ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

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2011年1月9日

大坂城の山里丸で「秀頼、淀君自刃の碑」に手を合わせた私は
どうしても、あの武将の最期の場所に行きたくなり、早速翌週に出かけていった。


もう9ヶ月前の出来事であるが、
記憶を辿りつつ、キーボードを叩いてみることにする。



真田幸村(信繁)最期の陣地と最期の場所である。



まずは安居神社。

最寄の駅は、谷町線四天王寺前夕陽丘駅

星光学園を越えたあたりを右に曲がり、閑静な住宅地を下って天神坂にでると社が見えてくる。

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安居天神へ通じる坂道なので「天神坂」と呼ばれているそうだ。

安居神社

真田幸村(信繁)最期の場所と伝えられている。

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安居天満宮とも呼ばれている。

創建年は不詳であるが、 四天王寺創建とほぼ同じ頃など多説ある。 当初は少彦名神が祭られいたが、
天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。
菅原道真が太宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたとか。

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天満宮ならではの「牛」

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思ったよりも小さい神社であった。

大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたそうだが、
神社の規模よりも、その背負った歴史の重みが神社の風格となったのであろう。


「真田幸村戦死跡之碑」

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九度山もそうであったが、幸村所縁の史跡には
若い女性が本当に多い。


この日もおそらく関東から訪ねてきたらしい、女子大生グループが手を合わせていた。

「歴女」と一言で揶揄されたくはない、それほど彼女達の目は真剣であった。


境内にある真田幸村公之像

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史実によれば、幸村は色白のポッチャり体型で普段は温和で優しいおじさんだったようだ。

私的には、大河ドラマ『武蔵』で幸村を演じた中村雅俊さんをイメージしている。


幸村が力尽きたといわれる松もあった。

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当時の松ではなく、その子孫だ。



元和元年(1615)5月7日
家康の本陣をおびやかして、あと一歩まで迫りながら家康を討ち果すことができず、
ここ安居神社の境内で、味方の傷ついた兵士を看病し、自身も疲労困憊していたところを襲われ、
越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首を授けた。

享年49歳。


幸村討死の翌日5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害、
太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上。

ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わったのである。


松の根元から空を仰ぎ見た。
幸村が最期に見た同じ空なのかもしれない。


小さな社務所で、真田幸村グッズを購入。
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宮司さんに茶臼山陣へのアクセスを聞き、
ぼちぼち、歩いていくことにした。


途中心眼寺心眼寺 の前を通った。
元和8年(1622)僧、白牟が創建した寺で、真田幸村父子の冥福を願って建立されたお寺とか。


徒歩15分ほど、天王寺公園に到着。
大阪市立美術館裏の古墳跡が目的地である。


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大坂夏の陣における真田幸村公、最期の陣、茶臼山

ちゃぶ池にかかっている「和気橋」を渡る。

延暦7年(788年)に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運のために
上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地なので「和気橋」。

失敗したことで名前が残ってしまった和気清麻呂、涙目だな。


大阪のど真ん中にある、自然豊かな公園から、通天閣がみえた!


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天王寺動物園の喧騒は遠く、訪れる人もまばらで、ゆっくりできる。


茶臼山古墳は、5世紀に地の豪族のために作られた墓といわれ、
大阪市内でも最大級の前方後円墳だが被葬者は不明である。

河内との関係が気になるところだ。



古来より古墳が陣地となるのは常であったが、
茶臼山古墳も例外ではなかった。


慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣であったが、

翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では真田幸村の本陣となったいきさつがある。

茶臼山古戦場跡の案内と陣地図

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こんもりした古墳の頂上へ登る。
残念ながら、ここからは大阪城を見ることはできなかった。

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この陣より、家康本陣へ突き進んだ幸村公の武将たる気概に思いを馳せる。




元和元年(1615)5月6日 

真田幸村(信繁)は茶臼山に布陣した。
茶臼山に真っ赤なのぼりを立てて、赤一色の鎧兜で固め、東には真田大助が控えていた。

毛利勝永、大野治長、明石全登らとともに敵を待ち構え、敵の正面から真田隊が突撃し、
混乱させたところで背後から明石隊が挟撃するという幸村の作戦である。

しかし毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。
さらに士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗する。

真田隊は劣勢に陥った。
正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行することにしたのである。


幸村は死期を察し、嫡男・大助を秀頼の最後を見届けさせるために城に戻し、
正面の松平忠直隊に突撃した(『真武内伝』)。


幸村を先頭に、それぞれ念仏を唱えながら、死に物狂いで突撃して行った

この突撃は真田勢のみではなく、左翼から攻める毛利勝永、明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄、
勝永は本多勢を蹴散らし、何度か本営に突進したといわれる。

真田勢は越前松平勢を突破し、
「今は是までなり。最後のいくさを快くなすべし。」と叫んで家康の本陣まで攻め込んだ。


屈強でしられる徳川の旗本らを追い散らして討ち取り、
旗本でも三里も逃げた者だけが生き残れた(『薩藩旧記雑録』)。


幸村は十文字の槍で家康目がけて三度突撃し、重臣・藤堂高虎も防戦に当たったが、
「御旗本大崩」という有り様であった(『高山公実録』)。

家康本隊は混乱して四散し、最後まで家康を守っていたのは本多正重と金地院崇伝だけだったという。
また、家康は「もはやこれまで」と一時切腹を覚悟したと伝わる(『耶蘇会士日本年報』)。


しかし、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、
幸村も負傷と疲れで動けなくなっていた幸村は、最期の瞬間を迎えるのである。


この日の幸村の戦いは

「真田日本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなく由、惣別これのみ申す事に候」
と島津藩士が手紙に書くほどの猛勇であった。(『薩藩旧記雑録』)。

細川家の記録にも「古今、これなき大手柄」と記されている(『細川家記』)。



忠義のために命を懸けて戦った男のなかで
なぜ、真田幸村は時をこえて多くの人々の心の魅了するのであろうか?

豊臣への忠義、仁義だけでは語れない、幸村の生き様がある。

九度山で不自由な暮らしにあっても、
大坂城に招聘されて一軍の将に抜擢されても、
また、大坂冬の陣で真田丸を築き、徳川を蹴散らしても
大坂夏の陣で、徳川本陣へ決死の突撃を敢行しても


真田幸村の魅力は、不遇にあってもグチも言わず、いつもまっさらに、自分の運命を受け入れ、
その環境下における最高の方策を、さらりと実行してのける、その潔さではないだろうか。


私は真田幸村を思うときいつもイメージするのが、

青い空にぽっかり浮かぶ白い雲・・・である。


最高の理解者であった兄、真田信之が後年、
幸村の人柄について語ったという言葉が伝わっている(『幸村君伝記』)。

「物ごと穏やかにして、我慢の心がある。強がらず、怒ったり腹を立てることもない人物であった。」
 

また、徳川家康は「あの世に行ったら真っ先に酒を酌み交わしたい人物である」とまで評したそうだ。


家康好みの、心がさっぱりとした気持ちの良い武士であったのだ。



史跡巡りの後は
隣接する天王寺動物園へ、

たくさんの動物に出会えて親子で大喜び♪



史跡あり、豊かで静寂な自然あり、動物園ありと・・
このルートはお勧めである。

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豊臣秀吉の息子の豊臣秀頼は、大阪での死が伝えられていますが、豊臣秀頼と真田(幸村)信繁ら一行20人が、薩摩に逃れてきた伝説が鹿児島にあります。

鹿児島市谷山に豊臣秀頼の墓があることや、雪が降らない薩摩半島の南にある頴娃町の雪丸(南九州市頴娃町大字牧之内字雪丸)に真田幸村が住んでいた伝説がある。

豊臣秀頼と真田幸村ら一行が薩摩に逃れてきたため、島津家は一行をひとまず「大根占」(現在の錦江町)に送り何年か暮らしたとこことです。
秀頼の「隠れ里」になったのは、切り立った岸壁に囲まれた鳥ノ巣山の中腹にある「落し」と呼ばれる地区で、落し地区の代々の落司家では、旧正月に、鹿児島市谷山の「秀頼の墓」に参るのが習わし。

真田幸村は、ここからさらに山奥に数百mのところにある「遊喜浦」(ゆきのうら)という地区に住んでいたそうです。
昔の人たちはユキムラと呼んでいたが、遊喜浦と呼ぶようになった。

鳥ノ巣山に行ってみると、真田稲荷神社があります。

2011/12/24(土) 午前 9:43 [ 高砂のPCB汚泥の盛立地浄化 ]

こんにちは!
豊臣秀頼と真田(幸村)信繁ら一行20人が、薩摩に逃れてきた伝説、
知ってますよ!信じたいですね。
上記の情報、詳細までありがとうございます。是非とも薩摩で幸村伝説めぐりをしたいです!

大阪では、家康は幸村に斬られた伝説も根強く、家康の隠れ墓もあるほどです。幸村への思慕、家康への反感は、ある意味、橋下旋風の下地なのかもしれません(^^;

2012/1/4(水) 午後 10:43 ゆーくんままま

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大阪一乱後、薩摩には御大将豊臣内大臣秀頼公を始め、眞田幸村、木村重成、後藤基綱、明石金登、伊木遠雄、北川宣勝等上下一千余人の大阪残党が続々と逃げ來り(鹿児島外史所説)、而して我が頴娃村には大阪方の大立物であつた眞田左衛門幸村が乗り込んで来るし、直ぐお隣の山川町には大阪陣の花形役者木村長門守重成が潜入するししたから猶のこと、新納祐甫は其の取締や何かのため頗る多忙を極めたこだらう

2012/3/24(土) 午後 10:44 [ 今里から美しい日本 ]


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