ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

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今回は、かなり史実に忠実でした。
 
家康と官兵衛の知恵比べでありながら
官兵衛と長政との知恵くらべの様相も帯びてきていました。
 
まあ、うがった見方をするならば、
九州で密かに天下取りの算段を立てている官兵衛の動きを察知した家康が
長政をその対抗馬としてうまく使ったとも見えます。
 
一方で、今回も間抜けな三成。
やることなすことが裏目に出ます。
本当に秀頼君のことを考え豊臣家への忠義心が厚いのはこの男であったのに。
 
ドラマでも、秀吉への恩や、秀頼への忠義心にはほとんど触れてはいません。
福島正則も、ある意味うまく利用された男の一人でありました。
 
忠義なき世となれば、国は乱れます。天下動乱・・・
そして天下を二分する関ヶ原合戦へのカウントダウンが始まりました。
 
***********
 
それでは、豆知識コーナーです
 
慶長5年(1600) 6月、家康は会津の上杉景勝に謀反の動きありと
豊臣秀頼の命という名目で、会津征伐へと出陣した。
黒田長政も家康の呼びかけに応じて、5400の兵で大坂から出陣している。
 
家康が出陣し、大坂ががら空きになった今こそが好機と、
石田三成はついに家康討伐のため挙兵した。
五大老の毛利輝元を総大将し、近畿、中国、九州の豊臣恩顧の大名達が、次々と大坂に結集する。
三成は、大坂城下に残されてた家康派の諸将の妻子を人質にとり、
家康の側近である鳥居元忠が城代の伏見城を攻めて、これを陥落させた。
 
 
妻子の人質は、常套手段。
この時、黒田屋敷には、長政の母(出家して幸圓)と、嫁いできたばかりの妻、英姫(ねね姫)が残されていたが
長政は、こうした事態を予測して、栗山善助と母里太兵衛、宮崎助太夫の3人に、
中津への脱出作戦を申付けていた。
 
三成の動きを察知した3人は、二人を知り合いの商家に匿ってもらおうとしたが、
すぐに屋敷の回りは三成方の監視人に包囲されてしまった。
そこで夜を待って、屋敷の湯殿の壁に穴をあけて、二人をそれぞれ俵にいれて籠に乗せて、
商人に変装した母里太兵衛が、その籠を担いで壁の穴から脱出し、目的の商家へと逃げ込んだ。
 
幸圓と英姫が脱出した後、騎馬隊を先頭に600もの兵が黒田の天満屋敷へと押し寄せ、
「二人の内儀はいずこに?」と問いただした。
3人は機転をきかせ、幸圓と英姫に似た侍女を選び、遠くからみさせて二人は屋敷内にいると信じこませた。
しかし、次の危険が迫っていた。
中津から如水が遣わした船が大坂湾に到着するも、監視の目が厳しくて近づけない。
どうしたものかと思案していた矢先に、玉造方面から火の手があがった。
細川低が火元で、細川忠興の妻・玉(細川ガラシャ)が、人質となることを潔しとせずに、
家臣に胸を突かせて自害、敵の目にさらされまいと火を放ったことによる火災であった。
 
3人の家老たちは、火事の騒乱に紛れて幸圓と英姫を木箱に入れて運びだし、
裏の川から小舟に乗せて大坂湾でまつ迎えの船に辿りついたのである。
 
(このエピソードはほぼ史実通りにドラマで描かれておりました)
 
ところで、黒田長政の後妻となった英姫(ねね)であるが、
このとき若干16歳。
父は保科正直、母は、家康の妹・多却姫。
家康の養女として、16歳で長政へ輿入れした。輿入れの10日後、長政は家康の会津征伐へと出陣。
そして人質事件に巻き込まれるが、気丈にふるまった。その強さが長政には魅力であったのだろう。
長政との間にが3男2女をもうけ、のちの福岡藩2代目藩主・忠之ご母堂となる。
 
そして、われらが官兵衛である。
 
三成が挙兵した折に中津に引きこもっている如水の元に、三成の密使がやってきて
「三成方に加担し、家康に帯同している長政を引きもどしてほしい。恩賞は望みどおりにする。」と言ってきた。
 
この辺りが、実に三成らしい。
秀吉存命中から仲が悪く、朝鮮の役では讒言騒ぎまで起こした官兵衛に、誘いの密使を送るその神経である。
三成は、自分の忠義心が真実であり公明であるなら、必ず周りは理解ししたがってくれると信じていたのだ。
 
如水も三成のKYぶりに苦笑したことであろう。
「恩賞は望み次第というなら、九州7か国を拝領したい。後で問題が起こらないように
証書も欲しい。頂けるなら、家康打倒のために全力を尽くしましょう。」と密使に答えたという。
三成が決して首を縦に振らない条件をだしたのだ。
黒田家が家康に付いている以上、密使を成敗してもしかるべきではあるが、
人を食ったような返答をする当たりに、如水の人柄と余裕を感じる。
三成など子供に見えたことであろう。
 
そして何よりも、如水には秘めた野望があった。
決して中津で隠居を決め込んでいたのではない。
 
まず上方からの正確な情報を早く入手する手筈を整える。
大坂、備後の鞆、周防の上関の3か所に早船を配置して、情報伝達システムを設けていた。
 
このシステムで家康挙兵を知ると、如水はすぐに戦の準備に取り掛かった。
しかし、長政が精鋭を連れて会津へ出兵中のため、中津に残された兵はわずかであった。
そこで如水は蓄財をはたいて、兵を集め始める。
騎馬武者には銀二百匁、徒歩武士には百匁、普通の武士には十匁払うという条件で兵を募った。
すると失業中の武士が多数好条件に飛びついてきた。
なかには、一度もらった後でもう一回並び、二度給金をもらおうとする不心得者もいたが
如水は「黒田家のため働くなら構わない」と気にしなかったという。
そして実際募集兵たちは、如水のためにと戦場で必死に働いた。
普段は「倹約家」(ケチ)で有名な如水であったが、ここぞというときにはお金を使う如水に
周囲は感心したという。
 
如水の野心とは、すなわち「天下取り」
家康と三成が衝突する間に、九州を平定し、その後上方へ進撃して天下を乗っ取ろうとしたのだ。
 
そして、もし関ヶ原合戦がせめて五日はかかっていたなら、如水の野望は実現できたかもしれない。
天下分け目の戦がまさかわずか一日で終わってしまうとは・・・
しかもその最大の立役者がわが息子・長政だったとは・・・
 
 
三成挙兵の報を受けた家康は、
してやったりと、下野国小山で方向転換し、西へと向かった。
そして東進してきた三成率いる西軍と関ヶ原で激突する。
 
慶長5年(1600) 9月15日、関ヶ原合戦である。
 
なにはともあれ、次回 。
黒田官兵衛、一世一代の大勝負が始まる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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