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この華やかな甲冑具足もまた、真田幸村所用の品と伝わる。
鉄二枚胴具足
(大坂城天守閣蔵)
鉄錆地の頑丈な西洋風二枚胴に、兜、面頬、籠手、佩楯、臑当を完備した当世具足。
まるで戦国時代から抜けだたように、実践的である。
手甲には、真田家家紋の六連銭文が打ち付けられている。
(写真の手の部分をよおくご覧ください)
胴はヨーロッパ甲冑の影響を受け日本で製造した南蛮具足である。
仙台真田家伝来の幸村所用の南蛮具足もそうであったが、
幸村の審美眼を感じさせる。
幸村は信州上田の田舎侍だが、
若いころに秀吉の馬廻り衆として煌びやかな大坂城で過ごした影響であろうか、
実にハイセンスである。
この甲冑にも、大坂の陣における歴史秘話が伝わっている。
本品は、陣貝、陣鐘、陣太鼓、および、「源家訓閲集」 と題された、軍事秘伝書とともに、
和泉国(大阪南部)の尼寺にて、真田幸村所用の品として伝来したものである。
なぜ、幸村所用の品が和泉国に残されていたのか?
それは、大坂の陣後に広く流布した幸村、大助生存説に深くかかわる。
幸村の嫡男、大助は、大坂城で豊臣秀頼に殉じて自害したのではなく、
和泉国堺に逃れて生き延び、これら幸村の遺品も当地にて大切に保管されたというのだ。
事実、大坂の陣から33年後の、正保4年(1647)
能役者として幕府に召しだされた 堺出身の高井平右衛門は、大助の実子だと記録にある。
(「左衛門佐君伝記稿」)
この真偽は不明だが、
関西には、幸村、大助の生存説は根強い。
大坂の陣後に、二人の亡骸を見分したという記録がないからだ。
幸村と大助は堺に落ち延び、堺でその生涯を終えたとも、
また堺の港から密かに薩摩へと落ち延びたとも云われる。
と同時に、家康が大坂の陣で幸村に刺されて亡くなったという「家康死亡説」も根強い。
堺の南宗寺には、なんと家康の墓まである。
家康の死は秘匿され、その後は影武者が家康を装ったといわれるゆえんだ。
先日、真田丸がクランクアップした、というニュースがあった。
ところが、堺雅人さんのコメントのみで、
そのクランクアップ映像どころか、幸村姿の堺さんの写真すら発表されていなかった。
かなり異例のことらしい。
これはもしかしたら、
三谷幸喜さんによる、大どんでん返しがあるのではないか?と
ふと思ってしまった。
きりのその後も同様だ。
幸村の正妻(大谷刑部娘)とその子ら4人の遺児が、伊達藩に保護されたことは判明しているが、
側室である高梨内記の娘とその女児(いち)の行方は・・・謎だ。
さらにもう一つ、
先に述べた、和泉国の尼寺由来の当世具足とともに伝来した軍事秘伝書がこれだ。
「源家訓閲集」 42巻 (大坂天守閣蔵)
鎌倉時代から軍学の主流を占めた小笠原流の秘伝書で、
幸村所用と伝わっている。
第一巻、第21巻、第26巻の記述により、本品は永禄8年(1565)に
小笠原儀成が、南蔵院秀盛に与えたものと判明している。
すなわち、真田昌幸の生きていた時代と重なる。
書物の中央に、円が描かれている・・・
なにやら、ドラマで昌幸が遺した軍事書にも通じる。
大助が昌幸の遺品をもって和泉国堺へと落ち延びた、なんて想像もありなのかもしれない。
三谷幸喜さんの「真田丸」の特徴は、
史実を膨らませた脚本。
だからこそ、これらの品々が実存する限り、
何か起こってもおかしくはないと思う。
最終回まで、わくわくしながら真田丸の行く末を見守りたい!
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/69209180.html 「幸村甲冑と片倉小十郎」
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