ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

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近つ飛鳥博物館で4/25/09〜6/28/08 に開催された

平成21年度春季特別展
「卑弥呼死す 大いに冢をつくる」前方後円墳の成立 


もう3ヶ月以上前に行ってきたのではあるが、
現時点での箸墓や邪馬台国に関する個人的な考えを、総括してみたい。

マニアな長文なのでご容赦の程を・・・


1.卑弥呼と箸墓

『三国志』の「魏書」東夷伝の倭人条(いわゆる魏志倭人伝)に

正始八年(247年)

「卑弥呼以って死す。大いに冢を作ること径百余歩、葬に殉ずる者奴婢百余人なり」

と記述されている。
この記述は魏の外交文書に基づく記述の中にあり、比較的史料価値が高いとされている。

また、『北史』倭国伝に「正始中卑弥呼死す」ともあり、卑弥呼の死が正始八年か、その直後であるのは
間違いないであろう。


昭和初期(1942年)、笠井新也先生は、魏志倭人伝の「径百余歩」の記述から
この径を前方後円墳の主体である円丘部分の大きさであると捉え、
奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓と推察した。
箸墓古墳の後円部は160m、「径百余歩」であるからだ。

イメージ 1


ただし笠井氏の説は、最近まで本流ではなかった。箸墓は三世紀後半の築造だと想定されていたからだ。

しかし、吉備の特殊壷、特殊埴輪の採集や、三角縁神獣鏡の年代研究から
この古墳および周辺墳墓が、三世紀中葉まで遡ることが実証されるようになった。

そして今年に入り、箸墓古墳の周濠底出土の土師器の付着物を炭素年代法/推定値の年輪補正による
較正年代は、いずれも三世紀中葉を示していた。

正始八年(247年)に限りなく近づいてきたのである。

イメージ 2

注)箸墓古墳の付近で出土した土器(写真手前の2点)。これらの付着物で年代が測定された。


箸墓古墳は、同時代の古墳としては、その規模の大きさは抜きん出て巨大である
そして、定型化した大型前方後円墳としては、最も初期に遡り三世紀中葉であることは疑い難い状況となり、そのことからも、箸墓が卑弥呼の墓である可能性は極めて高くなったとされている。

昭和初期の笠井新也氏の「異説」が、現代となり現実味を帯びてきたのだ。


卑弥呼が生きたとされる3世紀は、弥生時代から古墳時代への変革期である。
日本列島では、3世紀中頃から6世紀までに数十万基ともいわれる古墳が造られている

すでに弥生時代後半には一般民衆の墓とは明らかに異なる大型の首長墓が登場し、
日本海沿岸、瀬戸内海沿岸、畿内、東海、関東と、大きく地域ごとにまとまった特徴が
見受けられるようになる。

例えば、四隅突出型墳丘墓、前方後円墳、前方後方墳などの墳丘の形態
特殊器台や鏡などの葬祭用土器などに、地域的な特色が顕著となってくる。

ところが、古墳時代となると、各地域に見られた紛糾の地域別特色が姿を消し
統一された姿となってくる。


具体的に示せば、

前方後円形の2〜3段に築成された墳丘、正円の後円、墳丘斜面の葺石、墳丘平坦部に並べられる埴輪。
埋葬施設については、長大な割竹形木簡を納める竪穴式石室。
副葬品は、三角縁神獣鏡をはじめとする銅鏡。

地方の首長が、一定の秩序の中に組み込まれ
定型化した「大型前方後円墳」が出現するのが、3世紀中葉すぎ、まさに卑弥呼の時代なのである。

平成21年度春季特別展
「卑弥呼死す 大いに冢をつくる」前方後円墳の成立 特別展では、


3世紀中に造営された箸墓古墳をヤマト政権の一つの定点とし、
箸墓以前の墳墓を「墳丘墓」、箸墓以降を「古墳」と位置づけ
そこへいたる過程を古墳や発掘された副葬品を展示しながら検証しようとした試みである。


では、個人的に気になった展示物をご紹介したい。

2. 前方後円墳成立前後の各地の首長墓

 西谷墳墓群(墳丘墓) 島根県出雲市

中国山地から日本海沿岸の多く分布する'四隅突出型墳丘墓
西谷3号墓は、50mx35m 、三世紀前葉に造られた墳丘墓。
埋葬施設も確認された。

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発掘された約200個の土器の中には、吉備地方の特殊土器が多く発見され、
出雲と吉備の活発な交流を裏付ける。

イメージ 4



また全国的にも珍しい「ガラス釧」も発掘され、中国との関係を示す資料となっている。


観音寺山古墳(墳丘墓) 岐阜県美濃市

長良川西岸の観音寺山山頂の前方後方墳。
全長20.5m、三世紀中葉に造られた。

出土した 方格規矩四神鏡は破砕して副葬されていた。


興味深いのは考古学界では美濃=「狗奴国」の中心と推定している場所であること。

魏志倭人伝では、卑弥呼の死の直前、邪馬台国と狗奴国が戦争状態になったと伝えている。


実は、先週の尾張の旅で、「小牧城跡」へ行ったのだが、
頂上に立てられた歴史資料館に、縄文時代から古墳時代までの美濃の古墳や出土物の展示があり
その、素晴らしい副葬品の数々に、美濃エリアが古代より相当の文明を持った地域であったことを
実感したところである。

イメージ 5

イメージ 11


その「狗奴国」美濃から関東にかけて数多く発見されているのが、前方後方墳である。
そしてその前方後方墳が、その後箸墓を基点とする、定型化した大型の前方後円墳の母体であると
推定する説もある。

邪馬台国と狗奴国の戦争が終結し、両国は平和裏に連合した結果、
巨大な前方後円墳を宗教的、政治的秩序の規範とし格付けしたとも推定される。


3.巨大前方後円墳の成立 −隔絶した王の世界−

 箸墓古墳 (奈良市桜井市)

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奈良盆地東南部には、3世紀中葉から4世紀前半にかけて造られた、
多くの巨大前方後円墳がのこされている。

その中で最初に造営された前方後円墳は、箸墓古墳で
同時代、各地域の首長墓と比較すると、その規模と使役された労働力は破格であり
日本において当時最大のものであった。

全長280mとされていたが、近年の周辺調査の結果、
全長290mまで大きくなる可能性が指摘されている。


ただし埋葬施設や副葬品については、
宮内庁指定墳墓のため発掘調査が為されておらず全く不明である

現在、箸墓を知る資料は限られている。
其の中でも注目すべきは、
後円部で、吉備を起源とする特殊壷形埴輪、特殊器台形埴輪が並べて立てられていたこと。
そして
前方部から、東海地方(=狗奴国)の系譜である二重口縁壷が出土していることである。

イメージ 7


つまり箸墓の被葬者(=卑弥呼と推定される)の葬儀儀礼に、
吉備の首長と美濃の首長が関与し参列したと考えられる。

邪馬台国が各地の首長国との戦争の後、連合し、初期ヤマト政権の成立と共に
巨大な権力を掌握したことを物語っているようだ。


黒塚古墳 奈良県天理市

イメージ 8


箸墓古墳の隣駅、柳本で発掘された前方後円墳である。
全長130m、三世紀後葉の造営とされる。

わたしにとって、黒塚古墳は生まれて初めて参加した現地説明会で、
生まれて初めてみた、発掘された古墳埋葬施設、副葬品なのだが、
あのときの衝撃はいまだに忘れられない。

石室内からなんと34面の鏡が出土し、
そのうち33面が三角縁神獣鏡で、残る1面が画文帯神獣鏡であった。

イメージ 9


そして埋葬施設・・・

おびただしい朱に染めらた木棺内、
33枚の三角縁神獣鏡は木棺外に並べられ、すべて鏡面が木棺に向けられていた。

1面だけの画文帯神獣鏡は、よほど重要で大切な鏡であったのだろう、
まるで被葬者を守護するかのうように、頭部側に置いてあった。

イメージ 10

(発掘当時・現地説明会の写真)

このとき、「邪馬台国はここにあった」と直感が走った。
それ以来、邪馬台国畿内説支持者となったのである。


黒塚古墳は、箸墓のまさに近隣である。徒歩20分くらいであろう。
黒塚古墳で大量の鏡が出土したのである、恐らく箸墓にも埋蔵されているのではないか・・・。



ただし、この特別展においては、
邪馬台国東遷説には否定的であった。
最近の研究では、この時期、畿内や吉備の土器が北部九州への移動はみられても
その逆が殆ど認められないため、東遷説で説明できないとの見解である。

この一点のみ、私の持論との相違がある。
記紀の記述などから、大和政権と九州になんらかの関係があるはずなのであるが、
再検討する必要があるようだ。

さて、前述したように、

箸墓古墳と卑弥呼の関係は、「古事記」「日本書紀」の記述から読み取ることもできる。

次回は、記・紀における「四道将軍」の記述などから、
箸墓、そして邪馬台国、卑弥呼の姿を改めて探ってみたい。


【参考】
「卑弥呼死す 大いに冢をつくる」前方後円墳の成立  近つ飛鳥博物館
「西谷墳墓群」 パンフレット 出雲市文化財課




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力はいってますね!いつもながら面白いです。
出雲がチラッと話題になっているので少し質問を。
揚げ足とりみたいですが、純粋に意見をうかがいたいだけなので気を悪くされたらすみません。

出雲の西谷3号墓でも吉備の特殊基台が見つかっているのに、こちらは「活発な交流」で、箸墓の場合は「巨大な権力を掌握」と表現されたのはなぜでしょう?

また、出雲(とくに東部)では古墳時代、前方後方墳が多く作られ方墳に移行していくという方型へ固執する傾向があったようですが、これは地域的特性とはいえないのでしょうか?

2009/8/25(火) 午前 8:36 佐々木斉久

とっても専門的な内容なんだけど、すすっと読めちゃいました。
考古学も科学の進歩で新しい重大な発見が相次いでいるようで、考古学ファンにとっても興奮の連続なのではありませんか?!
次も楽しみにしてます。

2009/8/25(火) 午後 0:02 natumi

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作品だけの知識なので、自然と邪馬台国九州にあるものだと思って
いました

考古学的には圧倒的に畿内説ですね・・・kitanoも最近は畿内説

10年前に原田常治の古代日本正史にはまり、神社考古学から導き
だされた古代史ストーリーにワクワクしました
その中では邪馬台国を沖縄に比定してましたね

ライトな推理作家はギャグ推理「邪馬台国はどこですか?」の中で
15世紀の朝鮮の地図「混一疆理歴代国都之図」の中で、日本列島
が九州から南北逆に書かれている(古代中国の日本観が投影?)
岩手にある邪馬台国は遠いため実際に足を運んでないあたりの記述
が方角・距離ともにあいまいになる(笑)

でも、ハワイ説には太刀打ちできませんね

ゆーママさんは、中国が政治的に「邪馬台国」の朝貢を利用した
という説でしたか?
kitanoは中国をバックにしたぞと威張る邪馬台国卑弥呼がどんな
駆け引きを周辺の国にしたかが興味あります

トコロデ、偽造だと思うけど(明石散人説)志賀島の金印を
偽造したヤツは九州説だったのだろうか?
江戸時代って九州説なのかなー

2009/8/25(火) 午後 10:34 [ kitano ]

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大変面白く読ませて頂きました。
新聞やTVの報道で邪馬台国が奈良盆地にあったらしいと知っていたのですが、そこまでに至る研究のの積み重ねがあったんですね。

それと岐阜が、魏志倭人伝にも登場するような古代国家だったこと、まったく知りませんでした。町おこしに使えないかな?

2009/8/26(水) 午前 10:27 [ NextStage ]

出雲、吉備、そしてヤマト政権の関係については、次回の「四道将軍」のメインテーマなんです。是非次回をお待ちくださいね。

出雲のシンボル四隅突出型が段々と築かれなくなったのは、箸墓の登場以降と合致します。

古墳時代が始まり、各地で統一された「古墳」(前方後方墳や前方後円墳)が築かれはじめ、このころより出雲がヤマト政権へ参入したと想定されます。
地域的特性ではなく、これは九州、吉備、北近畿、北陸でも同様の現象です。出雲で面白いのは、西部と東部で文化の微妙なずれがあることですね。西部は前方後円墳が古墳時代後期に突然現われたりしています。
一方東部は、四隅突出型墳丘墓から前方後方墳へと移行しています。
「古墳」の格付けでは、前方後方墳よりも、前方後円墳のほうが上です。つまり、西部が東部よりも畿内政権への貢献度が高かったとも推測されすのです。長くなるのでこれから先は次回にでも。

とにかく出雲とヤマトの関係は興味がつきません、語りつくせません。まだ、残念ながら四隅突出型墳丘墓のこの目で見ていませんので
いつか必ず訪問したい憧れの場所です。

2009/8/26(水) 午後 11:35 ゆーくんままま

マニアな長文、読了ありがとうございます。
専門的な内容を、どう平易な文章で説明するか、私のブログのモットーなので、判りやすいと言っていただくのは、励みになります。

科学技術と連携することで考古学はこの10年くらいで、様子がすっかり変わりました。邪馬台国と箸墓はその最先端ではないでしょうか。

異端であった畿内説が俄かに脚光を浴びたのは、黒塚古墳で大量の鏡が出土したことが大きな契機であったと思います。
そんな歴史的現場に立ち会えたことに運命を感じました。

2009/8/26(水) 午後 11:41 ゆーくんままま

私も子供の頃は、邪馬台国は九州にあると思っていました。世間もそうです。しかし、ここ10年あまり、科学技術と考古学の連携が、古代史の地図をすっかり変えてしまいました。

邪馬台国論争で、ハワイ説まであったのですね〜。
卑弥呼のフラダンス・・・うけます(^m^)

ところで、志賀島の「漢委奴國王」の金印は、最近、中国の漢時代の古墳から大きさも彫金もそっくりな「兄弟印」が発見され、偽者説は一蹴されているんですよ。
あの金印はいかにもニセモノっぽいですが、実は紛れもない本物なんですよ!
拙文ではありますが、『「漢委奴國王」の謎』、参照願います!

2009/8/26(水) 午後 11:49 ゆーくんままま

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えーと、僕が「地域的特性」といったのは、出雲地方では他地域にくらべ、前方後方墳が廃れてきた古墳時代中庸以後も前方後方墳が作られ続けている、ということなのです。
古墳という墓制を受け入れながらあえて中央とちょっと違うことをしていたのがいろいろ憶測およんでいて、僕が書いたように四隅突出型墳丘墓の流れから方墳にこだわったとか、あるいは蘇我氏との結びつきから方墳になった(蘇我氏の墓といわれる石舞台古墳はもともと方墳だそうですね)とか、まぁいろいろ好き勝手いわれてるわけですが。

出雲地方最大の古墳は山代二子塚古墳という前方後方墳で、出雲国造家(出雲臣一族)の古墳であるとされています。
同時期に出雲西部ではほぼ同規模の今市大念寺古墳(前方後円墳)が作られていて、ゆーくんままさんがおっしゃるように東西で違う勢力が競っていたとされていて、西部は神戸臣一族がおさめていたという説もあるようですが、異論もあって正確なところは分かりません…

ともかく、続きの記事を楽しみにしたいと思います。

2009/8/28(金) 午前 1:20 佐々木斉久

奈良県人として、奈良に邪馬台国があるってのは、なんか自慢したい気分です。山之辺の道から箸墓のあたりの三輪山近辺って、昔ながらの里山で、自然ものこってて癒しのスポットです
卑弥呼と三輪山のオーラパワーがあるんだと思います。

2009/8/28(金) 午前 9:48 remiy

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力作ですね。私は、邪馬台国北部九州説論者ですので、箸墓=卑弥呼の墓には同意しませんけど(苦笑、大和と出雲、吉備、東海の関係については、ほぼ同意見です。
3世紀中葉ごろまでに、この広範な地域を統合した連合政権が大和に誕生したというのは、考古学的にも間違いのないところだと思います。おそらく天皇陵とされる古墳を発掘できれば、そのいくつかは解明されるかと思うと、宮内庁の保護政策は古代史ファンとしては残念極まりないですね・・・。
私の持論では、古代大和の鍵を握るのは、出雲と吉備だと思っているのですが、吉備の特殊祭器が大和に受け継がれているということは、吉備地方の祭祀が大和に受け継がれたということ、大和の指導的役割を握ったのは吉備ではないかと推測しているところであります。
まあ、四隅突出型古墳は、古代史ファンとしては一度見ることをお勧めいたします。やはり現場で見ると感動が違いますよ!

2009/8/31(月) 午前 1:08 すくね

時間をみつけてこつこつと続きを書いていますが、あの説、この文献・・と思考が廻り道をしており、なかなか進みません
とはいえ、「古代史の廻り道推理」はマニアにとって、至福の時間ではあるのですが・・・

2009/9/14(月) 午前 10:03 ゆーくんままま


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