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昨年末 NHK BSで放映された
『古代中国 よみがえる英雄伝説』3部作 録画していたビデオを観ました。 初回 『始皇帝と乱世の名臣たち〜春秋戦国時代 』 2回目 『紂王と太公望〜王朝交代 古代最大の決戦』 3回目 『伝説の王・禹〜最古の王朝の謎』 ナビゲーターは中井貴一さん。 どうやら2013年に放送されたドキュメンタリーの再放送との事。 今から4年前の放送とはいえ 三部とも大変見ごたえがあり、かつ勉強になりました。 テーマを貫くのは 最新の考古学と発掘調査に基づき 積み上げられた史実から 古代中国の実像に迫る視点でした。 実に素晴らしい‼ 三回とも興味深すぎるのですが、 今回は、2回目の『紂王と太公望』 殷が滅んだ天下分け目の闘いである 『牧野の闘い』に至る理由と実像を 簡単に紹介したいです。 紂王は、殷王朝最後の王で 古代史最も残虐な王として 司馬遷『史記』に描かれています。 紂王と言えば、 酒池肉林。 政治を顧みず、愛妃 妲己と日夜放蕩と乱行に耽ったと言われています。 又、残酷な刑罰を好み、 恐れ慄いた周辺諸国は、周の武王を中心に連合軍を組み、 天才軍師 太公望の戦略がはまり、 牧野の戦いに於いて僅か1日で殷は敗戦し滅んだとされています。 紂王は悪 周や太公望は善 史記に描かれた、勧善懲悪の物語は、 全て周側の資料が基であり、 『紂王は本当に悪者だったのか?』 中井貴一さんの素朴な疑問から、 壮大な歴史の旅が始まるのです。 (この掴みも完璧、観るしかないってば!) 殷王朝が栄えたのは 紀元前1600〜紀元前1000年。 今から約3600年前、 黄河より北に位置する河南省安陽市が 殷の都です。 約80年前に発掘された殷墟で 中国最古の甲骨文字が発見され 初めて殷王朝の実在が確認されました。 このシリーズでは何度も司馬遷の史記が 登場するのですが、秦始皇帝を始め、 驚くべきは、その内容と発掘調査や遺品と合致する事柄が多いこと。 80年に及ぶ殷墟の発掘調査で 特に目を引くのは大量に発見された 最先端の青銅器武器の数々。 更に当時最先端の戦車まで発見されています。 圧倒的な軍事力で周辺諸国諸国を制圧したのが分かります。 今から3600年前といえば、 日本は縄文時代。 その時代に、 甲骨文字を用い、青銅器武器や戦車を製造していた王朝が実在していたのです。 因みに、”殷”とは後世が付けた国名で 当時の人々は、自分達を”商”と呼んでいました。 商、即ち商売。 殷は西アジアとの交易で彼らの文化を 積極的に取り入れて国力を増したのです。 紂王の悪業の象徴とされる 酒池肉林。 しかし殷墟の出土品(なんと約百万点!)から見える貴族や庶民の生活実態が分かると その見え方も変わってきます。 一般市民を含め特に多いのが、酒器。 そして動物の骨。 殷は祭事、催事に国民全体が酒を嗜み、 また、国家事業として牛や羊を計画的に放牧していたのです。 即ち、殷は豊かな食料を確保し、酒を嗜む 高度食料文化を持つ国であり、 酒池肉林は、その、豊かさを誇張し かつやっかんだ表現だったのかもしれません。 そして殷が産んだ最大の発明、 甲骨文字。 漢字のルーツです。 清朝末期、北京の漢方薬局で、マラリアの特効薬として売られていた、牛骨や亀甲羅に文字らしきものが見つかり、それらが出た場所を発掘したところ、巨大な殷墟が見つかったのです。 驚いたことに、今でも読める文字があったこと。漢字のルーツである事が確認されたのです。 それまでは、史記の描写が残酷過ぎて、 殷王朝は架空の物語ではないか、と思われていたのですが、 史記に記載された”祖丁” や”小乙”の文字がまんま残されていた、というからビックリですね! 司馬遷、お見事です! 甲骨文字を読み解くと 殷の王自ら刻んだものであり もっぱら占いに用いられた事が分かっています。 また紂王の悪業として有名な 炮烙之刑 (ほうらくのけい)。 紂王の愛妾 妲己の提案で用いられた 残酷な刑罰。 焼けた銅の細い柱の上を歩かせ、罪人が苦しむ様を見て妲己は喜んだといいます。 発見された甲骨には、妲己の存在を示すものは発見されていません。 しかし、殷では、妲己のような極端な例ではなく、女性が優遇されていた事が分かっています。 殷墟で発見された、婦好の墓。 婦好は、殷第23代武丁の妻で、 政治や祭祀だけでなく、武将として大軍を率いて出兵した、中国版ジャンヌダルクです。 史記によれば、牧野の戦いで周の武王が開戦前に列挙した殷の悪業の第一に、婦人の政治登用を挙げています。 周の人々には受け入れ難い制度でしたが、 現代に通じる政策です。 青銅器の最新兵器で武装した 最強の軍事力を誇り 食料を計画的に生産し、女性を登用し 文字を用いて祭り事を行なった、高度な文化を誇った殷。 この殷に対抗し たった1日の牧野の戦いで殷を滅ぼした 周。 農耕を主産業とした小国の周は、 紀元前13世紀頃から婚姻関係を結ぶなど 大国殷に接近し、殷の文化を吸収して 国力を増していきます。 周や周辺諸国は、何故この超大国殷に 反旗を翻す必要があったのか? それは、殷墟の祭祀坑で発掘された、 殷の暗部、闇が解き明かしてくれました。 それは、大量の首のない遺骨… その数、一万四千体…‼ 即ち、人間の生贄。 甲骨から、祭祀の際に殷王は 人間の首を切って お供え物とした事が確認されました。 番組後半からこのエピソードに突入したのですが、首のない大量の遺骨が整然と埋葬されている映像を見て正直、余りの残酷さに、衝撃を受けてしまいました。 更に衝撃の内容が明かされます。 甲骨に刻まれた 『羌』の文字。 人の生贄を指します。 『羌三十 牛十』 占いに人間30体、牛10頭を捧げます、と言う意味で、牛よりも人の生贄が多く殺害されていたのでした。 羌と呼ばれた殷の生贄について、 最近その実態が確認されました。 羌の歯と、中国全土の歯との放射性物資を照合したところ、 中国西部甘粛省の部族と合致したのです。 羌の故郷 甘粛省は、 殷の国外の弱小国で遊牧民。 殷は、文化の異なる異民族を人とは思わず まるで狩のように羌の人々を連行し、 神への生贄としたのです。 高度な文化と強烈な差別意識。 殷王朝の光と陰ですね。 歴代の殷王は、 もし殷のやり方に従わないと 羌にするぞ、と見せしめに殺戮を繰り返していたのです。 こりゃ、殷は滅びるわ…。 実に説得力が、ありました。 そして、満を辞して登場した 太公望。 殷の圧政に苦しむ周の文王が 神のお告げをうけて川のほとりに行くと 釣りをしていた男がおり、 文王に『覇王のため殷を討て』と 説きました。 感銘を受けた文王は、 この人こそ、祖父太公が望んだ人物だと 太公望と呼び、 宰相として登用したのです。 太公望に関する資料がないため 長らくその実在は疑われていました。 しかし、 2009年 中国山東省で発見された青銅器に 新たな発見がありました。 殷を倒した直後に作られたもので、 そこに『文祖斉公』の文字が印されていました。これは『開祖太公望』を意味し、 太公望が実在した可能性が高まっているそうです。 司馬遷、お見事です。 太公望の策略なのでしょうか、 周は着々と殷を打つ準備を進めます。 殷との関係を保ちつつも、 周辺諸国と密かに同盟を結んでいきます。 史記に曰くの『牧誓八国』同盟軍です。 周辺諸国は、生贄を恐れ、 自分たちの文化を守る為に 周と連携を結んで その時を待っていたのです。 そして、 武王11年、2月甲子の日、(紀元前1046?) 牧野の戦いが勃発します。 この日が選ばれたのも 太公望らしい戦略がありました。 牧野戦の前に刻まれた殷の甲骨に 殷の東で反乱が相次ぎ、精鋭軍を多数投入したことが分かっています。 そこへ周の連合軍は西から攻め込んだのです。当然、東の反乱は周と連携していたでしょう。 事前から周到に準備された見事な戦略。 殷は70万の大軍、 周の連合軍は約40万 しかし殷の精鋭軍は東にあり 寄せ集めの殷軍は、 周連合軍の猛攻に、武器を捨てて逃げ出したと言われています。 史記には、牧野戦は1日で周が勝利したと記されていますが、 その記述が正しい事も証明されています。 牧野戦い直後に作られた青銅器に刻まれた言葉。 『武王は甲子の日に殷に攻め込み、 夕方には殷を支配した。』 史記の記述通りでした。 紂王は殷の王宮で、 あらゆる宝飾品を、身にまとい火の中に 見を投じたといいます。 殷の代わりに周王朝が栄えます。 周の統治法は、周辺諸国に土地を与え 自国の文化を守る事を許す代わりに 税や労役なとを課す、封建制度。 日本でもお馴染みですね。 漢字といい、史記といい、 日本史オタクにとっても 実に勉強になるドキュメンタリーでした。 また、旅人&ナレーション担当の中井貴一さんが、重厚で素敵でした。 中国でドラマや映画に出演された経験があり、中国語も喋るし、史記も漢文で読んでるみたいでした。 中国でも隠しきれないスターのオーラ⭐ 良い番組でした! シリーズ復活して欲しいですね。 |

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