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皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

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天正10年6月2日未明 本能寺の変 (1582年6月21日)


明智光秀は何故織田信長の暗殺を謀ったのか?
現代にいたるまで様々な説が入り乱れ未だ真相は藪の中である。

信長怨恨説、天下への野望説、秀吉との共謀説、家康黒幕説など、
どれも本当のようでありしかし決定力に欠ける。
まぜなら、「信長公への謀反」は徹頭徹尾秘密裏に進められ、
光秀の寵臣ですら、直前になって初めて光秀の決意を知らされたほどであった。

しかし、そのタイミングといい電光石火の襲撃といい、光秀個人だけでは
あまりにも手際が良すぎて、古来より本能寺の変には黒幕がいたといわれ続けているし
確かに本能寺にて信長公を討ち取ったあとの光秀の、主に京都の朝廷工作に費やされた
のらりくらりとした行動はまるで別人のようであるからだ。

結局光秀ののろのろとした行動の間に、中国から文字通り賭け戻った秀吉に間隙を突かれて
光秀の天下はわずか12日間だけであった。

そんななか、最近注目されているのが、「朝廷黒幕説」だ。
それは、ある公家の日記に、信長公暗殺の謀議に加担したらしき記述が見つかったからである。

その日記の執筆者は、観修寺晴豊(かんじゅうじはれとよ)
武家と朝廷の連絡役である「武家伝奏」という役職にあった公家である。

本能寺の変から半月ほどたったころ、山崎の合戦で敗れた光秀の重臣、
斎藤利三が秀吉に捕らえられ市中引き回しの刑にさらされていた。
その姿をみた晴豊が、

「かれなと信長打談合衆也」 
(彼など、信長打(討)談合の衆なり) 

と、彼の日記である「日日記(にちにちき=別名・天正十年夏記)」に書き残していたのである。

信長打とは本能寺の変を指すとしか思えない。
その謀議を、観修寺晴豊は斎藤利三らと話し合ったということなのだ。

確かに、信長公の、実力もない権威のお飾りでしかない公家や朝廷にに対する態度は、
彼らのプライドをへし折るものであったろう。
また、事あるごとに反抗的な態度をとる正親町天皇に対して
信長公が様々な圧力をかけていたのは確かである。

また、この観修寺晴豊は、信長公が武田攻めで勝利し、安土城へ凱旋したときに
戦勝祝いの勅使として安土に下向している。
そしてそのことき

太政大臣か関白か将軍か御すいにん候て、可然候よし被申候
(織田信長を太政大臣、関白、征夷大将軍の三職のうちの
どれかに推任したほうがいいのではないか?)

と前記の「日日記」に書き残している。
つまり、信長公の三職推任 の当事者の一人であったのだ。


「三職推任」にも諸説あり、信長公自ら官職を強要したとも、
近習がかってにお膳立てして、信長公は全く取り合わなかったともいわれている。

私は信長公の性格から考えて、実力もないお飾りの「官職」など「小さい」と
無視したと思っているが、しかし、朝廷サイドが、信長の実力にたいして
心ならずもおべっかいしている様はみてとれる。

粗暴で身分も怪しい家臣の多い織田家にあって、
名門源氏の出身で教養も素養もあり、態度も優雅であった光秀は、
朝廷に近い人物であったことも確かである。

朝廷の存続すら危ぶまれるような、合理主義者で革命家であった信長公の行動を止めるために
謀略、暗殺大好きな公家の一部が暗躍した可能性は当然考えられることである。


私は全面的にこの「朝廷黒幕説」を信じているわけではないが、
光秀の「謀反決断」への過程で、朝廷の影響があったことは否めないと思っている。

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