ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

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『真田丸』もあと4回を残すのみ・・・

大坂夏の陣が迫ってきており、すでにロス状態です

皆さまもご存じのように夏の陣は、豊臣方の滅亡、悲劇へのカウントダウン。
ドラマの大坂城内の面々の最期の時が迫っております。

堺雅人さん演じる幸村はもとより、
五人衆も牢人たちも秀頼や秀頼側近たちのチームワークも素晴らしく
このキャストのまま、あと20回はドラマを描けるのではないかと思えるほど
見事なはまり具合♡

ブログで書く時間も限られてきており、
今回は、大坂城に立て籠もった五人衆のうち、後藤又兵衛と毛利勝永の遺品を紹介しつつ
ネタバレにもなりますが、その最期にも触れていきたいと思います。


まずは、
後藤又兵衛 所用と伝わる甲冑。
(1560〜1615)
日月竜文蒔絵仏胴具足
(京都井伊美術館保管)

イメージ 1

このブログでも何度か取り上げたが、
10年前の平成18年に開催された「真田幸村展」を見に行ったときに
この具足も特別展示されており、
観たとたんに、電気が走ったようなオーラを感じ、ものすごく感動した具足だ。
今でも青黒く光るその姿を思い出すことができる。

後藤又兵衛という武将の、すさまじい気迫が乗り移ったかのようだった。
おそらくその人物自身も、廻りを圧倒する迫力ある人物であったのだろう。

大河ドラマ『軍師官兵衛』でも重要な人物として描かれていたが(速水もこみちさん)
黒田官兵衛だからこそ、この規格外の男を扱えたのではないか、と想像できる。

後藤又兵衛(基次 1560〜1615)
黒田官兵衛とその子、長政に仕えた重臣で黒田24騎の一人である。
朝鮮出兵や関ヶ原合戦で武功をあげ、黒田家で1万6千石を領した重臣であった。
しかし官兵衛死去後、黒田長政と対立して脱藩。
浪人時代に、福島正則から3万石で勧誘されたほどの大物武将であったが、
黒田長政からの根回しで、なかなか士官が叶わず、一時京で乞食のような暮らしも強いられたと言われている。
大坂の陣で豊臣方に馳せ参じ、歴戦の大物武将として五人衆の一人となった。

その最期も壮絶であった。
慶長20年(1615)5月6日、
夏の陣における、『道明寺合戦』において、真田幸村(信繁)、毛利勝永軍の来援が遅れたため
自身の兵でのみ徳川の大軍に立ち向かわなければならず、獅子奮迅の奮戦ののち、討ち死にした。
後藤軍18000 VS 徳川軍 34000 であった。
豊臣方遅延の理由は、濃霧のためと言われている。
道明寺合戦における後藤又兵衛の奮戦は、真田幸村同様徳川方大名からも称賛されている。

先日、後藤又兵衛の最期を伝える書状が見つかった。

「後藤又兵衛 討死」詳細に 秀頼へ報告、部下がメモ 大坂の陣


 岡山県立博物館(岡山市北区)は17日、大坂の陣で活躍した戦国武将、後藤又兵衛(基次)の討ち死にの場面を主君・豊臣秀頼に報告する書付が見つかったと発表した。真田幸村とともに豊臣方として戦った又兵衛の新たな資料として注目を集めそうだ。

資料は「書付『後藤又兵衛討死之時』」。又兵衛の配下で戦った武将、金万平右衛門(こんまへいえもん)の子孫宅(京都府内)に残されているのを今年6月末に同館が確認し、調査していた。

又兵衛が討ち死にした際、金万らが秀頼から拝領した脇差し行光で首を討ったことや又兵衛の指物(刀)「かえり半月」の片折れを秀頼に差し上げたなどの記述が見られるという。



  
同館の内池英樹主幹は「秀頼に又兵衛の死を報告する場面を示す資料はこれまでなかった。秀頼が又兵衛を信頼していた証しと見ることができる」と評価。又兵衛研究に取り組む福田千鶴・九州大教授は「金万平右衛門自身、もしくは子孫が記した記録であり、大坂方の希少な記録だ」と話している。

***********
秀頼から拝領した脇差での『行光』で首を討った・・等
又兵衛の最期の描写がリアルに報告されている。

じつに武士らしく見事な散りきわではないか。
ドラマで哀川翔さん演じる又兵衛は、「死に場所を求めて」大坂城に入ったものの、
秀頼や幸村、五人衆らとの連帯感や友情をきっかけに、
秀頼のために戦うことを生きる目的として、次第に快活になっている。

敗色の濃い道明寺合戦にあっても、仲間である幸村や毛利勝永の遅延を恨んだりせず、
堂々と武士らしく最後まであきらめずに戦ったであっただろう。
秀頼拝領の脇差で最期を遂げたことが、その熱い心情を物語っている。

尚、又兵衛討ち死にの地として、大阪府柏原市の玉手川公園内に、
『後藤又兵衛基次之碑』が建立されている。 享年55歳。


毛利勝永
(1578〜1615)
大坂夏の陣で、毛利勝永隊が所用した旗印。
切裂靡御指物  
(毛利吉江氏寄贈 大坂城天守閣蔵)

イメージ 3

毛利勝永隊に配属された秀頼の馬廻り衆所用と伝わる。
毛利勝永もまた、秀頼からの信任が厚かったことがこの旗印の云われからもわかる。

毛利勝永は、真田幸村と境遇が似ている。
父・毛利勝信は、豊前小倉城主であったが、関ヶ原合戦で石田三成に味方したため
戦後領地を失い、嫡子 勝永 と共に土佐藩山内家に預けられ、高知県北部の久万村で生活をした。
父勝信は慶長16年(1611)に土佐で病没している。
慶長19年、豊臣秀頼の招きを受けて、長男 勝家とともに配所先を脱出して大坂城に入った。

実に境遇が似通っていますよね。
そのこともあって勝永と幸村は、気もあったようで、大坂城内でも共に行動することが多かったそうだ。


尚、土佐脱出に際し、
山内家には、「藩主・山内忠義とは衆道の間柄故、共に徳川方で働きたい。」と説明したそうだ。
衆道が理由なる、そういう時代であった。
そして嫡子毛利勝家と次男鶴千代を人質に出すと頼みこんだ。
実際は、嫡子勝家とともに、配流先を脱出している。

「真田丸紀行」でも取り上げられていたが、
大坂方へ付きたいが、そのため妻子に難儀が降りかかることを恐れて涙する勝永に、
妻が「残るものが心配ならば私たちは波に沈み命を絶ちましょう」と励ました。

徳川家康はこの話を聞きいたく感銘を受け、
土佐に残された妻子を処罰してはならぬと山内家に命じ、妻子は土佐城内にて保護されたという。

大坂夏の陣、道明寺合戦で、真田幸村隊と毛利勝永隊は
先に述べたように、濃霧のため遅延し、後藤又兵衛の後詰に間に合わず
又兵衛は討ち死にしてしまう。

遅れて合流した幸村は、又兵衛を救えなかったことを恥じ、豊臣家の武運も尽きたと嘆き
その場で討ち死にを覚悟した。

そんな幸村に「ここで討ち死にしては益がない。願わくば右大臣様(秀頼)の馬前で
華々しく死のうではないか。」と励ました。

おそらくドラマでも重要なシーンとなるはずだ。
岡本健一さん演じる勝永の、前向きで明るくさっぱりとした性格は、
史実の勝永にとてもよく似ていると思う。

そして勝永は、又兵衛の残軍を素早く収容し、
自分の隊から選んだ鉄砲隊を殿(しんがり)に配して、自分は本軍を率い、大坂城へと撤退した。

そして翌日の5月7日、大坂夏の陣の最終決戦において、
幸村の陣取る茶臼山の東にある四天王寺門前に陣をしいた。

ここは、徳川本陣の正面にあたる。
勝永は4千の兵を率いて、徳川軍と激突。
本多忠朝や、小笠原秀政、忠脩父子を打ち取った。
さらに徳川精鋭部隊である本多忠純、酒井家次、浅野長重隊などを次々と撃破、
徳川家康本陣に突入するという凄まじい活躍をみせた。
しかし、真田隊が破れて四方から徳川軍の大軍に囲まれたため
撤退を決意。
井伊直孝や細川忠興らの軍を退けて、大坂城内へと戻った。
翌日の5月8日、大坂城にて、秀頼の介錯を行った後に、息子の毛利勝家らとともに
蘆田矢倉で自害したという。 享年37歳。

幸村同様、大坂の陣でその武名と器が評価された武将である。
家康もその命を惜しんだことであろう。

尚、土佐城にて保護されていた毛利勝永の妻子3名は、
家康の命令で京に護送された。
息子の鶴千代は成敗されたが、妻と娘は助命されて土佐に返された。


『真田丸』 大坂夏の陣を描く最終回は、
タイトルなしの無題だそうだ。
視聴者の皆さんでつけてほしいとのディレクターの言葉があり、
堺雅人さんは「笑顔」とつけたいとおっしゃったらしい。

五人衆や木村重成らの最期も、笑顔であれ、と願うばかりだ。





閉じる コメント(4)

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昌幸ロスの次は幸村ロス・・・。
今年は本当に最高の大河ドラマでした。
幸村様にどっぷりハマり、ゆかりの地
を巡ったりもしました、大阪だけですが。
もちろん幸村ロードも行きました。
そして携帯の待ち受けには三光神社で撮った
幸村様の銅像。
しかし幸村ロードの望月六郎・・・何かがおかしい。

来年の大河、どうなるのでしょうか?
直虎さんがいなかったらあの”井伊の赤鬼”も
きっといなかったんですよね。
個人的にはどうやって井伊の赤鬼に育て上げた
のかが気になります。

2016/11/27(日) 午後 7:39 [ otubotyan ]

幸村ロスですね。
寂しすぎて、最終回が近くなるにつれ、
録画を見るペースも遅くなってきました。
仕事か多忙なのもあるのですが、実はまだ反撃の回も観ていません。
最期が近い現実を受け入れられないのかも…( ; ; )

2016/12/2(金) 午後 11:41 ゆーくんままま

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今年は”幸”村様のおかげで”幸”せな一年を
送る事ができました。
何がきっかけなのかが分かりませんが
気が付いたら日本史にはまって・・・20数年。
ドラマは終わってしまうけど幸村様はこれからも
人々に幸せにしてくれると思いますよ。
江戸時代の人々も真田十勇士の話聞いてる時幸せだった
のでは?
自分は周囲の人間より歴史上の人物達に支えられて
今まで生きてこれたようなものですから、
日本史という生涯の趣味に出会えた事に感謝して
います。
来月も天王寺に行く予定があるので幸村様に
お礼を言いに行かなくては。
来年は彦根城、ひこにゃんが燃えるんでしょうね。

2016/12/3(土) 午後 10:09 [ otubotyan ]

本当に、幸な一年でした!
昌幸、幸村の無茶振りにワクワクしっぱなしでしたね!

2016/12/8(木) 午後 8:59 ゆーくんままま


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