ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

歴史の扉 幕末

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最近、ピダム💗としか書いてないですが
日本のドラマもがっつり観てます。

夏ドラマでは、
やはり、『dele』が最高!
また感想書いてみたいです。

もちろん西郷どんもずーっと観てます。

坂本龍馬の暗殺の回、
黒幕は誰か?ぼかしてましたね。

最近では京都見廻組の仕業だと言うのが、
ほぼ定説となっていますが、
薩摩黒幕説も勿論捨てがたい。

その理由は、
龍馬暗殺を自供した 今井信郎に
西郷どんが接見した事実がある事。


『龍馬暗殺』
https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/16621568.html

徳川慶喜に肩入れしていた龍馬と
袂を分かつ事になった西郷にとって
友とはいえ、倒幕という目的の為には
龍馬は目の上のたんこぶであったのは
事実でしょう。

イメージ 1





小栗旬さんの龍馬は、
さすが、存在感抜群で、
福山雅治さん同様、
坂本龍馬のカリスマは、やはりカリスマが演じてこそ、と実家しました。

小栗旬さん主演で坂本龍馬の大河ドラマが
観たい!と思ったほどでした。

しかし、正直言って
別の憂いもあります。

つか、
今頃、龍馬暗殺で大丈夫なの、この大河?

あと2ヶ月半しか残されていないのに、
これから
慶喜の大坂城脱出、
鳥羽伏見の戦い、
江戸城無血開城
戊辰戦争、函館戦争、
東京遷都、、、

等々描いてから、
やっと
征韓論、
西南の役に至るわけで、

時間全然ないやん?
と不安になります。

まさか、
征韓論と西南の役を、軽く描くつもりじゃないよね?

個人的な意見ですが、

『征韓論と西南の役を描かずして、
何の西郷隆盛なのか⁈』

って事。

忘れてはいけないのは、
西郷どんは、
賊軍、逆臣として、死ぬ事なのです。

維新の英雄、西郷隆盛は、
靖國神社にはその心柱はありません。

戊辰戦争等で敗れた幕臣や
会津、東北の兵士と同様の扱いなのです。

西郷どんほど
部下や庶民から慕われた英雄は居ないでしょう。

そんな人格者が逆臣として自害した事にこそ、歴史の光と闇があり、それこそが、
描くべき姿ではないでしょうか。

最近、韓流時代劇を観て、
ものすごく、腑に落ちた事があります。

それは、何故、西郷隆盛が征韓論を唱えたのか?という問いです。

李氏朝鮮王朝時代の奴婢制度から
庶民を解放する為だった、と
今なら確信があります。

韓流時代劇では、
『チュノ』や『チェオクの剣』など
奴婢制度の悲惨さがテーマのドラマがあります。
一度奴婢に落ちれば、その子供も奴婢、
人として扱われず、動物と同様に酷使され
その苦しみは死ぬまで終わりません。

李氏朝鮮王朝時代、奴婢は全人口の6割にもなった事もあるそうで、まさしく多くの庶民が苦しんでいたのです。

この情景、どこかで見覚えありませんか?

そう、西郷どんの奄美大島時代に描かれていた、サトウキビ地獄です。

薩摩藩主の豪奢な生活や研究、軍備の為
大島の島民が搾取され苦しむ様をみて
革命に目覚めた西郷どんがドラマで描かれていました。

奄美大島同様、
李氏朝鮮王朝から搾取されている哀れ民を救うことを、
西郷どんは、真剣に考えてたのではないでしょうか。

もし西郷の征韓論が通り、
西郷どん自ら李氏朝鮮を倒して奴婢を解放したなら、どうだったでしょう?

西郷隆盛の器や優しさは、
朝鮮の人々も必ずや受け入れられ、
その後の日本との外交関係も違っていたかもしれません。

しかし、
大久保利通や岩倉具視らは
ヨーロッパ仕込みの大陸主義、帝国主義に感化され、どちらかといえば、アジア的な西郷どんの言葉には耳を傾けてはくれませんでした。

西郷どんの思考の根底は、
彼の座右の銘でもある、
『敬天愛人』 すなわち、愛、です。
隣近所で助け合う薩摩の郷中主義とも
言えますね。

『敬天愛人〜西郷隆盛の言葉』
https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/33218671.html


だからこそ、
時代に置いてけぼりをくった、
武士達の事を見捨てる事ができなかった。

西郷どんを
ただ、維新の英雄、革命の寵児として
描くだけでは、物足りません。

征韓論、西南の役で敗者となる姿を
描いてこそ、西郷どん、だと思います。

残り三カ月で
何を描くのか?

維新を成し遂げてドラマも終わり、
なんて事にならないか、
かなり不安です。

その点、
『新選組!』『八重の桜』『真田丸』は
時間をかけて敗者の姿を描ききり
だからこそ、忘れられない大好きな大河ドラマなんだな、と実感した次第です。


鈴木亮平さんの西郷どんは
ホントにはまり役だと思うだけに、
脚本と演出さんには、
頑張って欲しいですね。

土佐勤王党!

安芸タイガース球場から再び電車に乗り、
着いたのは、高知駅!

今日は土佐の高知で宿泊です。

駅前には、

幕末の三英傑!

武市半平太、
坂本龍馬
中岡慎太郎


テンションあがるぅ

イメージ 1

謹賀新年 2015

明けましておめでとうございます。
 
大荒れの天気の元旦となりました。
あまりに寒いので初詣は明日に致します。
 
日本や世界が波乱の年にならないよう、
2015年が平和で穏やかな一年であることを、心から願います。
 
 
さて2015年の当ブログですが、
今年の大河ドラマ「花燃ゆ」について・・・・
井上真央ちゃんが嫌いというわけではないのですが、正直まったく興味がわきません。
 
幕末、戦国、幕末 という繰り返しに飽きたというか、
2013年の「八重の桜」で幕末に燃え尽きた感もあります。
 
つきましては、今年の大河ドラマの感想はなし、させていただきます。
今年一年、気が向いたときに好きなことを書いて英気を養い、
来年の大河「真田丸」に備えたいと思っております。
 
昨年以上の「細々ブログ」になってしまいそうですが、
長い目で見守りいただければ幸いです。
 
2015年もよろしくお願いいたします。

竜馬暗殺直前の手紙発見=新政府構想に言及、一般家庭で保管

びっくりしましたよね!
朝ごはん食べながら新聞の一面を観て、喉がつまりそうになりました!
しかもNHK総合のバラエティー「突撃!アッとホーム」(土曜、後8・00)の番組ロケで
お笑いコンビのバイきんぐが、街頭インタビューをきっかけに、茶の間のちゃぶ台に保管してあったものを
発見した、、、っつううんだから、更に凄い。
 
暗殺直前の書簡草稿…土佐藩の後藤象二郎宛て
 
坂本龍馬が暗殺される直前、土佐藩参政の後藤象二郎に宛てた書簡の草稿とみられる文書が東京都内で発見された。高知県立坂本龍馬記念館(高知市)が8日発表した。今月中にも同館で公開される。大政奉還後の新政府の財政担当者として福井藩士の三岡八郎(後の由利公正)を推す内容で、同館は「一級品の史料」としている。

 縦19.5センチ、横104センチの和紙に書かれ、日付がないことなどから草稿とみられる。東京都内の男性が20〜30年前に古物店で購入し、家族が保管していた。今年2月、個人の「お宝」を探すNHKの番組の取材過程で存在が判明。同館や京都国立博物館が筆跡などから直筆と断定した。

記述は「越行(えつゆき)の記」で始まり、
1867(慶応3)年10月15日の大政奉還直後に福井(越前)藩を訪ねた龍馬が同30日、三岡と面会したことを報告する内容。
11月5日に京都へ帰り、同15日に暗殺されるまでに書いたとみられる。
幕府の財政を調査した三岡が「(機能しておらず)気の毒」がっていたことに触れ、
新政府の財政担当者には「三八(三岡)を置かバ他ニ人なかるべし」と評価している

 三岡は後に明治新政府の基本方針を示した「五箇条の御誓文」の起草に参画。
龍馬の推薦通り、新政府の財政政策に携わった
。2人の会談は三岡の回顧録で明らかになっているが、龍馬側の記録は未発見だった。
記念館の森健志郎館長は「経済で国を動かすという龍馬の政治理念や思想を感じさせる」と話している。
【上野宏人】
 
 
 
 
実は私、4年前の 2010年3月23日 福井城を訪ね、
三岡八郎(由利公正)と龍馬の最後の面談(お酒を飲みながらだったそう)について思いを馳せ、
しみじみ感激にひたったことを思い出しました。
 
そしてその紀行文をブログにアップして
1867(慶応3)年10月15日の大政奉還直後に福井(越前)藩を訪ねた龍馬が
同30日、三岡と面会したことにも触れています。
 
4年も前の記事ですが、龍馬の偉業を偲び、この世紀の発見への祝辞として
再度、抜粋して掲載したいです。
 
今回の大発見で、土佐や薩長だけでなく、幕末における越前藩の再評価なるといいですね。
実際、松平春嶽や、由利公正はもっと評価されていいと思います。
昨年の大河ドラマ「八重の桜」でも村上弘明さん演じる松平春嶽公は、スパイスの効いた
存在感のある人物でした。
 
 
 
福井城〜北陸の旅⑧2010春
 
2010年3月23日

北の庄城を後にした私達親子は、

この旅最後の目的地「福井城」を目指す


徒歩約15分・・・


「あ、石垣が見えた!」


最近すっかりお城好きになった息子が、ビルの谷間にちらりと見えた城郭を発見した


そう、福井城跡は、JR福井駅前の一等地に位置し、
本丸内には、福井県庁、県会議事堂、県警察本部が建てられており
文字通り、福井県の中心部なのである。


見事な堀が見えてきた


イメージ 1



想像していた以上に、広大で堅固な城であるようだ!
これは、掘り出し物ではなか・・と胸が高鳴る

遺構は、石垣、土塁、堀 のみだが、どれも迫力がある。


イメージ 2


イメージ 3


本丸の北西角には天守台が残り、
かつては、二重の櫓の上に二重の望楼を乗せた形式を持つ外観四重、
内部五階の天守閣が聳えていたという。

この天守閣をはじめ大半の建物は、1669年(寛文9)の大火で焼失したものの、
以後天守閣は再建されなかった 

幕府が許可しなかったと言われる。



天守台

笏谷石(しゃくだにいし・凝灰岩)のみを用いて
布積み工法で精巧に積まれている
イメージ 4




福井の地名発祥の由来となった「福の井」井戸
イメージ 5



家康の次男である結城秀康が北ノ庄に入封された当初は「北の庄城」と呼ばれていたが、
福井藩第3代藩主松平忠昌は、「北」が敗北を表す不吉な字であると「福井」へ改めた。

そして、幕末・・・

福井城は、四賢候の筆頭・松平春嶽公の居城であり
春嶽公に面会するため、坂本龍馬が足を運んだ城でもある。


龍馬は3回、この城を訪れている。

① 1863年文久3年4月16日に幕臣大久保一翁に託された松平春嶽への親書を持っての訪問が
「海舟日記」に記載されている。

② その翌月、1863年文久3年5月20日ごろ、神戸の海軍操練所を開設するための資金援助を頼むため、
勝海舟の指令で京都から越前の前藩主・松平春嶽を訪ね、5000両もの巨額の援助の約束を取り付ける

(これはドラマでもしっかり描かれていましたね)

このとき、福井藩の政治顧問を務めていた肥後藩士の横井小楠や由利公正と意気投合し
時勢について一夜語り明かした。



③ 最後の訪問は、1867年慶応3年11月。
龍馬が暗殺される2週間前のことである。

山内容堂の親書を渡すために、福井城の松平春嶽公に拝謁し
その後、龍馬が宿泊していた旅館で、由利公正(三岡八郎)と会談し、
新政府の財政を由利公正に託したいと、長時間に渡り熱く語り合う。


龍馬が福井を辞すとき、何故か由利に1枚の写真を渡した。龍馬のスナップであったそうだ。

しかし、後日、懐に入れていたこの写真が、急に風に飛ばされ川に落ちてしまい、
いくら探しても見つからなかったという。

由利は何故かとても不吉な気分になった・・・その直後、

龍馬の凶事が知らされたという。


親友ゆえの予感であろうか。


このように
無名の若造時代から、天下の龍馬になった後でも、
龍馬にとっての福井は、同じ志をもつ師や友人と、素直に語り合える、
心落ち着く、愛する土地の一つであったことは間違いない。


今、歩いているこの場所に
龍馬も立っていた可能性が高いのだ。
そう思うだけで、わくわくするではないか。

が、しかし、

「龍馬伝」の文字もポスターも全くない。
そのためか、観光客も殆どいない。

もったいないような気もするが
ある意味、便乗商法に惑わされない福井県民の自国文化への誇りとも言えよう。

なぜなら、私が訪れた史跡は何処も、きれいに保全されており
史跡案内などの充実振りは目を見張るものがあったからである


来年の大河「江」もここ福井が重要な舞台であるのだけれど
多分今年同様、冷静な対応をするような気がする。



福井城前の内堀公園にひっそりと建立されていた、
「横井小楠、由利公正 旅立ちの図」

イメージ 6


1885年冬に横井小楠と由利公正が一緒に九州へ旅立つ姿を表現したものだそうだ。
由利公正この旅で長崎での物資販売ルートを開拓、藩財政を改善した。


福井城前の中央公園にも、若き日の由利公正の像があった。
イメージ 7


由利は初代・東京都知事に就任している。
地味だけれど凄い人なのである。さすが龍馬の親友だけのことはある。
 
記事元 ↓ 
 
 
徳川家康の次男・福井城の築城者、結城(松平)秀康についても後半触れています。
興味のあるかたは、是非。

 

鳥羽・伏見の戦い

八重の桜 第20回「開戦!鳥羽伏見」・・・

大好きな尚之助さんが登場しないため、どうしても感想を書く気になれず、
それならばと、個人的な史観をふまえ「鳥羽・伏見の戦い」と会津藩兵、
特に林権助についてフリーに書いてみたい。


徳川慶喜が薩摩の横暴と挑発に業を煮やし、
「討薩表」を奉じて入京し、明治天皇に直訴することを決意するまでの経緯は
前回の感想を参照いただきたい。



慶応4(1868)年元日、慶喜は討薩表を発し、
1月2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で大坂城から出兵を開始した。

慶喜は正月一日に陣容を発表している。実に迅速であり、慶喜の非凡さが分かる。
(ただし結局は何もかもが中途半端なのだが・・)

老中格・大河内正質を総督とし、若年寄並・塚原但馬守昌義を副総督とし
旧幕府軍が主力となり、正月二日には大坂城を出立した。
約15,000名を擁する布陣は完璧で、京を守護する新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)を数で圧倒していた。

会津藩兵の主力部隊を下記に列挙する。

家老・田中土佐隊 130人余
番頭・上田八郎右衛門隊 130人余
番頭・生駒五兵衛隊 130人余
番頭・堀藩右衛門対 130人余
大砲奉行・林権助大砲隊 131人 砲4門
大砲奉行・白井五郎太隊 130人 砲3門
佐川官兵衛率いる 別選隊 70人余
土方歳三率いる 新選組 150人余

幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだのである。

出陣にあたり徳川慶喜は「こちらから手を出してはならぬ。」と全軍に布告していた。
しかし薩長を主力とした新政府軍は、洛中警護と称して京近辺に関門を設け、
旧幕府軍との小競り合いは避けられない状況となった。

新政府軍は、伏見街道守護のために本営を大仏東福寺に置き、
鳥羽街道守護のためには、本営を東寺に置き、旧幕府軍との戦に備えていた。

戦の火蓋が切られたのは、鳥羽街道である。
まさに「一発の銃声」で戦争は始まるのだ。

薩摩本営の東寺の西から二丁、西国街道と鳥羽街道が交差する四つ塚に、
薩摩を主力として、長州、土佐の三藩連携の関門があり、
旧幕府軍・大目付滝川播磨守具挙軍の入京を拒否した。

ちなみに、佐々木只三郎率いる京都見廻組(約200人)も大目付の護衛役として隊に加わっていた。

滝川具挙は、慶喜の「手をだすな。」という布告もあり、小枝村まで一旦退いた。
しかし薩長土軍は小枝付近まで進軍し、砲門も曳きだしてきた。

そして鳥羽街道に砲弾が炸裂した。
慶応4年(1868)正月3日 申ノ下刻、鳥羽伏見の戦いが始まったのである。

薩長、旧幕府軍、どちらの不意打ちであったのか、様々な証言がありはっきりはしない。

激しい戦闘が開始され、佐々木只三郎ら見廻組の奮戦もあり一進一退の攻防となったが、
薩長の新式鉄砲が威力を発揮した。

鳥羽ミニエーと後世呼ばれる英国製ミニエーやスナイドル銃など、
連発してくる新式鉄砲は、旧幕府軍のゲベール、旧式ミニエー、カラベインと比べて
操作の簡易性と命中精度の相違で、1発と10発の違いがあったという。
(旧幕府軍が1発撃つ間に、新政府軍は10発連射した計算になる)

さらに新政府軍の新式大砲は、四片山砲で1000メートルの有効射程を誇っていた。

鳥羽の戦が引き金となり、伏見でも緒戦が開かれるのであるが、
結局銃器の違いが、戦況を決める事となる・・・

正月2日、会津藩兵300余名が先鋒として淀川を船で遡行して、伏見京橋付近に上陸し
伏見奉行所に入っていった。
そしてその後も会津や諸藩の後続部隊が続々と上陸し、その数は3000人余に達したという。

「会津来る!」の急報に、西郷や岩倉は御所で緊急会議を開いた。
そして鳥羽で戦が始まる前から「徳川慶喜を朝敵とする」決議がなされていたのである。

さらに、嘉彰親王を軍事総裁とし、翌4日には、嘉彰親王を征夷大将軍として
錦旗と節刀を賜り、西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任命するという手回しのよさであった。

すでに錦の御旗は用意され、旧幕府軍と会津藩への罠は仕掛けられていたのである。
陰謀の天才、岩倉具視の真骨頂であろう。


一方伏見に陣した会津藩の先駆けは、大砲奉行・林権助の率いる大砲隊であった。
林権助はこの時63歳。ドラマの通り、山本覚馬の才能を見出した人物である。
林権助隊の組頭は、中沢常左衛門、佐藤織之進、小原宇右衛門、3名、
士分71名、徒歩 27名、足軽27名、目付、徒目付、医師ら、総勢131名であった。
大砲3門を曳いて伏見奉行所にて後続部隊を待っていた。

さらに白井五郎太夫の大砲隊 130名も大砲3門を曳いて、京橋湖畔に陣取っていた。
白井隊は全員白足袋を履いており、白足袋隊と呼ばれていた。

運命の1月3日午後、林権助は京に向けて伏見街道を進発した。
伏見奉行所の北に差し掛かったとき、鳥羽で砲声が鳴り響いた。

竜雲寺高地に陣を張る伏見総指揮の薩摩軍隊長・島津式部は、その砲声を聞くや否や、
発砲命令を下した。 未の下刻(午後2時半ごろ)であったという。

伏見奉行所が砲弾に揺れた。
林権助も直ぐに砲門を開き、反撃に転じた。

薩摩軍と会津軍の距離は約20メートル。
砲弾に加え、薩摩のスナイデル銃弾が雨あられと会津藩に射撃された。

薩摩藩は建物に拠って攻撃するが、会津藩は進軍の途中でしかも狭い路地で
むき出しの場所におり、敵の格好の照準となってしまった。

このままでは全滅する、と後続の生駒隊に援軍を求めたが、
生駒五兵衛は会津の頑固さからか、田中土佐の命ではないため援軍は出せないと断わってきた。

林権助は孤立無援の部隊を励まし、槍で応戦した。
激しい銃弾のなか、槍を持して突っ込んでくる会津兵に、薩摩兵は驚愕した。

その直後、佐川官兵衛が別選隊70名を率いて駆けつけてきた。
鬼官兵衛の異名をもつ佐川は、隊長番頭格兼学校奉行。
林権助の窮地を捨てては置けなかったのだ。

さらに、土方歳三率いる新選組120名も駆けつけた。
この戦で、山崎烝、池田小三郎、鈴木直人など10人が討死している。

浜田藩の伊藤梓ら40人も援軍に駆けつけた。彼らは銃器を持っていなかったが、
林権助に「槍隊に加えて欲しい」と願い出たのだ。

林権助は大砲奉行であったが、その前に武士であったのだ。
しかし、薩摩の新式銃は容赦なく彼らを倒し、林権助もその標的となった。

3発の銃弾をくらい、担架で後方へ運ばれた。
多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返す会津兵に退却の命令が来たのは深夜、子の刻であった。

尚、林権助は、手遅れだとモルヒネ(痛み止め)を拒否し、江戸への海路の途中に息果てた。

そして翌正月4日朝、錦旗が翻った。

早朝8時ごろ、美しく凛々しく甲冑に身を纏った仁和寺嘉彰親王総督宮が御所を進発した。

山口合之進が騎馬で先導し、薩摩藩歩兵小隊、東久世少将、烏丸侍従が馬上で並び、
錦の御旗、そして嘉彰親王総督宮が馬上で進み、鼓手数人、芸州藩歩兵が続く。

そして東寺の新政府軍本陣に到着すると、長州藩も随行し、
さらに後藤象二郎、福岡貢、三岡八郎(由利公正)などかつて公武合体や大政奉還で尽力した
旧幕府要人も鳥羽伏見へと供をしている。

錦旗の効果は絶大であった。新政府軍は官軍となり、旧幕府軍は賊軍・朝敵となってしまったからだ。
賊軍の立場とされてしまった江戸幕府側に非常に大きな打撃を与え、次々と寝返り、恭順の意を示す藩が続出したのである。

これは私の考えであるが、錦旗を翻したのは西郷隆盛の願いもあったと思う。
私は、西郷どんをとても尊敬している。

後に西南戦争を引き起こしてしまったように、西郷隆盛は士道を尊び、誠実な人物を無条件で認めた。


部下思いの西郷隆盛は、正月3日の激しい戦闘の後の深夜、鳥羽伏見に視察へ訪れ、
戦況をつぶさに見ている。

そして、圧倒的な銃器の差により、この戦が新政府軍の勝利となることを、読みきったはずだ。

これ以上、新政府軍、そして旧幕府軍ともに、無駄死を避けるためにも、

錦の御旗を掲げることで、旧幕府軍、とくに尊王の篤い会津藩に、
これ以上無駄な命を落とさないように、と恭順するよう、メッセージを送ったのではないだろうか?


その証拠に、会津とともに朝敵の落胤を押された桑名藩は、
藩主が不在の間に恭順の姿勢をしめし、無条件で開城したため、桑名城下での戦闘は避けられた。
さらに、江戸城無血開城も、勝海舟との交渉の後、西郷の一存で決定された。

例えば、土佐の乾退助が板垣退助に改名したのも、乾家が武田信玄の腹心、武田四天王の一人
板垣信方の末裔だから、甲信地方で恭順させやすいだろうという考えの許だ。

徳川慶喜も恭順の意を示したことで命ばかりか、徳川宗家の存続も認められたし、
会津の松平容保公も、若松城開城謹慎の後、命も許され新しい職務を与えられている。

また新選組の近藤勇についても薩摩藩は命を助けてもいいと思っていた節がある。
坂本龍馬を暗殺したのが新選組だと妄信した土佐の激しい主張の前に、折れてしまった。

そしてそのような錦の御旗に込められたメッセージを、はっきり受け取ったのが
神保修理であったと思う。

神保内蔵助の長男で軍事奉行添役。
若くして容保の御側に召された、会津藩きっての切れものであった。


修理は散々たる敗戦と錦の御旗をその眼でみて、
容保のみならず、徳川慶喜にも進言した。

「薩摩とて何も好んで戦をしたがるわけではない。」

「賊軍となる前に、恭順の意をしめし、御家を守るべきだ。」と

そして神保修理の見解こそ正しかったのだ。

鳥羽伏見の緒戦での戦死者は、
新政府軍約110名、旧幕府軍は約250人であった。

旧幕府軍の敗北である。

しかし、戊辰戦争が長引くにつれ、旧幕府軍の死傷者は桁違いとなる
とくに会津藩は悲惨極まりない。

恭順=屈辱ではない。
銃器の圧倒的な違いに加え、賊軍の落胤を押されて、どう勝てるのか?

特に四方を山に囲まれた会津に、勝機は薄いのである。
軍略に長けた土方歳三が、会津ではなく、函館の五稜郭に向ったのも、
榎本武揚率いる最強の軍艦があったからだろう。

そして山本覚馬も、神保修理と同じ恭順派であった。

京の会津屋敷に留まっていた覚馬は、1月4日に仁和寺嘉彰親王が朝廷から錦旗を受けたのを知ると
「会津は誤解されたまま賊軍になってしまう!」と藩軍を説得し、戦争をやめさせるために
伏見へ向かったものの、敵兵に阻まれて動けない。

それならばと単独で京へ戻り、朝廷に敵意がないことを釈明しようと山科に入ったところを
薩摩の巡視兵に見つかり、薩摩藩邸で幽閉の身となるのだ。

しかし西郷隆盛がその人材を見抜き薩摩藩邸内で、明治維新を迎えることとなる。

それにしても、(ドラマの話ではありますが・・・
もし会津藩が、覚馬の提言を受け入れ、尚之助さんと八重の開発した新式銃を取り入れていたなら、
会津がこれほどの敗戦を帰することもなかったかもしれませんし、
無駄死にと分かった泥沼の戦いに自らはまり込んでいくこともなかったのかもしれません。




参考: 「会津士魂」 早乙女貢先生

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