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へ行ってきました。 愛車のナビに映し出された巨大な「前方後円墳」をみて見ぬふりして通り過ぎることなど 私にはできませんでした・・・・ この古墳は、第17代 履中天皇陵 と、宮内庁より指定されております。 JR阪和線上野芝駅付近で車を止めて、散歩がてら寄り道してきました。 簡素な住宅街の中、周遊路が整備されておりました。 前方部分です。 上石津ミサンザイ古墳は、盾形周濠(堀)の大きさ、美しさで有名と聞いていましたが まるで戦国時代のお城の堀のような、完璧な設計、そして美しさに感激しました。 水鳥が多く羽を休めています。 写真では分かりにくいですが、 護岸はちゃんとまっすぐに切り取られ方型であることが肉眼でも分かりました。 間違いなく、1600年の昔に人工的に造営された古墳なのです。 感激いたしました! 上石津ミサンザイ古墳の形状データをご紹介しますと 墳丘長365m、表面積17万m ⇒ 我が国で3番目の巨大古墳
後円部 :径 205m、高さ 約25m 前方部 :幅 約237m、高さ約23m 西側のくびれ部に 造出しあり 一重の盾形周濠しか現存しないが、 平成6年(1944)に、外側に幅20m程の2重目の周濠が見つかっている 田出井山古墳(反正天皇陵)・大仙古墳(仁徳天皇陵)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれて 宮内庁が管理しています おもわず・・・写メ。 (すくねさんと同じ、案内図に感激する古墳マニアです・・・ 汗) 「仁徳天皇陵(大仙陵古墳)はでかいな〜!」 興奮する母を横目に 「あそこに、鳥がいる!」と息子も大喜び! 都会に残された貴重な自然です。 宮内庁指定の「お墨付き」を発見しました。 おかげさまで、発掘や学術調査の道が閉ざされています。 陪塚の七観山古墳の出土品より、第16代仁徳天皇陵に指定されている大仙古墳よりも、 このミサンザイ古墳の築造時期は古いとされています。 つまり仁徳天皇の息子である履中天皇の墓と指定するには、明らかな矛盾があるにも関わらず いまだに、真相は藪のなかです。 祭祀を行うための鳥居です 鳥居の下の堀にボートがありました。 恐らく、宮内庁の「式部職」か「掌典職」職員が渡岸する時のボートでしょう。 宮内庁指定の墳墓は、「天皇家の生きた墓」とされ、そこで執り行われる祭祀の方法などは 未だに公開されていません。 「実際に埋葬されている人物と指定天皇は違います」といくら考古学者が矛盾を指摘しても 謎の祭祀を続けることの不可解さ・・を象徴するような、 謎のボートなのでした。 前方にから後円へ向います こんもりとした山が確認できます。 ただし、江戸時代の記録では、後円部中央に大きなくぼみがあったとされ、 すでに盗掘を受けている可能性がありますが、それも未確認の状況であります。 宮内庁だけが知っている? ゆったりとした自然に囲まれた周遊路は、 散策にぴったりでした。 道路脇に設置された、小さな公園の遊具で、息子が遊んだり・・・ 1時間ほど家族で癒された寄り道となりました。 本当に住宅地のど真ん中にあり 民家の真裏に古墳の周濠があったのにはびっくりしました。 裏庭から「マイビーチ」、ならぬ、『マイ古墳』が堪能できるようで まじで羨ましい限りでした・・・! 暫し古代史ロマンに浸った私は、 古代史の謎へといつしか思考の旅にでてしまいました。 さあ、ここからは、 古代史マニアの「独り言コーナー」です 題して 「履中天皇」とは、古墳時代の大王(おおきみ)で 生年:342年〜405年 もしくは、 369年〜432年 在位期間:400年〜405年 もしくは427年〜432年 在位はわずか6年間 和名は 大兄去来穂別尊 俗に「河内王朝」の祖と呼ばれる16第天皇・仁徳天皇の嫡子で、 都は磐余稚桜宮に置きました。(奈良県桜井市池之内に稚桜神社がある)。 履中天皇といえば、 中国の『宋書』に見える「倭の五王」が頭に浮かんでしまいます 『宋書』は梁に仕えた沈約が斉の武帝に命ぜられて編纂した正史で 宋の滅亡後直ぐに編纂されたことや、沈約が優秀な歴史家であったことから 他の正史と比較しても、一級資料として信憑性の高さを誇る史書です。 この『宋書』の『夷蛮伝』に、宋へ朝貢した倭の五王について記されています。 倭の五王とは 讃、珍、済、興、武 このうち、「武」が「雄略(ワカタケル)」であるのはほぼ確定しておりますが、 他の王については様々な学説が存在します そのすべてを網羅することなど、素人の私にはできません. ただブログの独り言なので許して頂くとすれば、 履中天皇に関しては、私は「讃」であると推定しております。 理由も書き出すと恐らく5000字を楽々超えそうなので、最も有力な理由を紹介すれば、 『宋書』に「讃死して弟珍立つ」と書かれてあり、 讃と珍が兄弟天皇であることが分かるからです。 この当時の天皇で、兄弟天皇は、「履中と反正」、そして「安康と雄略」の二組ですが 雄略=武であることがほぼ確定しているとすれば、 仁徳の息子である履中と反正が「讃と珍」になります。 つまり 讃: 履中天皇 (第17代天皇) 珍: 反正天皇 (第18代) 済: 允恭天皇 (第19代) 興: 安康天皇 (第20代) 武: 雄略天皇 (第21代) 歴代天皇を一人も欠くことなく雄略までつなげる点などから 最もオーソドックスでかつ、有力な説であると言えるでしょう。 ただ、宋書によれば、讃が宋へ初めて朝貢したのが413年と分かっています 履中の在位期間と微妙にずれているのが気になる点ではありますが、 記紀に記載されている仁徳天皇の在位期間や年齢がむちゃくちゃであることや、 (142歳、在位86年?!!) 上石津ミサンザイ古墳クラスの巨大古墳の建造には、最低でも15年ほどかかることなどから むしろ履中の在位がわずか6年とは考えにくいと言われています。 仁徳天皇の長期在位期間の不自然さと、履中天皇の短すぎる在位期間の空白を埋めるのが 「内乱」。 古事記には、履中が即位前、同母弟・住吉仲皇子 と内戦となり、 もう一人の弟、反正の力を借りて住吉仲皇子を滅ぼした、記載されています 例によって、古事記では、婚約者(黒媛)を巡る三角関係のもつれが原因としていますが、 これは、皇位継承に対する内戦であるといえるでしょう。 特に注目したいのが、住吉仲皇子(すみのえなかつみこ) 名前の「住吉」からも推察できますように、この皇子は「海人族」の出生と考えられます さらに、住吉仲皇子に加勢した豪族がすべて「海人族」の豪族達で占めらています。 例えば、 阿曇連 ⇒ 彼は筑紫の志賀島の豪族です。海人族の代表格ですね! そして倭直子籠は淡路の海人族・椎根津彦を祖先とする豪族です。 一方、履中天皇に加勢したのは、 漢直の祖である阿知使王、平群氏、そして物部氏です。 彼らはすべて渡来系一族、すなわち、「天孫族」といえるのです。 つまり、履中天皇の即位に際し、 「海人族」と「渡来系一族=天孫族」の代理戦争が勃発し 結果、履中を擁立した渡来系一族が政権を担う時代が到来するのです。 即位した履中が、難波から都を磐余稚桜宮へ置いたのも必然でしょう。 磐余は物部氏の本拠地でした。 この内乱は、家督相続のみならず、制海権の覇権をめぐる争いであったともいえます。 勝利により、海人族から制海権を奪った履中天皇は、 国内外へ即位を宣言するために、宋への朝貢を実行したとも言えます。 驚くべきことに、 履中は「宋書」だけでなく、朝鮮半島の高句麗でもその足跡らしき記述が残されていました。 高句麗では広開土王 の時代です (生年:374年 - 412年 在位:391年 - 412年) ぺヨンジュン氏主演「太王四神記」の主人公・広開土王は 古墳時代の履中の在位期間と同じ時代に生きた英雄なんですよ。 なにやら親近感沸きますね(^^b 高句麗の広開士王碑に 『十年庚子・…新羅の城に至ると、その中に倭が満ちていた』という記述が見られます すなわち、広開土王10年(401年?)に朝鮮半島へ出兵したのは 履中天皇であった可能性があるわけです。 制海権を得て大きな権力を握った倭の大王は、 自己の権力を、国内だけでなく海外へも知らしめるため、巨大な前方後円墳を築いたのでしょうか。 そう考えると、大和国の山里ではなく、海に面した堺エリアに巨大古墳が突如出現したのも 納得できることなのです。 偉大なる伝説の大王・仁徳天皇の影にかくれて存在感の薄〜い大王ではありますが、 海人族との内戦に勝利し、海外へとその活動範囲を拡大した王だったのかもしれません さて今回、詳しくご説明できなかったできなかった・・・ ・「海人族」と「天孫族」 ・「広開士王碑」と倭国 いつになるやら分かりませんが、いずれ別記事にて書いてみたいです。 【注釈】
今流行りの「海人族」と「天孫族」という概念について、 私はかなり有効だと支持する部分も多いと思っています だだし、一部で唱えられているような明確な分類、一族ではなく ゆる〜い共同体みたいな区分けだと私は思っております。 事実、古代の民族移動と融合(混血)は、現代人が想像する以上にダイナミックなものでありました。 |

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悲しいかな、5000文字の壁にぶつかりまして、文字や文章を削って削って、何とかUPできました(涙
今回初めて倭の五王に関する個人的な見解を述べさせていただきました。最近まで仁徳=賛も捨てきれないと迷っていたのですが、『宋書』の編者沈約が史実、真実を徹底的に追究する歴史家であることが大きな要因でしたね。ただしあくまで現時点ですので・・・変節あってもご容赦願います
巨大古墳に遭遇し、古代史ロマンに浸り、謎を推察するのは本当に楽しいです。
2009/2/17(火) 午前 0:04
またしても大作の記事、お疲れ様です! 最初は古墳の紹介記事かな?と思って読んでおりましたら、後半は見事な古代史の推論記事で読み応えがありました。
私も履中天皇の即位期間は、父親である仁徳天皇と比較して短すぎるのは気になっていたのですが、この記事の考察のように解釈すれば、説明がつきますね。個人的見解なのですが、纏向(=大和政権)を作り上げた各地の連合勢力のうち、出雲をはじめとする海人族の勢力の影響力が失われたのはなぜか?と謎に思っていたのはあります。この解釈に従えば、履中天皇と住吉仲皇子(明らかに海人系の名前ですね)の争いによって海人族が駆逐されたと考えることが出来るということで、かなり参考になりました。
あと、仰るとおり天皇陵の問題は、古代史ファンとしてはジレンマに陥りますねー。仁徳陵の世界遺産候補登録問題を進めるためにも、一定の発掘は認めて欲しいのが本音です。
2009/2/17(火) 午前 1:25
じっくり読ませて頂きました。
古代王族の絶大な権力、彼らは何処からきて何処へ行ったのか、興味は尽きませんね。
それにしても、履中天皇が、タムドク(広開士王)と同年代だったとは!!なんか感激ですね。もっとこの時代について知りたくなりました。
2009/2/18(水) 午前 11:30
ちょうど、履中天皇陵へ行った後ですくねさまの武内宿禰の記事を読み、かなり参考になりました!
古代史マニア同士、今後も情報交換、宜しくお願いいたします^^b
住吉大社が海の神様=海人族の守護神であること、そして河内王朝の都とされる難波と近い事など、この時代は海人族がヤマト政権に吸収されていった最終段階の時期ではないでしょうか?
継体期の筑紫の乱が総仕上げとなるのかな・・・?!
出雲に関しては、四隅突出古墳など独自の文化だけでなく、畿内の文化も融合させています。前方後円墳の発掘事例もかなり多ことがその傍証です。国内がほぼ固まり、制海権を握ったヤマト政権が海外へとその目を向けるのは自然だったのでしょう。
古代史は大陸や半島の情勢を鑑みて考察すると新たな視点が発見できて面白いですね。
宮内庁の頭の固さは何なんでしょう?万世一系の思想が崩れても国際社会では何のトラブルもないと思うのですが・・・!?
2009/2/20(金) 午後 4:00
タムドクと履中天皇さんは同世代ですよ〜。
まじ親近感ですよね。
実は高句麗って「天孫思想」の民族なんです。日本のルーツに関わる重要な鍵をタムドク=広開士王から推論できそうで、わくわくしております。
2009/2/20(金) 午後 4:05