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歴史の扉 幕末
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私は、今年の4月まで、この将軍は、無能で精神薄弱(一説では脳性まひ)の将軍であると信じていた。 大河ドラマ「篤姫」の原作である『天璋院篤姫』では、繊細で病弱ではありながらも 決して暗愚(うつけ)ではない公方様として描かれていたのは、原作が大好きだったので 以前より知っていた。 が、それはあくまでも宮尾先生の想像の範囲であり、小説の設定だと高をくくっていた。 ところが、今年4月19日から大阪歴史博物館で開催された、『天璋院篤姫展』に行って、 自説が間違っていたことに気がついた。 すべてはこの絵が発端である。 その後ドラマで宮崎あおいさん演じる篤姫が、堺雅人さんの家定の一瞬の目の輝きを見て 「上様はうつけでなない!」と直感した、あの衝撃に似ているのかもしれない。 私は、歴史に関する展示会めぐりが大好きで、歴史上の有名無名人物の描いた書画や絵画を 何枚も拝見させていただいている。 そんな素人の私とはいえ、この『松図』のすばらしさははっきりと分かった。 まったく迷いのみられない筆致。完璧な構図。 私は宮本武蔵の「鵜図」も実物を拝観したことがあるが、宮本武蔵の研ぎ澄まされた感覚にも 通じるような、鋭く、かく、見事な技量である。 時に絵や直筆の手紙や文字が、その人のすべてを物語るときがある。 この「松図」を見たときはっきりと、私は家定が精神薄弱、脳性まひなどではないと実感したのである。 そして自分の歴史認識の甘さを反省したのだ。 自分はなぜ、家定を暗愚で精神薄弱な将軍だと決めつけていたのか? それは、自分が読んだ小説や解説書だけからの受け売りではなかったか? 家定の在位期間はとても短くわずか5年である。(1853(嘉永6)年〜1858(安政5)年) その間、ハリスと謁見した程度で殆ど政治(表)での活動の記録がない。 だから、小説や、歴史書の描写でも 家定は暗愚で病弱・世継ぎもなく、そのため国内が外交問題に揺れ、世情が混沌としてきたため
将軍継嗣問題がクローズアップすることとなった。 とわずが2〜3行で終わってしまうことが多かった この2〜3行を鵜呑みにしていたことで、歴史の真実を見失いかけたのだ。 また徳川家定は料理好きであった。 変わった趣味も、そんな評価の一つともなっている。 徳川家定の日常生活について書かれた数奇屋坊主組頭 野村休成上書 も展示されていた。 そこには、家定が、吹上御庭で取れた薩摩芋や唐茄子を煮て、饅頭やカステラを作って楽しんでいたとある。 まあ、確かに将軍の御威光は感じられないが、しかし冷静に考えれば 料理好きだから「うつけ」とはならないだろう。 現在は、男性の料理もすっかり定着しており、料理が上手ということは、 むしろ好印象となるのではないであろうか。 中世ヨーロッパでは、料理やお菓子つくりが好きな名君も多い。 そして、家定が唯一歴史の一ページに実績を残したともいえる安政4年(1857)10月21日。 アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとの江戸城引見の日。 このときの様子を綴ったハリスの日記が、物議をかもし出す要因でもあった。 謁見したときの将軍徳川家定の様子について 家定は自らの頭を体の後方にそらせて右足を踏み鳴らすこという行動を数度繰り返した後に ハリスに言葉をかけた。 と記されていたそうだ。 (英語辞書とにらめっこしながら、できれば原文が読みたい!) この奇妙な行動から、徳川家定=脳性まひ説が流布しているのである。 しかし、別の資料によれば米国による理不尽な軍事的恫喝に屈することなく
「わが国と米国の関係は永遠に続くであろう」と堂々と述べたとある。 ハリスとの謁見のための原稿が遺されており、『天璋院篤姫展』でも展示されてあった。 家定は、表(幕府)の書いたシナリオどおりの台詞を、朗々と宣言したのである。 ここで単純な疑問がわく。 もし将軍家定が暗愚で精神薄弱であれば、米国使節との公式会見に際し 幕府は、家定をハリスに直接面会させるであろうか? 相手は大国の外交官である。しかも慇懃無礼であり、幕府側に何か無礼な態度があれば どんな言いがかりをつけてくるかもしれないのだ。 こう考えれば、徳川家定が外国使節団と立派に応対のできる人物、 つまり暗愚ではなかったと、いえるのではないであろうか? では、なぜ、後世にまで、家定=暗愚 という評価が通説としてまかりと通っていたのだろうか? その疑問のヒントとなる手紙がある。 宇津木六之丞書状(長野主膳宛) 需要文化財 安政5年(1858年)5月9日 付 井伊直弼の側近である宇津木六之丞が、同じく側近中の側近長野主膳へ宛てた手紙である。 ハリス謁見の翌年、そして家定崩御のわずか2ヶ月前の内容である。 そして、その内容は、うつけの家定とは似ても似つかない姿が描かれている。 この頃、ペリー来航以来の国難について、徳川家定と井伊直弼が直に討論に及び、
博学で知られる井伊直弼が、家定のことを「御賢明」で「御仁憐之御方」と絶賛したそうだ。 そして宇津木六之丞は、このような賢明な御方であるのに、御側御用取次などの「君側の奸」によって 今まで暗君に仕立てられたことを、嘆いているのである。 まるで、大河ドラマでの(うつけのふりを止めたときの)堺雅人さんのごとし、ではないか。 では、家定を暗君に仕立てた「君側の奸」とは誰か? 家定を賢明な君と絶賛した井伊直弼は、紀州派=徳川慶福を推戴している。 となれば、その反対勢力である、水戸斉昭や島津斉彬、松平春嶽ら一橋派が怪しくなるが 真相はどうであろう? 島津斉彬のような英邁な大名にとって、この難局を乗り切るために 幕政に参加することが悲願でもあり、野望でもあった。 外様大名である斉彬には、その資格はなかったかあらである そのため分家の姫である篤姫を実子として申請し、近衛家の養女にまでして御台所として 大奥へ潜入させたのである。 しかし、結局その野望は実現することがなかった。 江戸城は、大奥をも巻き込み、さまざまな裏工作が仕掛けられた魔の巣窟でもあったのだ。 「誰一人信じるものはおらぬ」・・・ 大河ドラマでの家定公の言葉が思い出される。そして暗転。 わずか2ヶ月前、井伊直弼と討論した程元気であった徳川家定が突然重体になり 安政5年7月6日、その短い生涯を終えられた。 突然の死については、持病の脚気が悪化したとも、コレラとも言われているが、 当然ながら、暗殺説(毒殺)も囁かれている。 安政5年6月25日(1858年)後継者に紀州派の推す徳川慶福を指名し、 同年安政5年7月5日には一橋派の大量処分を発表した、翌日の死である。 井伊直弼と急速に接近し、幕政に意欲を見せ始めた家定に危機感をもった人物が 暗殺を企てたとしてもおかしくはない。 そして家定の没後、反撃するかのごとく井伊直弼による「安政の大獄」が始まり 水戸派の尊皇攘夷の志士が粛清された。 この安政の大獄が、倒幕、明治維新の導火線となったことについての説明は不要であろう。 13代徳川家定は、いわば、歴史の影に埋もれた存在であった。 しかし、今年の大河ドラマ『篤姫』の人気もあって、やっと脚光を浴びるようになった。 堺雅人さん演じる徳川家定の圧倒的な存在感も人気に拍車をかけているようだ。 暗愚、暗君、と現代に至るまで評価されてきた徳川家定の真実の姿はどうであったのであろうか。 もしかしたら大河ドラマの家定みたいであったかも・・そんな気がする昨今である。 個人的にも、家定公は忘れ得ない将軍様となった。 歴史を学ぶためには、小説や資料の言葉だけを鵜呑みにしてはいけない。 これは歴史だけでなく、時事や日々のネット世界などにも当てはまる大いなる警鐘であった。 これからもできるだけ時間をみつけて、展示会や史跡めぐりをしようと思う。 最後に家定の描いた絵をもう一枚紹介したい。 徳川家定筆 「柿図」 自然を愛した家定公らしい素朴であったかい絵である。 了
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今日、YAHOOニュースで、 坂本龍馬の妻、「お龍さん」と言われている写真が 本物の可能性が高いと断定された! というニュースを読みました。 これが、その写真です! 私が勝手に思い描いていた「お龍さん」ともイメージが一致します 皆様の感想はいかがですか? 艶があって、姉御肌で、気が強く。 でも良人の前ではひたすら可愛く・・ とっても美しい写真なので引用しちゃいました〜(^0^) 関連記事はこちらでどうぞ!
若い日の「お龍さん」写真は本物?警察庁科警研が鑑定 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080515-00000034-yom-soci |

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かっこいい写真である。 長州五傑(1863年9月23日) ロンドンにて (Choshu Five in London) 左後:遠藤謹助 右後:伊藤博文 中央:井上勝 左前:井上馨 右前:山尾庸三 このかっこいい写真に魅かれて、映画『長州ファイブ』を見た。 2006年公開されたときから気になっていた映画だったがやっと念願がかなった。 丁度、大山捨松について記事を書いていたところだったのでとても感銘をうけた。 大山捨松は女性の視点からみた幕末の海外留学物語だがこれは、長州志士の留学物語。 幕末から明治時代当時の日本人は、男女の性差など関係なく、純粋で真っ正直でとにかく勤勉。 勉学だけでなく、友情、親愛、そして道徳感においても。 百聞は一見にしかず。 是非とも映画を見て欲しい。 日本人であることが誇らしくなるはずだ。 長州ファイブとは、 長州藩の密命により、命をかけけて英国に密航しイギリスの文化を学び やがて帰国後は、明治新政府の重鎮として日本の夜明けを支えた英傑達の肖像なのである。 帰国後5人が5人ともそれぞれの分野で「生きた機械」となり新しい制度や工学や技術の導入に従事した。 まさに日本の文明開化、夜明けの推進におおいに貢献した。 彼らが学んだロンドン大学では、この五人の勇気ある行動と勤勉、そして祖国に果たした貢献の大きさを讃えて、長州ファイブ (Choshu Five) として顕彰碑が建てられたのである。 国際的にも有名な、かっこいいサムライ達なのである。 映画では、主人公の山尾庸三を松田龍平君が演じていた。 井上馨と伊藤博文が、英国へ密航したことは大河ドラマなどで描かれているため有名であるが 二人以外の若者にスポットを当てたところが、この映画の成功の要因だと思う。 文久3年 (1863年)11月、半年にも渡る長期航海をへてロンドンへ降り立った5人。 しかし翌年3月、井上と伊藤は、4カ国連合艦隊が長州を攻撃するという新聞記事を読み あわてて帰国した。 しかし、他の3人は帰国せず、英国での留学を続けることにした。 そして英国の労働者と共に働き造船の技術を学び、足掛け5年も留学していた山尾の視線で、 ロンドンでのサムライの生き様が描かれるのである。 この映画を見て初めて知ったのだが、 山尾達がロンドンで滞在中、薩摩藩士も留学しており、彼らが藩という縛りをこえて 交友関係があったのには、正直驚いた。 映画では、英国最大の工業都市グラスコー行きを切望しながら、資金が足りず諦めかけていた山尾に、 薩摩藩士たちが義援金を出し合って、山尾を助けるというシーンがあった。 調べてみるとこれは事実のようだ。 まだ「薩長同盟」も締結されておらず、禁門の変以来、仇敵であった薩長が 異国のロンドンですでに助け合っていたのである。 山尾は彼ら薩摩藩留学生の恩を生涯忘れず、交友は続いたそうだ。 そして、生きて帰れるかどうかも分からない若者の渡航費用としてぽ〜んと大金を用意した、 長州藩と薩摩藩の度量の大きさにも感服した。 (現在の通貨に換算すれば、ひとり1億円にもなる) 攘夷を叫ぶ一方(両藩とも英国と局部的戦争を行った)、 敵国の文明とやらをまず見聞してやれ、という両藩の発想は偶然同じであったのだ。 この後の、『薩長同盟』(1866年)はやはり自然の流れであったと分かる。 映画では、山尾と聾唖の娘エミーとの淡い恋物語も添えられている。 山尾は帰国して聾唖教育の設立に尽力することとなる。 三浦アキフミさん演じる伊藤俊輔もそうだが、文明国家の光と影も彼らはしっかりと心に刻んだのだ。 光の当たる場所とそうでない場所との格差。 伊藤博文の、どこか間のぬけたような博愛主義も、ロンドンの体験が影響しているという比喩は なにやら説得がいく。 そして個人的に最も感銘を受けたのが、留学を終え帰国の近い山尾に対し グラスコー造船所の所長が山尾に贈ったはなむけの言葉 「いつの時代でも技術者が真の革命者だ!」 もし山尾が日本の今の現状をしれば、大いに憂うのではないか? 資源を持たない日本が世界で生きていくためにはもう一度原点に返るべきなのかもしれない。 そんなかっこいい『長州ファイブ』面々の略歴を記載したい。 ロンドン大学の顕彰に「父」と讃えられた英傑達の、帰国後の歩みをご覧いただきたい。 井上聞多(井上馨) 〜 『外交の父』 〜 最年長の28歳(1835年生れ)。初代外務大臣。欧化政策を推進し、不平等条約改正に尽力する。 〜 『造幣の父』 〜 27歳(1836年生れ)。造幣事業に一生を捧げ日本人の手による貨幣造りに成功する。 造幣局の桜の通り抜けは遠藤の発案による。 結核のため留学途中で帰国を余儀なくされたが、長生きした。良かった! 〜 『工学の父』 〜 26歳(1837年生れ)。グラスゴーで造船を学び、明治4年に工学寮(のちの東京大学工学部)を創立。 聾盲唖教育にも力を入れた。 〜 『内閣の父』〜 22歳(1841年生れ)。初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法を発布。4度首相を務める。 〜 『鉄道の父』〜 20歳(1843年生れ)。鉄道の父。新橋−横浜間に日本初の鉄道を敷き、以後、全国の鉄道敷設工事を指揮した。英国へ鉄道視察にため再渡航中、ロンドンで客死。また小岩井農場の創設者。 年齢は密航当時。 青春時代の冒険と勤勉は惜しむなかれ!
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期末決算で大忙しの毎日です そんな毎日だからこそ、より慎重にそしてストレスためないように過ごすべし。 というわけで、気分転換のブログです 今日は、先月パンダ国出張のお土産を一つ紹介します 上海浦東空港で見つけました。 『龍』の額縁です!! 大ぶりの『龍』の漢字の下に、漢文で達者な文章がしたためられていますが そのなかに 『龍馬』 の 文字が! 龍馬精神・・・と書いてあるようです。たぶん・・・! この『龍』と『龍馬』の文字一目ぼれして即購入きめました。 達筆ゆえに、全文解読できずじまいですが、 春節(旧正月)の後だったので、きっとおめでたい言葉なんだと推測します 今は、子供部屋に飾っています 息子が、坂本龍馬のような、ふっとい男子(フトメン?!)に成長してほしいとの願いを込めて。
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