|
2007年大河ドラマ「風林火山」と「三国志」関連記事を一つ。 武田晴信(信玄)の旗指物として有名な「風林火山」は
「孫子」軍争篇の一節より採られたことはあまりにも有名だ。 『孫子』・軍争篇で軍隊の進退について書いた部分にある 「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、知難如陰、不動如山、動如雷霆」 「其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、 知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し」 そのうちの4句「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」を引用したのである。 このことから分かるように、武田晴信(信玄)は「孫子」の兵法に長じており その奥義を極めたと言われている。 「戦国一の兵」と称された武田軍の強さの秘密は、武田信玄の軍略も理由の一つであった。 その「孫子」だが長く原本が失われ、魏の曹操が分類しまとめた「注釈書」が現在に伝わっている。 信玄が幼年期より親しんだ書物も、曹操注釈本であったと考えられる。 そもそも、「孫子」と呼ばれる兵法書は、春秋時代の孫武の作とされる。(紀元前450年頃) しかし、孫武の子孫といわれる孫臏も多くの兵法書を著していた。 (孫武のものを『呉孫子』、孫臏のものを『斉孫子』として両書を明確に区別していたようだ) しかし原本が早くに散逸し、まるで別人の著作が入り混じりどれが誰の著作か解らなくなっていた。 「史記」には13篇とあるが、「漢書」になると89編と膨れ上がっている。 孫武と孫臏以外の偽作が紛れ込んでしまったのだ。 そこで曹操は、贋作を俳し、「孫子(孫武)」で本物と思われる文章のみ集めて注釈を施しまとめたのである。 いわゆる「魏武帝註孫子」である。 当時すでに原本が失われ、結局曹操の注釈本が、世界に広まり現代まで伝わることとなった。 合戦の合間、国の統治や政治外交で、超がつくほど多忙であった曹操が 時間を割いて取り組んだ立派な「研究成果」であった。 詩人としても秀逸であった曹操だが、研究肌の人物であったことも分かる。 しかし、「三国志演義」で徹底的に悪人にされた曹操。 演義世界では曹操の兵法書『孟徳新書』は、左慈や張松に嘲笑され、最後には曹操自身で焼き捨てたという滑稽で哀しいお話に仕上がっている。 その影響もあって、これは曹操が、「孫子」を自己流に改竄したものだとか 曹操の贋作だなどその信憑性を疑う声も多かった。 ところが、近年山東省銀雀山の前漢時代の墳墓から「孫子(孫武)」など兵法書の竹簡が発見され、 曹操注釈の現存する「孫子テキスト」とほぼ同じであることが判明したのである。 曹操は、「古典改竄者」という汚名を返上できただけでなく、 公正な対場で研究対象をとりあげた一流の学者であったことも証明されたのである。 「孫子」以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かったが、 孫武は戦史研究の結果から、戦争には勝った理由、負けた理由があり得ることを分析した。 戦略本としての評価は古今東西非常に高く、現代ビジネスにも通用する戦略本として 今でも多くの研究書が発行されている。 南北朝時代の北畠顕家(親房の長男)が、は、実は信玄よりも早く「風林火山」の旗印を用いた名将だった。 また戦国時代、中国の覇者と成り上がった毛利元就も、祖先(大江家)から伝わる[「孫子」に 通じていたといわれる。 海外に目をむければ、ナポレオンや毛沢東、ホーチミンなど、革命成功の影に 孫子の影響を見ることができる。 ≪追記≫
『呉孫子』『斉孫子』については下記、「こういちさん」のコメを是非ともご参照下さい。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用



