ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

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今まで観た桜のなかで一番印象深いのはどこですかと聞かれたら
私は迷わず長野県伊那市にある「高遠城」と答えます。

この地訪れたのも丁度4月末の今頃で、登山を趣味としていた学生時代でした。
中央アルプスの山小屋から下山し温泉で疲れを癒したあとで、時間があったので寄ってみたのです。
関西だととっくに散っている桜が丁度見ごろで、平日だったためそれほどの混雑もなくラッキーでした!
当時、デジカメのような文明の利器を持ち合わせていなかったのでその素晴らしさを自分の写真ご紹介できないのが残念ですが、ごろでそれはもう言葉にできないような美しさでした!

(TOP写真は観光HPより拝借いたしました・・)

満開の桜の一部はもう散り始めていて、それがこの城で起きた悲劇を象徴しているようにも見えました。
この高等城は武田氏滅亡の舞台となった悲劇の城でした

高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継の居城でしたが1545年信玄の侵攻に降伏しました。
1562年には諏訪氏の血を引く息子の諏訪勝頼(後の武田勝頼)が城主となるなど、
難攻不落と言われた高遠城は武田の重要な軍事拠点となりました。
1570年信玄が勝頼を後継者として指名(勝頼の息子 信勝が真の後継者でその後見人との説もある)
したあとも信玄の実弟が城主となるなど武田にとっても由緒ある城でありました。

1582年(天正10年)2月、織田信長は信玄亡き後の甲斐を攻略するため、
長男織田信忠に6万の兵を与えて伊那口から高遠城に迫ります。
当時の若き城主は勝頼の実弟(信玄の五男)仁科盛信、若干26歳でした。
武田の家臣達が勝頼を見限り次々と降伏するなか、唯一織田軍に激しく抵抗したのが盛信でした。
降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わすか三千の手兵だけで篭城して、
6万の大軍を迎え撃ち、奮戦むなしく、3000人の城兵ともども壮絶な討ち死にをしました。

そしてその9日後、武田勝頼も、武田縁の天目山で、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害し
ここで甲斐の武田氏は滅びました。
織田信長は長男の功績で甲斐を平定し天下への覇権は目前に迫ったはずでしたが、
武田滅亡からわずか3ヶ月後、本能寺の変が起こり、信長も夢半ばに散ることとなりました。

江戸時代にはいると高遠城は、保科氏、鳥居氏を経て最後内藤氏が藩主として明治維新を迎えます
(最後の藩主は「まるこ」さんにお任せしま〜す!)
明治4年の廃藩置県で高遠城の建築物はすべて取り壊しとなりました(もったいないことです)
現在の桜は旧藩士が植えたものだそうです。

”死出の山こゆるたえまはあらじかし亡くなる人の数つづきつつ”
”花よりは命をぞなお惜しむべき待ちつくべしと思ひやはせし”
                     (2首とも西行の歌です)

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