ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

語ろう三国志!

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三国志の演義世界について、愛と偏見に基づき’軽いノリ’で語っていきたいです。「正史」については勉強中のため、不備多々あると思いますので、ご指南、ご指摘よろしくお願いいたします!
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廖化

周倉同様、黄巾あがりの関羽将軍の腹心といえば、思い出すのは

主簿担当の廖化さん!


演義世界では:
関羽とであった11年後(建安16年)劉備が蜀へ侵攻するときに部下を従え投降。
以後関羽からの信頼あつく主簿として仕える。
そして関羽が呉の裏切りにあい、麦城へ逃げ込んだときに、劉邦らへ援軍を求めるために
敵の包囲網を破って逃走。しかし劉邦の援軍が見込みなしと解るや否や
ぼろぼろになりながらも、今度は成都の劉備のもとへ達するも関羽は既にこの世になかった。

その後の廖化は蜀軍の中核的武将となり、諸葛亮の北伐にも参加して
司馬懿をすんでのところで取り逃がし
「もし関羽だったら捕らえることができたろう」と孔明先生を感嘆せしむる。

諸葛亮の死後は姜維と共に魏の攻勢を食い止めるも降伏。
景元5年(264年)洛陽への移住を拒否し憂悶のうちに病死した。

となると疑問がわきます

黄巾の乱が184年で蜀の滅亡が264年。
黄巾に参加したのが20歳ごろとすれば、なんと
100歳近くまで現役の武将として戦場を駆け巡っていたこととなります!

「憂悶のうちに病死した」のでなく「老衰で死亡した」ほうがよっぽど自然です。。。

これもどうやら羅貫中の創作が原因だといわれています。

周倉さんと違い、廖化は実在の人物で正史にもちゃんと記述されています!
三国志正史『蜀書』では

廖化は関羽の配下。
関羽の敗死後、いったん呉に降伏したものの、まもなく脱出して蜀に入り
以後、蜀の中核的武将となった。

・・・簡単です。

どうやら「元黄巾」という廖化さんの履歴は、羅貫中の創作のようです。

作者は「憂き世に暮らす無頼の好漢が、関羽将軍と出会って忠実な部下になる」という
「水滸伝」的なストーリーをどうしても書いてみたかったのでしょうww


関羽将軍のため羅貫中さんが正史の簡潔な内容を、いかに苦心して潤色したかが分かります。

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周倉

関羽将軍のそばにはこの男あり!

足の裏に毛が三本の周倉さん!


この主従の出会いは、関羽が曹操のもとを去り、劉備のもとに駆けつける途中。

黄巾の残党であった周倉は食い詰めて山賊頭に身を落としていましたが
信奉する関羽将軍にめぐり合い、「一兵卒でいいから配下に加えてほしい」と嘆願。
最初は「山賊まがいの男を大兄貴(劉備)にあわすわけにはいかん」と関羽は拒否するも
周倉の部下が全員土下座して「かしらをどうか配下に・・」と懇願。
周倉の熱意と部下からの信頼に、その人物を確信した関羽は周倉ひとり同行を許し
それからは、関羽将軍の腹心、忠実篤き部将となり関羽と生死を共にすることになります

こう書くだけでもしびれるお話ですよね!

でもこの周倉が、架空の人物それも、演義にしか登場しない羅貫中の創作と知ったときは
なんだか、がっくりきましたよ。
「過五関斬六将」のところでも書きましたが、これも数多ある「関羽伝説」のひとつだったわけです。
「土踏まずに毛が三本あったから、青龍偃月刀を担いで赤兎の後を遅れずに走れた」なんてのは
まあたしかに嘘っぽいですけど、周倉の活躍は結構リアルであったのでその存在を信じて疑わなかったわけです。

ところが調べてみると、周倉のモデルらしき人物がいるとこが分かりました。
正史の呉書「魯粛伝」です。

荊州奪回のため関羽をおびき寄せて暗殺しようとたくらんだ魯粛。(正史だとこわもてのキャラです)
関羽に随行した無名の部下がこともあろうか、魯粛にくってかかり
関羽が「国家のことに口を挟むとは無礼千万!」とその部下は退場させられた
しかしこれが実は、関羽を救出するための芝居だった。
そのとき関羽は、部下が携えていた青龍偃月刀を取り上げたため
さしもの魯粛も鬼に金棒の関羽を暗殺できなかったという。

この「無名の部下」こそが周倉そのものなのだそうです

無名の男の行動を膨らませ、忠義一筋の熱血漢を創作した羅貫中は、
やはり当代一の文学者であったと思います。

そんな「架空の人物」であった周倉の最後も、壮絶なものでした。

関羽、関平親子が呉軍包囲網からの強行突破するのを援護するため、麦城に踏みとどまった周倉は、
関羽の死を知り、呉軍への降伏を拒否して自らの首を掻き切って憤死した。


関羽将軍の配下であればこうあるべきだという、お手本のような存在ですね!
麦城の攻防は信義と忠節に生きた男達への羅漢中のレクイエムといえるでしょう。

そんな周倉の人物像は後世の人々から愛され、関帝廟では関平とともに祭られ
架空の人物でありながら、中国各地、いや世界各地で信仰されています。

孫権と仏塔

先月の中国出張のとき、上海近郊の高速を走行中に
とても大きな仏塔を見つけて思わずシャッターを切りました。

イメージ 1


車内からだったので斜めになってまるでピサの斜塔のようですが
大きなお寺であることは間違いないようです。

また、南京近郊都市で、夕食のあと街を散策していたところ
またしても、巨大な仏塔にでくわしました。
(夜だったので写真は撮れず・・・)
現地スタッフの説明では、すご〜く有名な仏塔なんだそうですが、
中国発音だったため、寺の名前までは記憶できず・・・残念でした。 

なにやら、呉エリアは、仏塔がやたら多い気がしました。

そこで三国志時代の仏教について、調べてみました


仏教は前漢時代にすでに中国に伝来しており、当時は「浮屠(ふと)」と呼ばれていました。

「浮屠(ふと)」といえば、
北方謙二先生の「三国志」では曹操が隠密として利用し、
陳舜臣先生の「諸葛孔明」では孔明先生と協力して情報収集網を組織したり
魏と蜀の「闇の組織」として暗躍したイメージがありますよね。

しかし、実際調べてみると、三国志の権力者のなかで、実際に仏僧との関係がはっきり記されているのは呉の孫権だけなんです!

孫権はインド人僧侶の「康僧会」の教えを聴き、いたく感激し、寺院を建立したそうです。
最初の寺だからというので名前は「建初寺」、そしてその場所を「仏陀里」としたんだそうです。

単純なネーミングがいかにも「孫権」らしいなあ〜。


そんな孫権の庇護もあり、呉の建業には多くの信者がいたそうで、
呉の臣下の間にもその教えは浸透していたようです。

赤壁の戦いで、黄蓋の偽りの降伏上を曹操へ届けた闞沢(かんたく)字:徳潤は
自分の自宅を寺院にした程の信奉者であったそうです。
寺の名前は自分の字をとって「徳潤寺」。闞沢の熱血ぶりが伝わりますね。


もうひとつ、
劉備と孫夫人の婿入り伝説のある「甘露寺」も上海近郊に現存しているそうです
ただし当時はまだ寺はなく、多分孫権の別荘でもあったんでしょうか。
そこで劉備と孫権が曹操を倒す計画を練ったんだそうです。(ほんまかな〜?)

赤壁の戦艦

9月中国へ出張したさい、再びフェリーで長江を渡る機会に恵まれました。
江蘇省の会社へ向かう道中。 長江を展望できる高台からの眺めです。

イメージ 1


やっぱり長江は大きい! まさしく「大河」です!


長江を渡りながら、三国志ファンの私が思い描くのは「赤壁の戦」
周瑜引き入る呉の水軍が、圧倒的な数を誇る曹操軍を完膚なきに壊滅させた
三国志一番のハイライトシーンです。

一体赤壁の戦で活躍した戦艦とはどんなものだったのでしょう?
調べてみました。

楼船(ろうせん)
指揮官の役割をはたす大型船。 周瑜もこの船にのって曹操軍と対峙したのでしょうか?
イメージ 2


闘艦(トウカン)
名前のとおり、戦闘のための戦艦。
防壁付きの甲板室を設け、戦闘に使える場所を二倍にしていたのだそうです。

イメージ 3


蒙衝(モウショウ)
これが小説などで名高い蒙衝なんですね!
覆いつき襲撃船で守備にも攻撃にも強い設計。実際、この蒙衝弩や槍を打ち込んだと記されており
赤壁で最も活躍した軍船。きっと小回りが利いたのでしょうね!

イメージ 4


走舸(ソウカ)
名前のとおり大量の水夫と少量の精鋭の兵士が乗り、快速で突っ走たそうです。
駆逐艦ってところでしょうか?

イメージ 5



曹操軍を火攻めにした黄蓋'の苦肉の策。
黄蓋の最終行動を上記の船を想像しながら追ってみると、臨場感がわきます!

まず、たき木や柴草を闘艦蒙衝につめそこに油を注ぎ
走舸をそれぞれの軍船の後ろにつなぎ、曹操の陣に着く。
そして軍船に火を放ち自分たちは走舸で逃げたのだそうです。

なるほど、理にかなっていますよね!

三国志当時の海上戦の主たる武器は「矢」
諸葛亮が、周瑜の謀略により矢の大量生産を命じられ、失敗したら処刑というピンチのとき
濃霧のなか曹操の陣中へ船を走らせ弓を撃たせることで、大量の矢を調達しましたね。

矢を見事に調達した孔明先生の智謀もさることながら、実践で必要な「矢」をかき集めるために
手段を選ばなかった周瑜もたいした軍師です!

あ〜一度でいいから赤壁付近へ行ってみたい!


PS
三国志の史跡を巡る「長江クルーズ」なるものがあるらしいですよ・・・
「演義」や小説世界の官渡の戦いの場面で最も目だっているのは
我らが美髯公関羽です。

袁昭の猛将 顔良と文醜をあ〜っというまに切り捨てて名を馳せただけでなく、
これで曹操への恩義も果たしたと、曹操への礼もつくして二夫人とともに
劉備のもとに駆けつけ、まさに忠義一本、義の道に生きる関羽の雄雄しい姿に
古今東西、読者の多くがしびれたことでしょう。

しかも、曹操の元を離れ、劉備の元へ馳せ参じる途中には魏の5つの関所があり、
関羽の目前に立ちはだかるも、関羽は堂々と関所破りを敢行し、
これら五つの関所を守る六人の大将を斬ったとあります。
いわゆる、「過五関斬六将」ですね〜!

英雄が次々と立ちはだかる関所を破って逃亡するってのは、
義経の都落ちにも似ていて、はらはらどきどきさせる効果もあります。
まさに三国志的RPG!

ところが、この名場面で一連の関羽の活躍が、ほとんどフィクションだったと知ったときは
かなり悲しかったです。

なんと、官渡の戦で関羽が斬ったのは、顔良だけ。
しかも、袁昭軍にいた劉備が、「関羽は降伏するはずだ」と言ったので
それを信じて油断した顔良を関羽がいきなりバッサリと斬りつけたという。
「だまし討ち」だったってわけです
義に生きる関羽にはふさわしくないお話だったんですね・・・

さらに「過五関斬六将」はまったくのフィクションで事実ではない!
つまり、関羽は堂々と関所破りをしたわけではないってことなんです。
しかも、劉備に会うため、許都から河北の袁昭へ向かうために、
わざわざ反対方向の洛陽へ行くのも、ありえないそうです。。。

後世、神様としてあがめられるまで人気があった「関羽」については
さまざまな伝説が各地に伝えられて、それが演義世界に反映したとか。

つまり演義世界での「関羽」の活躍は伝説(フィクション)が殆どなんだそうです。

それでも関羽の忠節に偽りはなかったはずです



「伝説的となった英雄」にはそれなりの神格化されるべき要素があったのだと思います。
誇張されたとはいえ、関羽の劉備に対する忠節や、義に即した生き方を
不器用であったけれども、まっとうしたのではないかと私は信じています

ところで、関羽に秒殺された「顔良」(がんりょう)ですが、
「かおよし」と入力して変換しています。
ほんとうに「イケメン」だったんでしょうか・・・?

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