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「北条早雲」は戦国大名の魁と目されている。 彼の名が世に出た「伊豆討入」(1493年)をもって戦国時代の幕開けと言わしめる。 第一この男、自身で北条氏を名乗ったことは一度もなく「伊勢新九郎」で通しており 出家して早雲庵宗瑞と号した。 鎌倉時代の執権北条氏と区別するため、後北条氏と称したのは、息子の氏綱の時代からである。 長年、早雲は一介の素浪人から腕一本で戦国大名にのし上がった男と言われていたが、 最近の研究では室町幕府の政所執事を務めた名門伊勢氏の出自ではないかといわれている。 備中(岡山)に在った「備中伊勢氏」の出で、高越山城主伊勢盛定の息子「伊勢新九郎盛時」 が後の北条早雲と推測されている。 また、駿河の守護大名 今川義忠の正室として嫁いだ北川殿が早雲の妹であったことも 早雲の出自がそれ相当の家柄であったことを示している。 時期は不明だが 恐らく世にでる志をもった早雲青年は名門京都伊勢氏の一族、伊勢貞高の養子となり京へ上り八代将軍の足利義政の弟、足利義視の近侍として仕えた。 もし義政が弟義視に将軍職を譲っていれば、早雲は高級官僚として幕府の中核で活躍したに違いない。 ところが、義政と日野富子の間に息子義尚が生まれ、足利義視派との間で家督争いが生じ、 世は『応仁の乱』の混乱に突入していく。 まさに早雲は応仁の乱渦中の目撃者でもあったのだ。 その後早雲は足利義視と行動を共にせず浪々の身となる。 これが早雲=浪人説の根拠となったようだ。 京での陰湿な権力闘争に辟易したのだろうか、早雲は妹北川殿を頼って駿河の今川家に仕える道を選んだ。 そして妹の夫、当主今川義忠の突然の戦死によって、早雲は世にでるきっかけを掴むのである。 義忠の不慮の死で残された北川殿との子龍王丸はわずか6歳と幼く、義忠の従兄弟小鹿範満との間で、今川家に家督争いが起こったのである。 早雲は龍王丸の叔父として両者の調停に奔走する。妹に懇願されればいやといえない・・・早雲である。 龍王丸が成人するまで小鹿範満が代行するという折衷案を出して争いを収めることに成功した。 その後いったん京に戻り幕府に仕えるが、小鹿範満は17歳の青年に成長した龍王丸になかなか家督を譲らない。 心配した妹の要請でもあったのか秘かに駿河に向かい、1487年 小鹿範満を討伐することに成功した。 可愛い甥っこの龍王丸は無事に家督を継ぎ、元服して今川氏親と名乗った。 今川氏中興の祖と称される氏親は、叔父の早雲の功績の恩賞として興国寺城(沼津市)を与えた。 56歳にして一城の主となった早雲の、遅咲きの人生が花咲くのはこれからである。 その後早雲が目をつけたのが「伊豆」であった。 当時の伊豆は、室町幕府の出先機関である堀越公方が最大の勢力を保っていた。 初代堀越公方の足利政知には三人の息子がいた。先妻との子である長男 茶々丸、 後妻 円満院 との子、次男潤童子と三男清晃である。 円満院は自分の息子 潤童子に跡目を継がせるため、些細な理由で茶々丸を牢に入れてしまう。 先妻の出自が低かったのであろうか、父親も反対はしなかかったようだ。 継母に虐待された可哀想な茶々丸は、父政知の死の直後のドサクサにまぎれて牢を脱出し 自分を陥れた円満院と弟潤童子を殺害し、元服前に二代目堀越公方就任を宣言した。 しかし、複雑な家庭環境?で性格がゆがんでしまったのか、茶々丸は家臣の不信をかっていた。 早雲はそのような内部事情をちゃんと掴んでおり伊豆討ちを決意する。 早雲は自らただの老人になりすまし、伊豆修善寺のお湯につかりながら市井の噂をかき集め この情報を掴んだと「北条五代記」に記されている。 早雲は今川家から始まり最後まで他家の家督相続の機を上手く掴んでのし上がっていった。 恐らく応仁の乱の最中、京で目の当たりにした陰謀や権謀の数々をみて、人間の欲望の果てぬ業を己が手で利用することに何か悟るものがあったのかもしれない・・・(実際浪人になる前に京で一度出家しているようだし) <閑話休題> 今川氏親などから兵を借り受け、1495年、500人ほどの手勢で茶々丸の堀越御所を夜襲した。 茶々丸は逃亡したが(後に捕縛され討たれた)、早雲は伊豆の国盗りに成功した。 この事件を「伊豆討ち入り」という。 早雲、61歳。まさしく大器晩成の典型であった。 早雲の「伊豆討ち入り」をもって戦国時代の幕開けと評される。
今川氏の一介の武将でしかなかった早雲が、室町幕府の関東機関である堀越公方を武力で 追い払い国を取ることは、まさしく「下克上」であったからだ。 老いても早雲の野望は伊豆一国で収まらなかった。 1495年、小田原城を攻略し、相模へ領土を拡張し、1516年、85歳にして相模国の全域を統一し、 その後100年にわたる五代北条氏の基礎を築いた。 同年、家督を氏綱に譲り、三年後の永正16年(1519)、88歳の大往生を遂げた。 尚、早雲は合戦上手なだけでなく民政も上手かった。
伊豆の国中に蔓延した「風病」のため薬を取り寄せたとか、年貢の率を軽減するなどして、 征服した土地の住民懐柔策を施している。 1506年には指出検地も実施し、戦国大名として最初の検地を行った。 『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め(分国法の祖)、早雲以後の跡継ぎ達に大名のあるべき姿を遺訓した。 早雲以下北条五代の墓は箱根湯元の早雲寺に奉られている。 |

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この記事は「天下布武」ブログと同時連載です!
2006/7/7(金) 午前 0:08
この記事と「天下布武」ブログに同時TBです!
2006/7/7(金) 午後 0:41
北条早雲って名前は後世につけられたのですね〜!いやはや知りませんでした。早雲は名前は知っていますがその実像については知識がなかったので勉強になりました。当時の平均寿命が50歳代だったと聞いてますので、56歳で戦国デビューは確かに遅咲きですよね。でもそれからの勢いをみると老人パワー全開です。きっと京都で色々と苦労したのでしょうね。素晴らしい武将です。
2006/7/7(金) 午後 2:48 [ NextStage ]
妹に頭の上がらないお兄ちゃん。でも実は凄腕の武将!!カッコイイです。しかも父を幼くして亡くした甥っ子のため奔走するなんて、TVドラマみたい。ついでに茶々丸君も、いいセンいってますね。面白かったです (傑作ぽち)
2006/7/7(金) 午後 2:54
まるこさま、同時TBありがとう〜!
2006/7/7(金) 午後 5:07
NextStageさま、早雲という人物は謎も多いですが、調べていて痛快なんですよね。確かに家督争いに乗じて権謀の限りを尽くしていますが、嫌味がないというか・・『早雲寺殿廿一箇条』を読むと気配り上手な一面もあります。家族思いなのもいいですよね。
2006/7/7(金) 午後 5:10
れみいさま、コメ笑えました。確かに現代向きのヒーローですよね。「オヤジ武将」なんてタイトルでドラマにしたら面白いかも〜。
2006/7/7(金) 午後 5:12
私は小田原城の天守閣の中の肖像画で初めて早雲の顔を見たのですが、その時の印象は「いぢわるそうなおじぃちゃんだなぁ!」でも実は民衆に慕われたいい人だったんですよね!こちらもTB返しさせていただきますね♪
2006/7/7(金) 午後 11:18
るなさま、ご訪問ありがとうございました!早雲公は『早雲寺殿廿一箇条』のなかでも「民のために政治をしろ」と伝えてます。名門のおぼちゃまだったんで、学もあったんでしょうね。遅咲きとはいえ英傑だなあ と思います。
2006/7/8(土) 午前 1:29
こんにちは。
ヤフージャパン北条早雲
ヤフージャパン北条氏綱
ヤフージャパン北条氏康
ヤフージャパン北条氏政
ヤフージャパン北条氏直
2019/8/2(金) 午後 0:56 [ ヤフージャパン北条早雲 ]