ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

語ろう三国志!

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三国志の演義世界について、愛と偏見に基づき’軽いノリ’で語っていきたいです。「正史」については勉強中のため、不備多々あると思いますので、ご指南、ご指摘よろしくお願いいたします!
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三国志演義のハイライト「赤壁の戦い」が中国で映画化されるのをご存知ですか?

最初亜茶さんのブログで、この超歴史大作「赤壁」の諸葛亮様役が、金城武さまに決定したと聞いたときは感動しちゃいました! 
諸葛亮孔明先生が金城武さまなんですよお。ぴったりじゃないでしょうか!!

それから映画ニュースなどをチェックしながら情報収集をしていたのですが
このたび、キャストが確定したようです。


監督は、ジョン・ウー(呉宇森)
制作費は、なんと8000万ドル!!(96億円?!)まじすか〜?

そしてキャストが凄い!!

主役は周瑜で、トニーレオンさま(梁朝偉)
孔明先生は、金城武さま
そして、孫権はチャン・チェン(張震)だって!⇒ ちょっとかっこよすぎじゃない?!
曹操役として渡辺謙さんの名前も挙がっていたようですが、チャン・ホンイー(張豊毅)
劉備は、尤勇(ヨウ・ヨン)、
趙子龍を胡軍(フー・ジュン)
小喬を林志玲(リン・チーリン) ⇒ 台湾出身のスーパーモデルで映画の経験もなく大抜擢だそうですがすごい美人です。


最初は孔明先生はトニー・レオンさまが演じるはずだったのだけど、スケジュールの調整や準備不足で降板、そのあと、金城武さまの出演が決まりました。
ひょろりとした長身でどこか飄々としながら鋭い眼光、トニーレオンさまよりも金城武さまのほうが
イメージぴったりだと思いませんか?!

ところが、こんどは主演の周瑜役であった周潤発(チョウ・ユンファ)が途中降板。
やっぱり歳には勝てなかったのか(?)
度重なる主役の降板でジョン・ウー監督が困り果てたときに、トニーレオンさまが、直接監督に電話して
代役で出演する意向を伝えたようです。

もしかして、トニー様、最初から、周瑜役を狙っていたのかしら??

ともあれ、このごたごたがあったおかげ?で
トニーレオンさま&金城武さまの【恋する惑星】コンビが復活することとなったわけですから
ファンとしては嬉しい限りです。

でも「周瑜」=トニーレオンさま・・・ですらもうちょっと若いほうがぴったりかな?なんて感じたぐらいなのだけど、最初はチョウ・ユンファ(50代)が演じるはずだったと聞いてさらにびっくり!

中国での「美周郎」のイメージって、私達日本人の感覚とはちょっと違うのかもしれませんね。

とにもかくにも、この映画に私はむちゃくちゃ期待しちゃってます。
正直「パイレーツオブカリビアン」よりも盛り上がってますね。

「男たちの挽歌」や「MI−2」のジョン・ウー監督だし、はずれはないかな〜とも。
もうすぐクランクイン。公開は来年以降でしょうか?ホントに楽しみです。ぜひ劇場で観たいですね。

イメージ 1 チャン・チェン(孫権役)

イメージ 2 リン・チーリン(小喬役)
パンダ国出張中、「孫子」と池波先生の短編集「賊将」を持っていった。
出張中はできるだけ現地に関する書物を読んで、ロマンに浸りたいという理由で
今回は「孫子」を選んでみた。(通常は三国志関連ですけどね・・・)

滞在中は本をよむ時間などなかったのですが、帰国便が機材トラブルのため大幅に遅れ、
上海空港で待つこと、5時間!
ということで、おもわぬ「読書の時間」を持つことができ、いい時間つぶしができた。
そして偶然「夫兵形象水」の一文に目がとまった。

そうです。
大河ドラマ「風林火山」で「孫子」オタクの勘助が下宿先の春日源五郎(後の香坂弾正)へ指南し
「孫子」オタクの晴信さんに源五郎が仕官できるきっかけとなった、あの場面に登場した一文である。

原文をここで紹介しよう。
夫兵形象水、水之形、避高而赴下、兵之形、避實而撃虚、水因地而制流、兵因敵而制勝、
故兵無常勢、水無常形、能因敵変化而取勝者、謂之神、故五行無常勝、四時無常位、
日有短長、月有死生

これは「孫子」の虚実篇第七にあたる。
口語訳だと…

夫れ兵の形は水にかたどる。水の行が高きを避けて低きに赴く。
兵の形は実を避けて、虚を撃つ。水は地に因りて行を制し、兵は敵に因りて勝を制す。
故に兵に常勢なく、常形なし。
能く敵に因りて変化して勝を取る者、これを神という。
故に五行に常勝なく、四時に常位なく、日に短長あり、月に死生あり。


とっても名調子だ〜!
特に最期の一行あたりは、現代でも使えそうな詩ある。

ちょっと解説するならば、

軍の形は水の形のようなものである。水は高いところを避けて低いところへと流れる。
そのように軍の形も敵の備えのある「実」のところを避けて、隙のある「虚」の所を
攻撃するのである。
水が地形によって流れを定めるが、このように、うまく敵情に従って変化し勝利を勝ち取ることこそ
神妙というべきである。
五行でも一つだけいつも勝っていないように、また四季も一つだけ止まっていないように
日も長短あり、月にも満ち欠けがあるのである。

五行=木・火・土・金・水の五つの気のめぐりは、木は土に勝ち、水は火に勝ち・・・と
   お互いに勝つものである(相勝説)。

つまり、敵情をつかみ、それによって、軍の形状や作戦を変化すべきであって、
ある特定の形状や策だけで常に勝利できるものではないということ。

あたりまえとはいえ、ある特定の「型」にこだわりすぎると落とし穴が潜んでいるというわけだ。

4/19 中日戦で、JFKの「型」にこだわりすぎた阪神・岡田監督が、
急速の衰えた先発ピッチャーを交代させず、6点差をひっくり返された試合なんて
まさにこのパターンである。

「孫子」ってプロ野球でも通用しちゃうよ〜!


ちなみにドラマでは、この孫子の一文から、晴信が千曲川の洪水被害を食い止めるために
川の流れを変える公共工事を思い立ったことになっている。
自然の摂理を重んじたやや老子に近い思想であることが、
解釈や思考のヒントとなることも「孫子」の特徴であるかもしれない。

勘助と晴信さんの影響で、「孫子」の魅力に取り付かれそうである。

参照@「孫子」金谷 治先生訳注 (岩波文庫)

単刀会

建安2年(215年)劉備は益州を平定した。

その情報を入手した孫権は、早速、諸葛亮の兄、諸葛瑾を成都へ派遣して荊州の返還を要求した。
それに対して劉備は「涼州を得たら返しましょう」と答えたという。

家まで借入金返済の催促にきたエリート銀行員に
「ああ、その件ね〜。今度はじめようと思っている新規事業が上手くいったら返金しますよ〜」
と言っているに等しい。
つまり、返還する気などさらさら無いのである。

馬鹿にされた孫権は、当然怒った!
呂蒙に命令して、長沙、桂陽、零陵の三郡を一気に攻略させた。

「こりゃ、やばい」と劉備も公安へすっ飛んでゆき、江陵を守っていた関羽に上記の三郡を攻めさせた。
孫権も魯粛が駐屯していた陸口まで自ら赴き、関羽軍への対処を魯粛へ命じた。

劉備(関羽) vs 孫権(魯粛)の戦争は免れないかと思われた。

しかしその時、曹操が漢中へ攻め入る動きをみせた。
益州の喉元である。あわてた劉備は、孫権に和睦を申し入れる。
そして、再び諸葛瑾が呉から派遣され、講和条件についての交渉が行われたのである。

その結果、洞庭湖から流れる湘水を境界として
東側(江夏、長沙、桂陽)・・・・孫権(呉)
西側(零陵、武陵、南郡)・・・・劉備(蜀)をそれぞれ領有することになった。

これが、第二次荊州分割である。


和睦を申し入れた劉備は状況としては不利なはずであった。
しかし、孫権が新たにGETできたのは、長沙南部と桂陽だけで、
それに対する劉備は南郡を得ることができたなど、最終的に蜀に有利な条件となった。

これは、呉蜀の同盟をなんとしてでも維持したい、魯粛の意向が反映されていると言われる。
孫権もそれだけ魯粛を信頼していたのである。

この荊州領有をめぐって一触即発の危機にあった、関羽と魯粛については、
「単刀会」という有名なエピソードがある。

関羽を呼び出した魯粛は、お互い軍隊から遠く離れて、互いの将校だけが刀一本だけを持ち、
直接会談を行ったのである。

演義、小説等では、関羽が魯粛に向かって堂々と大儀を述べて、何も反論できなかった魯粛は
すごすごと背中を丸めて?退却したことになっている。

ところが、「正史」では、100%逆のお話となっている。


魯粛は、関羽と劉備の不実を厳しく糾弾し、関羽は一言も言い返せなかったのだそうだ!
しかも恐らくこの時点で、講和条件につながる何らかの妥協案が
魯粛から、関羽サイドへ提示されたのではないかと言われている。
そでなければ、わざわざ関羽を呼び出す意味がないからである。
関羽も何かお土産がなければ、直談判には応じないだろう。

更にこの会談にはもうひとつの効果があった。

魯粛の関羽への厳しい叱責は、関羽だけに聞かせたものではない。
魯粛の後ろに控える呉の将校たちへの効果も狙ったものであったと言われている。
そして孫権や呂蒙など、対劉備強硬派の耳にも、魯粛の厳しい態度が伝わる事を計算していたのだ。

魯粛さん、実は内政と外交にも通じた辣腕政治家だったのね〜!!


惚れた・・・
以前の記事に書いて頂いた「魯粛って実力者だよ」という皆様のコメントを十分に納得した次第である。


魯粛の死後、呉には劉備との同盟を死守するものはいなくなった。
決して外交上手ではなかった関羽は、ある意味配慮を欠いた作戦のために自滅してしまう。
あっけなく荊州はすべて孫権が領有することとなるのである。

参照@「三国志の世界」金文京先生

曹操一族の墓

1974年、安徽省亳県の城南一帯で古墳群が発見された。
発掘調査の結果、この古墳群は、曹操一族の墓であることが判明したのである。

イメージ 1


亳県は漢代の沛国譙県。ご存知、曹操の故郷である。
10基ほどある墓は破損がひどいが、曹操の父・曹嵩と、祖父の曹騰の墓と推定されるものがある。

銀縷玉衣(玉片を銀の糸でつないだ死者の衣服)、銅縷玉衣など
高官の葬儀にしか許されなかった出土品が見つかったためだ。

イメージ 2


写真は銀縷玉衣の複製品だそうだ。なんと豪奢なことだろうか。


またこの墳墓からは、墓の槫(せん)=煉瓦が大量に発見された。
そこには当時の墓職人の刻んだ文字が数多く残されていたのである。
そのためこの古墳群は、中国古代史の一級資料となっている。

その中には注目すべき文字が多い。
「会稽曹君」 「故潁川・・・曹褒」 「長水校尉曹熾」 「呉郡太守曹鼎」・・・
曹氏一族の名前が多く登場している。

曹褒は、曹操の従兄弟・曹仁の祖父
曹熾は曹仁の父
会稽曹君とは、曹熾の弟ですなわち曹仁の叔父である曹胤
曹鼎は曹休の祖父
等・・

曹操一族の実在が確認されたのである。まさに一級資料である。


これらの出土品から、

曹操の一族は祖父の曹騰以後、あまたの高官を輩出した譙県の大豪族であったこと。
名士が集まっていた「潁川」や、孫堅の出身地である「呉郡」や「会稽」と
曹操一族はつながりがあったこと等・・・興味深い事実が浮かび上がってくる。

曹操が後に潁川出身の名士を呼び集ることが出来たのは、彼の親族との縁故とも考えられるし、
また曹操自身、孫堅一族と姻戚関係を結んでいた事などから、呉に対して特別な感情をもっていたことも想像できる。

それ以外にも、墓職人の槫への「落書き」が多く発見されている。
「蒼天乃死」など、どきっとするような文字も発見されており、
当時の庶民達の感情を反映する貴重な資料となっている。

ちなみに曹操の祖父である曹騰は、後漢時代の典型的な宦官であったようだ

後漢史上最悪といわれる外戚の梁冀が、幼帝の質帝を毒殺した後、
大臣達は、聡明な清河王を擁立しようと画策していた。

ところが、「愚昧な蠡呉帝を擁立したほうが都合がいいですよ・・・」
と梁冀に入れ知恵したのがこの曹騰であった。
まさに、THE・宦官!  見事に濁流の本道をいっている。

このとき曹騰が推薦した蠡呉帝が後の桓帝であった。

桓帝の愚昧な政治のせいで、三国志という動乱の戦国時代が始まり
孫の曹操が漢王朝簒奪の道筋を敷いたというのは、不思議なめぐり合わせである。
子孫達も曹騰の権力と彼の莫大な財産が、魏建国への布石となったことを理解していたのであろう。
魏の明帝は、曹騰に「高皇帝」の尊号を贈った。
死後の追贈ではあるが、中国史上唯一の宦官皇帝である。

参考@「三国志の世界」by 金文京先生

逃げろ!劉備

演義では聖人君子として描かれている劉備だが、どうやらとんでもない誤解だったようだ。
以前、安喜県の県尉時代の「暴力沙汰」について記事を書きいた際
皆様から劉備の意外な一面を教えて頂いた。


なかなか面白かったのでちょっと調べてみたら、でるわ、でるわ。
この男ちょっとした街の「ワルガキ」だったようである。

劉備が世にでる前の若かりし頃、同郷の大学者、盧植に師事し勉学に励んでいた・・
これは、演義(うそ)の世界である。


実は劉備は盧植に師事したのは本当だけれど、
勉強大嫌いで、犬と馬と音楽とカッコイイ(キレイな)服が好きだったと正史にはある。
犬と馬を可愛がるだけなら好青年だが、どうやら賭け事がらみのようだ。
つまりは「遊び人の劉さん」なのである。
しかし何故か人望があり、若者が彼の元に集まってくる。
いわゆる「アニキ」的存在であった。

演義世界での劉備は、黄巾の乱が起きると、幽州の義軍として
義兄弟の関羽、張飛とともに大活躍することになっているが、これもどうやら創作のようだ。
(第一桃園結義のお話も疑わしい・・)

劉備の初陣は、黄巾の乱の後に起こった張純の反乱への参加である、と「三国志」正史に注に引く
「典略」にあるからだ。

しかも、この戦で劉備は傷を負い、死んだふりをして助かっている。
曹操や孫堅などの華々しい黄巾の乱での活躍と比べればかなりしょぼい・・・

そんな無名の遊び人だけど、不思議な人望があり商人や遊侠の徒との交流が深かったようだ。
事実、関羽もお尋ね者であった。
演義では中山の馬商人が、劉備の人柄に惚れて資金援助することになっているが
これは本当のお話。
商人や遊侠の徒との交流を重ねて、劉備は次第にその勢力を伸ばしていったのだ。


そんな劉備の人生を見てみると、故郷の琢郡から東西南北、流浪に流浪を重ねているのが分かる。
よく部下達がついていったものだ。
「親分」らしく面倒見は良かったのであろう。
そんな劉備の流浪の旅は毛沢東の長征になぞらえられるという。

ちなみに主な流浪先を列挙してみると、



まず、高唐県令時代に賊に敗れて、公孫瓚を頼り、
それから陶謙のもとに寄宿してその後をついで徐州牧となったが、
呂布に敗れて、曹操の食客となったかと思うと
曹操を裏切ったらやっぱり負けて、
袁紹の元へ逃げる
しかし袁紹が曹操に敗れてしまうと、
さっさと荊州の劉表の元に逃げて、脾肉の嘆。
劉表が亡くなり曹操が侵攻してくると今度は孫権を頼って逃亡。
赤壁でやっと大勝利 !!
荊州をGETしたけれども、今度は領土をめぐって孫権との関係が悪化。
そのため劉璋から蜀をぶんどり、やっと国を持ったのである。





こう列挙してみると、大陸横断ウルトラ逃避行だ。
しかも負けて、逃げてばかり。
劉備の不思議なところは負けるたびに勢力を拡大している。
「負け上手」であったのだ
自力を消耗することがないよう引き際を見切っるだけでなく
何処へ行って誰と組めば最良であるかを計算していたのではないかと
勘ぐるほどである。きっとそうなんだろう。

ただし面白いのは、諸葛亮が軍師となった以降は、親分の顔だけではなく、
国の行政や外交がシステムとして機能するようになったようだ。


諸葛亮との出会いによって劉備は「親分」を脱し、着実に「皇帝」への道を歩みはじめたのであった。


参考@「三国志の世界」金文京先生

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