賞。その後は池山隆寛、広沢克己の台頭により、左の代打の切り札として活躍するが、1990年野村克也監督就任時より出場試合数が激減。1992年には18試合の出場に終わり、既に現役引退を決意していた。

しかし同年の日本シリーズ対西武ライオンズ第1戦、12回ウラ1死満塁の場面で代打で登場。鹿取義隆から「代打サヨナラ満塁本塁打」を放つ。この場面はプロ野球史に残る名シーンとなった。この本塁打を契機に、野村克也監督の強い要請により1年契約を延長した。翌1993年限りで現役引退。現役23年、若松勉・八重樫幸雄と共に、ヤクルト一筋で40歳代まで現役を続けた(若松は1989年引退)。その後は1994年〜1996年までヤクルトの二軍打撃コーチを務め、現在はヤクルト本社にて勤務する。そのかたわらで、2000年前後に東京ケーブルネットワーク製作の日本ハム戦の中継番組で解説を務めた。

中学時代は陸上部。しかし、部員不足の野球部に助っ人で引っ張られていた。高校時代でも陸上部に籍を置いていたが、ここでも部員不足の野球部に勧誘され入部。甲子園には届かなかったが、左の速球派投手として愛知県下では知られるようになった。
ドラフト下位指名であったが、5人姉弟の末っ子で高2の時に父親を亡くし、苦労している母親の為に、富士重工業の就職が決まっていながらプロ入りした。
ぽっちゃりとした体格から当時、打撃コーチだった武上四郎に“ブーちゃん”と名づけられた。
ヤクルトの選手別応援歌(応援曲)に於いて、職人肌の選手に充てられる「必殺仕事人」のテーマ曲が若松勉と共に杉浦に充てられた(若松には必殺仕事人IV、杉浦には必殺仕事人Vの物が充てられた)。最初のイントロ(トランペットのソロ)が流れると神宮の観客は一瞬静寂になりイントロ終了と共により一層の大歓声に変わる(杉浦引退後は稲葉篤紀〔現・日本ハム〕に引き継がれた)。なお、トランペットソロ以降のメロディは「ベストプレープロ野球」(ファミリーコンピュータ用ゲームソフト)に使われていた。
現役時代は解説者時代の野村克也が野村スコープを使って解説をした試合を事前に録画予約しておき、試合後に観戦し、研究するのを日課としたという。
現役当時プロ野球ニュースのオフ企画で、自宅で入浴時に日本酒を浴槽に投入する「酒風呂」に入っていると言っていた。また大の漫画愛好家で自宅に傑作漫画の単行本を多数所有、鉄道模型のコレクターとしても知られる。さらに趣味のギターは一流の腕前を持つ。

豪打列伝9 藤原 満

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藤原 満(ふじわら みつる、1946年9月18日 - )は、愛媛県出身の野球解説者、元プロ野球選手。南海ホークスでは闘志あふれる内野手として活躍し、引退後は南海・ダイエーのコーチを歴任した。

松山商業高校から近畿大学へ進学。近大では後にロッテオリオンズの監督となる有藤道世と三遊間を組む。

1969年ドラフト4位で南海ホークスに入団。プロ入り後の守備位置は遊撃手⇒三塁手。大学時代は三番打者で典型的な長中距離打者であったが、当時の野村克也選手兼任監督は、タイ・カッブが使用していた重量がありグリップの太い「つちのこバット(すりこぎバット)」をオーダーするよう高畠導宏打撃コーチに指示し、高畠コーチの指導の下、ボールをぶつけてゴロやライナーを打ち足を生かす打者へ転向。

1975年より8年連続でシーズン100安打以上。1976年には打率.302、50盗塁をマーク。ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。1977年、1980年、1981年も3割をマークする。しかし1982年に125試合出場、122安打をマークしながら、この年限りで突然現役引退する。江本孟紀の著書によると、「飛ぶボール(いわゆるラビットボール)のために自分らしい野手の間に落ちるヒットが打てなくなり、フライが多くなったから」というのが、引退の理由とのこと。

引退後、南海のヘッドコーチ・守備走塁コーチ、ダイエー二軍監督・守備走塁コーチ→編成部スカウトを務め現在は九州朝日放送野球解説者、西日本スポーツ評論家。かつては朝日放送の野球解説者も務めていた。

この「つちのこバット」は藤原が使用したのが先駆けとなり、阪急の福本豊、巨人の松本匡史、広島およびロッテに在籍した高橋慶彦、近鉄の大石大二郎ら俊足選手が使用し、その後も同様に俊足打者には野村監督が指令を出し、ヤクルトの飯田哲也、阪神の赤星憲広、秀太、そして楽天では鉄平、森谷昭仁が使用。

通算成績 1354 4797 564 1334 188 23 65 1763 413 195 44 37 346 344 .278
タイトル・表彰 [編集]
ベストナイン:1回 (1976年)
ゴールデングラブ:2回 (1976年、1981年)
最多安打:2回 (1976年・1981年) ※当時はタイトルではない
オールスターゲーム出場:5回 (1975年、1976年、1978年、1979年、1981年)
オールスター最優秀選手:1回 (1981年第1戦)

エピソード [編集]
現役時代に応援団が演奏する個人応援歌は母校近畿大学の校歌であった。このテーマソングはのちに小川史に受け継がれた〈小川は近大OBではない〉。
解説中にアナウンサーが話を向けると「そうなんですねぇ、やっぱり○○なのは確かですねぇ」と相槌を打つことが口癖である。
漫画「あぶさん」では、南海ホークス当時に主人公景浦安武のよき理解者として登場する。
現役時代のあだ名は、プロボクサーのチャチャイ・チオノイにちなんで「チャイ」。
1980年、新人の香川伸行とともにカシオの時計付き電卓「カシオメロディ」のテレビCMに出演した。
現役時代から非常にファンを大切にすることで知られており、大阪球場での試合終了後に球場外で列をなしたファンの群れに嫌な顔一つせずサインに応じる姿が頻繁に見られた。
福岡移転がなければ間違いなくホークスの監督になっていたことが予想される人材である。
あんパンはつぶあん派。

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高沢 秀昭(たかざわ ひであき、1958年9月10日 - )は、北海道沙流郡門別町(現・日高町)出身の元プロ野球選手(遊撃手→外野手)、現千葉ロッテマリーンズ二軍打撃兼外野守備走塁コーチ。

苫小牧工高から王子製紙苫小牧を経て、1979年、ドラフト2位でロッテに入団。プロ4年目から頭角を表してレギュラーの座を獲得、1987年にはチーム最高打率(.292)をマークするなど、落合博満の中日移籍後は主軸としてチームを支える。

1988年は首位打者のタイトルを獲得し、最多安打も記録した。同年の10.19では8回裏に近鉄バファローズの優勝を打ち砕く同点ホームランを阿波野秀幸より放つ。この一打は、試合とともに今もなおファンの間で語り継がれる。当の高沢は後日談で「近鉄の立場はわかるし、自分の球団が優勝争いをしていた訳でないが、ロッテの為自分の為に打った」と彼らしい泰然自若とした受け答えをした。またこの年、打率2位の松永浩美の最終打率は.326で高沢とは1厘差だったため、結果的にこのホームランが首位打者獲得を左右する一打にもなった。

1989年は足の故障もあって前年のような活躍ができず、シーズン終了後に高橋慶彦・白武佳久・杉本正志との大型トレードで水上善雄とともに広島東洋カープへ移籍する(本人は手術のため入院していた病院でこの話を聞いた)。翌年から広島でも活躍が期待されたが、持ち味を発揮できず成績は下降。1991年シーズン中、金田正一監督に呼び戻される形でロッテへ復帰するが、故障が尾を引き本来の打棒を取り戻すことができなかった。チームが千葉ロッテマリーンズとなった1992年限りで引退。以後もチームに留まり、打撃コーチや守備走塁コーチを歴任し後輩の指導にあたっている。


エピソード [編集]
寡黙で地味なキャラクターながら玄人好みの選手であり、オールスターに4回出場。1980年代のパ・リーグを代表する好打者として知られる。高沢が現役当時のロッテは「チームは弱いがタイトルホルダーの宝庫」と評され、村田兆治、牛島和彦、西村徳文、平井光親などと並ぶその象徴選手でもあった。
1990年、高沢をトレードで獲得した広島の山本浩二監督は「大きいのが打てる打者でありながら三振が少ないのが魅力」と絶賛していた。また強肩で外野の守備も安定しており、当時レギュラーの弘田澄男が阪神にトレードされたのは彼の成長があったからともいわれる。
ロッテ応援団による応援歌は「かっとばせ高沢 右へ左へ ホームラン」(ロッテの夢は 観客動員 100万人)というファンの間では馴染みの名曲であり、落合博満から引き継がれたものだった。高沢の引退後は初芝清に引き継がれた。
本来は4番を打つタイプではないが、在籍外国人が期待はずれ、和製大砲が育たないといったチーム事情から4番に入ることも多かった。84年〜88年は2ケタ盗塁をマークしたように俊足でもあり、「走る4番」と評されたこともある。
「伝説の打撃コーチ」といわれる高畠導宏(ロッテ在籍時は登録名・高畠康真)に技術を伝授された1人である。高畠の教えを受けたロッテの選手には高沢のほか、落合博満、西村徳文、平井光親と同時代に3人も首位打者になった者がいる。打撃コーチとしてその指導法を受け継ぐ高沢は、福浦和也(2001年首位打者)、サブローといった主力選手の台頭にも貢献している。サブローは同じ俊足巧打の外野手として高沢の「走る(つなぐ)4番」というスタイルを受け継いでいる。
野球の技量以上に堅実な人柄も選手やファンに慕われている。
趣味は読書としているが、現役時代の一時期、選手名鑑の趣味欄に「ハーモニカ」と記していたことがあり、「プロ野球ニュース」のオフ企画に愛娘とともに出演し、ハーモニカを披露したこともある。
1991年にロッテに復帰した際の背番号は7だったが、本人は「自分は1桁背番号は似合わない」と、2年目の南渕時高と交換してもらい、トレード前の「31」に戻した。

タイトル・表彰 [編集]
初出場 1980年11月5日対近鉄バファローズ戦(川崎球場)
初安打 1982年5月30日対阪急ブレーブス戦(川崎球場)
初本塁打 1982年6月5日対近鉄バファローズ戦(日生球場)
首位打者 1回(1988年)
最多安打 1回(1988年) ※当時はタイトルではない
ベストナイン 2回(1984年、1988年)
ゴールデングラブ賞 3回(1984年、1987年 - 1988年)
オールスター出場 4回(1984年、1986年 - 1988年)

豪打列伝7 田代富雄

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田代 富雄(たしろ とみお、1954年7月9日 - )は、神奈川県小田原市出身の元プロ野球選手(内野手)。

現在は横浜ベイスターズ監督代行。

当初は投手で、小田原市立酒匂中学校在学時はエースだった。藤沢商業高等学校(現藤沢翔陵高等学校)に進学し、2年生の時、野手(三塁手)に転向した。

1973年、ドラフト3位で大洋ホエールズに指名され入団。背番号は生涯26番だった。

1976年、一軍に初昇格。1977年4月、11本塁打を放って月間MVPを獲得。三塁手のレギュラーに定着し、130試合フル出場。

長打力のある打者で、1979年には開幕戦で3本塁打を放つなどチームの2位躍進に主力として貢献。1980年には自己最多の36本塁打を記録。現役前半は主に三塁、後半は一塁を守る事が多かった。1980年から6年連続20本塁打以上、1977年から10年連続2桁本塁打の記録を残し、大洋の主砲として活躍。

1986年6月18日の対広島戦にて一塁の守備中、打者走者の正田耕三と激突し左手首骨折。その故障以後、打撃成績は下降。

1991年10月10日、現役引退。その日の引退試合・対阪神最終戦(横浜スタジアム)に先発し、第1打席で葛西稔から逆転満塁本塁打を放った。当初の予定では最後まで出場させる予定だったが、この満塁本塁打を最後の打席とすべく、試合途中で交代。19年間の現役生活に終止符を打った。

現役時代のニックネームは「オバQ」。プロ入り当初、間の抜けた受け答えをした田代に対して、沖山光利コーチが呼び始めた。風貌がオバケのQ太郎に似ていたという説、ホームランがオバケのようにボールが飛んでいくからという説は関係ないという。
大洋では松原誠と共に双璧の長距離打者で、滞空時間の長い放物線を描くホームランを量産した。全盛期の横浜大洋初期時代に、球団の制度でヘルメットの横に打ったホームランの数だけ星印のシール(通称:ホームランスター)を付けていたが、その星印が上の方(頭頂部)に近いぐらいになる程ホームランを量産した。
多くのホームランを量産したが、打率は低く、「人間扇風機」とあだ名が付いたように、3度のシーズン最多三振を喫するなど三振の多い打者(通算1081三振)でもあった。しかし、その三振の多さが「三振かホームラン」という田代のバッティングを証明するものであり、多くのファンの心に刻み込まれている。
長く大洋の主力選手として活躍しながら、一軍ではベストナインやゴールデングラブ賞も含めてタイトルを獲得していない。優勝も経験していない。オールスターゲームは1977年の一度のみ出場(1980年は選出されたが怪我により出場辞退)。
引退後、茅ヶ崎市内で経営していたラーメン店がテレビ東京系『浅草橋ヤング洋品店』の中の「お料理水戸黄門」で取り上げられ、田代も加藤博一と共に出演したこともある。
引退した年のオフにゴルフ場で長嶋茂雄に会った際、選手に対して行うような励ましを受け、思わず頷いてしまった。
横浜スタジアム初の場外ホームランを放っている。
広島市民球場や阪神甲子園球場では、サードを守る田代に近い三塁側内野席のファンが辛辣な野次を飛ばした。標的はオバQと呼ばれたその顔に集中し、「ワリャ顔なんとかせいやぁ(お前、顔を直せよ)」といった理不尽な内容だった。

通算成績(実動16年)打率.266、278本塁打、867打点、1321安打、1081三振。

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パンチ佐藤 入団会見&珍プレー集
パンチ佐藤(パンチさとう、本名:佐藤 和弘(さとう かずひろ)、1964年12月3日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手)。現在はタレント(小澤音楽事務所所属)。

プロ野球選手時代の髪型だったパンチパーマがトレードマークであり、芸名の由来ともなっている。ニックネームは「パンチ」(1994年には登録名としても使用)。

川崎市立西中原中学校を卒業。武相高校から亜細亜大学に進学。社会人野球の熊谷組を経て、1990年にドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団。社会人野球時代は俊足かつ強打の選手として知られ、第60回都市対抗野球大会(1989年)では大会史上2人目のサイクルヒットを記録している。また、1988年・1989年と2年続けて社会人ベストナイン(外野手部門)に選出されている。
入団時の登録名は本名の「佐藤和弘」。近鉄、巨人、横浜で活躍した阿波野秀幸は同期。中日で活躍した与田剛は後輩に当たる。現役時代は愛嬌あるキャラクターで親しまれた反面、打撃面で欠点があり、また守備にも難があることが弱点であった。新しい登録名で心機一転したパンチは復活を目指すが、成績の下降には歯止めがかからず、仰木彬監督から戦力外通告を受け引退。現在はタレントとして活躍している。

ドラフト指名時には熊谷組の寮で当時の上田利治監督からの電話に「会社の上の人と相談して決める事ですけれども…自分の心はひとつです!!」と応え、入団当時から話題をさらった(その時の映像が2000年代中盤にリクルート「フロムエー」のCMでも使われた)。入団時の記者会見では契約金の話になったが「この1億円はプロで勝負させてもらう為のお金であり手を出せないです」という発言で場内を驚かせた。

レギュラー定着までは行かなかったものの、その男気あふれるキャラクターと、後述の爆笑コメント(パンチ語録)で人気を博した。これらの「パンチ語録」は、この年のフジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」でも取り上げられ話題になった。また、演歌好きでも知られた。またトレードマークのパンチパーマ同様、その筋の方が好みそうな格好が好みのようで、スーツの裏地には虎の刺繍がびっちり入っていた。「いや、こういうのは自分で満足するもんですから」と言った。

2005年にタレント・萩本欽一が監督を務める社会人野球チーム・茨城ゴールデンゴールズに入団が決定したが、その直後に別のプロ野球経験者が入団することになり、プロ経験者登録枠の関係と「古巣に恩返しがしたい」ということから、1994年に休部した熊谷組野球部OBらが結成したクラブチーム・熊球クラブ(ゆうきゅう-)に移籍した(登録名義は佐藤和弘。2008年をもって退団)。

強打の外野手として期待されたものの、打撃面では入団初年の打率.331を頂点に成績は尻すぼみ。1994年、仰木彬新監督が就任し、登録名を既にニックネームとして定着していた「パンチ」に、3年目の若手外野手の鈴木一朗も「イチロー」に変更した(このアイディアは新井宏昌打撃コーチが提案し、仰木が承認した)。この際仰木らは、実際にはイチローひとりを売り出すために登録名変更を思い立ったものの、当時はまだ全国区ではなかったイチロー一人だけを改名した場合、イチローだけが目立ってかえって萎縮しまうことを懸念していた。そこで仰木らは、既に全国区だったパンチにも改名を勧め「一緒に目立ってくれ」と頼み込み、こうして2人の登録名が変更されるに至った。

新たな登録名で心機一転したパンチは復活を目指すが、成績の下降には歯止めがかからず、同年限りで戦力外通告を受けた。仰木は「パンチは野球より芸能界でがんばれるではないか」と見抜いており、パンチは仰木から戦力外を言い渡されると「どうしてですか? シーズン前には『期待している』って言ってくれたじゃないですか」と反論したが、仰木は「代打でなら使えるが、スタメンとして使うにはちょっと厳しいな。お前はこのままプロ野球選手として食っていくよりも、芸能界でやっていった方がいいと思う」と諭した。パンチは“尊敬する仰木さんにそこまで言われてしまっては仕方がない”とあっさり納得し、「はい、分かりました。辞めます」と二つ返事で引退を決意した。まだまだ現役で十分行けるはずであったが、打撃面で欠点があり、また守備にも難がある事や既にイチローや田口壮らが外野のポジションに定着していた事から球団首脳もこれ以上使えないと判断した為、引退せざるを得なかった。数年後「土曜スペシャル」(テレビ東京系)で共演した時にパンチは「自分はあの時まだ現役続行出来ると思ったんですが」と尋ねたが、仰木は「お前を現役続行で使っても無理やった」と語っていた。

現役最終打席は1994年GS神戸での近鉄戦の代打出場。三塁打を池上誠一から打ち、渾身のガッツポーズ。既に引退を決意していたのか、ベース上でじっと涙を堪えていた。

パンチはプロ入り時のオリックス監督である上田と、引退時の監督である仰木を深く尊敬しているその一方で、上田と仰木の間にオリックス監督を務めた土井正三に対してはどうしても畏敬の念が持てないらしく(土井の在任時にはチーム内に軋轢が絶えなかった事が遠因にあるといわれている)、引退後に出演したフジテレビ「プロ野球ニュース」では、歴代の監督に感謝のメッセージを述べる際に「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督、・・・途中何かありましたけども」と、土井にだけは感謝の念を述べなかった。また、パンチは自著でも土井のことを「土井監督」ではなく「D」とイニシャル(敬称なし)で書いている。

基本的に上田・仰木共々、明るい性格の選手が好きなタイプの監督であり、上田は佐藤の引退を聞いたとき、「何でやめちゃうの?勿体無い」と佐藤に現役続行をアドバイスしたという。

引退に際し後輩のイチローに記念にとユニフォームを貰ったがタグの年式が古かったため、後日TV番組で「古いユニフォームを渡した」とイチローに文句を言ったところ、「何言ってるんですか、ちゃんと背中の名前がICHIROになってるじゃないですか。日本記録を出したときの物ですよ」と逆にたしなめられたという。

小学生時代のあだ名は「ザット」(”さとう”をもじって)。当時は両親が共働きで、帰ってくるのが遅いため、団地の前で日が暮れるまで素振りをしたと言う。

パンチパーマにした理由は、社会人時代に坊主頭にしていた時、相手チームのボールを拾ってあげたところ、どうみても年下の選手から「サンキュー」といわれたことに憤慨し、若く見られないために始めたものである。

よく知られた話として、社会人時代に飲み歩いていたところ、風貌から「そのスジの者」と思い込んだチンピラに「おまえ、どこの組のもんだ!」といわれ「熊谷組だ!」と答えたというものがある。しかし実際は、社員との飲み会後に先輩を「お疲れさまでした」と順番にタクシー乗り場で見送った場面で勘違いされ「わたくしは建設会社の熊谷組の者です」と丁重に事情を説明し、誤解を解いたとのことである。

入団直後のフジテレビ「プロ野球ニュース」のオフ企画で、関西テレビの梅田淳アナウンサーと共に阪急電鉄に乗車しフランチャイズになる阪急西宮球場に初登場するという場面があり、球場に入るなり自分で「ブーマーに代わり、バッター佐藤」と勝手に言っていた。

入団間もない佐藤は中日とのオープン戦で1塁ベースに行き一塁手の落合博満に「初めまして。佐藤と申します」と挨拶をしたら、すかさず落合が「今ロサ・モタはどの辺走っているんだ」と言われ返答に困っていた。当時佐藤は自分のことをマラソンに例えて話すことが多く、その際に当時女子マラソンの第一人者であったモタの名前を出すことが多かった。
入団後は守備走塁コーチの今津光男と二人三脚で有名だった。だが、今津コーチも単身赴任で合宿所に住んでいたことから、ただの「飲み友達」だったという話もあり、度々ネタにされていた。

福岡ドームのベンチ裏は食事が豪華でプレー中でも任意で食事が出来るようになっており、パンチが守備で悪送球を投げた時に指が滑ったとの事で、その理由「ついさっきまで稲荷寿司を素手で食べていて手を拭かずに守備につき油揚げの油が指についていた為」と弁解した。「ジャンクSPORTS」2002年11月19日放送分でもこの話を(多少形を変えて)披露しているが、現在では「プロ野球選手はプロアスリートのくせに、試合中に脂っこいものを好んで食べる。自己管理がなってない。そんなのはプロアスリートではない」という意味に拡大解釈されることもある(ただ他のプロ野球選手も試合中軽くものを食べることはあるため、佐藤を強く責めることはできない)。

1994年の阪神とのオープン戦で代打出場して中田良弘から足にデッドボールをくらい、その場にうつ伏せに倒れてしまい全く起き上がれなくなった。そして仰木監督が慌ててベンチを飛び出しパンチのもとへ行こうとした瞬間、パンチが急に立ち上がり全力で1塁ベースに走った為、それがパンチ特有の芸だと知るや仰木監督は大笑いをしながらベンチに戻った。ちなみにこの試合では仰木監督にピンマイクが付けられていて、代打のコールはもとよりデッドボールの際の笑い声も中継されていた。

グリーンスタジアム神戸での打席に登場時のテーマ曲はアップテンポの曲で統一されているが、パンチの場合のみ演歌であった。

プロ野球解説者森祇晶の自伝で「要領が良い、立ち回りが上手いだけで中身が全く無い選手」と大久保博元とともに半ば特定される形で非難されている(刊行は佐藤の引退後)。





2005年9月には、自宅駐車場に不審者(覚醒剤所持者)が侵入している所を取り押え、地元・中原警察署から表彰を受けた。

中国人の妻(パンチ曰く「中国4000年の美女」)と国際結婚している。また妻との間に生まれた子供の家庭教師を、学生時代のテレビ朝日・河野明子アナが務めたらしい(それも多摩川べりで河野がラクロスに専念している所を狙ってパンチが声をかけたらしい)[要出典]。
以前から韓国に凝っており週1度はテコンドーの道場に通い、韓国料理もかなりのペースで口にするらしい(フジテレビ「ウチくる」{2005年秋に放送分}でもロケ地が韓国料理店だった)。しかしグルメ番組のレギュラーももっている程、味にはうるさい反面、午後8時以降は食べ物を口にしないという体調管理を貫いている。

武相高校の先輩の東門明を尊敬し、プロ入りの際背番号を決めるときに45番を選んだ理由は東門が早稲田大学で着けていた背番号9にちなんでいる(4+5で9になる)。入団直後は9番が欲しかったものの、先輩の本西厚博が9番だったため、「本西さんから貰うわけにはいかない」として苦肉の策でこの番号になっている。現役最終年の背番号90は45の2倍という意味もあるが9が入っているからという意味でもある(出展は竹書房刊「まんがパロ野球ニュース」のパンチの連載コーナー)。

同じく高校時代の先輩に出川哲朗がおり、テレビ番組で共演すると出川から「そうだよなー、パンチ」などと先輩風を吹かされる。一方の佐藤も出川のことをテレビでは「先輩」と呼んでいる。



通算:5年 149 260 29 71 15 1 3 97 26 3 2 4 4 14 24 2 .273 3

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