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働けないこと、家事もろくに出来ないこと、役立たずなこと。
そのことが、私に耐え難い苦痛をもたらす。
うつ病になったことのない人は多分想像できないくらい、その痛みは激しくて荒々しいものだ。

ずっともがいている。
色々チャレンジしてみても結局断念せざるを得ないことになっている。
(仕事だけでなく、ボランティア・市民活動の類においても)

その中でぐるぐるしているうちに、思い至ったこと。
私が自らを役立たずと非難し、生きる価値がないと思うことは、娘を全否定することになる。
娘を殺すことと同意ともいえる。
同じうつ病者や他の障害者、傷病者などに対しても同じだ。

昨今、役に立たない者やお金を稼げないものは生きている価値がない、という考え方が広まってきているように感じる。
それに対する反論は色々ありうる。
全ての人は生まれながらに生きる権利を有している、憲法もそれを保証している、とか。
人工透析を受けている人より、健康で長生きする人の方が実は税金(や年金)がかかる、とか。
誰でも、明日にでも役に立たない側の人間になりうる、とか。
人類は、弱肉強食ではなく、弱い成員も生きられる社会を作ることで、もっとも生存に適した種になったのだ、とか。

私は娘を見るうち、こんな風に思うようになった。
娘のような存在は、人に「徳を積ませる」ための存在なのかもしれないと。
善行を積みたくても、それを施す相手がいなければそれは無理なのだから。
よく昔話に出てくる、乞食を装った神様みたいな存在。

そして、私はこの生において、自分が施す側ではなく、施される側であることを受け入れられるかを問われているのかもしれない、と最近時々思うようになった。
自分が役立たずでも、それを許せるのか。
娘や他人がそうであるのを本当に許すためには、自分を許せなくてはならない。

そんな思いの中、今日本質をつくツイートに出会った。

”病を背負い、他者の助けがなくては生きていけない。そうした人には、誰かの助力、善意を受け入れることが、また、避けがたいわが身の試練を生き抜いていくことが労働になる。こうしたことが「労働」である事実に気が付きさえすれば、「社会的弱者」を支えるという、何とも横柄な発言もなくなるだろう。”
(若松英輔さんのツイートより)

  • 顔アイコン

    本で読んだ言葉ですが、全ての人は、社会という大きな機械を動かしている歯車だそうです。素材も役割も大きさも速度も異なる歯車だけど、いわゆる「社会的弱者」も、大会社の経営者も政治家も、だれでもみんな、それぞれが大切な分担(役割)を担う一つの歯車なんです。
    人間は、「自分の分担」を担うために生きているのだ
    という、この考え方に、私は共感しました。

    mty*ys*u*i

    2016/10/18(火) 午後 10:55

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