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皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

歴史の扉 戦国

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2008年最初に選んだ小説は、司馬遼太郎先生著『戦雲の夢』

土佐二十二万石の御曹司でありながら、関が原で西軍についたため
一介の牢人の身に落ちた『牢人大名』と呼ばれた殿様のお話である。

正直、ぱっとしない、負け組みの武将のお話だし、
司馬先生の小説ではあまり泣くことのない私だけれど
意外や意外、これが泣けた、泣けたの内容だったのである。

しかも、私が決まって泣けたのは、この小説の主人公である長曾我部盛親ではなく
彼のために主家を失い路頭に迷った家臣たちのお話ばかりであった。



司馬先生も指摘されているが、この長曾我部盛親、残念ながら
とてもとても乱世を生き抜く器量を持ち合わせてはいなかった。
ただし、身長6尺(180cm)を超える大男で、男ぶりもよく、
しかも相当の使い手であったという。
そのため、「器量ある武将」と見られたのが悲劇の一旦でもあろう。

なにやら、武田の御曹司勝頼公に通じるものを感じてしまう。


簡単に長曾我部盛親の人生をおさらいしてみよう。

天正3年(1575年)、四国の覇者として名高かった長宗我部元親の四男に生まれる。

天下に野心を持ちながら秀吉に屈服せざるをえなかった、偉大なる父から溺愛され、
兄二人を差し置いて嫡子となった御曹司。(長兄はすでに戦死していた)

1599年の父他界の後、領国を固められぬまま関が原合戦に巻き込まれ西軍につく。(1600年)
実は盛親は、家康の器量を見込んで東軍に付くべく使者を発てたが
近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれて、やむなく西軍に与したという事情があった。

このとき同様の状況にありながら、千代の機転で東軍に組し、
後に土佐の国持ち大名となった山内一豊との運命の分かれ道でもあったのだ。

しかし、何が何でも東軍へ!
という頑固な決意があれば、別の方法でも連絡を取ることはできたろう。
1回の失敗で諦めるあたりが、やはり御曹司、のんびり気質の表れでもあったのではないだろうか。

関が原での西軍敗北の後、軍と共に土佐へ帰った盛親は、またまた判断を誤ってしまう。
家督を争った兄、津野親忠を殺害してしまったのである。
津野親忠は徳川の腰巾着、藤堂高虎と好みがあったことから家康の怒りを買い
領地没収、改易の憂き目にあう。

身一つで京都に追われた盛親は、「牢人大名」とあだなされ
名前も大岩祐夢と変えて、寺子屋の師匠をして身をたてていたといわれる。


小説では、寺子屋の師匠に成り果てても、もって生まれた淡白な性格から
志井の生活に埋没してしまうことも良かれと思う場面なども出てくる。

しかし、そんな主君を、影に日向に支える旧臣たちの、
我が殿を「天下一の器量でおわす」と信じてやまないその心が、私の涙を誘うのである。

改易後、ばらばらになった長曾我部の武勇の誉れ高い武将達は、
敵であった東軍の武将達にその多くが拾われていった。

天下の罪人となった旧藩主との接触は、命に関わることでもあったのだが、
それでも、彼らは、盛親の再起を信じ、秘かに仕送りもしながら、盛親の心を励ますのであった。

やがて、家康の「天下への野心」が露骨となり大阪と江戸は一触即発の緊張に包まれる。
慶長19年(1614年)秋、重い腰をあげて盛親は長曾我部の旗を立てることを決意し、
豊臣秀頼からの招きで大坂城に入城した。

このとき、全国に散らばった長曾我部の旧臣たちは様々に思案する。

「土佐者は土佐の陣で死にたい」と、改易後使えた家を身一つで飛び出したももあるし
また、そんな忠義熱い武士を「手柄をたてよ」送り出す、福島正則のごとき武将もあった。

特に、盛親の乳母の子供で幼馴染でもある桑名弥次兵衛を描く司馬先生の筆は
熱くて哀しい。。。
すでに改易後、一族郎党と共に藤堂高虎に仕官しその信任を得ている弥次兵衛は、
「家中の者に飯を食わせる」ために、藤堂の元を去ることはできない。
しかし、心のなかでは、「恋しい殿の元にはせ参じたい」衝動を押さえきれず男泣きするのである。


慶長19年(1614年)大坂冬の陣では真田信繁などの活躍で盛親に出番はなかった。
しかし翌年の夏の陣は、長曾我部盛親にとって最初で最後の大舞台となった。
豊臣家重臣の木村重成らとともに2万の主力軍勢で徳川家の藤堂高虎と戦った、
もっとも激戦であったとされる「長瀬川の決戦」である。

このときの盛親の采配はまさに見事であった。
川の堤防に陣を敷き、藤堂隊が近づいたところで一気に槍を構えた兵を突撃させ、
藤堂隊をほぼ壊滅状態にまで潰したのである。

盛親という眠れる獅子は、たったこの1日のためにだけ大暴れしたかのようだ。
なぜなら、長曾我部盛親の大勝利はしかし、局地的なものでしかなく、
井伊直孝の援軍の登場により、木村重成が戦死、他の諸部隊も壊滅したため、
撤退を余儀なくされたからである。

そして豊臣秀頼公と淀の方は大阪城で自刃。豊家は滅びる。
戦国の世は終わりを告げ、戦国武士たちの夢もはかなく散ったのである。

長曾我部盛親の最期は、案外はっきりしている。
再起を図り大阪城から逃亡したものの、5月11日京都八幡近くの葭原に潜んでいるところを、
蜂須賀家の家臣に見つかり捕らえられる。
その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。同月15日、六条河原で斬首される。 これにより、長曾我部氏は滅亡。
享年41歳であった。

ただし、司馬先生は、頓着のない御曹司らしく逃げおおせて、
若狭国の本願寺系の末寺で僧侶になり、一婦人とともに余生を過ごしたとの伝説を紹介して
この小説を終えている。

しかし・・・である。
もし長曾我部盛親の武将の虫が少しでも彼の心に残っていたとすれば、
再起を図って捉えられ、首をはねられたほうが、本望ではなかったか。

己の判断ミスのため、家臣郎党を離散させてしまった原因を自覚し、
それでも、「我が御殿は天下の器量」と信じて、牢人生活を支え
そして土佐の陣で死にたいと、はせ参じた家臣達の篤き忠義に報いるために
一抹の武士の心があるならば、坊主となって隠棲生活などできぬはずである。

戦国時代の武士達は、上司を選ぶことなどできなかった。
運悪く負け組の上司についたからといって、しかし、その恩義を忘れるなど
武士の生きる道ではなかったのである。

私がこの小説で泣けたのは、そんな家臣たちの、幸せそうな姿なのである。
牢人となった盛親の再起を信じた、笑顔なのである。

確かに彼らは負け組であろう。
そしてその多くが、大阪の陣で屍をさらしただろう。

しかし、主家再興の夢を持ち、天下の器量と信じる盛親と共に
長瀬川で戦国最期の「槍働き」をした彼らは戦国武士として、むしろ幸せだったのではないだろうか。

大河ドラマ「風林火山」で内野さん演じた山本勘助の、笑顔の最期を思い出した。

私が戦国時代が好きでたまらないは、ひたすらまっすぐで熱く、時には滑稽ですらある
戦国武士の生き様に憧れるからかもしれない。

今年しょっぱな、いい本に出合えた。
一度しかない自分の人生。負けてもいいから悔いなくまっすぐに生きたい。

服部半蔵の真実

2008年しょっぱなは、ちょっと軽めのお話で・・・

服部半蔵といえば、家康の闇の軍団のリーダー。凄腕の伊賀忍者だ!というイメージが固定されている。
しかし、これは100%正しくはない。
服部半蔵は、実際には伊賀忍者ではなかったというのが真実なのである。

服部正成 天文11年(1542年) - 慶長元年(1596)11月4日

通称、半蔵。
彼の血筋は確かに伊賀の有力家系の服部一族である
しかし、半蔵の父、服部保長(やすなが)は伊賀での領地を失い、伊賀を出て
三河の松平家、つまり後の徳川家に召抱えられたという経緯がある。

つまり、保長の息子である半蔵正成は、生まれも育ちも生粋の三河武士なのである。

事実、姉川合戦や三方ヶ原合戦においても、服部正成は、忍術ではなく「槍働き」で
武功をあげている。
伊賀の血筋とはいえ、その実像は、徳川家康恩顧の武将と同じなのであった。

しかし、服部半蔵がその名前を歴史に刻むのは、彼の伊賀との血縁が原因であった。
すなわち、本能寺の変の後の、「家康の伊賀越え」である。

1582年(天正10年)本能寺の変が起こったとき、家康は少数の共回りのみで堺に滞在していた。
光秀の追手を逃れるために、家康は当時は危険と言われた伊賀を抜けて伊勢から三河へと
抜ける逃走ルートを選ぶ。
夜盗や野伏が出没する危険な道中にあって、服部半蔵は、伊賀の血縁であることを武器に
地元の有力者を説得し、家康の安全を保障してもらった。

「伊賀越え」は家康にとっても人生最大の危機であり且つ転機ともなった
その縁で家康は、後に伊賀の下級武士達を多く召し抱え、半蔵にその組頭を命じた。

最下層の足軽軍団ながら、家康天下取りを支えた闇の軍団=「伊賀同心」の始まりである。

服部半蔵が「伊賀忍者の頭領」で、伊賀忍法を操るヒーローと思われたのは
ある意味仕方ないことかもしれない。
しかしれっきとした三河武士で武勇を讃えられたのならまだしも、忍術を操ったというのは
やはり後世の誇張であったと言えよう。

以前にも記事にしたが、服部半蔵が束ねた「伊賀同心」は江戸城西側の門の警備をしたことから
その門は「半蔵門」と呼ばれるようになった。

服部半蔵は家康の長男、信康の最期に立ち会った人物であり、非業の死を遂げた若君への忠義篤い人物であった。家康の半蔵への信頼の厚さはそのことも原因と言われる。
服部半蔵は、信康ゆかりの寺 西念寺に葬られている。



拙文ですが関連記事 「甲州街道の謎」 も参照ください。
先日、大阪歴史博物館で開催されている
「NHK大河ドラマ特別展 風林火山」を観てきました!

ドラマで使った衣装とかセットがあるのかな〜と気軽な気持ちで行ったのですが
そんなのもは一切なく、かなり重厚な内容となっておりびっくりしました。

出展総数: 209点
内、国宝: 6点  重要文化財: 11点

この数字だけでも、内容の濃さがご理解いただけると思います。

会場は6パートに仕切られており、以下のテーマに添った資料展示となっておりました。

プロローグ 山本勘助 伝説の軍師
第1章 信玄と謙信
第2章 「風林火山」の時代
第3章 決戦川中島
第4章 軍学と軍師伝説
エピローグ 語り継がれる山本勘助

まずしょっぱな。
いちばん最初の展示資料が「市河文書 武田信玄書状」
「おお〜!」とうなってしまいました。
『甲陽軍艦』以外で初めて「山本管助」の名前が記された、あの有名な文書です!

見たい!と常々思っていた古文書を目の当たりにして、しばし硬直しちゃいましたね〜。
山本勘助や信玄という人物を身近に感じた瞬間でした。

内容は信玄が重臣達(特に飯富虎昌の名前がありました)と作戦を練ったのでそのとうりにしてほしい。
詳細は山本管助が直接伝えるからよしなに・・・てな感じでしょうか。

信玄直轄の工作員としての勘助の実像が浮かび上がってきます。

山本勘助像も展示されていました。

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これは山梨県立博物館蔵ですが、個人的には恵林寺蔵の「勘助象」のほうが内野勘助に近いなと思いました(写真ないのでごめんなさい)

第2章 信玄と謙信のコーナーでは、
上杉家の一級資料として名高い「謙信公御年譜」「上杉玄清起請文」「上杉家軍役帳」(すべて国宝)が展示されていました〜!
さすが、名門、名家であります。
上杉家の誇りや拡張高さがオーラとなって漂っておりました。

上杉家の系譜だけではありません。

なんとなんと、「織田信長書状」(国宝)も展示されていたのです!
信長信者として、まさかここで信長公直筆書状を目にすることができるとは思わなかっただけに、超感動してしまいました。
信長公がひそかに謙信へ贈り物を献上し密約を結びたい旨の内容でした。
戦国時代の複雑な外交戦略を彷彿とさせる手紙であります。



古文書だけではありません。
武田勝頼公が富士山本宮浅間大社に戦勝祈願のため奉納した「紅糸威最上胴丸」も見ることができました。
数少ない武田家所有と確認できる甲冑です。

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装飾をへらし実践的な用途に絞った甲冑をみて、武勇すぐれ自ら戦場で槍を振るったといわれる勝頼公の若武者姿を想像しました。

今回の展示資料をみて痛切に感じたのは、武田資料の少なさです。
武田勝頼公の代で一旦滅んだ武田家と、明治まで存続した上杉家の違いでしょうか、
やはり圧倒的に上杉家の資料が多く、かつ質も高かったです。

なかでも、「刀 銘一 (号 姫鶴一文字)

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上杉家には多くの名刀が伝わっていますが、これもその一振。

備前一文字派の最盛期の作品で、上杉家伝来の刀剣類の中でも特に名高い作品のひとつなんだそうですが
実物の美しさは、言葉にはできないほどでした。
素人でもその澄み切った刀の美しさに魅了されましたよ。
『上杉景勝自筆腰物目録』に、この「姫鶴一文字」は「上秘蔵」と指定されているとのこと。
景勝秘蔵ということは、もしかしたら謙信公由来の逸品かもしれません。


上杉謙信公は、京の雅にも通じた教養人でありましたが、その審美眼も素晴らしかったようです。
これは上杉神社に奉納された、謙信公の「馬上杯」です。

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色とりどりの唐文様有線七宝で、身の内側は金箔押しとしており、実に豪華な作で、
明代の中国より舶載されたそうです。
当時の舶来品ですよ〜!
酒豪の謙信公は、若衆を集めて宴会をたびたび開いたそうでそのときこの杯で酒を飲んだとのこと。


先週の「風林火山・関東出兵」で小田原城を目前にして、ガクト謙信が悠々と酒を飲んだシーンがありましたね。
そこでガクトが持っていた杯がこの馬上杯、そっくりだったんです。
画面をみて「ああ〜!」と思いました。(J−BOYさんも同じ感想だったそうです)
細かいところまで資料を調べているNHKスタッフに拍手したい気持ちになりました。

その他、黄梅院(北条氏政正妻)の安産祈願のため信玄が、安産祈願で有名な富士御室浅間神社に奉納した願文も展示されてありました。
(実はこの晴信願文も見たかったんですよ〜。うれしかったです)

三国同盟のため北条へわずか12歳で嫁いだ娘への信玄公の親心がみてとれます。
黄梅院は北条氏政と政略結婚ながらも仲睦まじく、北条5代の氏直はじめ5人も子宝に恵まれますが
甲斐の突然の裏切りのため、黄梅院は夫と引き裂かれ離縁されてしまいます。

子煩悩であった父でありながらも娘の幸せを奪うしかない戦国の悲劇・・・
信玄の苦悩をも感じた次第です。

古文書好きなんで、もう一つご紹介。
(マニアネタですみません・・・)

武田晴信(信玄)感状 大須賀久兵衛尉宛

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これは以前「風林火山」感想文でも取り合げたことのある有名な晴信の書状なんです
これも超感激でした〜!

第二回川中島合戦で、久兵衛尉の被官が敵の首一つを討ち取ったことを賞しています
「晴信」の名前の印を用いた珍しい手紙で、しかも、日付は、合戦と同じ天文24年(1555)7月19日であることから、晴信が即日で家臣たちの軍功を認め、戦意の高揚と自らへの忠節を図っていたことがうかがわれます。
川中島が信玄公にとっていかに重要な合戦であったかがわかる資料ですね。


第4章 軍学と軍師伝説コーナーもマニア垂涎のお宝ばかり。
江戸時代作とされる「甲陽軍鑑版本」「川中島合戦屏風」が数多く展示されていました。
江戸の武家や庶民まで、信玄VS謙信の合戦話が広く親しまれていたかが理解できました。

そのひとつ「川中島合戦図屏風」(和歌山県立博物館蔵)です。
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両雄の一騎討ちもちゃんと描かれていましたよ!
ドラマも佳境にはいり、この屏風のような合戦絵巻が展開するかと思うとわくわくしてきますね。

最後は、「語り継がれる山本勘助や川中島」をテーマに
江戸時代から明治までに描かれた歌舞伎絵、浮世絵などが展示されていました。
そのなかで「甲越武勇伝」(歌川芳勝画)のなかで見つけた「宇佐美定行」
緒方拳さんそっくりだったんです。
この浮世絵をみてキャストをたんじゃないかと思ったほどでした。

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絵葉書買ったので、こっそり写真UPしちゃいますね。

この素晴らしい特別展ですが、12/3 までです。
ご近所の方はぜひともご覧くださいませ。内容の素晴らしさは私が保証します。

ちなみに期間中、館内レストランでチケットを持参すると
信玄ランチ\1250が¥1000になります! 

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これが信玄ランチです。ボリュームたっぷりでおいしかったですww


参考&ご案内
「風林火山」特別展 ⇒ http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2007/furinkazan.html

上杉謙信の出家騒動

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弘治2年(1556年)6月、長尾景虎(後の上杉謙信)が、出家するため突然出奔した。
向かったのは高野山。

なぜ高野山なのか?

この騒動の三年前、天文22年(1553)9月、景虎は上洛した時に高野山へ登っている。

真言宗の高僧、無量光院の住職「清胤」に会うためであった。

高野山は当時、女人禁制で、武装も固く禁じられていた。
そのため、景虎は黒漆の陣笠をかぶり、名刀備前国宗を戒杖に仕込み、
左腕に百八の数珠を巻いた姿で登山したといわれている。

このとき景虎 まだ23歳の青年であった。

彼は清胤和尚の教えにより、真言宗に入信して下山した。

しかも京都へ戻ったその足で紫野大徳寺に参禅。
前住職第九十一世徹岫宗九より、12月8日、三帰五戒と法号「宗心」を授けてもらう。
12月8日は「臘八」、釈迦が悟りをひらいた日とされている。

そのときの書状が残されている。

「越之後平氏景虎公、授衣鉢法号三帰五戒。曰宗心」


真言宗入信、三帰五戒と法号と、まだ青年であった長尾景虎が仏教に深く帰依していることが分かる。
精神世界への憧憬が強かったのであろう。
また、この書状から景虎が「平氏」であるとも見逃せない。



そんな「青白い頬」を持った青年武将からみれば、
実利や調略を重ねて他国へ侵略し、滅ぼした国の姫を側室にしてしまう武田晴信は
極悪非道でしかなったろう。

景虎が隣国からの侵略の危険も顧みず、万難を排して京へ上洛した目的は
正義という刃で、隣国との戦を正当化するためでもあった。

将軍や天子からの命令なく、自分の欲望野望のためだけに隣国を侵略するなど
景虎にとっては許しがたい行為でしかなかったのだ。

念願かなって、京都において後奈良天皇に拝謁した景虎は、天盃と御剣を賜り
禁裏での拝観も許された上に、

「平景虎、任国ならび隣国に敵心をさしはさむ輩を治罰せよ。」という綸旨を賜った。

綸旨をもって、景虎は、何の迷いもなく、宿敵武田と対峙することとなったのである。


ところが、文24年(1555年)、満を持して望んだ甲越の第二次川中島合戦は、
両陣営が2百日以上も睨み合う、膠着状態に陥っていた。

結局今川氏の調停によって和議が整い、疲労困憊の状態でやっと越後へ帰国するなり、
景虎は自国内の土地争いに悩まされることとなる。


奥郡の中条藤資と黒川美氏の土地争いが起こっていたのである。
この内紛は、両者の背後にある重臣の大熊朝秀と本状実乃の代理戦争でもあったのだ。

景虎は裁断を下すこともせず、突然引退し、天室光育に遺書をのこして
弘治2年(1556年)6月、単身旅に出たのである。

天室光育は、景虎が7歳で出家した林泉寺の住職で、最も信頼していた人物であった。

景虎は高野山で出家しようとしていたが、春日山城代で、姉(桃姫)の夫である長尾政景が
直々に跡を追い、懸命に説得した。

「武門の身にありながら遁世されるのは、内外の患いに負けて逃れしと評判される。
 長尾家代々の武門を汚すことになる」

結局、義兄や、天室光育の言葉に従い、出家を断念して春日山城へと戻った。
景虎 27歳の決断であった。


景虎が戻ると、大熊朝秀が謀反を起こしていた。


大熊氏は上杉家が越後守護として入国して以来の家臣であり、公銭方を務めていた。
景虎の父、長尾為景が主家の上杉氏と対立したとき、大熊政秀(朝秀の父)は上杉方について戦った。
しかし、朝秀は父の死後上杉家を見限って長尾家へ寝返り、景虎の越後統一を成功させた。
いわゆる功労者でもあった。
しかし、今回の土地争いでは、日頃公銭方として専横していた大熊氏への反感もあり
大方の地侍は、対立する本庄実乃側を支持していた。

越後で孤立した大熊朝秀へ、武田の調略が仕掛けられたのは当然であろう。
武田の情報網はそれほど優れていたのである。

しかし、軍神・長尾景虎にとって、大熊朝秀は惜しむべき功臣ではあったが
合戦の相手ではなかった。
越中口から侵入してきた大熊勢をあっという間に撃破したのである。

朝秀は甲斐へ逃亡して武田家の家臣となり晴信から重用された。
越後の内情に通じただけでなく、その後も何度も功名をあげたようだ。
「甲陽軍艦」にも朝秀の名前が記されている。

「大熊備前守  騎馬三十騎、足軽七十五人」
なかなかの出世である。


何はともあれ、この事件を機に長尾景虎は迷いを捨てたようだ。
両雄は確実な足どりで「川中島の死闘」へと踏み出していくのである。


なお、上杉謙信は女人禁制の高野山へ生涯で2度入山している。
このことが「謙信女性説」の最強の反論となっていることを付記しておく。
『上杉謙信女性説』

春日山図
参照@「武田信玄」津本陽先生著作

酒井忠次と徳川家康

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徳川四天王・十六神将の筆頭に数えられる酒井忠次

松平氏の譜代家臣左衛門尉酒井家の当主酒井忠親の子で、家康が子供の頃から使え、
家康が駿府で今川義元の人質となったときも、身近に仕えて苦労を共にした。
また、家康とは姻戚関係もあった。
忠次は家康の父松平広忠の異母妹を妻にしており、家康にとっては義理の叔父にあたるのである。


しかも、この忠次は家康の単なる腰巾着ではなかった。
姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手の諸戦役に参加してすべて戦功を立てており
特に長篠の戦いで、鳶が巣山砦の奇襲を成功させて織田信長から賞賛されるなど
武勇に優れた武将でもあったのだ。

家康は、武勇と忠義に篤い酒井忠次を長い間、信任していたのだが、
豊臣秀吉との覇権をかけて天正18年(1590年)江戸へ移って以降、
何故か、この酒井を冷遇するようになる。


江戸において三河以来の譜代の家臣へ新しく領地を与えるときに、
井伊家には11万石、本多家と榊原家には10万石を与えたのに対し、
譜代筆頭である酒井家には3万石しか与えなかったのである。

何故、突然酒井忠次が冷遇されたのか?
それは11年前のある事件への恨みが原因であったと言われている。
いわゆる、信康事件である。

天正7年(1579年)、家康の使者として安土城へ赴いた酒井忠次は、
織田信長から、徳姫の手紙を突きつけられた。

徳姫は、織田信長の息女で且つ、家康の嫡男、松平信康の正室であった。
手紙の内容は、夫 信康と姑の築山殿の非行を訴える手紙であったのだ。
(一説によれば、武田四郎勝頼と内通していたといわれるが、真実がどうかは不明)


信長の詰問に対して酒井忠次は、信康の弁護が出来ず徳姫の手紙を事実と認める発言をしてしまう。
そのため、織田信長は「信康切腹」を家康へ命じた。
事実と認めた以上、泣く泣く家康は信長の命令に従うしかなかたのである。


嫡男信康の死を家康は深く悲しんだ。
実際、徳川(松平)信康は、家康の期待に応えるだけの器量があったといわれている。
関ヶ原の戦いで徳川秀忠が遅参したとき、「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言うなど、
後世にいくつもの逸話が残されている。

家康は、信康切腹を阻止できなかった酒井の不手際を、決して忘れてはいなかったのである。
ただし、武勇に優れた忠次が天下覇権の道程には必要であったため重用していたともいえよう。

信康事件から11年後。
徳川家康江戸移封のとき、酒井忠次は息子の家次に家督を譲って京都で隠居していた。
長年の忠勤に対する論功も評価されず、息子の家次に3万石しか与えられなかったことについて
忠次は、家康へ配慮を申し立てたところ、
家康はただ一言、「お前でも子が可愛いのか」と冷たく言い放ったという。


家康の深い恨みと哀しみを伝えるエピソードである。



ちなみに、先日UPした「奥の細道の謎」で芭蕉が隠密として運河視察をしたとする出羽庄内藩は、
酒井忠次の嫡流、左衛門尉酒井氏が領主をつとめており、
初代藩主の酒井忠勝は、家次の長男。すなわち、忠次の孫となる。



(写真は信康が城主であった岡崎城)

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