竜馬暗殺直前の手紙発見=新政府構想に言及、一般家庭で保管びっくりしましたよね!
朝ごはん食べながら新聞の一面を観て、喉がつまりそうになりました!
しかもNHK総合のバラエティー「突撃!アッとホーム」(土曜、後8・00)の番組ロケで
お笑いコンビのバイきんぐが、街頭インタビューをきっかけに、茶の間のちゃぶ台に保管してあったものを
発見した、、、っつううんだから、更に凄い。
暗殺直前の書簡草稿…土佐藩の後藤象二郎宛て
坂本龍馬が暗殺される直前、土佐藩参政の後藤象二郎に宛てた書簡の草稿とみられる文書が東京都内で発見された。高知県立坂本龍馬記念館(高知市)が8日発表した。今月中にも同館で公開される。大政奉還後の新政府の財政担当者として福井藩士の三岡八郎(後の由利公正)を推す内容で、同館は「一級品の史料」としている。
縦19.5センチ、横104センチの和紙に書かれ、日付がないことなどから草稿とみられる。東京都内の男性が20〜30年前に古物店で購入し、家族が保管していた。今年2月、個人の「お宝」を探すNHKの番組の取材過程で存在が判明。同館や京都国立博物館が筆跡などから直筆と断定した。 記述は「越行(えつゆき)の記」で始まり、 1867(慶応3)年10月15日の大政奉還直後に福井(越前)藩を訪ねた龍馬が同30日、三岡と面会したことを報告する内容。
11月5日に京都へ帰り、同15日に暗殺されるまでに書いたとみられる。
幕府の財政を調査した三岡が「(機能しておらず)気の毒」がっていたことに触れ、
新政府の財政担当者には「三八(三岡)を置かバ他ニ人なかるべし」と評価している。
三岡は後に明治新政府の基本方針を示した「五箇条の御誓文」の起草に参画。 龍馬の推薦通り、新政府の財政政策に携わった
。2人の会談は三岡の回顧録で明らかになっているが、龍馬側の記録は未発見だった。
記念館の森健志郎館長は「経済で国を動かすという龍馬の政治理念や思想を感じさせる」と話している。
【上野宏人】
実は私、4年前の 2010年3月23日 福井城を訪ね、
三岡八郎(由利公正)と龍馬の最後の面談(お酒を飲みながらだったそう)について思いを馳せ、
しみじみ感激にひたったことを思い出しました。
そしてその紀行文をブログにアップして
1867(慶応3)年10月15日の大政奉還直後に福井(越前)藩を訪ねた龍馬が
同30日、三岡と面会したことにも触れています。
4年も前の記事ですが、龍馬の偉業を偲び、この世紀の発見への祝辞として
再度、抜粋して掲載したいです。
今回の大発見で、土佐や薩長だけでなく、幕末における越前藩の再評価なるといいですね。
実際、松平春嶽や、由利公正はもっと評価されていいと思います。
昨年の大河ドラマ「八重の桜」でも村上弘明さん演じる松平春嶽公は、スパイスの効いた
存在感のある人物でした。
福井城〜北陸の旅⑧2010春
2010年3月23日
北の庄城を後にした私達親子は、
この旅最後の目的地「福井城」を目指す
徒歩約15分・・・
「あ、石垣が見えた!」
最近すっかりお城好きになった息子が、ビルの谷間にちらりと見えた城郭を発見した
そう、福井城跡は、JR福井駅前の一等地に位置し、
本丸内には、福井県庁、県会議事堂、県警察本部が建てられており 文字通り、福井県の中心部なのである。 見事な堀が見えてきた
想像していた以上に、広大で堅固な城であるようだ!
これは、掘り出し物ではなか・・と胸が高鳴る 遺構は、石垣、土塁、堀 のみだが、どれも迫力がある。
本丸の北西角には天守台が残り、
かつては、二重の櫓の上に二重の望楼を乗せた形式を持つ外観四重、 内部五階の天守閣が聳えていたという。 この天守閣をはじめ大半の建物は、1669年(寛文9)の大火で焼失したものの、
以後天守閣は再建されなかった 幕府が許可しなかったと言われる。
天守台
家康の次男である結城秀康が北ノ庄に入封された当初は「北の庄城」と呼ばれていたが、
福井藩第3代藩主松平忠昌は、「北」が敗北を表す不吉な字であると「福井」へ改めた。 そして、幕末・・・
福井城は、四賢候の筆頭・松平春嶽公の居城であり
春嶽公に面会するため、坂本龍馬が足を運んだ城でもある。 龍馬は3回、この城を訪れている。
① 1863年文久3年4月16日に幕臣大久保一翁に託された松平春嶽への親書を持っての訪問が
「海舟日記」に記載されている。 ② その翌月、1863年文久3年5月20日ごろ、神戸の海軍操練所を開設するための資金援助を頼むため、
勝海舟の指令で京都から越前の前藩主・松平春嶽を訪ね、5000両もの巨額の援助の約束を取り付ける (これはドラマでもしっかり描かれていましたね)
このとき、福井藩の政治顧問を務めていた肥後藩士の横井小楠や由利公正と意気投合し
時勢について一夜語り明かした。 ③ 最後の訪問は、1867年慶応3年11月。
龍馬が暗殺される2週間前のことである。 山内容堂の親書を渡すために、福井城の松平春嶽公に拝謁し
その後、龍馬が宿泊していた旅館で、由利公正(三岡八郎)と会談し、 新政府の財政を由利公正に託したいと、長時間に渡り熱く語り合う。 龍馬が福井を辞すとき、何故か由利に1枚の写真を渡した。龍馬のスナップであったそうだ。
しかし、後日、懐に入れていたこの写真が、急に風に飛ばされ川に落ちてしまい、
いくら探しても見つからなかったという。 由利は何故かとても不吉な気分になった・・・その直後、
龍馬の凶事が知らされたという。
親友ゆえの予感であろうか。
このように
無名の若造時代から、天下の龍馬になった後でも、 龍馬にとっての福井は、同じ志をもつ師や友人と、素直に語り合える、 心落ち着く、愛する土地の一つであったことは間違いない。 今、歩いているこの場所に
龍馬も立っていた可能性が高いのだ。 そう思うだけで、わくわくするではないか。 が、しかし、
「龍馬伝」の文字もポスターも全くない。
そのためか、観光客も殆どいない。 もったいないような気もするが
ある意味、便乗商法に惑わされない福井県民の自国文化への誇りとも言えよう。 なぜなら、私が訪れた史跡は何処も、きれいに保全されており
史跡案内などの充実振りは目を見張るものがあったからである 来年の大河「江」もここ福井が重要な舞台であるのだけれど
多分今年同様、冷静な対応をするような気がする。 福井城前の内堀公園にひっそりと建立されていた、
「横井小楠、由利公正 旅立ちの図」 1885年冬に横井小楠と由利公正が一緒に九州へ旅立つ姿を表現したものだそうだ。
由利公正この旅で長崎での物資販売ルートを開拓、藩財政を改善した。 由利は初代・東京都知事に就任している。
地味だけれど凄い人なのである。さすが龍馬の親友だけのことはある。 記事元 ↓
徳川家康の次男・福井城の築城者、結城(松平)秀康についても後半触れています。
興味のあるかたは、是非。
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2014年04月10日
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