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大晦日になってしまいました。 師走のバタバタも落ち着きやっと時間が見つかったので 大河ドラマ『平清盛』最終回の感想を書くことにします。 最終回・・・ 本当は拍手で終わるべきなんだけど、申し訳ない。そういう気持ちになりません。 「これはないわ・・・」が視聴した後の正直な感想。 清盛の生霊、亡霊が4回も登場してましたよ〜〜。 前回までかなり史実に沿ってドラマを描いていただけに、裏切られた気持ち・・・ しかたないので、清盛の亡霊中心に感想を述べてみます 【汗】 清盛の死の間際、伊勢・二見浦にいる西行の庵に現われた清盛の生霊。 武家の頂点に立つベく、源頼朝との決戦に英気を高めていた矢先の突然の病に 自分の死を受け入れることができない清盛に、西行は「運命(さだめ)だ」と諭すのです。 そして、治承5年(1181)閏2月4日、九条河原口の平盛国の家で、清盛死去。 「きっと、わが墓前に、頼朝が首を供えよ!」 そう遺言して絶命したのです。平清盛 享年64歳でした。 まあ、ここまでなら許せます。西行の物語における存在意義も十分ある内容でした。 ところが・・・ 清盛亡き後、京の平家一門の前に現われた西行が、 「清盛殿の遺言をお伝えする。」と言い出し、清盛の亡霊が現われ。。。! そして家族それぞれへの清盛の思いが伝えられ、一門は涙するのです。 つうか、清盛の遺言っていっても、それ生霊だし・・・ 清盛亡き後、平家はますます追い詰めれ、1183年には都落ちします。 そして元暦2年3月 壇ノ浦にて平家滅亡。 時子は安徳天皇を抱き、「海の底にも都はござりましょう」と言って海に身を投じたのです。 平家滅亡の後、源頼朝は、弟・義経の処遇に苦慮していました。 義経は兄の許しも得ず、後白河法皇より官位を得ていたのでした。 実の弟を討つことにためらう鎌倉の頼朝の御所に、 西行が訪ねてきます。 頼朝と会話する西行の姿がいつしか清盛の姿に変わります。再び亡霊が出現したのです。 清盛は頼朝へ「まことの武士とはいかなるものか見せてみよ」と言い、 頼朝はその言葉に背中を押されて、義経の追討を決意するのです。 1189年、頼朝軍に負われた義経は衣川で兵に襲われます。 義経を守るために弁慶は多数の矢を受け立ち往生し、義経は自害して果てました。 身内を粛清し、強固な幕府体制を気づいた頼朝は、1190年上京し、後白河法皇と対面します。 後白河法皇は頼朝と双六勝負をします。 しかしその勝負は面白みがなかったのか、一年あまりの後、後白河法皇は亡くなります。 1192年、鎌倉幕府を開いた頼朝も、その7年後に死去します。 源氏は3代で滅び、足利幕府の世となり、清盛の目指した交易が再び盛んになります。 子兎丸やその仲間が、大海原を自由に行き来しています いつしか海の中を落ちていく宋剣を掴む大きな腕・・・ 若かりし日の清盛でした。。四回目の亡霊です。 兎丸の声に導かれある館に入っていくと、そこには懐かしい一門の顔・・・ 「海の底にも都はありまする」 若き清盛は、笑顔で答えるのでした。 最後は、泉下の世界。 そして、語り部は、とうに亡くなったはずの頼朝の声・・・ ALL SPIRITS の世界ですよ。こんな大河ドラマは初めてな気がする。 『遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。』 『梁塵秘抄』の童唄は、何の意味があったのでしょうか? 清盛亡き後は、淡々と史実を描くだけで、 平清盛なくして武士の世はならなかったということも、また、 充分「遊びをせんとや生れけむ」のテーマは伝わったと思います。 視聴率云々など気にせず、 本当に素晴らしいドラマだと思っていただけに、最終回は辛口になってしまいました。 でも、特に、保元の乱と平治の乱は、「ネ申」でした。 この評価は絶対に揺るぎません。 本当、本当にに一年、楽しませていただきました!! 特に松山ケンイチ君はじめとする俳優陣の、ソウルフルな演技合戦は、見ごたえがありました。 さて清盛の最期ですが、史実をちょっとご紹介。 『玉葉』によれば、正月27日、清盛は病に倒れ、 閏2月1日には、清盛はもう絶望的だという重大情報が、藤原兼実にもたらされます。 閏2月4日、朝方に死を予感した清盛は、円実法眼を後白河法皇の許に遣わし、 「自分の死後のことは万事につけ宗盛に命じておいたので、 宗盛とともに天下のことを計らってほしい」と伝えました。 ところが法皇からの明瞭な返答がなく、それを怨んだ清盛は 「天下のことはひとえに宗盛が計らうので異論あるまい。」と再び法皇に伝言したといいます。 最期の最期まで、後白河法皇との双六遊びは続いていたのです。 さらに一門への遺言として 「死後三日以内に葬儀をなし、遺骨は播磨の山田法華堂に納めること、 仏事は毎日行う必要はなく、七日ごとに行えばよい。 京都で追善を行ってはならず、子孫はひとえに東国の謀反が治まるよう計らうべし。」と命じ 「子孫がたとえ生き残る者が一人になっても骸を頼朝の前に曝すまで戦え」とも遺言しています。 葬儀の日程や納骨、仏事にいたるまで命じる清盛の、合理的精神が最期まで貫かれています。 また「子孫が一人となっても頼朝を討て」と言い残しているのは、頼朝に平家が負けるかもしれない、 という分析しているのですね。 病床にあってもこの冷静さ、清盛の底知れぬ人物像が伝わってきます。 清盛は高熱を発して、身は火の様に熱かった事から、当然ながら それは東大寺と興福寺を焼いた報いだとの噂が流れました。 ただし病状からは「マラリア」ではないかと推測されます。 海外からの伝染病です。 日宋貿易に人生をかけた、清盛らしい最期ではないでしょうか。 - 了 -
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2012年12月31日
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