ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

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大坂夏の陣

大河ドラマ「真田丸」もあと2回を残すのみ・・・

「引鉄」の回では、最終回を予感させるいくつかの伏線がありました。

佐助が暗殺したのは家康の「影武者」であった。
野戦で敵の大将の首を取る手段を義兄から聞いた。
幸村(信繁)は利休の隠した「馬上筒」(様式の短銃)を2丁発見した。
豊臣方がこの戦に勝てば、秀頼は大坂城を退出して四国へと移る。
そして、
きりは佐助の求婚を瞬殺。

・・・・・


これって、もしかしてもしかしたら・・?
以前書いた希望のエンディングが期待できるのでは?と妄想してしまいます。 ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/69220072.html 「真田幸村の甲冑と軍事秘伝書(和泉生存説)」

ともかく、あと2回!
「おのおのぬかりなく」、幸村や真田家の面々が乗った「真田丸」の最期の航路を見守りましょう!


それでは、「大坂夏の陣」への緒戦を書いてみたいと思います。

*********

大坂冬の陣の後の和議にていったん休戦となり、
家康は駿府へ、秀忠は伏見へと戻った。
一時の平和が大坂城内に戻ったものの、来るべき次の戦いが最終決戦だと多くの者たちは感じていた。

真田幸村(信繁)が、姉のまつの夫小山田茂誠への最期の手紙を書いたのも、この頃だ。

「定めなき浮世にてそうらえば、一日先はしらざる事。
我々事などは浮世にあるものとは思し召し候まじく候。」

再び戦になれば後戻りはできないので、自分はもうこの世にいないと思ってほしい。
と討ち死にを覚悟したような言葉がつづられている。

豊臣方が勝つことでしか、現状打破や地位回復を望めない浪人たちにとて、
豊臣の敗北が濃厚となれば、もはや「死に花を咲かせる」ことしか残されていない。

大坂城を退去せず、豊臣秀頼の思惑を超えて、
大坂城内の浪人たちが、不穏な動きをみせたとしても、致し方ない。
彼らの行動を抑えるすべは、もはや残されていなかった。

慶長20年3月15日、
京都所司代の板倉勝重より、駿府の家康の元に、
大坂城の浪人たちの乱暴、狼藉だけでなく、堀や兵の復旧の動きが報告された。

直ちに徳川方は、浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。

そして4月4日には、徳川義直の婚儀のためと称して、駿府を出立して名古屋へと入城した。

4月5日に、大野冶長の使者が家康の元に訪れ、「秀頼の移封はできない」と要求を拒否、
家康は、「是非なき仕合わせ」(それならばとうしようもない)と返答。
翌日には諸大名に、鳥羽、伏見への集結を命じた。


4月18日、家康は名古屋城を出て、二条城へと上洛。
4月21日、秀忠も二条城へと到着し
翌22日には、二条城にて、本多正信、正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議行い
15万の軍勢を、2手に分けて、河内と大和路より大坂へと攻め入ることになった。

一方、大坂城内では
4月9日 大野治長が場内で襲撃された。
治長は徳川方とのパイプ役であったため
徳川方との交渉は困難となった。


4月12日には、大坂城内に蓄えてあった金銀を浪人に配り、浪人たちは武具を買いそろえて、
戦闘準備を始めた。

まる裸の大坂城での籠城戦では勝つ見込みがないと、
野戦で敵の総大将、家康の首を取るチャンスを狙い、野戦にて徳川方を迎え撃つ作戦が決定された。

大坂城内で再戦が決定的となった頃、
和議を唱えていた織田有楽斎は「もはや城内にいても無意味」と許可を得て
大坂城から退所した。 
大坂の陣後も3万石のままお咎めなしの優遇から、
有楽斎は徳川への密通者とも云われており、その確率は高い。

4月26日、
先発隊として、大野治房(治長の弟)の一隊が、暗峠を超えて大和郡山城を急襲、これを落した。
4月28日には、堺を焼き討ち
4月29日には、一揆と共闘して紀州攻めを試みるも
樫井にて先鋒の壇直之が討ち死にした。(樫井の戦い)

豊臣方による大和と堺での軍事行動により、全面戦争は必至となる。

5月5日、
家康と秀忠は京から出陣、
その際、「三日分の兵糧でよい。」と自軍に命じた。(結果はその通りであった)

そして運命の5月6日・・・
「大坂夏の陣」が勃発する。

大和路から大坂城へと向かう徳川軍35000を迎え撃つべく豊臣軍は出陣。
6日早朝、道明寺付近にて両者は激突。
これが、「道明寺合戦」である。
この戦には、後藤又兵衛、真田幸村、毛利勝永の最強部隊が出陣した。

先のブログにも書いているが・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/69264448.html 「後藤又兵衛と毛利勝永の最期」


朝からの濃霧に阻まれ、また、豊臣隊同士の緊密な連絡ができず
真田、毛利隊が戦場に間に合わなかったため、
後藤隊 2800 単独で、35000の大軍を迎え撃つこととなり、
又兵衛は奮戦の末に討ち死にした。


また同じ 5月6日、
八尾、若江付近でも、木村重成隊 6000 と 長曾我部盛親、増田盛次 3500の隊が、
河内冶から大坂城へと進軍する徳川本隊12万を迎え撃った。
これが「八尾、若江合戦」である。


長曾我部隊は、霧を利用して、藤堂高虎隊5000を急襲、
藤堂一族の武将の首など、多数の首を取る働きを見せるも、
数に勝る幕府軍の援軍に阻まれ、追撃を受けて壊滅。

木村重成隊も、藤堂軍を破り、井伊直孝隊3200と激突、
奮戦するも敗北し、木村重成は討ち死にした。

5月6日の防衛線で
豊臣方はいずれも敗退。敗戦濃厚となった。

そして5月7日・・・・
幸村最後の日を迎えるのである。

以下次号。

********************

大坂夏の陣における
幸村ゆかりの品をご紹介!

六連銭文軍旗 (真田幸村奉納)
大坂・志紀長吉神社蔵

イメージ 1

慶長20年5月6日
道明寺合戦の際、豊臣軍は境内のすぐ近くを通る古市街道を通って戦場へと向かった。
道明寺合戦で後藤又兵衛らの討死にで大敗した豊臣軍は、真田幸村を殿として
大坂城へ退却した。(殿には諸説あり)
その途中でこの志紀長吉神社に立ち寄った幸村は、麻布の六連銭文軍旗と刀剣を奉納して
戦勝を祈願したと伝わる。
これがその軍旗であるが、刀剣は残念ながら現存しない。
このとき幸村が休息をとった場所が、境内近くにあり
大正13年(1924)11月に「真田幸村休息所」の石碑が建てられた。


百年も前の大正時代に建てられたことが
幸村の大坂での不動の人気を物語っていますね!

さあ今回は、源三郎、源二郎の兄弟の再会が描かれるようです!
真田太平記の名場面のように、
三谷脚本はどのようにこの兄弟の物語を描いてくれるのか・・・
犬伏同様きっと二人とも笑顔なんだろうな。。。
と思うだけでも涙が出そうです!!






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