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近つ飛鳥博物館 特別展「「百舌鳥・古市大古墳群展 〜巨大古墳の時代〜」 2009年1月17日(土) 〜 2009年3月15日(日) 大阪河内南の「近つ飛鳥博物館」を訪問したときは まだ梅が咲き始めた頃でした。 それから、はや1ヶ月超。 桜は既に散り、日差しは初夏に変わりつつあります 記憶が薄れないうちに、特別展レポートをUPいたします。 ただし、 常設展とはちがい、特別展は写真撮影不可でしたので HPからの写真を少し拝借しつつも、文章中心の内容となります。ご容赦のほど宜しくお願いします。 ************************************************************************ 1.百舌鳥・古市古墳群の前夜 4世紀前半の大阪には、全長200Mを超える巨大古墳は存在しなかった。 それまでは、箸墓古墳に代表される、奈良、大和盆地が、巨大古墳の中心地であった。 副葬品としては、三角縁神獣鏡、腕輪など、祭祀に関連した物が中心であった。 2. 巨大古墳、大阪平野へ ところが4世紀を過ぎると、突如巨大古墳が大阪平野に築かれる。 それは、朝鮮半島や中国大陸との国際交流、外交政策の変化が深く関係している。 そして、渡来系の人々が、大和王朝を支える比重も高まる。 3. 古市古墳群の形成 奈良から大和川を下り、大阪平野にさしかかった場所に、古市古墳群が形成される。 津堂城山古墳が最も古く、やがて、5世紀にはいると、「応神天皇陵」が出現する。 このエリアには、6世紀半ばまで、大王やそれに準ずる人物の古墳が造営された。 副葬品は、鉄製の武器や、甲冑、馬具などが目立つ。 黒姫山古墳出土甲冑 (5世紀) 4. 百舌鳥古墳群の形成 4世紀中を過ぎると、大阪湾に面した小高い丘に、巨大古墳が造営されるようになる。 5世紀中に、日本最大の規模を誇る、仁徳天皇陵が造営された。 倭の五王と呼ばれる河内王朝の時代である。 仁徳陵古墳 (5世紀) 副葬品も、鉄製の武器、馬具が中心。 国際色の豊かな副葬品も見受けられる。 羽曳野市誉田丸山古墳出土の鞍。国宝。5世紀 堺市陵南赤山古墳出土の馬形埴輪。5世紀。 5.終焉を迎える百舌鳥・古市古墳群 6世紀になると、百舌鳥・古市古墳群での巨大古墳の造営が低調となる。 王朝の権威が不安定な状態が続いたためである。 そして越から継体天皇が侵攻し、王位につく。 継体天皇が目指したのは、官僚制度の整備。 やがてこの流れが、律令国家への形成へと向かうのである。 上記の流れにそって 様々な副葬品が展示されていた。 趣旨としては、 祭祀を中心として勢力を拡大し王権を拡張していた大和政権(箸墓、邪馬台国?)が その後、武力でもって、国を統一するようになった。 (副葬品の変化。祭祀関連品から、鉄製の武器が中心となる) 朝鮮半島や中国大陸との外交政策も、 武力を背景として、朝貢一辺倒の姿勢から脱却し、朝鮮半島への出兵が頻繁となる。 しかし、当時の王権の制度は不十分で政治機構も整っておらず、 大王のカリスマ性に大きく依存していたと考えられる。 そのため、大王の墓をより巨大に造営し その権威を内外へ誇示する必要があったのだ。 実際、展示物の中に、仁徳天皇陵と、当時(5世紀)の大阪湾の位置関係をグラフィックで説明した パネルがあったが、それをみると、巨大古墳は、海岸線間近の丘の上に君臨し、 はるか海上からでも、はっきりと確認できる状況であったことが分かった。 しかし、カリスマ性に頼った王権であれば 王のカリスマが消えれば、その権力は次第に失墜してゆく。 倭の五王の時代が終焉し、 やがて、倭国は内乱となり、 越から継体が侵攻してくる。 (私は継体は内乱を勝ち抜いて王位に就いたと考えています) 継体は、朝鮮半島と深い関係があり(母親は渡来人) それゆえに開明的な考えをもった人物であった。 カリスマだけでの王権では倭国を統治することはできない。 それはすなわち自分の出自(正当性に欠ける王位継承)で王権を維持するためには 中国式の官僚制度による統治が必要であると自覚していたのであろう。 巨大古墳の造営という、無用な労役で王権を誇示する時代は、終わったのである。 ***************************** 私も、まったく同感である。 祭祀を中心とした大和王朝が、武力を背景とした王権へと変化したのは 古事記・日本書紀における「四道将軍」の記述からも明らかである。 倭の五王が、外交に力を入れていたことは、「宋書倭国伝」等でも証明されている。 継体天皇の王位継承を、「まったく新しい政治機構をもった別の王権」 すなわち、王権交替として捕らえれば、 巨大古墳の終焉と、律令国家への政治転換も納得できる。 更に、今回の展示物を観て、 私は「河内王朝の捉え方」について、今まで疑問であったことに、大きなヒントを貰った。 それは、 倭の五王を含む「河内王朝」は、それまでの「大和王朝」とは別で王朝交替があったのか? という疑問である。 万世一系と正史には謳われている『天皇家』であるが、 河内王朝を別王朝と捉える説があり、有力であると言われていた。 しかし、河内王朝と呼ばれる大王の「都」を調べてみると、 仁徳天皇 : 難波高津宮 (大阪市中央区) 履中天皇 : 磐余稚桜宮 (奈良県桜井市) 反正天皇 : 丹比柴籬宮 (大阪府松原市) 允恭天皇 : 遠飛鳥宮 (奈良県高市郡明日香村) 安康天皇 : 石上穴穂宮(奈良県天理市) 雄略天皇 : 泊瀬朝倉宮 (奈良県桜井市) 河内エリアに都を置いた大王は反正天皇のみで むしろ奈良県、すなわち大和で政治を行った大王が多い。 そのため私は、河内王朝と呼ばれる大王も、大和政権の天皇ではないか?と最近思っている すなわち、大和王朝から河内王朝への王権交替はなかった、と考えているのである。 近つ飛鳥博物館の展示内容や、趣旨も、概同じであった。 すなわち、百舌鳥古墳群が、大阪平野に突如建造されたのは、 大和政権の政策の一環であり、依然、大和王朝は存続する、というものだ。 「わが意を得たり」と個人的には嬉しかった。 ただし、継体天皇から王朝が交替したという考えは
今まで以上に強くなったことも付記しておく。 大阪府立 近つ飛鳥博物館 HP ⇒ http://www.mediajoy.com/chikatsu/index_j.html
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歴史の扉 古代史
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先週末、古代のロマン香る憧れの住吉大社へ行って来ました! |

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初春の陽気に誘われて、 大阪河内南の「近つ飛鳥博物館」へ行ってきました。 安藤忠雄氏の代表的な建物とも言われる、美しい建物です。 山間なので梅は五分咲きでした。 そして、噂には聞いていましたが、素晴らしい展示内容でした。 2009年1月17日(土) 〜 2009年3月15日(日)まで 冬季特別展「百舌鳥・古市大古墳群展 〜巨大古墳の時代〜」も開催されています 常設展だけでも、お腹いっぱいになるボリュームです! 入館料は、特別展も含めて大人600円でしたが、 常設展だけだと大人300円なんですよ。何度でも通いたいです〜! 無料の「音声ガイド」の貸し出しもあります。 音声ガイドは、初心者向け《約60分》 やや専門向け《約2時間》 の選択ができます 私は、専門向けの音声ガイドをチョイスし、マニアの世界を堪能し、 たっぷり2時間以上は楽しみました。 まずは素晴らしい「常設展」を写真でご紹介します (撮影OKの展示物が多かったです^^b) 「近つ飛鳥」とは、 「古事記」に記載されている地名です。 履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、 その地を名付けるに、 近い方を「近つ飛鳥」、 遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというもの。 「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、 「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさすそうです。 「近つ飛鳥」の地は、難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道──竹内街道の沿線にあたり、 周辺には大陸系の遺物を出土する6世紀中葉以降の群集墳が広がっています。 また、南部の磯長谷には、敏達・用明・聖徳太子・推古・孝徳の各陵墓指定地など飛鳥時代の大古墳が集まっていて、俗に王陵の谷とも呼ばれています。 「新撰姓氏録」によると、当地周辺には百済系(飛鳥戸造、上曰佐)、新羅系(竹原連)、中国系(下曰佐、田辺史、山代忌寸)の渡来系氏族が居住していたといわれ、出土物も、国際色豊かなものが 多いのだそうです。 常設展で、私が印象に残ったのは、 やはり渡来系氏族のものと想定される展示物でした。 これは、ミニチュアの土器。 近つ飛鳥近隣の「一須賀古墳」出土の韓式土器 (6世紀) 黄泉の国でもご飯が食べれるようにという祈りなのでしょうか・・・ ミニチュア土器を埋葬する風習は日本古来にはなく、被葬者が渡来人かその子孫であると 推定されています。 多数の形象埴輪も展示されていました。 中でも黄泉の国と現世を行き来したと信じられた 水鳥の埴輪が美しかったです。 津堂城山古墳 水鳥形埴輪 4世紀 (複製品ですが・・・) そういえば、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)の周濠にも、水鳥が多く羽を休めていたなあ・・・・ 墳墓と周濠の堀=水は、あの世とこの世の境目だと想定していたんでしょうね。 白鳥となって昇天したヤマトタケル伝説も思い出されます。 5世紀入ると、副葬品に「鉄製」のものが数多く埋葬されるようになります。 鉄製、当時は、武器が殆どでした。 野中古墳 革製衝角付冑 (5世紀)など 河内王朝、「倭の五王」と呼ばれる巨大墳墓の倍塚や周辺古墳からの埋葬品に顕著です。 つまりこの王権が武力を背景に権力を掌握したことが分かりますね。 同時に、甲冑の細部の名称などの説明もあり、時代が進むにつれ より強度を増し、かつ機動性にも優れた甲冑が生産された過程がよく分かりました。 巨大古墳を頂点として、ピラミッド状の権力構造が明確になったのも、この時代でした。 いわゆる「格差社会」の誕生です。 日本各地で大小の古墳が造営されるようになり、石室にも変化が見られます 石室も一度埋めたら二度と開けることができない「竪穴式石室」から 羨道の出入り口を開閉することで、複数の埋葬が可能な「横穴式石室」へ変化していきます。 何度でも利用可能な古墳の造営です。 また、古墳時代中期となると石棺も多種多様となっただけでなく 原料となる石が、阿蘇から切り出され、畿内まで運ばれていたことが分かるなど 河内王朝の権力が、九州や関東まで広範囲に及んでいたことも分かっています 一須賀06号墳 6世紀 家形石棺(組合式)など スロープを降りると、 そこに広がるのが、10mにおよぶ、仁徳陵古墳復原模型 がお出迎えです。 模型の縮尺は150分の1、 築造当時の仁徳陵古墳及びその周辺の中小の古墳、古墳造りのムラなどを再現しています。 16基の陪冢(大小の古墳)も再現されていました。 陪冢とは仁徳天皇陵に埋葬されてる王者(仁徳かどうかは不明)の関係者の古墳で ほぼ同時期に造営されたものです。 陪冢の調査を通じて、埋葬者や当時の状況を推測するしかありません。 この仁徳陵古墳復原模型もそうですが、 子供達にも古墳や古代史に慣れ親しんでもらおうと、展示物にも工夫が凝らしてありました。 ボタンを押したり、覗き込んだり。。。 個人的に分かりやすいな〜と思ったのが、木簡の使い方を説明したこの展示 書き損じたら、その部分だけナイフで削り、 使い終わってら、全部削って再利用〜! 正倉院展で美しい小刀が展示されていたことを思い出しました。 貴族達がアクセサリーとして常時小刀を身につけていたことや、使い方など この展示説明を見て、合点がいきました^^ その他、非情に興味を持ったのが、 聖徳太子の墓(横穴式石室)の復元模型 この近つ飛鳥博物館と以前拝観した叡福寺にある聖徳太子陵墓(磯長陵)内部と石棺を 推定復元したレプリカです。 以前記事でもご紹介したように、聖徳太子陵墓は宮内庁指定のため現在の発掘調査は不可能です。 しかし、宮内庁指定を受ける前、明治12年に学術調査が行われており そのときの資料を基に、復元した模型なのです。 内部には3基の棺が安置されており、 手前の白い石棺が太子の実母、穴穂部間人皇女 黒い漆塗の棺のうち右側が妻の膳部菩岐々美郎女、そして左の棺が聖徳太子とされています。 この写真では分かりませんが、聖徳太子の棺のほうが、妻の棺より長かったです。 しかし、漆塗の棺=乾漆製(麻布を漆で貼り固めたもの)の棺が、 太子の没年よりも新しい形式であることなどから、聖徳太子の墳墓とするに疑問を呈する研究者もいると、音声ガイドで説明がありました。 確かに、黒漆の棺は、現代ぽい感じがしますね。 このように、決して立ち入ることができない、宮内庁指定の石室内が、 模型とはいえ再現され、それを見ることができたのは、古代史ロマンへの大いなる刺激となりました。 このように、常設展だけでも、お腹いっぱいの内容です。 5000文字の制限もありますので、 冬季特別展「百舌鳥・古市大古墳群展 〜巨大古墳の時代〜」のレポートは次回にします。 ちょっとマニアなレポートになりそうですが、ご容赦くださいませ。 大阪府立 近つ飛鳥博物館
〒585-0001 大阪府南河内郡河南町大字東山299番地 TEL 0721-93-8321(代) FAX 0721-93-8325 HP : http://www.mediajoy.com/chikatsu/index_j.html |
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「近つ飛鳥博物館」へ行ってきました! |

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へ行ってきました。 愛車のナビに映し出された巨大な「前方後円墳」をみて見ぬふりして通り過ぎることなど 私にはできませんでした・・・・ この古墳は、第17代 履中天皇陵 と、宮内庁より指定されております。 JR阪和線上野芝駅付近で車を止めて、散歩がてら寄り道してきました。 簡素な住宅街の中、周遊路が整備されておりました。 前方部分です。 上石津ミサンザイ古墳は、盾形周濠(堀)の大きさ、美しさで有名と聞いていましたが まるで戦国時代のお城の堀のような、完璧な設計、そして美しさに感激しました。 水鳥が多く羽を休めています。 写真では分かりにくいですが、 護岸はちゃんとまっすぐに切り取られ方型であることが肉眼でも分かりました。 間違いなく、1600年の昔に人工的に造営された古墳なのです。 感激いたしました! 上石津ミサンザイ古墳の形状データをご紹介しますと 墳丘長365m、表面積17万m ⇒ 我が国で3番目の巨大古墳
後円部 :径 205m、高さ 約25m 前方部 :幅 約237m、高さ約23m 西側のくびれ部に 造出しあり 一重の盾形周濠しか現存しないが、 平成6年(1944)に、外側に幅20m程の2重目の周濠が見つかっている 田出井山古墳(反正天皇陵)・大仙古墳(仁徳天皇陵)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれて 宮内庁が管理しています おもわず・・・写メ。 (すくねさんと同じ、案内図に感激する古墳マニアです・・・ 汗) 「仁徳天皇陵(大仙陵古墳)はでかいな〜!」 興奮する母を横目に 「あそこに、鳥がいる!」と息子も大喜び! 都会に残された貴重な自然です。 宮内庁指定の「お墨付き」を発見しました。 おかげさまで、発掘や学術調査の道が閉ざされています。 陪塚の七観山古墳の出土品より、第16代仁徳天皇陵に指定されている大仙古墳よりも、 このミサンザイ古墳の築造時期は古いとされています。 つまり仁徳天皇の息子である履中天皇の墓と指定するには、明らかな矛盾があるにも関わらず いまだに、真相は藪のなかです。 祭祀を行うための鳥居です 鳥居の下の堀にボートがありました。 恐らく、宮内庁の「式部職」か「掌典職」職員が渡岸する時のボートでしょう。 宮内庁指定の墳墓は、「天皇家の生きた墓」とされ、そこで執り行われる祭祀の方法などは 未だに公開されていません。 「実際に埋葬されている人物と指定天皇は違います」といくら考古学者が矛盾を指摘しても 謎の祭祀を続けることの不可解さ・・を象徴するような、 謎のボートなのでした。 前方にから後円へ向います こんもりとした山が確認できます。 ただし、江戸時代の記録では、後円部中央に大きなくぼみがあったとされ、 すでに盗掘を受けている可能性がありますが、それも未確認の状況であります。 宮内庁だけが知っている? ゆったりとした自然に囲まれた周遊路は、 散策にぴったりでした。 道路脇に設置された、小さな公園の遊具で、息子が遊んだり・・・ 1時間ほど家族で癒された寄り道となりました。 本当に住宅地のど真ん中にあり 民家の真裏に古墳の周濠があったのにはびっくりしました。 裏庭から「マイビーチ」、ならぬ、『マイ古墳』が堪能できるようで まじで羨ましい限りでした・・・! 暫し古代史ロマンに浸った私は、 古代史の謎へといつしか思考の旅にでてしまいました。 さあ、ここからは、 古代史マニアの「独り言コーナー」です 題して 「履中天皇」とは、古墳時代の大王(おおきみ)で 生年:342年〜405年 もしくは、 369年〜432年 在位期間:400年〜405年 もしくは427年〜432年 在位はわずか6年間 和名は 大兄去来穂別尊 俗に「河内王朝」の祖と呼ばれる16第天皇・仁徳天皇の嫡子で、 都は磐余稚桜宮に置きました。(奈良県桜井市池之内に稚桜神社がある)。 履中天皇といえば、 中国の『宋書』に見える「倭の五王」が頭に浮かんでしまいます 『宋書』は梁に仕えた沈約が斉の武帝に命ぜられて編纂した正史で 宋の滅亡後直ぐに編纂されたことや、沈約が優秀な歴史家であったことから 他の正史と比較しても、一級資料として信憑性の高さを誇る史書です。 この『宋書』の『夷蛮伝』に、宋へ朝貢した倭の五王について記されています。 倭の五王とは 讃、珍、済、興、武 このうち、「武」が「雄略(ワカタケル)」であるのはほぼ確定しておりますが、 他の王については様々な学説が存在します そのすべてを網羅することなど、素人の私にはできません. ただブログの独り言なので許して頂くとすれば、 履中天皇に関しては、私は「讃」であると推定しております。 理由も書き出すと恐らく5000字を楽々超えそうなので、最も有力な理由を紹介すれば、 『宋書』に「讃死して弟珍立つ」と書かれてあり、 讃と珍が兄弟天皇であることが分かるからです。 この当時の天皇で、兄弟天皇は、「履中と反正」、そして「安康と雄略」の二組ですが 雄略=武であることがほぼ確定しているとすれば、 仁徳の息子である履中と反正が「讃と珍」になります。 つまり 讃: 履中天皇 (第17代天皇) 珍: 反正天皇 (第18代) 済: 允恭天皇 (第19代) 興: 安康天皇 (第20代) 武: 雄略天皇 (第21代) 歴代天皇を一人も欠くことなく雄略までつなげる点などから 最もオーソドックスでかつ、有力な説であると言えるでしょう。 ただ、宋書によれば、讃が宋へ初めて朝貢したのが413年と分かっています 履中の在位期間と微妙にずれているのが気になる点ではありますが、 記紀に記載されている仁徳天皇の在位期間や年齢がむちゃくちゃであることや、 (142歳、在位86年?!!) 上石津ミサンザイ古墳クラスの巨大古墳の建造には、最低でも15年ほどかかることなどから むしろ履中の在位がわずか6年とは考えにくいと言われています。 仁徳天皇の長期在位期間の不自然さと、履中天皇の短すぎる在位期間の空白を埋めるのが 「内乱」。 古事記には、履中が即位前、同母弟・住吉仲皇子 と内戦となり、 もう一人の弟、反正の力を借りて住吉仲皇子を滅ぼした、記載されています 例によって、古事記では、婚約者(黒媛)を巡る三角関係のもつれが原因としていますが、 これは、皇位継承に対する内戦であるといえるでしょう。 特に注目したいのが、住吉仲皇子(すみのえなかつみこ) 名前の「住吉」からも推察できますように、この皇子は「海人族」の出生と考えられます さらに、住吉仲皇子に加勢した豪族がすべて「海人族」の豪族達で占めらています。 例えば、 阿曇連 ⇒ 彼は筑紫の志賀島の豪族です。海人族の代表格ですね! そして倭直子籠は淡路の海人族・椎根津彦を祖先とする豪族です。 一方、履中天皇に加勢したのは、 漢直の祖である阿知使王、平群氏、そして物部氏です。 彼らはすべて渡来系一族、すなわち、「天孫族」といえるのです。 つまり、履中天皇の即位に際し、 「海人族」と「渡来系一族=天孫族」の代理戦争が勃発し 結果、履中を擁立した渡来系一族が政権を担う時代が到来するのです。 即位した履中が、難波から都を磐余稚桜宮へ置いたのも必然でしょう。 磐余は物部氏の本拠地でした。 この内乱は、家督相続のみならず、制海権の覇権をめぐる争いであったともいえます。 勝利により、海人族から制海権を奪った履中天皇は、 国内外へ即位を宣言するために、宋への朝貢を実行したとも言えます。 驚くべきことに、 履中は「宋書」だけでなく、朝鮮半島の高句麗でもその足跡らしき記述が残されていました。 高句麗では広開土王 の時代です (生年:374年 - 412年 在位:391年 - 412年) ぺヨンジュン氏主演「太王四神記」の主人公・広開土王は 古墳時代の履中の在位期間と同じ時代に生きた英雄なんですよ。 なにやら親近感沸きますね(^^b 高句麗の広開士王碑に 『十年庚子・…新羅の城に至ると、その中に倭が満ちていた』という記述が見られます すなわち、広開土王10年(401年?)に朝鮮半島へ出兵したのは 履中天皇であった可能性があるわけです。 制海権を得て大きな権力を握った倭の大王は、 自己の権力を、国内だけでなく海外へも知らしめるため、巨大な前方後円墳を築いたのでしょうか。 そう考えると、大和国の山里ではなく、海に面した堺エリアに巨大古墳が突如出現したのも 納得できることなのです。 偉大なる伝説の大王・仁徳天皇の影にかくれて存在感の薄〜い大王ではありますが、 海人族との内戦に勝利し、海外へとその活動範囲を拡大した王だったのかもしれません さて今回、詳しくご説明できなかったできなかった・・・ ・「海人族」と「天孫族」 ・「広開士王碑」と倭国 いつになるやら分かりませんが、いずれ別記事にて書いてみたいです。 【注釈】
今流行りの「海人族」と「天孫族」という概念について、 私はかなり有効だと支持する部分も多いと思っています だだし、一部で唱えられているような明確な分類、一族ではなく ゆる〜い共同体みたいな区分けだと私は思っております。 事実、古代の民族移動と融合(混血)は、現代人が想像する以上にダイナミックなものでありました。 |

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