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皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

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寿桂尼〜女戦国大名〜

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大河ドラマ「風林火山」は今川家のお家騒動「花倉の乱」を取り上げています。
その渦中にあり、今川の行く末に大きな影響を与えた女性がいます。
戦国の女性シリーズとして、「女戦国大名」の異名を持つ貴婦人のお話を取り上げてみます。

寿桂尼(じゅけいに)


彼女は従一位権大納言 中御門宣厚胤の娘として京に生まれました。
この当時の女性の常として本名も生年月日も不詳ですが、今川家への輿入れから逆算してみると
おそらく 1490年頃に生まれたと思われます。
故実家として有名だった父中御門宣厚胤の文才豊かな血筋は、彼女にも受け継がれていたようです。
しかし時は応仁の乱の動乱の後。
相次ぐ戦乱で京の街は焼き尽くされ、中流公家とはいえその子女が名門武家へ嫁ぐことは
珍しいことではありませんでした。

今川氏親との縁談は、氏親の姉が正親町三条家に嫁いだあたりからの縁故ではないかといわれています。
今川家は戦国大名とはいえ、名門で貴族的な家風の武家。
藤原北家の流れを汲む、文人として著名な中御門宣厚胤の娘は、
嫡子氏親の正室としては充分な姫君であったと考えられます。

京を離れ駿府へ嫁ぐ娘のため、父は「歸(とつぐ)」の一字からなる印を渡しました。
父の愛情のこもった印章は、後に寿桂尼の大きな支えとなったのです。


今川氏親が 寿桂尼と結婚したのは1505年ごろと推定されます。
そのとき氏親は30歳を過ぎており、おそらく15、16歳であった寿桂尼とは
倍も年の離れた夫婦でした。
氏親の結婚が遅れたのは、今川家の内紛という事情もありました。
氏親の父 義忠が討ち死にしたときわずか6歳であった氏親(幼名・竜王丸)は、
生母、北川殿の兄である伊勢新九郎、後に北条早雲と呼ばれた男のおかげで、今川家の当主となったのです。 
(参照⇒北条早雲 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/38906573.html?p=2&pm=l)

今川家と北条氏のその後の固き絆はこういう事情があったわけなのです。


倍も年の離れた夫婦でしたが、夫婦仲は良かったと想像できます。
氏親自身も文人的素養があり、和歌や連歌など共通の趣味もあったからでしょう。
二人の間には、氏輝、彦五郎、義元、氏豊の4男が生まれ、領国も安定しており
夫がなくなるまでの20年の歳月は、彼女にとって幸せの日々であったと想像できます。
存命していた姑(北川殿)に奥の采配の指導もうけつつ、夫を裏から守り立てて、
次第に家中での信頼を築いていきました。

1526年(大永6年)、今川氏親が中風で倒れました。脳出血といわれています。
氏親は病床にあって分国法として名高い「今川仮名目録」を制定しました。
まだ14歳であった嫡子氏輝のその後を案じてのことでした。
それは、妻であり母であった寿桂尼の思いでもありました。
同年57歳で没した氏親の死後、未亡人の常として出家してします。
法号を「瑞光院」、法諱を「寿桂尼」と改めました。
そして夫の生前の願いを引き継ぐため、戦国時代の荒波に自ら飛び込むことを決意したのです。

1526年、14歳で家督を継いだ今川氏輝の生母として、領国経営の差配を実施したのでした。

戦国時代活躍した女性のなかで、自らの名目で書状を発し、領国を実際に支配したのは
唯一、寿桂尼だけでした。実質的な戦国大名であったため、寿桂尼は「女戦国大名」と呼ばれるのです

寿桂尼が発した印判状は、花押の代わりに朱印を持ちいる、いわゆる「朱印状」でした。
その印章は、父から贈られた「歸(とつぐ)」印だったのです。
今川の女主人としての威厳と、名門貴族出身である彼女の誇りが見て取れます。

寿桂尼の朱印状は、氏輝が20歳になる1532年まで続きました。
この間、侵略などの武力行使は目立ちませんが、駿遠領国の安泰は守りました。
京から輿入れした奥方が家臣団をまとめるとは、なんと大した器量でしょうか。
そして氏輝を立派な青年領主となるまで育て上げたのも彼女の教育の賜物でありました。

しかし、その平穏は長くは続きませんでした。
4年後の1536年、愛する息子、氏輝と、彦五郎が同日死去したのです。
感染病や毒殺説など真相はいまだ藪の中です。
氏輝は24歳、彦五郎は20歳。若すぎる死に不審を持っても当然でしょう。

同時に二人の愛息を失った母は、今川家の存続のため、再び立ち上がります。

氏輝が若く、正室も子女もなかったため、今川家には直ぐに家督争いが起こりました。
候補者は二人。幼年に出家していた氏親の息子達です。

側室福島氏の産んだ、三男「玄広恵探」と
寿桂尼の子である、五男の「梅岳承芳」の二人でした。


側室とはいえ、福島氏は今川の重臣。実力は拮抗していたといえます。
そこで寿桂尼は、承芳の後見であった雪斎と連携して、今川一門の実力者、瀬名陸奥守氏貞を取り込むことに成功します。そして武田家(信虎)からも「承芳支持」の密約も得て、勢力を挽回したのです。
苦境にたった福島派は恵探を擁立して挙兵、花倉城に立てこもります。
しかし、他の今川家臣の支持を受けられず落城。福島派は殲滅されました。
これが世にいう「花倉の乱」です。

1536年、還俗した梅岳承芳は元服して「義元」と名乗り、今川の家督を継ぎました。
「東海一の弓取り」といわれた名将の誕生です。
母の気質を受け継いだ義元は、武芸は苦手であったようですが、教養深く人格者でもありました。
領国経営や軍政の手腕は見事なもので、今川氏は最盛期を迎えました。
武田や北条との同盟関係も強化され、駿府城下や領国の治安は安定し、寿桂尼もやっと安寧の日々を送っていたことでしょう。

ところが1560年、西上の義元が織田信長によって桶狭間にて討たれました

再び今川家は存亡の危機を迎えます。
義元の嫡男、氏真は、凡庸な領主で、この新興勢力に抗うことができませんでした。
三河の松平元康(徳川家康)が離反し、また武田との同盟も一方的に破棄されます。
1568年、信玄の駿府侵攻のため氏真は掛川城へ逃亡し、戦国大名としてのの今川氏が滅亡します。
(ただし、徳川政権下では「高家」のひとつとして家は存続します。)

さすがの寿桂尼も、今川家の衰退を止めることはできませんでした。

1568年3月14日、今川滅亡の9ヶ月前、寿桂尼は駿府にてその波乱の生涯を閉じていました。
今川駿府館の鬼門(東北)に葬られました。死しても駿府を守るという思いでした。
70歳代だったろうといわれています


高貴な公家の姫様が、気丈にも戦国大名として駿河、遠江の領国を差配したのは、領土的野心ではなく、
息子達への深い愛情からであったと、私は思っています。

閉じる コメント(18)

戦国時代中期の今川、北条、武田当りのお話は私自身も知らない事も多く勉強になります。個人的には、大河ドラマで是非”北条三代記”を熱望しています。

2007/1/30(火) 午前 8:10 我が家の鬼嫁日記

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東海一の弓取り、今川義元の家督継承にはこんな裏話があったんですね〜。公家のお姫様が荒くれものの武士を相手に大名として君臨したとは、すごいお話です。

2007/1/30(火) 午前 9:47 [ NextStage ]

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ちょい役かと思っていたら実はスゴイ女性だったんですね〜。公家大好きな今川の家風は彼女の影響もあったでしょう。全く知らないことだったので勉強になりました。ポチ進呈!

2007/1/30(火) 午後 0:15 natumi

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ふじこさま、案外、応仁の乱〜戦国中期って知られていないんですよね。ワタシも興味をもったのは随分後のことでしたが、THIS IS 下克上というお話が多くてはまったら抜け出せません。「北条3代」なんてドラマにしたらむちゃくちゃ面白いでしょう。登場人物も皆粒揃いですよ。賛成です、NHKさん如何でしょう!!

2007/1/30(火) 午後 1:04 ゆーくんままま

寿桂尼あっての義元公ですよねwそんでもってまるこは氏真好きです!

2007/1/30(火) 午後 11:36 まるこ

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すごく細かい情報まで調べてあって関心というか感動しましたW 玄広恵探をなぜ福島が担いだか分からなかったのですが、福島の娘の子だったんですね。これからも楽しみにしてますW

2007/1/31(水) 午前 0:07 ちはや

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義元が家督を勝ち取った「花倉の乱」というのは知っていましたが、太原雪斎の活躍が中心で、寿桂尼がこんなに凄い女性だったとは知りませんでした。桶狭間も経て、今川家の衰退を目の当たりにして亡くなるとは、さぞ心残りだったでしょうね。なまじ有能で高家の誇りも持っていたでしょうから。

2007/1/31(水) 午前 1:48 [ - ]

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こんなすごいご婦人がいたのですね〜。まったく知りませんでした。京育ちの姫君が、武家に嫁いで荒くれ武士の間であっても誇りを失わず家を守り立てるなんてドラマチックなお話ですね。

2007/1/31(水) 午後 4:52 remiy

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長文お疲れ様でしたm(_ _)m 考えてみれば今川家ほどの大大名でも落ちぶれるのですよね。今川・武田・北条ともそうなったわけで。 寿桂尼が頑張っただけに切ない時代です。。

2007/2/1(木) 午前 6:21 [ ]

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寿桂尼が、女性戦国大名と呼ばれるほどの凄腕だったとは驚きです。 寿桂尼=今川義元の母ぐらいの知識しか無かったのが、恥ずかしい…(^_^;) でも、これで大河ドラマを見る楽しみが増えました♪

2007/2/3(土) 午後 11:56 [ 雪姫 ]

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NextStageさま、意外と知られていないですが、今川家もなかなか大変だったようです。内紛、分裂の危機にあって家臣団を纏め上げた寿桂尼さんは、女性政治家&経営者として非凡な才を持ち合わせていたと思います。尊敬しますよね〜。

2007/2/5(月) 午後 3:39 ゆーくんままま

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なつみさま、ありがと〜。今川の家風を創り上げたのも彼女でしょうね。州姑の北川殿とも上手くお付き合いしながら、息子をちゃんとエリートとして育てています。見事な奥ぶりにあやかりたいですね〜。

2007/2/5(月) 午後 3:48 ゆーくんままま

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まるこさまは公家や今川好きですもんね〜。しかし氏真好きってのはちょっと珍しいかも〜愚昧だったってのは後世のでっち上げでしょうか??

2007/2/5(月) 午後 3:49 ゆーくんままま

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ちはやさま、ありがとうございます。個人的に戦国の女性を調べていまして、寿桂尼はいつか記事にしたいと思っていたのですが、まさか大河ドラマでお会いできるとは思ってもいませんでした。マイナーな女性ですから。でもすごい人です。

2007/2/5(月) 午後 3:51 ゆーくんままま

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ぐーせんさま、太原雪斎&承芳コンビの影に、寿桂尼さんが居たのですよ〜。この3人が結託して義元も家督は成りえたし、今川も分裂の危機に漬け込んだ他国からの侵略も逃れることができました。家臣団の寿桂尼への信頼は本当に強かったようです。それだけに義元の死と本家の衰退は悲しむべき出来事であったでしょうね。息子に先立たれるわけですから。。

2007/2/5(月) 午後 3:56 ゆーくんままま

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REMMYさま、公家のお姫様が、尊敬する父から贈られた印章を支えに地方の男社会のなかで自己を貫いたのは、現代で考える以上に大変なことだったでしょう。それでも貴族的な家風を忘れない貴婦人でありつづけたことがまたすばらしいです。

2007/2/5(月) 午後 3:59 ゆーくんままま

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いっしーさま、大大名であっても瞬時の気の迷いや判断ミスで没落していったのが戦国時代でありました。真に大将の器が問われた時代ですね〜。

2007/2/5(月) 午後 4:08 ゆーくんままま

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雪姫さま、寿桂尼さんがあまり表に出てこないのは、現代でもやはり男尊女卑の風潮が残っているからでしょうか・・?もっともっと評価されるべき女性だと思います。

2007/2/5(月) 午後 4:10 ゆーくんままま

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