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八重の桜 第20回「開戦!鳥羽伏見」・・・ 大好きな尚之助さんが登場しないため、どうしても感想を書く気になれず、 それならばと、個人的な史観をふまえ「鳥羽・伏見の戦い」と会津藩兵、 特に林権助についてフリーに書いてみたい。 徳川慶喜が薩摩の横暴と挑発に業を煮やし、 「討薩表」を奉じて入京し、明治天皇に直訴することを決意するまでの経緯は 前回の感想を参照いただきたい。 慶応4(1868)年元日、慶喜は討薩表を発し、 1月2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で大坂城から出兵を開始した。 慶喜は正月一日に陣容を発表している。実に迅速であり、慶喜の非凡さが分かる。 (ただし結局は何もかもが中途半端なのだが・・) 老中格・大河内正質を総督とし、若年寄並・塚原但馬守昌義を副総督とし 旧幕府軍が主力となり、正月二日には大坂城を出立した。 約15,000名を擁する布陣は完璧で、京を守護する新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)を数で圧倒していた。 会津藩兵の主力部隊を下記に列挙する。 家老・田中土佐隊 130人余 番頭・上田八郎右衛門隊 130人余 番頭・生駒五兵衛隊 130人余 番頭・堀藩右衛門対 130人余 大砲奉行・林権助大砲隊 131人 砲4門 大砲奉行・白井五郎太隊 130人 砲3門 佐川官兵衛率いる 別選隊 70人余 土方歳三率いる 新選組 150人余 幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだのである。 出陣にあたり徳川慶喜は「こちらから手を出してはならぬ。」と全軍に布告していた。 しかし薩長を主力とした新政府軍は、洛中警護と称して京近辺に関門を設け、 旧幕府軍との小競り合いは避けられない状況となった。 新政府軍は、伏見街道守護のために本営を大仏東福寺に置き、 鳥羽街道守護のためには、本営を東寺に置き、旧幕府軍との戦に備えていた。 戦の火蓋が切られたのは、鳥羽街道である。 まさに「一発の銃声」で戦争は始まるのだ。 薩摩本営の東寺の西から二丁、西国街道と鳥羽街道が交差する四つ塚に、 薩摩を主力として、長州、土佐の三藩連携の関門があり、 旧幕府軍・大目付滝川播磨守具挙軍の入京を拒否した。 ちなみに、佐々木只三郎率いる京都見廻組(約200人)も大目付の護衛役として隊に加わっていた。 滝川具挙は、慶喜の「手をだすな。」という布告もあり、小枝村まで一旦退いた。 しかし薩長土軍は小枝付近まで進軍し、砲門も曳きだしてきた。 そして鳥羽街道に砲弾が炸裂した。 慶応4年(1868)正月3日 申ノ下刻、鳥羽伏見の戦いが始まったのである。 薩長、旧幕府軍、どちらの不意打ちであったのか、様々な証言がありはっきりはしない。 激しい戦闘が開始され、佐々木只三郎ら見廻組の奮戦もあり一進一退の攻防となったが、 薩長の新式鉄砲が威力を発揮した。 鳥羽ミニエーと後世呼ばれる英国製ミニエーやスナイドル銃など、 連発してくる新式鉄砲は、旧幕府軍のゲベール、旧式ミニエー、カラベインと比べて 操作の簡易性と命中精度の相違で、1発と10発の違いがあったという。 (旧幕府軍が1発撃つ間に、新政府軍は10発連射した計算になる) さらに新政府軍の新式大砲は、四片山砲で1000メートルの有効射程を誇っていた。 鳥羽の戦が引き金となり、伏見でも緒戦が開かれるのであるが、 結局銃器の違いが、戦況を決める事となる・・・ 正月2日、会津藩兵300余名が先鋒として淀川を船で遡行して、伏見京橋付近に上陸し 伏見奉行所に入っていった。 そしてその後も会津や諸藩の後続部隊が続々と上陸し、その数は3000人余に達したという。 「会津来る!」の急報に、西郷や岩倉は御所で緊急会議を開いた。 そして鳥羽で戦が始まる前から「徳川慶喜を朝敵とする」決議がなされていたのである。 さらに、嘉彰親王を軍事総裁とし、翌4日には、嘉彰親王を征夷大将軍として 錦旗と節刀を賜り、西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任命するという手回しのよさであった。 すでに錦の御旗は用意され、旧幕府軍と会津藩への罠は仕掛けられていたのである。 陰謀の天才、岩倉具視の真骨頂であろう。 一方伏見に陣した会津藩の先駆けは、大砲奉行・林権助の率いる大砲隊であった。 林権助はこの時63歳。ドラマの通り、山本覚馬の才能を見出した人物である。 林権助隊の組頭は、中沢常左衛門、佐藤織之進、小原宇右衛門、3名、 士分71名、徒歩 27名、足軽27名、目付、徒目付、医師ら、総勢131名であった。 大砲3門を曳いて伏見奉行所にて後続部隊を待っていた。 さらに白井五郎太夫の大砲隊 130名も大砲3門を曳いて、京橋湖畔に陣取っていた。 白井隊は全員白足袋を履いており、白足袋隊と呼ばれていた。 運命の1月3日午後、林権助は京に向けて伏見街道を進発した。 伏見奉行所の北に差し掛かったとき、鳥羽で砲声が鳴り響いた。 竜雲寺高地に陣を張る伏見総指揮の薩摩軍隊長・島津式部は、その砲声を聞くや否や、 発砲命令を下した。 未の下刻(午後2時半ごろ)であったという。 伏見奉行所が砲弾に揺れた。 林権助も直ぐに砲門を開き、反撃に転じた。 薩摩軍と会津軍の距離は約20メートル。 砲弾に加え、薩摩のスナイデル銃弾が雨あられと会津藩に射撃された。 薩摩藩は建物に拠って攻撃するが、会津藩は進軍の途中でしかも狭い路地で むき出しの場所におり、敵の格好の照準となってしまった。 このままでは全滅する、と後続の生駒隊に援軍を求めたが、 生駒五兵衛は会津の頑固さからか、田中土佐の命ではないため援軍は出せないと断わってきた。 林権助は孤立無援の部隊を励まし、槍で応戦した。 激しい銃弾のなか、槍を持して突っ込んでくる会津兵に、薩摩兵は驚愕した。 その直後、佐川官兵衛が別選隊70名を率いて駆けつけてきた。 鬼官兵衛の異名をもつ佐川は、隊長番頭格兼学校奉行。 林権助の窮地を捨てては置けなかったのだ。 さらに、土方歳三率いる新選組120名も駆けつけた。 この戦で、山崎烝、池田小三郎、鈴木直人など10人が討死している。 浜田藩の伊藤梓ら40人も援軍に駆けつけた。彼らは銃器を持っていなかったが、 林権助に「槍隊に加えて欲しい」と願い出たのだ。 林権助は大砲奉行であったが、その前に武士であったのだ。 しかし、薩摩の新式銃は容赦なく彼らを倒し、林権助もその標的となった。 3発の銃弾をくらい、担架で後方へ運ばれた。 多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返す会津兵に退却の命令が来たのは深夜、子の刻であった。 尚、林権助は、手遅れだとモルヒネ(痛み止め)を拒否し、江戸への海路の途中に息果てた。 そして翌正月4日朝、錦旗が翻った。 早朝8時ごろ、美しく凛々しく甲冑に身を纏った仁和寺嘉彰親王総督宮が御所を進発した。 山口合之進が騎馬で先導し、薩摩藩歩兵小隊、東久世少将、烏丸侍従が馬上で並び、 錦の御旗、そして嘉彰親王総督宮が馬上で進み、鼓手数人、芸州藩歩兵が続く。 そして東寺の新政府軍本陣に到着すると、長州藩も随行し、 さらに後藤象二郎、福岡貢、三岡八郎(由利公正)などかつて公武合体や大政奉還で尽力した 旧幕府要人も鳥羽伏見へと供をしている。 錦旗の効果は絶大であった。新政府軍は官軍となり、旧幕府軍は賊軍・朝敵となってしまったからだ。 賊軍の立場とされてしまった江戸幕府側に非常に大きな打撃を与え、次々と寝返り、恭順の意を示す藩が続出したのである。 これは私の考えであるが、錦旗を翻したのは西郷隆盛の願いもあったと思う。 私は、西郷どんをとても尊敬している。 後に西南戦争を引き起こしてしまったように、西郷隆盛は士道を尊び、誠実な人物を無条件で認めた。 部下思いの西郷隆盛は、正月3日の激しい戦闘の後の深夜、鳥羽伏見に視察へ訪れ、 戦況をつぶさに見ている。 そして、圧倒的な銃器の差により、この戦が新政府軍の勝利となることを、読みきったはずだ。 これ以上、新政府軍、そして旧幕府軍ともに、無駄死を避けるためにも、 錦の御旗を掲げることで、旧幕府軍、とくに尊王の篤い会津藩に、 これ以上無駄な命を落とさないように、と恭順するよう、メッセージを送ったのではないだろうか? その証拠に、会津とともに朝敵の落胤を押された桑名藩は、 藩主が不在の間に恭順の姿勢をしめし、無条件で開城したため、桑名城下での戦闘は避けられた。 さらに、江戸城無血開城も、勝海舟との交渉の後、西郷の一存で決定された。 例えば、土佐の乾退助が板垣退助に改名したのも、乾家が武田信玄の腹心、武田四天王の一人 板垣信方の末裔だから、甲信地方で恭順させやすいだろうという考えの許だ。 徳川慶喜も恭順の意を示したことで命ばかりか、徳川宗家の存続も認められたし、 会津の松平容保公も、若松城開城謹慎の後、命も許され新しい職務を与えられている。 また新選組の近藤勇についても薩摩藩は命を助けてもいいと思っていた節がある。 坂本龍馬を暗殺したのが新選組だと妄信した土佐の激しい主張の前に、折れてしまった。 そしてそのような錦の御旗に込められたメッセージを、はっきり受け取ったのが 神保修理であったと思う。 神保内蔵助の長男で軍事奉行添役。 若くして容保の御側に召された、会津藩きっての切れものであった。 修理は散々たる敗戦と錦の御旗をその眼でみて、 容保のみならず、徳川慶喜にも進言した。 「薩摩とて何も好んで戦をしたがるわけではない。」 「賊軍となる前に、恭順の意をしめし、御家を守るべきだ。」と そして神保修理の見解こそ正しかったのだ。 鳥羽伏見の緒戦での戦死者は、 新政府軍約110名、旧幕府軍は約250人であった。 旧幕府軍の敗北である。 しかし、戊辰戦争が長引くにつれ、旧幕府軍の死傷者は桁違いとなる とくに会津藩は悲惨極まりない。 恭順=屈辱ではない。 銃器の圧倒的な違いに加え、賊軍の落胤を押されて、どう勝てるのか? 特に四方を山に囲まれた会津に、勝機は薄いのである。 軍略に長けた土方歳三が、会津ではなく、函館の五稜郭に向ったのも、 榎本武揚率いる最強の軍艦があったからだろう。 そして山本覚馬も、神保修理と同じ恭順派であった。 京の会津屋敷に留まっていた覚馬は、1月4日に仁和寺嘉彰親王が朝廷から錦旗を受けたのを知ると 「会津は誤解されたまま賊軍になってしまう!」と藩軍を説得し、戦争をやめさせるために 伏見へ向かったものの、敵兵に阻まれて動けない。 それならばと単独で京へ戻り、朝廷に敵意がないことを釈明しようと山科に入ったところを 薩摩の巡視兵に見つかり、薩摩藩邸で幽閉の身となるのだ。 しかし西郷隆盛がその人材を見抜き薩摩藩邸内で、明治維新を迎えることとなる。 それにしても、(ドラマの話ではありますが・・・ もし会津藩が、覚馬の提言を受け入れ、尚之助さんと八重の開発した新式銃を取り入れていたなら、 会津がこれほどの敗戦を帰することもなかったかもしれませんし、 無駄死にと分かった泥沼の戦いに自らはまり込んでいくこともなかったのかもしれません。 参考: 「会津士魂」 早乙女貢先生
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歴史の扉 幕末
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こんばんは。21回は尚之助さん出てましたけど
重苦しい雰囲気でした。そして辛い21回でした。
ネタバレしますが容保公にとって人生で一番辛い
決断だったでしょうね。
”幕末のジャンヌダルク”なんて呼ばれていますが
八重さんも戦争の犠牲者なんですよね・・・。
坂本龍馬が番組の解説の部分で出てきてました。
本編で出して欲しかったです。
>鳥羽の戦が引き金となり、伏見でも緒戦が開かれるのであるが、
結局銃器の違いが、戦況を決める事となる・・・
>もし会津藩が、覚馬の提言を受け入れ、尚之助さんと八重の開発し た新式銃を取り入れていたなら、
会津がこれほどの敗戦を帰することもなかったかもしれませんし、
無駄死にと分かった泥沼の戦いに自らはまり込んでいくこともなか ったのかもしれません。
尚之助さんのように会津戦争が起こると予測できていたら
こんな悲劇は起こらなかったかもしれませんね・・・。
そう考えたら尚之助さんってすごいですね。
2013/5/27(月) 午後 7:59 [ otubotyan ]
こんにちは(^^)/
21回まだ観てないのですが、回を重ねる毎に、会津の山本家が、暗くなっていくのでしょう…
尚之助さんの出演回数もカウントダウンが始まり、ため息がでます、
今回は綾野容保公の渾身の演技が楽しみです。小泉慶喜との殿様対決は緊張感と華やかさがあり、毎回ツボでした。
二人の演技対決もそろそろ終盤、こちらも寂しいです…
2013/5/28(火) 午後 10:32
こんばんは。
関連記事から来ました。
明治維新は思惑とは随分外れますね。ポチ
2013/6/3(月) 午後 7:19
こんにちは!明治維新は、西郷さんの描いた理想国家像とずれてきましたが、その道筋を作ったのが盟友・大久保利通だったってことが歴史の皮肉ですよね。大久保の構築した官僚制度は功罪あれどやはりすごいです。
2013/6/4(火) 午後 1:35