日本書紀 皇極3年(644年) 「冬11月に、蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、家を甘檮岡に雙べ起つ。 大臣の家を呼びて、上の宮門と日ふ。入鹿の家をば、谷の宮門と日ふ」 645年6月12日、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らにより入鹿が暗殺された翌日 父蝦夷は甘樫丘邸宅(上の宮門)で聖徳太子編纂と言われる「天皇記」「国記」を焼き自害した。 その際、この2つの宮は焼失したと言われている 古代史上最も有名な事件「大化の改新(乙巳の変)」 その舞台となった蘇我入鹿の「谷の宮門」か?と注目される遺跡が発見された。 古代史ファンならずとも心躍る大発見である その現地説明会が 11月16日(水)行われた。 前日鬼のように仕事をこなして、何とか半日の有休をもらい早朝奈良明日香村へ赴いた。 9:30am 甘樫丘バス亭から徒歩15分ほどで現場へ到着 説明会は10時〜だが、すでに人だかりができていた・ パンフレットをもらい丘の麓の現場へ行ってみると、調査員がちょうど説明を始めていた 多くのファンが早朝から集まったため、説明会を30分繰上げたそうだ 確かに凄い熱気! TVクルーもスタンバイしている。頭上ではヘリコプターが旋回していた。 その音がうるさくて調査員の説明が聞き取りにくかったのには、辟易した。(怒!) 今回の発掘調査は、国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区の拡張整備の前に事前調査として行われたそうだ。 時間の制約があるので、幅5m、総延長145M という細長い調査区を今年8月から十文字に発掘してみたところ、7世紀のものと思われる建物跡が見つかったとのことだ 試し掘りしたら見事にヒットしましたという感じか・・・・ もともと この発掘現場の手前(駐車場)で 7世紀中ごろの焼土層が発掘されていたため 場所も絞り込むことができたと、調査員は説明していた 今回の発掘では5棟の建物跡(掘立柱建物)と塀跡とが確認されている 1棟の大きさは 桁行5間 x 梁行 2間 (約10.5mx 3.6m) 現場で見た限りそう大きな建築物とは思えない 日本書紀に記載された「城柵」と「武器庫」の一部か? 溝も確認されており、そこには焼土と炭も見つかっている 焼土⇒少し赤みかかっている しかし、建物遺構からの出土品は極めて少なく、現段階では7世紀の建造物としか断言できないとのことだ。 つまり大化の改新以前 7世紀前半であるという年代の確定までには至らなかった。 傍証としては、現在谷となっているこの地層調査が揚げられる。 もともとの土地の上に人口的に造成された地層が重なり合っいることが判明。 また地形からこの一帯は頂上から尾根が走っていたことも分かっている。 つまり、7世紀ごろ、何者かが尾根を削って土地を整備し、その上に建築物を造営したことがわかる 即ち、大規模な土地造成を行える権力を持つ者の姿が浮かび上がってくる そこで大いに関連が期待されるのが、日本書紀の蘇我入鹿邸「谷の宮門」についての記述だ。 山を削り造成した谷の館・・・・ 恐らくこの発掘現場の直ぐ側に、要塞の如し入鹿の正殿があったのであろう そして宮を建立して僅か1年で蘇我氏は、この場所で滅んでいったのだ 見つかれば歴史が変るといわれている「天皇記」「国記」がここで灰になったのかもしれない。 蝦夷は何故聖徳太子の偉業を灰にしたのだろうか?まるで道連れのように… 説明は約1時間ほどで終わった 午後から職場に戻らなければならないため、明日香を堪能する余裕もないが 入鹿の首塚もあるし、飛鳥寺へ行くことにした 入鹿暗殺後中大兄皇子は、直ぐに飛鳥寺に陣を取り対峙した言われている 係員に飛鳥寺を尋ねると、「あそこ三角屋根がそうです」と教えてくれた ほんとに近い。徒歩10分ほどだ。 暗殺現場となった飛鳥板蓋宮もここからだと徒歩30分以内の場所にある 大化の改新の詔(645年)後も、この狭い飛鳥を舞台に血で血を洗うような権力闘争が繰り広げられた 今は牧歌的な風景で私達の心を癒すこの飛鳥は確かにヤマトの中心であったのだ。 飛鳥寺付近より甘樫丘を望む 今後の調査で大きな柱跡や年代を特定できるような物証が発掘されることを願う やはり現場はいい!
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歴史的大発見でしたね。テレビでも説明会には連日大勢の見学者が訪れていると報道されていました。ゆ〜くん様の写真とレポ、分かりやすかったです。自分もいつか行ってみたい。
2005/11/18(金) 午後 7:12
レポご苦労様です〜。今まで飲んでいたのでちょっと頭がいたいのですが、やはりいい!ですね。本気でそっちに行きたくなりました。「天皇記」「国記」があれば確実に歴史は変わっていたでしょうね。それだけは残念ですが、こうやって遺跡が発掘され、古代史の舞台がひとつ明らかになったのは、古代史ファンとしては素直に喜びたいです。
2005/11/19(土) 午前 3:44 [ スクネ ]
yanamisan、ありがとう〜!明日香はいいです。歴史と観光と癒しのスポットですよ。ちょっと足をのばせば、天誅組の史跡もあります。
2005/11/19(土) 午前 10:48
宿禰さま、もしかして酒豪のアネキとの飲み会でしたか?私も久しぶりに明日香を訪れたのですが、やはりいいところです。馬子の邸宅と言われる「島庄遺跡」も近所なので行きたかったのですが、時間もなく残念でした。またゆっくり行ってみたいです。
2005/11/19(土) 午前 10:52
うらやましいです〜!私も行きたかった!蝦夷、入鹿は名前の付け方から分かるように賊扱いですが、立派な政治家だったとも言われています。蘇我氏の実像が解明できる発見であって欲しいですね・・・
2005/11/19(土) 午後 0:27
初めまして。天皇記や国記のかけらでも出てくるとおもしろいんですがね。このころの歴史はなぞが多くてとてもワクワクします。
2005/11/19(土) 午後 0:48
おお!行ってこられたんですね。うらやましい。内緒の話ですが、私は飛鳥で飛鳥時代の瓦を拾ったことがあります。大官大寺跡でした。大分前の話です。
2005/11/19(土) 午後 0:49
おおぉ! いいなぁ、うらやましいです。「天皇記」「国記」には、後の「日本書紀」「古事記」とは違う歴史が書かれていたんでしょうねぇ。なんとももったいないです。これが残っていれば、古代日本の姿がもっと明確になるのに…
2005/11/19(土) 午後 9:31
<軽皇子は傀儡>…。同感です。中大兄も鎌足も稀代の知恵者。勇気もあれば陰謀にも強い。でも遺跡跡に行かれるとは羨ましい。火山、年金生活。株で資産<3倍増>を夢見ています。そうしたら…。
2005/11/20(日) 午後 0:23 [ kom*_19*7 ]
まあ、何があったかは想像にお任せしますが・・(笑。私は蘇我氏は記紀に言われるような政治家ではなく、実は極めて有能な政治家であったと考えています。むしろ蘇我氏を抹殺し、藤原氏が実権を奪うためのクーデターが大化の改新であったと推測しています。まあ歴史は常に勝者の視点から作られるのが真実ですしね。今後の研究が進むことに期待です。
2005/11/21(月) 午前 9:45 [ スクネ ]
現場に行かれてたんですねえ。臨場感のあるレポートありがとうございます。天皇紀、国記のことは不勉強なので今知りました。敗者の歴史を語る物は強制的に消え去られてしまうんですね。焦土の色の違いが生々しくてここから新しい物証がまた出てきてくれるとうれしいですねえ。
2005/11/21(月) 午後 0:49
ayarinさま、まじで、天皇記や国記がこのあたりで焼失したのかと思うと惜しい気持ちでいっぱいになりました。どこかに写本でも埋もれてないでしょうか・・・?!
2005/11/24(木) 午後 4:41
milkさま、すご〜!明日香の大官大寺跡ですよね〜!発掘に参加されたのですか〜?ホントすごいです〜!あのお寺も7世紀建立されてますから、大化の改新後の政治の中心にあったお寺の一つですから!羨ましいです。
2005/11/24(木) 午後 4:48
火山さま、あの中臣鎌足が刺客だけの駒であったとは考えられません。軽皇子もある意味、悲劇の大王です。聖徳太子記事読みにまた遊びに行きますので宜しく〜!
2005/11/24(木) 午後 4:51
なつみさま、おっしゃるとおりです。蘇我氏はもっと評価されるべき一族であったと私も思います。
2005/11/27(日) 午前 5:00
佐々木さま、「天皇記」「国記」が発見されたら、例えば邪馬台国の姿なども解明できるだろうし、聖徳太子の大王を中心とする政治の内容もより明確になるでしょう・・・惜しいことです。
2005/11/27(日) 午前 5:03
すくねさま、ハンドルネームも蘇我氏に縁がありますしね・・私も蝦夷入鹿親子は有能な政治家であったと思っています。そこら辺について私の考えを記事にしちゃいました。
2005/11/27(日) 午前 5:05
ピアシさま、「天皇記」「国記」はその存在についても謎です。蝦夷が火を放った際、この原稿は炎の中から助け出されたという説があり、天皇家の出自に関わる記載があり未だ公開されてないとも言われています・・・
2005/11/27(日) 午前 5:10
ayarinさま、トラバありがとう〜!私は最近の発掘調査の数々が、「記紀」の記述と一致することが多いため、後の権力者(天武持統)によってすべて創作されたとは思いません。権力者をヨイショしながら、都合の悪い事件については含みのある表現で記述している。が私の自説です。 当時歴史編纂したエリート達の精一杯の誠意だと思っています。
2005/11/27(日) 午前 5:17