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天璋院や小松帯刀さんの「戦争回避」の願いもむなしく、 慶応4年(1868年)1月3日、旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍の戦が勃発します。 「辞官納地」という新政府からの要求に騒然とする勢力(会津など)を牽制する意図もあり 徳川慶喜は二条城から大阪城へ退去しました。 つまり政治が行われている京都からの撤退を意味したのです。 これで一旦は旧幕府と薩長の戦は回避されたかに見えました。 しかし、慶喜の変節癖は治りません。 大阪入城後、すぐに慶喜は「薩摩討伐」の上表を朝廷に提出する目的と表し、 京都への出兵を決断したのです。 いよいよ、薩長との大合戦だと、旧幕府軍の士気は高かったと想像できます まず主力の旧幕府歩兵隊は鳥羽街道を京へ向かい、 会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進みました。 そして1月3日の夕方、鳥羽街道を封鎖していた薩摩軍と小競り合いがあり 鳥羽の銃声を聞いた伏見でも内戦が始まったのでした。 旧幕府軍15000人、薩長の新政府軍はわずかに5000人。 軍事力では圧倒的に旧幕府軍が優勢でした。 しかし、恐るべき岩倉の陰謀で形勢が逆転するのです。 「錦の御旗」の登場です。 1月5日、明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え、このときから新政府軍が官軍となり
官軍への謀反を起こした旧幕府軍は、「朝敵」となってしまったのでした。 錦の御旗の効果もあったでしょうが、 新装備を誇る薩長軍の統制の取れた攻撃に、 旧幕府軍は、古めかしい鉄砲や武器でしか応戦できません。 新選組の井上源三郎(源さん)や山崎烝、そして京都見廻組の佐々木只三郎さんが討ち死にした ・・・あの内戦です。 三谷幸喜さんの「新選組!」でのあの場面、この場面を思い浮かべる人も多いでしょう。 そして、 鳥羽伏見で合戦の火蓋がきられたわずか4日後、慶応4年(1868年)1月7日の深夜 徳川慶喜の大阪城脱出劇が起こってしまうのです。 この慶喜の敵前逃亡、夜逃げは いまだに明確な理由は分かりません。 明治を生き抜き、大正2年まで長生きした慶喜が、何故かこの件について黙しているからです。 ただ、史実として残されたのは、旧幕府軍の敗北という事実。 数に勝るはずの旧幕府軍は、 錦の御旗、そして慶喜脱出の情報に戦意を失いぼろぼろに打ち負かされます。 そして朝敵となったまま、多くの命が失われ、 戊辰戦争への泥沼へ入り込むことになるのでした。 江戸城は、慶喜が帰還したとの知らせに愕然とします。 ドラマのように江戸へ帰還した慶喜が、「浜の御殿」で勝海舟と面会したのは事実です。 勝と慶喜公はそりが合わず、敵対していた時期もあったのですが、 勝海舟のすごいところは、過去のいきさつをすべて水に流し 直参旗本として慶喜と徳川家を守ることを決意し実行する事なのです。 ドラマに戻りましょう。 北大路欣也さん演じる勝安房守は 「まず天璋院様にお会いください」と慶喜に伝えます 実質江戸城の表も大奥を取り仕切っているのが、大御台所であると勝は分かっていたのです 私はこの話、真実の可能性あり、と感じました。 真実、それほどの影響力を天璋院彼は持っていました。 堺雅人さん演じる家定公がよく口にしていたように 「そなたが男であったならな」・・・なのです。 彼女の精力的な行動と政治手腕は、 この当時、へなちょこな幕臣たちよりもずっと肝が据わって手際もいいです。 慶喜と面会した天璋院は、しぶしぶ頭を下げる慶喜の、 「朝敵になるくらいなら、命を捨ててでも名誉を守りたい」という本心を見抜き しかし、将軍としてその責任をもって守るべきもののため 「生き恥をさらしなさい」と叱咤します。 そして、静寛院(和宮)への面会も段取りします。 それは、朝敵となった幕府、そして徳川家を救えるのは、 天皇家から降嫁してきた彼女しかいないと判断しての行動でした。 静寛院は「母上さまのためなら」と 朝廷へ嘆願書を書くことを約束し、慶喜に一縷の希望をもたせたのです。 これは事実なんです。 史実で、静寛院(和宮)は、慶喜を酷く嫌い、面会を拒否していました。 しかし、天璋院のとりなしで面会できたのでした。 会談も至極有益なものであったようです。 あの暴慢不遜でプライドの高い慶喜公が、静寛院への感謝の気持ちを綴った手紙が残されています。 そして慶喜は、勝海舟に事態収拾を一任し、 自らは上野寛永寺大慈院において謹慎します。 また徳川宗家の家督は養子・田安亀之助に譲り、恭順の意をひたすら示したのでした。 以上がドラマの展開でした。 皆様はどうご覧になりましたか? 確かにドラマとしてよく出来ていたと思いましたが・・・ 私の・・・素直な感想といえば。 「それでも慶喜公の夜逃げは許せない」 ・・・・なのでした! 朝敵となることにショックを受けて敵前逃亡したという本音を語っていましたね。 確かに、水戸弘道館で「尊皇」教育を受けてきたことがトラウマになったというのは理解できます。 ただし、尊皇」教育に洗脳された割りには、慶喜の行動は「変節」「二枚舌」過ぎました。 もし本当に「尊皇」の思い篤ければ、 第2次長州征伐で「勅命」を受けながらも兵を解散などできないでしょう また、「外国嫌い」の孝明天皇の意に逆らい、「神戸開港」を勝手に承諾など出来るでしょうか? そして更に言えば、「辞官納地」も朝議できまった「勅命」です。 結局、慶喜の変節癖が天皇や公家の信頼をも失い、 「朝敵」の烙印を押されるはめとなったのでした。 そもそも幕府における将軍職とは、武家の棟梁であるはずです。 古代史に精通している水戸弘道館の英才なれば、その意味を充分理解していなければいけません。 旗本や直参の生活も、そして大奥も守らねばならないのです 思うに、才能だけ先走り、結局最後の決断ができなかった器の将軍だったと思わざるを得ません。 もし家茂公が存命であれば、間違いなく幕末の幕引きは違ったものになったでしょう。 最後の将軍としての責任を果たそうと奮戦したと思うのです 結局、徳川家への忠誠の篤い臣下の多くは、 振り上げたこぶしの落とし処がなくなり、 武家の意地のために鳥羽伏見、戊辰戦争で多く命を失いました。そう思うと 儚く、悲しくなるのです。 でも、ドラマで天璋院が 「ペリー以来の騒乱の日本で天下人の重責の孤独を知っているのは、 家定様、家茂様、そしてあなただけです。ご苦労様でした・・」 という台詞はとても良かったです。 慶喜公も、一生懸命重責を果たそうと努力したのです。 それだけは、理解してあげなければ・・・・ と、少し反省した次第です。 ところで、すくねさんから、慶喜の人格を育成した水戸弘道館についての興味深いコメントを 前回頂きました。 (すくねさんの水戸弘道館レポートも面白いですよ) 個人的に慶喜への評価はイマイチの私ですが、 水戸弘道館については、最近評価がうなぎのぼりなのです。 最近、聖徳太子関係のマニアックな展示会へ行ってきたのですが、 そこで展示物に、水戸弘道館秘蔵の大変貴重な古文書が数点あったのです。 すべて重要文化財指定でした。 (また時間があれば、マニアなレポートを書きたいと思っておりまするが(^^; ) コツコツと文献を探し収集し研究し纏める地味な研究に 長年、水戸弘道館は携わってきたことを、その貴重な資料は物語っていました。 古代史を勉強すれば必ず感じるのが、「古代史とは権力闘争や陰謀の歴史でもある」 ということです。 聖徳太子の生きた時代から大化の改新、壬申の乱 等々・・・ 岩倉具視のようなスンゴイ人物が目白押しなのです! 水戸弘道館で古代史を幼きころより学んだ慶喜は、 自然、朝廷で繰り広げられた権謀のいろはも勉強したのでしょう。 もしもっと悪質で肝が太ければ、岩倉具視と同じ土俵に立てる男だったのかもません。 さて次回ですが、いよいよ江戸無血開城の直前のおはなしのようです あの女傑も再登場されるようで、私は嬉しい! ただ、天璋院が託した有名な手紙の内容を何処まで伝えるのか、それとも歪曲するのか? そんな検証もおこなってみたいと思っています。 いよいよクライマックスですwww. 写真は「錦の御旗」実物です。
旗のサイズは65cm×354.5cm かなり長細く、御旗らしい豪華なつくりです。 戊辰戦争の際に、佐土原藩主島津忠寛に下賜されました。 (宮崎県総合博物館蔵) |

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