ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「風林火山」

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川中島決戦!

・・・数多の犠牲者を出して結局決着のつかなかったこの合戦が終わり一体何が残ったのか?
それは自分達の「原点」「原風景」・・・
そんな印象を持った最終回でした。

例えば、武田信玄公

彼の原点はやはり、実の父・武田信虎の甲斐追放でありました。
父を慕い父に認められたいと我が実力を隠し忍従していた少年が青年となった日。

同母弟の信繁の「よう、お立ちなさった。決断された!」という言葉に
どれだけ信玄の心は励まされ、癒され、安堵したことでしょうか。
この回想シーンを最終回にもってくるところがシブいです。やられました。
涙でした。
そして信玄を影に日向に支え忠義を尽くした弟の死を乗り超えようと決意したんでしょう。

信玄公を演じられた市川亀治郎さんの、重厚な演技が素晴らしかったです。


上杉政虎(謙信公)の場合。

彼の原点は、己を神と信じる「狂気」にあります。
それが行動となって現れたのが、伝説の信玄VS謙信 騎打ちでありました。

武田信繁らの命懸けの働きもあり、短時間で決着をつけねば勝機のない越後軍の総統である以上、
無謀な行動は慎むべきでありました。
なぜなら、妻女山からの武田の別働隊が帰還し川中島へ殺到すれば越軍は挟み撃ちとなり
全滅の危機もあったからです。

しかし、己を「毘沙門天の化身」と信じる政虎公には、武田信玄を討ち取ることだけが
正義であったのです。
そのために自軍が挟み撃ちにあい全滅してもかまわないと思っていたに違いないでしょう。
まさに一種の狂気でありました。

そして信玄の軍配が政虎の太刀を受け止めたとき、「この戦で武田は滅びない」という
「神の意思」を謙信公は感じたに違いありません。


川中島ロケにおけるガクトの騎馬武者姿は、まさに「毘沙門天の化身」でありました。
ガクトのパフォーマンスの素晴らしさを、私のつたない文章で100%伝えることなどできません。
市川信玄公へど迫力の疾走にて突撃する馬上の雄雄しさ。
そして雑兵に囲まれた勘助をじっと見守る政虎公の馬上姿の凛々しさ。
まさに鬼神そのものでした。

動いても良し。動かずとも良し。
ガクトの気迫こもる演技は、一見不可解で掴み難い謙信公の精神を見事に描ききったと思います!


そして、我らが山本勘助!

最終回をみて確信しました。
彼の原点は葛笠村
武田家との縁を結ぶことになったあの村がすべての始まりであったのです

それは、言い換えれば、山本勘助という武将が素性の知れない一介の素浪人出身であり、
底辺の人間の一人であったということの再認識を視聴者へ求めているともいえます。

そして葛笠村でであった平蔵が、勘助の生き様の対極にあって
生きていくこと、幸福であることの光と影を映し出す、勘助の影法師というキャストであったことも。
勘助の対極である以上、平蔵は生き延びなければならないんです。

(おばば、たのんます・・)

勘助は天才なんかじゃなかった。

孫子を学び軍略に通じてはいても、最善の策と信じた「きつつき戦法」は、
本物の天才、謙信公にあっさりと見破られてしまいます。
越軍の「車掛かりの陣」で本陣が危うくなり、自ら最前線へ向かおうとしする嫡子武田信義へ
「あなたさまは武田の御嫡子」と踏み留ませる言葉の裏には、「自分の命は戦場で散って相等」という、
超えられない身分への納得もみてとれました。

ドラマの最後は、合戦後、屍で埋まった戦場に咲く名もなき花と勘助の眼帯が映し出され

「勘助の心のなかに花が見えるから、勘助のこと、怖くないずら・・」

というミツの台詞で静にドラマは終わりました。

これは、「風林火山」第一話へ還ったことを意味します

私この第一話の野花のシーンにとても感銘を受け、このシーンだけで今年の大河を見よう!
と心に決めたぐらい感動してしまいました。
他の場所でも何度も言っている「戦国時代の空気」を表現した素晴らしい内容であったからです。

(第1話感想文なんだけど暇なら読んでね ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/45902113.html

武田信玄公を天下人にする!という勘助の野望は実現できませんでしたが、
勘助は死の間際まで、その夢を見続けていたことでしょう。
内野さん演じる勘助の最期の笑顔は、戦国という過酷な毎日を懸命に生きた男が
野に咲く花へ還っていくさまを凝縮していたように感じました。

「お・・・」
「こやつ、笑うておる・・・」

討ち死にした山本勘助の胴と首をあわせたという「胴合伝説」。
きっと勘助は笑って死んでいったんじゃないかと・・・笑っていたに違いないと私も思っております。

面白かったぞ。2007年大河ドラマ「風林火山」!感動をありがとう




この一年間の感想文の最後に、「甲越信戦記」 に記された勘助同合いの場面を紹介します。

「いまだ生き残りし山本が郎等ども、入道(勘助)殿の首を敵に渡さんは無念のことなりと
命かぎりの十人ばかえり踏み込みて戦い、法師首を取り戻し、もとのところへ立ち帰るに、
めいめい持ち帰る法師首、いずれも勘助と知れず。。。
これゆえの一人ずつ胴に首をつぎてみるに、まことの首ようやく知れて、川端に一つ埋め、
この土橋を胴合の橋と名づく」


信玄公vs謙信公一騎打ちのついては、別途にて考察記事を書きたいと思ってます。
(いつになるやら分かりませんけど・・・汗)


 

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川中島第2章!

今回は個人的に大好きな武田信玄の弟 武田信繁 の最期を中心に描かれていました。

川中島決戦において信玄に次ぐ副将信繁。

大永5年(1525年)に武田信虎の次男としてうまれた信玄の同母弟。
父信虎から最も寵愛をうけながら、信玄が父を追放した後も兄に背かず、兄を支えてきた賢弟です。

第四次川中島(永禄四年1561年9月9日)で37歳。

信玄直筆の、金で法華経の陀羅尼品が書かれた紺地の母衣(実母大井夫人の形見の衣)を背負い
上杉勢の猛攻にくずれた陣形を建て直すために、決死の突入を試みます。

家来の春日源之丞に背の母衣をはずし手渡したのも、ドラマのとおり。
「信玄公の直筆なれば、われ死して後、敵の手に渡るは無念なり」
と、自分の髪を切って、源之丞に渡して、嫡子 信豊に、父の形見として渡せと命じました。

信繁が討ち死にを覚悟したことを悟った源之丞は、自分も冥途の共をすると言い張ったのですが
嫡子信豊の守役となれと言い含めて戦場から去らせた後、
さらに兜の忍び緒までも切りおとし千曲川に流して討ち死の仕度をしたと伝わっています。


「われこそは、新羅三郎義光19代目、武田信玄が弟、左馬助信繁なり!!」と

信繁と彼の部下は上杉勢へ突撃し、大刀をもって暴れ回りました。
しかし、多勢に無勢・・・・信繁の将兵達は、みな信繁の盾となり討ち果たされていきました。


結局、信繁にとどめをさしたのた、実は、上杉の軍師 宇佐美定満(行)と言われています。

『甲越信戦記』によれば
宇佐美が郎党の鉄砲にて最期なれど、かかる大将を鉄砲にて討ち奉わるは恐れありと
宇佐美定行が槍にて御最期という。お討死の場所は中沢なり

と記されています。

つまり鉄砲で討たれ亡くなったけれども、信繁のような上級の武将の最期にふさわしくないと
宇佐美が自ら槍をうち、その一太刀で御最期とした、ということです。

上杉のある意味温情でありましたし、またこの頃は、鉄砲という武器が格段下の
卑劣で野卑な手段だと武士に思われていたことがわかりますね。


信繁の遺体は千曲川に流されてゆきました。宇佐美の家来 梅津宗三が川に入って
首級をとろうとしたけれども、信繁の家来 横田主水達が後を追い、寸での所で、梅津を討ちとり、
遺体を取り戻し、そのまま戦場を離れて、八幡原南方の水沢村に葬ったと伝わります。

信繁ほどの武将の首が敵に渡らなかったのは、亡き大井夫人のご加護もあったに違い在りません。

一方、武田信繁の守役であった諸角豊後守昌清は、信繁の最期を知ると自分も討ち死にの覚悟を決め、なんと兜を捨て髪を振り乱しながら上杉勢へ突撃したといわれます

諸角は新発田尾張守の郎党、松村新右衛門と一騎打ちの後、戦い疲れて松村に切り伏せられましたが
武田の郎党達は、こもでも諸角豊後守の首を奪い返さんと、松村勢の元に切り込み
見事首級を奪い返しました。

「わが軍の大将の首は決して渡さぬ!」
武田軍の結束の固さを物語っていますね。

ドラマでも、嘉島典俊の新繁さんだけでなく、自身もご老齢であるはずの、諸角役の加藤武さんとも
馬上で剣を振るっておられました。

馬を乗りこなしながらの殺陣は難しいといわれています。
お二人の熱い心が伝わる、激戦のシーンでありました。



やはりオール野外ロケってのは迫力があります。
鶴翼の陣と、車懸りの陣(大車輪の陣ともいいます)を実際に展開してくれたのは感激しました。

そして、いよいよ今晩。
川中島の死闘の結末が明らかになります。
勘助はいかに!!

皆さん、襟を正してテレビに向かいましょう。

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国内出張から帰ってきました〜!

いや〜疲れました・・・・


しんどかったけど、いいこともあったんです。


なんと、売り切れ続出で、近所の本屋にもなかったものを出張先で見つけました。


「龍の化身」ガクト写真集!!


かっちゃいました〜!



うるわしいです。

甲冑をここまで美しくそして雄雄しく着こなせる人はそういません。
体鍛えて同巻き入れてないってんだから、まさに「もののふ」です
3150円というお値段がまったく高く感じられないほど、クオリティーは高いです。

風林火山の人気もあり、春日山城には連日若い女性が殺到して
毘沙門天のストラップやキーホルダー等のグッズが売れてるそうです (もんたさん情報)

あたしも毘沙門天のストラップ欲しいっす!
第四次川中島決戦の「その時」が近づきつつあります。

今回は井上先生の原作「風林火山」と新田次郎先生の「武田信玄」をブレンドしアレンジした内容になっておりました。

井上先生の原作でも特に情緒溢れる「由布姫幻影のシーン」がそれです。


ドラマは原作どおりでありました。
出陣し川中島へ向かう途中、勘助が諏訪の観音院にある由布姫の墓を詣で
四郎勝頼が今回の川中島でいよいよ初陣であるとの報告をしているとき

ふと。。

勘助は由布姫のすすり泣く声を聞いたのです・・・・


そして勝頼を我が意でこの戦から遠ざけてしまうのでした。


井上先生の描く、亡き由布姫の幻影の描写がなんとも不気味でもあり
不思議な余韻を残すシーンでもありました。
それは、何よりも勘助自身が、これから立ち向かう強靭な敵との合戦に対し
不安を覚えただけでなく、自らの「老い」をも感じたシーンであったからです、

この「難解な場面」を、どう演じるのか・・?


やっぱり、内野さんは上手かったです!!

勝頼の元服初陣を誰よりも待ち望んでいた勘助の、突然の心変わりの妙を
見事に演じていらっしゃいましたね!

勝頼の憤慨する声を振り切るように、なにやらそっけなく立ち去る勘助の姿は
このときすでに「ある覚悟」を決めていたかのようです。
命を失っても悔いはない・・・・そんな想いが感じられました。


さて、新田次郎先生の「武田信玄」のドラマでの取り上げられ方について。

やはり、この作品でもっとも有名なシーンである「川中島の霧」がそれです。

新田次郎先生は、気象庁に勤めていた「天気のプロ」でした。
その経験を生かして、第四次川中島を「霧の戦い」として描いていました。

甲越両軍とも霧の予測は充分に気を使ったと考えて「雲気見の名人・善右衛門」を登場させています。
今回の大河では、おふく(緑魔子さん)という謎の老婆がその役目です。

この「霧の情報」により山本勘助は「きつつきの戦法」をとり、
そして勘助の策を見破った上杉政虎と宇佐美は、その裏をかき「大車輪の陣」で一気に武田本陣をつくのです。

いやはや文字にするだけでも興奮してきますね。

戦国時代も現代同様、「情報」の分析と即座の判断が、勝負の分かれ目でもあったといえます

政虎が、武田軍がその夜、妻女山の背後へ出立することを確信したのも
海津城内から炊煙が盛んに立ち上ったのを見つけたからでした。



ここで、第四次川中島基礎データを書いておきますね。


きつつきの戦法
樹皮の下に隠れている虫を食べるため、虫の巣くう穴の裏側をくちばしでたたき、驚いて穴から出てくる虫を食べるきつつきの習性を合戦にあてはめた策のこと。
一説によれば、このきつつき戦法を信玄へ薦めたのは勘助ではなく、飯富虎昌であるとも言われています

信玄は、この献策に従い、妻女山の背後を襲う部隊と、その軍に攻めこまれて川中島へ押し出てくる越後軍を構え打つ部隊とにわけました。

妻女山を急襲するのは、高坂弾正、飯富虎昌、馬場信春、真田幸隆、相木市兵衛、小山田弥三郎、等
の10隊。

川中島に布陣した武田本隊は、先手中央に飯富三郎兵衛昌景(後の山県昌景)、武田信繁、穴山梅雪、内藤修理、諸角豊後。
信玄を囲む旗本本陣は、左脇備えに原隼人佐、武田逍遥軒信廉。
右脇備えは、嫡子武田義信、望月義勝。
後衛は、跡部大炊助、今福善九郎。

残念ながら、足軽大将であった我らが山本勘助がどこに布陣したのか、明確な資料は残っていません。

一方。。。


きつつき戦法を見破った上杉政虎は、敵に先んじて川中島を下り信玄の本陣をつく作戦。
狙うは、「信玄の首」のみでありました。

「大車輪の陣」: 
七段の陣形で先手が疲労すればただちに二の手が入れ替わり、
さらに三の手が続くという、繰り返しの戦法で、新手を次々に繰り出し敵を巻き込み殲滅するという、
越後独特の戦法でした。

このとき、総帥上杉政虎は、自ら先頭にたって妻女山を下り、川中島での「大車輪の陣」においては
二の段にあって陣頭指揮をしたとされています
まさに総帥自ら剣を振るって合戦に参戦したことが分かります
この政虎公の「命知らず」の行動が、信玄VS謙信一騎打ちの伝説を生んだといえるでしょうね。



そして、川中島の死闘で忘れてはならないのは、信玄の賢弟、信繁の最期でしょう。
次回、とはいっても今晩の放映ですが、このお話はきっちりと描いてくれるようで嬉しいです。

信繁の母衣の話は泣けます・・・

私が大好きな真田幸村公の本名(諱)は信繁といいます。
もちろん真田昌幸公(幸隆の三男)が、信繁の兄への忠誠心と戦場での武勇を尊敬し敬愛し
息子へ与えた名前でありました。
もし信繁が生存していれば、武田は勝頼公の時代で滅びなかったとまで言われているほど、
惜しまれた人物であったのです。


盛り上がる川中島!

野外ロケ100%みたいですから、期待も高まりますね〜。
永禄4年(1561年)9月10日 第4次川中島合戦!

信玄VS謙信 雌雄を決する合戦の火蓋が切られようとしています。
皆様ご存知のように、この第4次川中島は、今までの川中島の戦いで最大規模の戦いとなり
両軍合わせて8000人の死者を出したといわれています。
また信玄VS謙信の一騎打ちもあったといわれる戦国時代を代表する合戦。


ここで、合戦前の基本データを参考のために記載しておきます。

第四次川中島(永禄4年)時点での両雄の年齢は、信玄公41歳 ・ 政虎(謙信)公32歳。
越後軍は1万3000人の兵。 甲斐は約2万人の兵
数でいえば、武田が有利であった。
信玄公の本陣は茶臼山。 政虎公の本陣は妻女山。
上杉政虎公は、敵陣深く入り込んだ妻女山の本陣において動かず、日毎歌舞にふけっていたといいます。


対峙すること約10日後の・・ある霧の深い早朝。。。!


ううう。。わくわくしてしまいます!


まさに「風林火山」はクライマックスを迎えようとしています
第47話はまさに決戦前夜の両陣営の人間模様を描いた内容となっておりました。

嵐の前の静けさといいましょうか、
亀治郎さんの信玄公も、ガックンの謙信公も、そして我らが内野勘助さんも
あせくせせず、悠然と「そのとき」を待ち構えているようでしたね。

信玄公も勘助も、「川中島で越後を殲滅する」ために着々と準備をすすめ
今の所は首尾よくすすめているという余裕があったのかもしれません。

しかし、ガックン謙信公は、関東管領として出兵したものの、小田原城を落とせなかったという失策のあとではあれど、この失敗により「一皮向けた」武将へ成長したようでした。
それは成田長泰の妻、伊勢姫の、命懸けの諌言があったことも影響しているのでしょうね。

「人として人を超えねばならぬ」
「わが亡き後も越後の民を守ることこそが守護の役目」

謙信公の領国経営の理念が、こののちの上杉家の品格と存続を守ったのでしょうね。
深くていい言葉でありました。(ガックン、上手かった!)
そして、伊勢姫を演じた井川遥さんの美しかったこと!
義経の母常盤御前を演じた稲森いずみさん以来、時代劇の鬘が似合う女性を見つけた気分でした。

内野勘助さんの、「わが城を託したい」という言葉にも重みがありましたが
私は、勘助は決して死に急いだのではなかったと思います。
勘助の夢は、御屋形様を天下人にすることと、愛する由布姫も遺児・勝頼公の家督相続であったからです

そこらへんの心理描写のうつろいは、原作の「風林火山」の筆致はすばらしく感動的でした!
さすが純文学の井上靖先生です。
わたしは原作の最後を読むと、必ず泣けます。
内野さんなら、井上先生の託した、「山本勘助」像を見事に演じてくれると信じます!

それにしても、明日(12/2)の放送を含めて残り3話だけなんて・・・寂しいなあ。

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