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皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

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                   【三木城址に建つ別所長治像】
 
播磨三木城の青年城主・別所長治が、織田信長に反旗を翻したのは、天正6年2月末であった。
 
前年の天正5年、姫路城主 黒田(小寺)官兵衛の説得を受け、
織田方に味方すると決定してからわずか半年のことであった。
 
別所氏は、鎌倉時代から播磨に勢力を伸ばした古い家柄である。
室町幕府にあって、侍所所司、播磨、美作、備前3国の国守を務めた、名門・赤松氏の庶流であった。
「嘉吉の乱」で赤松一族が播磨を追われると、ともに他国へ流れるが、
赤松氏が再び播磨で勢力を挽回すると、東播磨八郡の盟主となり、播磨最大の勢力を持つに至った。
三木城に入城して、長治で4代目となる。
 
ちなみに黒田家が仕えた、小寺家も、赤松氏の家臣の家柄で、
西播磨に勢力を持ち、別所氏に次ぐ豪族であった。
 
別所長治の執権の一人で、幼いころより長治を補佐してきた叔父・別所重棟と
黒田(小寺)官兵衛は昵懇の仲で、それゆえ、織田信長への帰参を承諾した経緯があった。
 
ちなみに、天正5年当時、秀吉は、柴田勝家の後詰めを命じられていた北陸加賀から、
信長に無断で同勢3500人を率いて長浜へ帰っており、信長の怒りを解くために長浜で謹慎中であった。
 
ことのほか軍法違反に厳しい信長公である。
正直、秀吉らは、死罪も覚悟していたのであった。
 
秀吉が長浜で蟄居の最中、
秀吉の実弟・羽柴小一郎は、蜂須賀小六、竹中半兵衛 らと軍兵 わずが数百人で播磨へ先行した。
わずかな時間で別所氏ら播磨の豪族たちを味方につけ、信長の勘気を解き、
秀吉の復権をもくろんだのであった。
 
更にこの時、小一郎は今まで蓄えた金品をほぼ使い果たすほど、
信長や信長近辺へ、高価な贈り物を届け続けたという。
 
 
秀吉の実弟・小一郎の名参謀ぶりがよくわかる。
地味で目立たないが、秀吉が小一郎を決して側から離さず最も厚遇し、
旗下の豪傑武将らもみな、小一郎を慕い指示に従ったのも頷ける。
竹中半兵衛も、小一郎の武将としての実力を最大級に評価している。
 
 小一郎らは、官兵衛の嫡子・松寿丸を人質に貰い受けて、安土へと連れて行った。
信長に、播磨での調略が進んでいることを証明するためであった。
さらに、別所長治帰参内諾の知らせも、信長の勘気を解くに十分であったろう。
 
信長公は秀吉の軍法違反を許しただけなく、中国討伐をも命じた。
秀吉と小一郎兄弟の大博打は見事に成功したのである。
 
ところが、肝心の三木城で不穏な動きが出始める。
 
別所長治の叔父で、重棟とともに執権職を務める、別所吉親が、毛利に通じていたのだ。
重棟と吉親兄弟は仲が悪く、家中が「織田派」「毛利派」に二分されていたのだ。
一旦は、信長につくと決めた別所長治であったが、もう一人の叔父の言葉に次第に惑わされていったのだ。
 
三木城内に軍兵を集め、堀割、鹿柴を構える作業を盛んに進めだした。
 
竹中半兵衛や蜂須賀小六が、播磨目代である秀吉の許しを得ずに城普請を行うことを咎めると、
別所長治は、すでに信長の了解を得ていると、涼しい顔で返答する。
事実、長治は信長に「毛利は大国であるから播磨安全のため城普請を早々に行いたい」旨の書状を送っており
信長も「もっとも神妙である。」と返事を与えていたのだ。
 
三木城には、鉄砲、硝煙が堺より運び込まれ、雑賀鉄砲衆まで入城していることも分かったが、
半兵衛も小六も、信長のお墨付きである以上、普請を止めることができない。
 
長浜に帰還していた秀吉も、播磨からの連絡に別所への不審を募らせながらも、
まさか東播磨の主たる豪族らが反信長へ反旗を翻すとは思ってもいなかったろう。
 
そして、事件は起こる。
天正6年2月23日、播磨へ戻った秀吉は、加古川城にて別所一族ほか諸豪族を集めて
中国攻めの「戦評定」を開いた。
軍議の席で、別所吉親が、赤松家代々の軍功を長々と語った上で、秀吉の軍略を批判したのだ。
秀吉は激怒し、万座の前で、別所吉親に罵詈雑言を浴びせて、恥をかかせたのである。
そして三木城へ帰った彼らは、恨みを込めて主君へ報告した。
「織田は、裏に剣を磨ぎ、表に和を装う痴れ者に違いありませぬ。」と。
 
この事件が直接の引き金となり、別所長治は謀反を決意したと
「播州太平記」、「別所長治記」「別所記」に記されている。
 
(尚、加古川評定事件」の詳細は、過去記事にも参照ください)
 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67003664.html  『軍師官兵衛 第15回「播磨分断」』
 
加古川評定事件が直接の契機であるなら、裏の理由もあった。
別所の謀反には、反織田勢力からの誘いがあったのである。
 
丹波八上城主の波多野秀治だ。
 
波多野一族は、鎮守府将軍 藤原秀郷を祖とし、因幡、伯耆、美作三国の守護を務めた名門である。
信長は、越前平定の後、明智光秀に丹波平定を命じていた。
 
光秀ほどの武将であっても、波多野氏の八上城はなかなか落ちなかった。
 
丹波富士の山頂に築かれた山城で、さらに支城40余を設けた、堅牢で知られた難攻不落の城であったのだ。
とはいえ、光秀は持前の忍耐でもって次第に八上城を攻略し、焦った波多野秀治は、
光秀の背後に控える三木城を味方につけて、織田と明智軍の分散を図ったのである。
 
別所長治は、この波多野秀治の妹を妻とし、さらに長治の弟、治定、友之も波多野一族から妻をめとっていた。
つまり、両家の関係は強固で、浅井朝倉の如く、
波多野氏からの誘いがあれば、それを断ることは難しかったのである。 
 
そんな家中の動きに呼応するように、本願寺と毛利からも調略の手が伸びてきた。
本願寺と一蓮托生である雑賀の鉄砲隊が早くから三木城に入っていたことがそれを証明している
 
ここまで包囲網が構築されたなら、織田の司令官である足軽上がりの羽柴秀吉など、ものの数ではない。
まだ若い城主が、大きな野心を胸に抱いたとしても、不思議ではないのである。
 
天正6年2月末、軍議の結果、志方(光姫の実家)、神吉、高砂、野口、淡河、端谷の6城主は自城にて籠城することになり、その他小城主は、居城を焼き払い、士卒を率いて三木城へ参集することになった。
「別所決起」である。
ただし、織田派の叔父・別所重棟は、黒田官兵衛との信義を重んじて秀吉方にとどまっている。
 
当時の三木城は、周囲一里で、本丸、東の丸、二の丸に天守閣まで備わっていた。
外郭は美嚢川の断崖、鷹の尾砦、古刹雲仙寺や月輪寺の伽藍を城地とし、自然の地形を利用した
水堀、空堀、土塁、木柵を備えた実に堅牢な城であったようだ。
領内の百姓、町人、僧侶のほとんどが別所にくみしており、城内は武器弾薬兵糧が山積みされ、
兵士たちの士気は極めて高かった。
 
羽柴秀吉1万余軍は、緒戦の夜襲で大敗し、姫路の書写山で軍略を練る。
竹中半兵衛の献策により、三木城を俯瞰できる平井山に本陣を置き、周囲に付け城を多数築き、
敵の支城を落としていく作戦が決まった。
 
しかしその直後の4月、小早川隆景率いる毛利の大軍5万余が備前国境を越え
怒涛のごとく播磨へ進撃してきた。
結果、尼子の守る国境の上月城が取り囲まれてしまったのだ。
 
秀吉は、中国平定の協力者である尼子勝久を救うために三木城攻めを中断して上月へと向かった。
しかし毛利の重囲は厚く、総勢4万余の織田信忠が援軍に駆けつけるも硬直状態に陥ってしまった。
 
上月城と三木城では、規模も勢いも違う。
ここで尼子を見捨てて三木城を抑えなければ、播磨の情勢がさらに悪化する恐れもある。
信長公は、上月城からの撤退を指示し、神吉、志方を攻め落として三木城を全軍で落とすよう
信忠へ命じた。
尼子の信義から上月救援を求める秀吉の嘆願は無視された。
そして信長の命じたとおり、織田勢は、神吉、志方をたちまちに攻め落としたのである。
 
 
ところが秋になり、衝撃の事件が起こる。
荒木村重の謀反である。
 
(村重謀反については、散々触れているので、先週までのブログを参照頂きたい。)
 
摂津一国を一色支配する村重の謀反で、信長の中国戦略は変更を余儀なくされた。
三木城攻めと、八上城攻めを一旦中止し、
秀吉、光秀含む、織田全軍を有岡城攻めのために京都へ集結させた。
 
毛利も本願寺も、してやったりであったろう。
しかし、織田信長という男の凄みここからだ。
 
天正6年11月6日、伊勢で秘かに建造を命じていた「鉄甲船」6隻が大坂湾に襲来し、
石山本願寺へ兵糧を運び込もうとしていた600隻余の毛利水軍に壊滅的な打撃を与えたのだ。
瀬戸内海の海上権を奪い、石山本願寺を兵糧不足に陥れ、戦力を減退させた。
これぞ、進撃の信長!
これで勝利の目算がついたのであろう、信長は秀吉に播磨三木城攻めの任務へ戻るように命じた。
 
天正7年に入り、籠城1年を迎えて 三木城では次第に焦りが広がりはじめた。
 
加古川の水運を利用して三木へ兵糧を運んでいた、高砂城や端谷城も落ち、
秀吉は、三木城を本格的に兵糧攻めにする。
 
とはいえ、荒木村重の支城である花隈城を経由して、地元の百姓、僧侶、女子供らが
夜間の山道を超えて、決死の運搬を行うため、兵糧攻めの効果はなかなか上がらなかった。
 
別所氏は領民からこれほど慕われていたのだ。
 
6月13日、秀吉の軍師で三木城攻略の策を講じた竹中半兵衛が肺の疾患でこの世を去る。
重態の身でありながら、「軍師は陣中にて死すべし。」と平井山本陣へ戻ったのは、
自分の立てた作戦へのプライドと責任感の表れであったろう。
秀吉、小一郎、蜂須賀小六らに看取らての静かな死であった。
三木城攻めは半兵衛の弔い合戦ともなったが、それでも城はなかなか落ちなかった。
 
手詰まりを打破しようにも、秀吉の両兵衛の一人、軍師・黒田官兵衛が
昨年末から有岡城に説得へ赴いたまま帰還しない。
 
業を煮やした織田信長により、織田信忠や丹羽長秀らが援軍として派遣されてきたが、
それでも三木城の守りは固く、成す術なく、引き上げるという状況であった。
 
ところが6月28日、明智光秀が調略により波多野秀治ら主従13人を捕えた上に、
難攻不落を誇った八上城をも攻略した。
強固を誇った 別所&波多野の共同戦線が崩壊してしまった。
 
さらに、10月に入り、備前の宇喜多直家が織田へ寝返り、毛利の援軍がほぼ不可能な情況となる。
そして11月には、有岡城が落城。
これにより、三木城への兵糧輸送は完全に杜絶え、秀吉の「干殺し」が本格化する。
 
三木城内では飢えに苦しみ、籠城者は始め、糠まぐさを食い、それがなくなると牛馬、鶏を食い
(当時の日本人は仏教の影響で肉食を嫌っていた)、しまいには人肉まで食らい、
餓死するものは数千人に及んだとも言われている。
地獄である。
 
天正8年正月6日、秀吉は城攻めに転じた。
三木城南の八幡山宮の上砦をおとし、南側外郭を打ち破り、三木城大手門へと殺到した。
大手門は楠の1枚板で厚み5寸(15センチ)、隙間なく鉄金具を打ち並べ高さ4mにも及ぶ堅牢な城門である。
見分役で参戦していた明智光秀が、八寸の大斧をふるって打ち砕き、羽柴軍は城内になだれ込んだ。
 
本丸に立て籠っていた別所長治は、意を決して軍使を秀吉に送り、
「弟、叔父とともに一族こぞって切腹するかわりに、
1年10か月の籠城に耐え抜いた家来、町人どもの命を助けてほしい。」と嘆願した。
 
長治の書状の文面は以下である。
 
「いま、願うところは、長治、吉親、友之の三人、来る十七日猿の刻(午前四時)切腹つかまつるべく候。
然るうえは、士卒雑兵等、町人等は科なき者ゆえ憐憫を加え、一命あい助けられたく候。
然らばわれら今生のよろこび、来世の楽しみ何物かこれに加えん。」
 
秀吉はこの申し入れをただちに受け入れ、樽酒に肴を添えて、城内へ運び入れさせた。 
 
長治は、秀吉贈呈の酒肴にて城中で別離の宴を開くにあたり、
本丸広場に町人を集めて訣別の辞を述べた。
 
「明日はわれら城主一族、浄土の仏身とあいなれば、こでにて最期の別れじゃ。
そのほうどもがわれらに身を捧げての働きの数々、死んでも忘れぬ」
 
翌17日、身を清めた長治は、先に自害した妻子の遺骸を大庭に下し、
火葬にしたのち、弟とともに切腹して果てた。殉死する家臣も多かった。
 
別所長治の辞世の句
「いまはただ、うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる我が身とおもへば」
 
正妻 照姫の辞世の句
「もろもろに消え果つるこそ 嬉しけれ おくれ先立つ ならいなる世を」
(あなたと一緒にあの世に逝くことが嬉しいのです。普通なら夫婦のどちらかが死に別れる世なのに)
 
長治 23歳、妻は21歳であった。
奥方の健気な思いは涙を誘う。
 
三木城落城ののち、城下12村の名主は、秀吉に願い出て、城主一族の遺骨を貰い受け、
久留美庄の法界寺に手厚く埋葬し、冥福を祈った。
何度も強調するが、別所長治は、それほど領民に愛されていたのだ。
それゆえに、一旦「織田」と決めた気持ちをぐらつかせた弱さが悔やまれる。
最初、織田方有利を長治へ説いていただけに、同じ播州人として、官兵衛も悔しかっただろう。
戦乱においては、一瞬の判断ミスが国を滅ぼす結果となるのだ。
 
ともあれ三木城落城にて、織田信長と秀吉の播磨平定は成し遂げられた。
そしてこの年、大きな功績を挙げた二人の武将が、信長配下における出世争いを激化させていく。
羽柴秀吉と明智光秀である。
 
明智光秀は、波多野攻略の功で、丹波一国29万石と亀山城を信長から与えられ
更に山城、大和の大官領30万石をゆだねられた。
 
羽柴秀吉は、播磨平定の大功で播磨16群51万石を与えられ、
弟・小一郎には、但馬一国13万5千石を与え、更に配下の蜂須賀小六らも万石取りの大名となった。
ちなみに、我らが黒田官兵衛は、播磨国揖東郡に1万石を与えられ篠の丸城を居城とする大名となっている。
 
しかし一方で悲劇もあった。
天正7年の丹波攻略で、明智光秀は波多野秀治兄弟の降伏と助命の条件として、
自身の母親を人質に差し出し、捕らえた波多野兄弟を安土へと連れていった。
しかし、信長公は曖昧な決着を望まず、そのまま兄弟を磔にしてしまった。
怒った八上城の兵達は、人質となっていた光秀の母親を惨殺したのである。
 
忠義の塊のような光秀が、次第に信長への謀反を募らせる要因の一つが、
母を見殺しにした信長への恨みとも言われている。
 
天正8年、三木城落城の裏で、「本能寺の変」へのカウントダウンはもう始まっていたのである。
 
 
参考文献 「名将名城伝」 津本陽先生
 
 
 

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