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2008年最初に選んだ小説は、司馬遼太郎先生著『戦雲の夢』 土佐二十二万石の御曹司でありながら、関が原で西軍についたため 一介の牢人の身に落ちた『牢人大名』と呼ばれた殿様のお話である。 正直、ぱっとしない、負け組みの武将のお話だし、 司馬先生の小説ではあまり泣くことのない私だけれど 意外や意外、これが泣けた、泣けたの内容だったのである。 しかも、私が決まって泣けたのは、この小説の主人公である長曾我部盛親ではなく 彼のために主家を失い路頭に迷った家臣たちのお話ばかりであった。 司馬先生も指摘されているが、この長曾我部盛親、残念ながら とてもとても乱世を生き抜く器量を持ち合わせてはいなかった。 ただし、身長6尺(180cm)を超える大男で、男ぶりもよく、 しかも相当の使い手であったという。 そのため、「器量ある武将」と見られたのが悲劇の一旦でもあろう。 なにやら、武田の御曹司勝頼公に通じるものを感じてしまう。 簡単に長曾我部盛親の人生をおさらいしてみよう。 天正3年(1575年)、四国の覇者として名高かった長宗我部元親の四男に生まれる。 天下に野心を持ちながら秀吉に屈服せざるをえなかった、偉大なる父から溺愛され、 兄二人を差し置いて嫡子となった御曹司。(長兄はすでに戦死していた) 1599年の父他界の後、領国を固められぬまま関が原合戦に巻き込まれ西軍につく。(1600年) 実は盛親は、家康の器量を見込んで東軍に付くべく使者を発てたが 近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれて、やむなく西軍に与したという事情があった。 このとき同様の状況にありながら、千代の機転で東軍に組し、 後に土佐の国持ち大名となった山内一豊との運命の分かれ道でもあったのだ。 しかし、何が何でも東軍へ! という頑固な決意があれば、別の方法でも連絡を取ることはできたろう。 1回の失敗で諦めるあたりが、やはり御曹司、のんびり気質の表れでもあったのではないだろうか。 関が原での西軍敗北の後、軍と共に土佐へ帰った盛親は、またまた判断を誤ってしまう。 家督を争った兄、津野親忠を殺害してしまったのである。 津野親忠は徳川の腰巾着、藤堂高虎と好みがあったことから家康の怒りを買い 領地没収、改易の憂き目にあう。 身一つで京都に追われた盛親は、「牢人大名」とあだなされ 名前も大岩祐夢と変えて、寺子屋の師匠をして身をたてていたといわれる。 小説では、寺子屋の師匠に成り果てても、もって生まれた淡白な性格から 志井の生活に埋没してしまうことも良かれと思う場面なども出てくる。 しかし、そんな主君を、影に日向に支える旧臣たちの、 我が殿を「天下一の器量でおわす」と信じてやまないその心が、私の涙を誘うのである。 改易後、ばらばらになった長曾我部の武勇の誉れ高い武将達は、 敵であった東軍の武将達にその多くが拾われていった。 天下の罪人となった旧藩主との接触は、命に関わることでもあったのだが、 それでも、彼らは、盛親の再起を信じ、秘かに仕送りもしながら、盛親の心を励ますのであった。 やがて、家康の「天下への野心」が露骨となり大阪と江戸は一触即発の緊張に包まれる。 慶長19年(1614年)秋、重い腰をあげて盛親は長曾我部の旗を立てることを決意し、 豊臣秀頼からの招きで大坂城に入城した。 このとき、全国に散らばった長曾我部の旧臣たちは様々に思案する。 「土佐者は土佐の陣で死にたい」と、改易後使えた家を身一つで飛び出したももあるし また、そんな忠義熱い武士を「手柄をたてよ」送り出す、福島正則のごとき武将もあった。 特に、盛親の乳母の子供で幼馴染でもある桑名弥次兵衛を描く司馬先生の筆は 熱くて哀しい。。。 すでに改易後、一族郎党と共に藤堂高虎に仕官しその信任を得ている弥次兵衛は、 「家中の者に飯を食わせる」ために、藤堂の元を去ることはできない。 しかし、心のなかでは、「恋しい殿の元にはせ参じたい」衝動を押さえきれず男泣きするのである。 慶長19年(1614年)大坂冬の陣では真田信繁などの活躍で盛親に出番はなかった。 しかし翌年の夏の陣は、長曾我部盛親にとって最初で最後の大舞台となった。 豊臣家重臣の木村重成らとともに2万の主力軍勢で徳川家の藤堂高虎と戦った、 もっとも激戦であったとされる「長瀬川の決戦」である。 このときの盛親の采配はまさに見事であった。 川の堤防に陣を敷き、藤堂隊が近づいたところで一気に槍を構えた兵を突撃させ、 藤堂隊をほぼ壊滅状態にまで潰したのである。 盛親という眠れる獅子は、たったこの1日のためにだけ大暴れしたかのようだ。 なぜなら、長曾我部盛親の大勝利はしかし、局地的なものでしかなく、 井伊直孝の援軍の登場により、木村重成が戦死、他の諸部隊も壊滅したため、 撤退を余儀なくされたからである。 そして豊臣秀頼公と淀の方は大阪城で自刃。豊家は滅びる。 戦国の世は終わりを告げ、戦国武士たちの夢もはかなく散ったのである。 長曾我部盛親の最期は、案外はっきりしている。 再起を図り大阪城から逃亡したものの、5月11日京都八幡近くの葭原に潜んでいるところを、 蜂須賀家の家臣に見つかり捕らえられる。 その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。同月15日、六条河原で斬首される。 これにより、長曾我部氏は滅亡。 享年41歳であった。 ただし、司馬先生は、頓着のない御曹司らしく逃げおおせて、 若狭国の本願寺系の末寺で僧侶になり、一婦人とともに余生を過ごしたとの伝説を紹介して この小説を終えている。 しかし・・・である。 もし長曾我部盛親の武将の虫が少しでも彼の心に残っていたとすれば、 再起を図って捉えられ、首をはねられたほうが、本望ではなかったか。 己の判断ミスのため、家臣郎党を離散させてしまった原因を自覚し、 それでも、「我が御殿は天下の器量」と信じて、牢人生活を支え そして土佐の陣で死にたいと、はせ参じた家臣達の篤き忠義に報いるために 一抹の武士の心があるならば、坊主となって隠棲生活などできぬはずである。 戦国時代の武士達は、上司を選ぶことなどできなかった。 運悪く負け組の上司についたからといって、しかし、その恩義を忘れるなど 武士の生きる道ではなかったのである。 私がこの小説で泣けたのは、そんな家臣たちの、幸せそうな姿なのである。 牢人となった盛親の再起を信じた、笑顔なのである。 確かに彼らは負け組であろう。 そしてその多くが、大阪の陣で屍をさらしただろう。 しかし、主家再興の夢を持ち、天下の器量と信じる盛親と共に 長瀬川で戦国最期の「槍働き」をした彼らは戦国武士として、むしろ幸せだったのではないだろうか。 大河ドラマ「風林火山」で内野さん演じた山本勘助の、笑顔の最期を思い出した。 私が戦国時代が好きでたまらないは、ひたすらまっすぐで熱く、時には滑稽ですらある 戦国武士の生き様に憧れるからかもしれない。 今年しょっぱな、いい本に出合えた。
一度しかない自分の人生。負けてもいいから悔いなくまっすぐに生きたい。 |

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