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2009年明けましておめでとうございます 本日、この記事が新年初の記事となります 本年度も、細々不定期ブログではありますが、なにとぞ宜しくお願いいたします さて、毎年第1回目記事は、 新年にふさわしいテーマを取り上げることにしております 昨年より世界的な経済不安、政情不安で凹みがちな毎日にあって 少しでも「生きるヒント」になればと思い、藤堂高虎殿に、ご登場いただくことにしました。 題して 藤堂高虎という男。 戦国時代から江戸時代まで生き抜いた男。 (弘治2年(1556年)1月6日―寛永7年10月5日(1630年11月9日)没) 15歳で近江の地侍として世に飛び出し、 自分の実力を信じ戦国大名の元を渡り歩き、城持ち大名へと出世した男。 高虎が生涯で仕えた主君は、なんと10人に及ぶという。 浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、羽柴秀長、豊臣秀吉、豊臣秀保、 徳川家康、徳川秀忠、徳川家光 堂々たるメンバーである! 高虎は恩義よりも評価を優先した。 そして主君を変えるたびに、知行もUPさせ出世街道を駆け上がったという 転職のためのスキルアップも決して怠らなかった。 武勇だけでなく文化面でも文学や能楽、茶の湯を積極的に勉強した。 信長、秀吉時代にあって、芸能が、情報収集などに欠かせぬ教養であると判断したからであろう。 そして何よりも高虎の評価・価値を高めたのが「城つくり」であった。 あの加藤清正と並び称される築城名人なのである。 高虎が関わったとされる 築城、修築、縄張りを列挙してみよう。 和歌山城、大和郡山城、紀州粉河城、赤木城、宇和島城、膳所城、大洲城、 甘崎城、灘城、伏見城、名古屋城、今治城、丹波篠山城、江戸城、丹波亀山城、 伊賀上野城、津城、二条城、大坂城、駿府城 すごい! の一言である。 特筆すべきは、秀吉のみならず徳川家康の居城も手がけている点。 城の縄張りなどは最高の「機密事項」である。 いかに高虎という男が、天下人の信頼を得ていたかが、このリストを見ただけでわかる。 ちなみにこの築城技術であるが、群雄割拠する戦国乱世における山城から 領地を統括するための天守閣をもつ城郭へと移行することを見定め、 加藤清正などと共に、技術革新と研究を重ねた結果という。 時代を見据えてそのニーズにあった技術を取得する努力を忘れなかったのである。 そして、この高虎という男の凄みは、 何よりも、自分の代で家を終わらせなかったという事実に集約できる。 豊臣恩顧であったという外様大名でありながらも、徳川の治世にあって生き残り 伊勢津藩32万石の初代藩主となっただけでなく、藤堂家を存続させる基礎を築く。 徳川家による改易の嵐から逃れ、藤堂家は江戸時代を生き抜き、幕末まで存続した。 (津藩最期、第12代藩主と津藩知事は、藤堂高潔) 高虎は、多くの戦国大名の後継者が、成り上がりの2代目の弱さゆえ、 改易や取り潰しとなる家を目の当たりにし、 藤堂家存続のための「遺訓」を残していたのである。 これは、江戸時代に藤堂藩で編纂された史書「宗国史」の中にある「遺書録」に書かれた 200ヶ条の家訓のことで、これは高虎が晩年、口伝したものを仕えていた家臣が 記録したものといわれている。 そのため『藤堂高虎200ヶ条の家訓』と呼ばれている。 武士としての心得、身だしなみ、家族への接し方、家臣との関係、生活の仕方など・・・ 事細かな点にまで言及した遺訓なのである。 第一条をご紹介しよう。 第1条 寝屋を出るより其日を死番と可得心かやうに覚悟極る ゆへに物に動する事なし 是可為本意 寝室を出るときから、今日は死ぬ番であると心に決めなさい。 その覚悟があればものに動ずることがない。 これは、高虎自身の心得であろう。 戦国武将として数多の戦場を戦いぬいた男の、覚悟の言葉である。 第18条 不断人の噂いふへからす人の善事ハ取上悪は捨へし人の悔も大形ハいふへからす深くいヘハ悪口かましく可成 他人の悪口を言うな。人の良いところだけ取り上げろ。深い話は悪口のようになるから注意せよ 深い話のところは、なかなか・・いいアドバイスではないかと。 その他、現代語訳になりますが、 「数年昼夜奉公しても、気のつかない主人であれば、 代々仕えた主君であっても暇(いとま)をとるべし。うつらうつらと暮らすのは意味がない。」 「侍はなるべく芸を習って、どんな道でも用に立つと覚悟すべきである。 自分の働きがすぐできる。」 「人の仲裁事やわび事に関わってはならない。 首尾が良ければよいが、そうでないと結局自分の災難となる。」 「女房に思いやりなくあたる者があるが、大いに間違っている。 男を信頼して、どんな境遇になっても連れ添うほどの間柄なのだ。 いとおしみ、仲良くすべきである。」 「冬でも薄着を好むべし。 厚着を好めば癖になり、にわかに薄着になったときかじかむものである。」 等々。 平成の現代にあっても、当たり前のようで、当たり前に出来ない日常の一瞬に 何らかのヒントなりえる戦国武将の「生きる知恵」が凝縮されている。 藤堂家の子孫達は、高虎の200か条の遺訓と共に、徳川政権下を見事泳ぎきったのである。 200か条となっているが、実は後から4か条加えたようだ。 子孫に言い残しては死ねないという高虎の執念を感じる。 例えば、 第201条 物毎に不知事ハ誰人にも可尋問ハ一度の恥不問ハ末代のはぢなるへし 知らないことがあれば、誰にでも問うべし。問うは一度の恥、問わざるは末代の恥となる 地侍の倅が、当代一流の文化人や築城名人と互角に渡り合えるようになるまで 多分、聞き魔となって知識を習得した様が思い浮かぶようである。 一度のプライドで人生のその後の発展を見失うな、ということであろう。 遺訓を伝えて家をも残した、藤堂高虎という男。 関が原では東軍のおける外様大名の先鋒となり大働きをした。 しかし、豊臣恩顧の、不器用でまっすぐな武将達への尊敬の思いも持ち続けた男であった。 それが、死闘を繰り広げた大谷吉継隊への、敵味方の垣根を越えた手厚い供養にも現れている。 また、西軍に従軍した侍大将である蒲生氏郷を一時召抱えてもいる。 長宗我部家の家臣達との関わりも胸を打つ。 案外情にも篤い男であったのだ。 そして最後の主君、徳川家康には、 大阪夏の陣での「八尾合戦」(長瀬川の決戦)での捨て身の死闘が物語るように 全身全霊をかけて忠義を尽くしている。 「国に大事が起こったときは、藤堂高虎を一番手とせよ」 家康の高虎を評した言葉である。 家康臨終の席では外様では高虎のみ枕元に侍ることを許された。 君主を次々と変える変節の男に見えるが、 徳川家康からは絶大な信頼を得ていた。 それは高虎の、媚びへつらいのない、分かりやすい実力主義が原因だったと思う。 【注】 藤堂高虎の「遺書録」は、「高山公實録」藤堂高虎伝(編・発行上野市古文献刊行会)の中に 原文を活字化されたものが書かれており、 さらに、【200ヶ条の家訓】を現代語訳したものが、三重県伊賀市の伊賀上野城で販売されています 近々、伊賀上野城へ行く予定なので、これは必ずGETします^^b |

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