ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「平清盛」

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48回を観ました。

いつになく、回顧シーンが多かったのは、
主人公である清盛の最期が近づいてきたからでしょうか。

それとも、清盛の「武士の国を作る」という長年の夢が破れ、
替わりに頼朝がその夢を引き継いだ事を暗示させたかったからでしょうか。

とはいえ、清盛はまだ63歳。
平成の63歳は矍鑠として野心も旺盛。

松山ケンイチ君演じる清盛の老体ぶり、弱気な姿をみると
このころから、体調を崩していた設定・・・そんな印象もうけました。

ともかく、激動の治承4年(1180)をご理解頂くためにも、
しつこいですが年表をUPします。

治承4年(1180) 清盛 63歳
2月20日  大輪田泊の修造認可
2月21日  高倉帝攘夷し、院政開始
      安徳、受禅。
3月19日  高倉上皇を福島・厳島へ迎える
4月7日   以仁王令旨
5月15日  以仁王の乱発覚
5月26日  以仁王の乱を鎮圧
6月2日   福原遷都
7月から、飢饉の兆候
8月17日  源頼朝、伊豆で挙兵
9月5日   頼朝の追討宣旨下る
10月19日  富士川合戦 
11月23日  還都
12月23日  南都追討し、南都焼失


治承5年(1181) 清盛 64歳
正月8日  畿内惣官職を設置し、宗盛を補任
正月14日 高倉上皇死去。後白河法皇の院政再開
2月7日  丹波総下司職を設置し、平盛俊を補任。
閏2月4日 九条河原口の平盛国の邸で清盛死去

今回も史実をざ〜〜とご紹介しながら、ドラマの感想を挟み込んでいきたいと思います。


**** 


富士川合戦の大敗から体制を立て直すため、
清盛は新たな宣旨をだし教盛や強盛を派遣するべく協議を重ねていた。
そんな一門に伝わってきたのは、
「遠江以東の15カ国が、草木に至るまで頼朝になびいている」という情報であった。

さらに、宗盛が清盛へ主張した還都(都を戻す)の方向で、事態は動きだしていた。
一度動き出した還都への流れを、さすがの清盛も抗することはできなかったのだ。

皇族、貴族はもとより、都生まれ都育ちの宗盛以下平家一門の殆ども、福原から京へ戻ることを熱望しており、平家一門で還都に反対したのは、平時忠だけだった。


ドラマでは、宗盛が、自身の幼きころからのダメダメエピソードを吐露しつつ
涙ながらに父・清盛へ還都を訴えてた。
兄・小松殿(重盛)に遠く及ばないが、今は還都すべきと父上をお諌めすることが棟梁の仕事だ、と。

私は、「もし重盛が生きていれば、やはり還都を進言したか?」と考えてみた。
いや重盛ならきっと、福原へ遷都することから反対したであろう。

やはり重盛が生きていたなら平氏離れはここまで進んでいなかったろうと、思えてくる。

朝廷や宗盛の熱望だけでなく、清盛が遷都をやむなく決定したのは、
高倉上皇の病気が著しく悪化したことも要因であった。
病に苦しむ高倉上皇は、京へ帰ることを望んでいたのである。

また、山門の勢力が、遷都すれば平氏に敵対しないと表明したことも大きい。

清盛が福原に新造した内裏への安徳天皇の行幸が11月11日にあり、13日に万機の旬、
そして15日には五節が行われ、それを機にして、遷都が定まった。

出来立ての内裏が清盛の最後の栄華であった。

遷都の決定に貴族達は狂喜した。
九条兼実は
「福原に下ってからというもの、神は何も福をもたらさなかった。天変地妖、関東鎮西の乱など災異は
遷都によるものであるから、還都によって、一天の下、四海の中すべての人々に喜びがもたらされる」と『玉葉』に記しているほどだ。

ドラマでは、福原で行われた最後の五節の舞を見ながら、
清盛が福原へたどり着くまでの長かった道のりと
音をたてて崩れてゆく夢の都を思い涙する姿に、私ももらい泣きしそうになった。

清盛が京から移住して10年かけて築き上げた福原の街。
満を持して遷都して、わずか6ヶ月。
人心だけでなく、一門の心までも福原から離れてしまい、孤独の中、
清盛の夢はあっけなく散った。

11月23日、福原を出た天皇、上皇、法皇の一行は26日には京にもどり、
清盛もまた29日には上洛した。

鎌倉で着々と土台を固め、勢力を拡大していく頼朝に対抗すべく、
清盛は、まず畿内の掃討作戦に着手した。

12月2日には、近江へ知盛を、伊賀に資盛、伊勢に藤原清綱をそれぞれ派遣し、
15日までにはすべて平定している。

このあたりの手腕はさすが、であろう。

しかし問題が残った。南都大衆である。

南都は末寺や荘園の武士を総動員して上洛し、朝廷を襲撃する、との報が京に届いた。

清盛は京での完全復権のため、南都追討を果たす決意をする。
延暦寺や三井寺はこれまで何度も追討の対象になっていたが、
南都は今まで直接軍隊が攻めたことのない、いわゆる聖域であった。

天下一の東大寺の伽藍があり、興福寺は藤原氏の氏寺で、古代より朝廷から手厚く保護されていたが、
それだけにこの機を逃せば、再び平家へ害を成すと判断したのである。

12月23日 清盛は南都へ官軍を派遣し、悪徒を捕縛し房舎を焼き払うべしとの命令を下した。
12月25日 平重衡が南都攻めの総大将に任じられる
12月28日 重衡軍は、奈良坂、般若寺の城郭を突破し、南都へ攻め入った

今まで軍に攻められたことのない南都は、大軍になすすべもなく打ち破られ
火がつけられると、折からの強風に煽られ、火は奈良中をなめつくした。

九条兼実の日記「玉葉」には
「興福寺、東大寺以下、堂宇房舎地を払いて焼失す。」と記されている。
恐らく清盛も焼き討ちを命じたとはいえ、これほど甚大な被害を想像はしていなかったろう。

聖武天皇が東大寺創建に発した詔が、予言のように人々の脳裏をかすめた。
「若し我が寺興復せば、天下興復し、我が寺衰弊せば、天下衰弊す。」

12月29日 平重衡が凶徒の首49を長刀につけ、悪法師一人を捕縛して凱旋したとき、
京の貴族、僧侶達は仏罰を恐れ、清盛、重衡、平家一門は、仏敵となってしまったのである。

ドラマでは、南都焼失の報を聞いた清盛が「天は平家を見放した」と嘆く。

ところが、父の命令を完全に遂行したことを誇らしげに報告する重衡に絶句し、
それでも我が子のために、ねぎらいの言葉をかける、気弱な清盛の姿が描かれていた。

その清盛と対比するように、弁慶から「祇園闘乱事件」の顛末を聞いた頼朝が、
自分の進むべき道を見つけていた。

それは、祇園乱闘事件で、清盛は敢えて神輿に矢を射たエピソードであった。
仏法など恐れぬ若き清盛。
「わが力だけが頼りだ。我の放つ矢で腐りきった世の中を変えてみせる。」

しかし武士の心を失った清盛に、その気概はもはや残されていなかったのである。



尚、南都を焼き討ちしたのは、平重衡の他に、
「乱世の梟雄」と呼ばれた戦国武将・松永弾正久秀がいる。
この男、敢えて東大寺を焼き討ちしている、とんでもない武将だが、私はかなり好きである。

お時間あれば拙文を・・・
『松永弾正久秀〜乱世の梟雄〜』 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/37381895.html


いよいよ次回、後白河法皇が登場のようですね。
しかもタイトルが「双六が終わるとき」・・・

松山ケンイチ君と松田翔太君の「双六遊び」の結末を、観させて頂きます。

最終回放送まであと3日。間にあうか・・?!

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島根県の安来は古事記では根之堅洲国というところでスサノオの活躍地ですね。正確には十神島根之堅洲国となりますが長いので古事記では省略されています。この省略された、十神島というのは出雲国風土記では砥神島という陸繋島であったであろう現在の安来市の十神山です。この島は安来市のシンボルと見いわれ、きれいな円錐形をした小山ですが、古代の人たちの崇敬の島だったらしいです。この十神というのはイザナギ・イザナミを含むそれ以前の時代を、神世といってその後の神代の時代と分けて表現されますが、神世七代には十の神がおりそれからつけられた神聖な島だったのだと思われます。ここがオノゴロ(淤能碁呂)島と考えると、近くにイザナミの神陵地もあることから合理的なのではと思われます。

2013/1/1(火) 午後 10:47 [ 根の国探検者 ]


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