ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「功名が辻」

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熱烈な上川隆也ファンが、2006年大河ドラマ「功名が辻」の感想を毎週UPしています。
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TVもビデオも復旧し、何とか再放送までに間にあいました!
とはいえ、明日はもう36回目放送で、遅すぎた感想とは思いますがとりあえずUPします!

しかし。。。

小田原で見詰め合う一豊&千代に赤面したぞ!


未だ恋愛関係のような新鮮さを持ち合う夫婦って、奇跡だと思う。
けど、当時大名が側室持つことが当たり前の時代、しかも正式な世継ぎもいないというのに
正室しかもたなかったとこの夫婦。
生涯ラブラブだったのはどうも真実に近いようですが。。。。やっぱり赤面したぞ!

そして、小田原攻めで一豊が着ていた陣羽織の背中には
千代がパッチワークした手縫いの家紋〜! 憎い演出でしたねえ。

上川ファンとしては、短くはあったのですが、上川さんの華麗な立ち回りが見れて
ほれぼれしてしまいました。ホントカッコイイです。
千代が生涯惚れ続けるのも分かりますよ。


大垣城のタチションシーンも秀逸でした。
柄本秀吉 & 西田家康の演技の競演もますます見事です。
これからは心理的な演技が多くなる思われますので、お二人が如何に表現するか、楽しみです!

そしてわれらが三成も段々と頭角を現してきましたね。
事実三成の兵糧や武器の手配や兵の運送は、それはもう緻密で何の粗相もなかったそうです。
でも、戦はやっぱり苦手だったようです。
小田原攻めで、三成は、武蔵の忍(おし)城を、秀吉をまねて水攻めにしたのだけれど
ものの見事に失敗したようです (涙)
そのため、秀吉恩顧のいわゆる尾張組の武将達(加藤清正、福島正則ら)から
「戦べた」のレッテルをはられそれが後の関が原まで尾をひくこととなりました。

実は明日からパンダ国へ出張するため、明日の放送は帰国後のビデオ録画となります
次回の大河の感想もはたまた遅くなりそうですが、必ずUPしますので、皆様お見捨てなく・・・
ぎこちない蹴鞠の練習
すねて仮病になってみたり
遅刻した聚楽第のふすまの陰から覗いてみたり・・・

一豊上川さんのコミカルな演技が光りましたね〜!


上川さんて舞台でもちょっと3枚目を演じさせたら抜群で結構笑いのツボ知っているんですよ〜!
上川さん自身ものりのりのご様子で、かなり笑えてしまいました!

そして、後半にはいってじわじわと存在感を増していた、永作さんの茶々姫が
とうとう主役に躍り出た回でもありました!

浅野寧々 VS 永作茶々のオンナの戦いも迫力満点で、キャラとしては
「不信のとき」(米倉VS松下)を超えていますよ。

今まで茶々を演じた女優さんほどすごい美人ではないけど、存在感は抜群です。
プライドが高いだけの姫ではなく、複雑な性格を併せ持つ、いわば「魔性の女」タイプです
秀吉がのぼせちゃったのも納得の魅力だと、永作さんの演技に感心してしまいました。

中村橋之助さんの三成もたじたじって感じですね。

ま、三成の隠れファンでもあるので、一豊さんが三成を「治部少輔」と正式に声をかけたのが
ムショウに嬉しかったりします。
がんばれ、治部少輔〜!これからですよあなたの出番は!

ところで、千代がパッチワークで縫い上げた内掛けが
聚楽第行幸のさい、後陽成天皇(柄本時生くん)の目に留まったってのはどうやら本当のようです。
このことから「千代紙」という言葉がうまれたとも言われています。
原作の司馬遼太郎先生は「千代は戦国時代の服飾デザイナーだった」と言ってます。

それにしても、最近の一豊&千代夫婦のべたべたの仲のよさったら、
もう見ているほうが赤面するくらいです〜!
羨ましくもあり妬ましくもあり。。。上川ファンは複雑な心境だったりします。

次回はいよいよ小田原攻め!!
そして、歴史の汚点(と私は思う)朝鮮出兵へと、豊臣政権に暗い影がはっきりと忍び寄ってきます・・・・
初回から千代と一豊夫婦を支え続けてきた偉大なる母上 法秀尼(佐久間良子)
あっけなく旅立ちました。
一豊と康豊兄弟の仲を最後まで心配し、命を削ったたという設定もヨカッタです。


母を演じた佐久間さんの貫禄は最後まで他を圧倒してました。
今最も輝いている女優の1人、仲間さんでも、佐久間法秀尼の側にいると
只の脇役に見えちゃったぐらいですから、その押し出しの強さ、演技の豊かさに
最後まで視聴者の私も涙腺緩みっぱなしでした。。。

史実でも、よね姫を失った翌年他界されたことになっています。
一豊と千代にとって辛いことの続いた長浜城主時代でした。

そんななか、ラストに「お拾い」が登場しましたね!
山内家の門前に捨てられ、その後、千代と一豊のもと慈しんで育てられる男の子です

千代に抱かれていた赤ちゃんがむちゃくちゃ可愛かった〜!
仲間さん、赤ちゃんの抱き方が上手くなったよね。
よねの時はまだ危なっかしかったことを思い出しました。

私はこの「お拾い」と一豊&千代と家族のキズナのお話も大好きなんです

今年の3月、土佐山内家の菩提寺で山内一豊&千代の御廟 のある 妙心寺大通院(京都)
をお参りしたことを思い出しました。
⇒ 記事はこちら http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/30098146.html?p=2&pm=l

イメージ 1


この大通院こそ、「お拾い」長じて「湘南宗化」が入寺しており
一豊が亡くなった後、千代は長男湘南宗化の側で暮らしたいと、お供の者達と京へ移り住み、
しかも、わざわざ一豊の墓を土佐から遷し、終生その御霊のお世話をしたそうです。

こじんまりとしたお寺ではありましたが、賢夫人の名に相応しい清楚な寺で
小説等で知ってはいましたが、一豊&千代と継子の長男「お拾い」との
深い深い愛情を垣間見たようでなんとも温かい気持ちになったものです。


長男 湘南宗化(一説では一豊の庶子とも噂される?)は
血は繋がっていませんでしたが、千代に似た聡明な男の子だったようで
出家した後も高僧として名を残したようですよ。

ドラマで千代が「法秀尼さまのお導きでしょうか」と呟くシーンがありましたが
人と人の縁(えにし)の不思議さを感じますね。
よねを失った千代にとって、お拾いの存在が人生の支えとなったことに間違いはないようです。

追記:
前回の秀吉VS家康の対決シーンの象徴ともいえる秀吉の「陣羽織」の複製が公開されました。
(京都市東山区の高台寺) 
関連記事はこちら ⇒ http://news.goo.ne.jp/news/picture/jiji/20060821/4659734.html
家康上洛の場面できていたかどうかは不明ですが、きらびやかな装飾がほどこされていたことでしょう。
でも猿が派手なちゃんちゃんこ着てるみたいで、妙におかしかったのでは?とも思いましたね。

イメージ 2

上川一豊さんのおヒゲにやっとなれた第32回でした^^;

よね姫を失いながらも夫とお家のために再び生きようと決意した千代の元に
「お見舞い」と称して訪ねてきた寧々。
その目的は、秀吉の妹、旭姫の再々婚話・・・しかも相手は徳川家康だという。
しかも、副田甚兵衛と仲良く暮らす旭を、無理やり離縁させての再婚を秀吉が画策しているので
知恵を貸せという訳です

しかしその本心は、旭姫と甚兵衛の仲をとりもつなど、旭から信頼されている千代への
牽制でした。 (ここらへんは憎い演出でしたね!)

なかなか上洛してない家康を取り込むためとはいえ、あまりにも非情なやり方は
千代ならずも、私達現代人にも許しがたい行為です!! オンナを何だと思っているのよ!プンプン

そうはいっても相手は関白。
最近やっと政治感覚が養われてきた一豊は、上意には逆らえぬと千代を諭します。
「家族を犠牲にするなどと・・・」言外に失ったわが子の面影を追う夫婦。

なんか最近のお二人が(上川&仲間コンビ)本当の夫婦のとうに見えてしまうのは、私だけ?
いえいえ、お二人の演技力と思いましょう!
時に天正14年(1586)旭姫44歳、家康45歳。
熟年同志の政略結婚でした。

ただし家康が旭姫を寵愛したというのも本当のようで、その点は少し救われます。
家康には数多くの側室がいましたが、秀吉とは違い、身分の低い女性や、年配の側室も多く
美人好みでもなかったようです。

旭を輿入れさせてもいっこうに上洛してこない家康の狸ぶりに、
とうとう秀吉が人質としてさしだしたのが生母の大政所。

秀吉は百姓のせがれだったため親戚縁者が少なく、これが豊臣家の政権上の最大の弱点でありました。
頼れる親戚もおらず、人質として切れるカードが少なかったからです。
しかも本人には子がいないだけでなく、弟の秀長や旭にも子がいませんでした。

今回「功名が辻」では、人質カードの少ない息子のため大政所が自ら志願して
浜松へ向かったとなっていましたが、ありえる話ですね・・。

大政所の替え玉ではないかと疑う家康は、旭姫にまず合わせてその反応から
本物の大政所だと判断したというくだりは、史実です

そして秀吉のこの思い切った懐柔策にとうとう上洛したあとのエピソード
(前夜の突然の訪問と陣羽織のやりとり)もすべて史実として伝わっています。
脚色なくても、史実がいかにドラマティックであるか!がわかりますよね。

ところで、旭姫と無理やり離縁された副田甚兵衛(野口五郎さん)。
夫は佐治日向守だったという異説もありますが、どちらにしても離縁後の消息は不明です。
秀吉の所業に怒って切腹したとも、出家したとも言われていますが、
唯一分かっているのは、離縁という上意に怒り、秀吉からの加領の申し出を断わった事。
風采の上がらぬ夫だったようですが、旭を愛する心は真実でありました。

できれば、今回の大河のように切腹せずに生きていてほしいと願わずにはいられません。
ああ、とうとう、この回を迎えてしまいました。

天正大地震  天正13年(1585)11月29日夜


        
十一月二十九日 長濱大地震。長女・與禰姫圧死ス。其他家臣死スル者多シ。「一豊公紀」より


公式文書によれば、一豊公は京都におり長浜城不在。
千代は「お与祢は如何に」と半狂乱となり名前を呼ぶも、棟木の下で息途絶えている乳母と「よね」姫が確認され、さらに家臣・乾彦作ら数十人が亡くなったことを記しています。(下記:参考1)

天災で子を亡くした千代と一豊。よね姫はまだ6歳だったと伝わります。
最初から最後まで涙が止まりませんでした。

長浜城修復のため京都に移り住み、尚も、よね姫を忘れることが出来ない二人は
肩を寄せ合い涙します。

上川一豊さんが「この先何を・・・」といって絶句してましたね。
その後に続くのは「何のために生きればいいのか・・・」
でもこの言葉は、自責にため後追いしかねない千代にはいえない言葉です

実生活では独身とはいえ、お二人の演技は本当に素晴らしかったです。

よねが着るはずだった小袖を見知らぬ少女に渡す千代。
きっと同じ年頃の娘を見るたびによねを思い出すのでしょう (ノ◇≦。)ううう。


この天正大地震、西暦でいえば、1586年1月18日で、「こおろぎ」は多分泣いていないと思われますが、でも心にしみる演出でしたね。
「功名が辻」HPによれば、康豊手作りの「こおろぎ」は今でもスタジオロビーに飾られているそうですよ。よね姫役の「森迫永依ちゃん」も本当に可愛かったですね。


「天正大地震」こぼれ話
謎の帰雲城
この天正大地震 東海・北陸・近畿地方など広範な地域で起こった強い地震(M8〜8.1)で、
大規模な災害が各地でおこりました。
なかでも白川帰雲城は、内ヶ島一族、家臣在家三百余軒、男女数百人とともに、土石流によって埋没してしまい、内ヶ島一族は滅亡。現在でも帰雲城の場所は確定されていません。
また内ヶ島一族には隠し財宝があったとされ、埋蔵金伝説が現代に語り継がれることとなりました。

参考.1
【御家伝并御武功記】
十一月二十九日 於江州長濱宇内、大地震。山川転動裂壊家屋、顛潰長濱之御城殿崩、與禰姫様喪亡、御歳六歳。号光景妙円。是見性院様御腹の子也。此時、御家人乾彦作和信を始メ数拾人死す。

一 天正十三年乙酉十一月二十九日夜、大地震。長濱御殿潰る。明神様(一豊)御在京御留守にて早速駆け着くの所、見性院様潰れ屋脇に御立御名御呼掛け「お与祢は如何に」とお尋あり。御安否未だ分からず候えども御恙無き由、マツ仰せられ、以後に御不幸の事、仰せられ候由。

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