ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「篤姫」

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公武合体と尊皇攘夷。

長州藩の過激な運動を中心に暗殺と陰謀で混沌とした京都での政局が
次第に「倒幕運動」へと転換していきます。


しかし、京から遠く離れた江戸、大奥は、表の騒動からも隔絶され
心に漠然とした不安を抱えながらも、移り行く季節を楽しむ余裕さえ持ち合わせておりました。

特に、京から帰還した将軍家茂と和宮の、寄り添い仲睦まじい様子は
未来永劫、徳川将軍家の安泰を「妄想」させる、小さな拠り所ともなったでしょう。


そうです。
大奥とは、将軍家の跡取りを作り、育てる場所。

立派な青年公方となった家茂の後継者が授かることは、大奥全体の悲願でもありました。


それゆえ、家茂に側室はどうか?と滝山が進めることは、当然であったといえましょう。
しかし、天璋院は、家茂を慕う和宮の心情を慮り、「ならぬ」と強く反対するのでした。

そんなとき、

和宮さまご懐妊?の噂が・・・・


現代でも、なかなか子供を授からない夫婦への、「お子様はまだ?!」プレッシャーは相当なもの。
私も何度も嫌な思いをしました。(今は「二人目まだ?」攻撃を受けて辟易してます)

ましてや、和宮は家茂公を深く愛しています。その喜びたるや・・・!


天璋院も自分が若くして「おばあさま」になることに照れながらも
大奥をまとめる大御台所として、将軍家のお世継の誕生に希望を抱くのでした。



しかし、和宮の懐妊は、「間違い」であったことが分かります


原作では、庭田達女官だけでなく、和宮も「武家の子など・・」と間違いに安堵したなんて
書いてありましたね。
でも私は、ドラマのように和宮は素直に懐妊に喜び、そして間違いに落胆したと信じたいです。
だって女なんですもん。


「家茂様も和宮様も、まだ若うございます。直にお子様に恵まれましょう」
と慰めあうものの、


京都から迫り来る暗雲の影に、
天璋院も和宮も、そして大奥全体が、不吉な予感におびえるのでした。



第二次長州征伐のため、京都へ出陣すると決めた家茂が
和宮と天璋院と3人で家族写真を撮りました。

家茂と和宮の2ショットもあります

これは、多分、「謎の写真」への伏線なんだろうなと思うと、切なくなりました。



一方京都では、小松帯刀さんと運命の出会いを果たす女性が登場しましたね。

お琴さんです。

本名、琴仙子さんは、芸技、そして和歌に通じた京都祇園の名妓。
原田夏希さんが、しなやかに演じていらっしゃいます。


当時、出張先の京都や江戸の藩邸に、側室を持つのは、なにも特別なことではありませんでした。
小松帯刀さんは、雄藩、薩摩の家老職なんです。
しかも薩摩の正妻、お近さんは病弱であったため、子供もいませんでした。
でも、現代でも幕末でも、女心はそう簡単に割り切れるものではないはず。

一味違う今年の大河ドラマだけに、どう展開するのか期待したいですね!




それでは、「勝手に補足」のコーナーです!

幕末が舞台とはいえ、「大奥」からの視点だけに、
史実を思いっきりはしょってしまっている今年の大河ドラマ。

この文久3年ごろから政局は大きく変わり、まさに「幕末クライマックス」!

でも、ドラマではそこらへん省略して、いきなり「家茂公の出陣(第2次長州征伐)」
に突入しております

とりあえず、簡単な年表を。

文久3年(1863) 8月8日    : 八月十八日の政変 

元治元年(1864) 7月8日   : 池田屋騒動

元治元年(1864) 7月17日   : 長州討伐の勅命

元治元年(1864) 7月20日   : 蛤御門の変(禁門の変)

元治元年(1864) 8月5日 : 下関戦争 (英 仏 蘭 米の列強四国 vs 長州)

元治元年(1864) 12月5日 : 功山寺挙兵(元治の内乱) 高杉晋作によるクーデター

慶応2年(1866) 3月7日  : 薩長同盟

慶応2年(1866) 6月7日  : 第2次長州征伐


目まぐるしいですね〜!

この年表を参照に、是非次回の放映をお楽しみ下さいませ。

教科書の抜粋程度ですが、歴史の必然性に驚くはずです。

そして「薩長同盟」 の重要性をよりご理解いただけるかと思います。



表面上は敵対していたはずの薩摩と長州でしたが、
西郷吉之助は 池田屋騒動のころより、中村半次郎(桐野利秋)を密偵として
長州へ潜入させています。
つまり、長州藩との連携をすでにこのころから模索していたのです
(そんな複雑な心境を綴った手紙も残されています)

しかし、あくまでも尊皇の志士として、天皇の禁裏を守護する立場である以上、
蛤御門の変にて、御所へ向かって発砲した長州を許すわけにはいかなかったのです。

(これほど勤皇の想い篤き西郷どんが、逆賊の汚名をきることになる悲劇・・・)


斉彬公の手足となり、近衛家や月照とともに公家とも交友のあった西郷は、
朝廷からも大いに信任されていたのです。


西郷が沖永良部島から帰ってきたことを知った孝明天皇は、時服を下賜されたそうで、
国父、島津久光公よりも朝廷からの扱いは格別であったとか。

そんな西郷人気に辟易して、久光は京から薩摩へ大久保一蔵を携えて帰国してしまったほどでした。


朝廷からのバックアップもあり、薩摩藩内では、西郷、大久保が実権を握り、
そして幕府や諸藩との窓口、調整役として家老の小松が活躍します

バランスのとれた、最強の体制を確立することで、薩摩はますます発言力を増していくのでありました。


でも。。。
大河ドラマで西郷さんを演じる小澤征悦さん。
なんだか、フツウの藩士に見えてしまう。

押しが弱いというか・・・

まだ、「新選組!」で西郷を演じた宇梶剛士さんのほうが、胆力があったような。
これから、実力発揮かな?? 

『義経』の時の木曾義仲のような迫力ある演技をぜひとも期待したいです!



写真: 来島又兵衛肖像(山口県立山口博物館蔵)
    蛤御門の変で遊撃隊、力士隊を率いて勇戦したが、薩摩軍の弾丸を受けて戦死した。享年49歳。
    長州藩きっての勇将!

 

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家茂の居ない江戸城・・・・

家茂公は、実に第3代将軍家光以来、229年ぶりの上洛を果たしたのです
しかし陰謀や暗殺が相次ぐ京への上洛に、大奥は只、その無事を祈るばかりでした。

家茂の目的は「天皇に直接お会いして、攘夷は不可能であることを説明する」こと。

しかし、勅命にて将軍後見役となった一橋慶喜が、先に上洛し朝廷と攘夷の確約を済ませてしまった為
家茂の立場は、大変難しい状況に陥ったのでした。


結局、家茂公はなすすべもなく、孝明天皇に随行して、賀茂神社や石清水八幡宮に攘夷祈願のため行幸し、攘夷を誓約させられる結果となるのでした。


勝海舟へ全幅の信頼をよせていたことから分かるように、家茂は開明的な考えの出来る将軍様でした。
ドラマでも描かれていましたが、勝から「神戸海軍操練所の設置」を直訴されたら即座に許したというのも本当の話です。


ただし、直訴した場所は、ドラマとは違います。
攘夷のデモンストレーションのため、家茂が勝の操縦する軍艦「順動丸」に乗船したとき、
勝さんが直訴したのです。



江戸では並ぶ者などいない最高権力者であった将軍でも、京都では朝廷に頭を下げ、そして
不本意な攘夷の実行を約束させられるなど、そのストレスは大変なものであったでしょう。

「体調を崩した」

という知らせが江戸に伝わり、天璋院は嫁の和宮へ、「天皇へ家茂の早期の帰還」を願い出て欲しいと頼みます。

ところが、「家茂様が病になったのも、元はといえば、上洛をたきつけた天璋院のせいだ!」

と逆恨みする気持ちもあり、拒否する嫁。落ち込む姑。

しかし嫁の本心は・・
夫の病を見過ごすことなどもう耐えられないほど、夫を深く愛しているのでした。


結局、娘を思う母 観行院(若村麻由美さん)の励ましもあり、和宮は嘆願を京に送り
家茂公は、無事江戸城帰還を果たすのでした。

江戸への帰還に家茂公は勝の進言を受け入れ海路を取ります。
わずか3日で帰還でき、文明の利器たる軍艦の威力に感激したとか。

エピソードを知るほどに、この将軍様の英邁さに触れるばかりです(本当に惜しい・・涙)


江戸城にてまず天璋院へ挨拶をすまし、そして天璋院にはっぱをかけられて、その夜。
久しぶりの夫婦の時間。。。

お互いの無事を喜びあい、和宮は思い余って、


「上様のお子を抱きたい・・・」と告げるのでした。


す、ストレート〜!

真希ちゃん演じる和宮の、真っ直ぐな瞳が可憐でしたね〜。
あんな瞳でこんなこといわれたら、いとおしくてたまらなくなるでしょう〜。

松田翔太さんの家茂公といい、極上の絵巻物のような夫婦です。

天璋院も、二人が仲睦まじく過ごされる平穏な日常が戻ったことに、つかのま安堵したのでした。


しかし、そのころ天璋院の故郷、薩摩は、イギリス艦隊との戦争で大きな被害を受けていたのです。

美しかった鹿児島城下が火に包まれたことを知り愕然とする天璋院。

そして圧倒的なイギリスの軍事力をみせつけられた小松帯刀さんもまた、
自分のふがいなさに咆哮するのでした。

「あの方との約束を守ることができなかった」

不安そうにみまもる妻のおちかさん。
帯刀さんは誰を一番愛しているのでしょうか?
史実無視ではありますが、今後の恋愛模様が大いに気になることろです!!


文久3年 幕府も、薩摩も、そして大奥も。
皆、欧米列強の圧力に転がりだした時代の渦に翻弄されています。
一体自分たちがどこへ向かっていくのかすら、不明確であったことでしょう。

ある意味、歴史の結末(明治維新)を知っている私達に、
この大河ドラマはどんな感動を与えてくれるのでしょう?! 期待が高まりますね ^^b 



さて、次回は、いきなり「第一次長州征伐」が始まりそうな気配。
そしてどうやら、小松帯刀さんに運命の出会いが訪れるようです・・・




それでは、勝手に補足のコーナーです!

薩摩藩が公武合体から「倒幕」へと方向転換したきっかけとなったのが

「薩英戦争」

この戦争は、本当に興味深くエピソードもテンコ盛りなのですが
ドラマではあくまでも江戸大奥が舞台のため、はしょられておりました。

そこで、薩英戦争へ至った経緯を軽く、ご説明いたします。


文久3年6月22日、7隻のイギリス艦隊が鹿児島湾頭に現れました。

これは前年8月21日、東海道神奈川近辺の生麦で、島津久光の共先を横切ったイギリス商人3人を
薩摩藩士が殺傷した「生麦事件」の決着をつけるためでした。


イギリス軍はすでに幕府から「取締り不行届け」の罰金として10万ポンド、そして遺族への賠償金として1万ポンドを、がっつり頂戴していました。

さらにその上、薩摩藩へも、がっつりと下手人の処刑と賠償金2万5000ポンドを要求していたのです。
が、当然ながら薩摩は断固拒否しておりました。

イギリスの旗艦 ユリアラス号にて、ニール中佐と通訳官シーボルトは、薩摩側の折田平八、伊地知正治らと直接交渉したのですが、話し合いは平行線をたどり決裂してしまいます。

双方、決戦は不可避と判断。


薩摩は先代・斉彬公が設営した砲台10基に兵を集め、城下の町民百姓ら老幼婦女子を避難させました。
イギリスは、薩摩が大金を払って欧米から3隻もの新鋭の蒸気船を保有している事実を掴み、
この3隻をすぐさま、拿捕してしまいます。


7月2日、久光公は、大切な蒸気船拿捕の報告を受けて激怒。
事実上のイギリスからの宣戦布告と判断して、開戦を命じたのでした。


実は、先代斉彬公は、薩摩の軍備をすべて洋式兵制を採用していたのですが、
斉彬公没後、斉興、久光が旧式兵制へと戻しておりました。
なかには斉興が破壊してしまった洋式兵器装備もありました。

が、奇跡的に砲台だけは洋式装備が残されていました。
結局、この洋式砲台が薩摩を助けることになったのです。



緒戦よりイギリス艦隊の猛攻で城下は火の海となりました。
さらに追い討ちをかけるように、最新鋭のアームストロング砲での砲撃を開始。
ニール中佐は、最新鋭の武器の威力を見せ付ければ、薩摩はすぐに降伏すると楽観していたのです


しかし、薩摩隼人の意気は衰るどころかますます盛んになりました。

鹿児島半島の弁天砲台で、見事な砲撃を加えたのが、大山弥助(巌)と西郷信吾(道従)。
精忠組のメンバーは、寺田屋での謹慎処分を跳ね返す活躍をみせ、薩摩兵を指揮します。

ちなみに、若き東郷平八郎はこの薩英戦争が初陣でありました。


思わぬ薩摩の反撃に対し、世界に誇るイギリス艦隊があわや座礁かという事故まで発生する始末。


さらに最新鋭であるはずのアームストロング砲の砲弾が、空中で破裂したり
命中してもその場で爆発せずに跳ね返って海中で爆発したり・・・と
実はあんまり威力がなかったようです



結局ニール中佐はこれ以上の戦闘は甚大な被害を招きかねないと
7月3日に鹿児島湾から撤退したのでした。



当時の薩摩では、この戦争の勝負は痛みわけだと評価していました。
しかし、もし先代斉彬公の先見の明がなければ、どうなっていたでしょう?

薩英戦争の結果、薩摩藩は、改めて斉彬公が推進した「開明路線」の正しさを認識し、
斉彬の手足となって働いたかつての精忠組の底力を無視することが出来なくなったのでした。

「公武合体」の政策を推進していた久光の威光に翳りが表れ、
久光の片腕であった保守派は失脚していきます

代わりに藩政において台頭してきたのが、小松帯刀や大久保一蔵と元精忠組の若手藩士たち。
そして彼らがリーダーと熱烈に慕う西郷吉之助の存在が再びクローズアップされてきます。
結果、沖永良部島からの帰藩を、久光へ強く要求する結果となりました。


藩内での改革だけではありません。

薩英戦争の戦後処理で再び同じテーブルに向き合ったイギリスと薩摩は、
お互いの利益を鑑みて、テーブルの下で、密かに、そしてがっちりと手を握り合うこととなりました。


薩英戦争の面白エピソード。
時間があれば、また書きたいです。

書き出したら止まらない!
毎度の長文、最後までお読み頂き感謝です。


参照@「巨眼の男 西郷隆盛」津本陽先生著。

写真は 戊辰戦争で新政府軍が使ったアームストロング砲 (福島県立博物館) 
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京都から勅使がきて将軍家茂へ「攘夷実行と上洛」を強要します。

「公武合体」のため「攘夷」を便宜的に約束した幕府は、
先送りした問題のため、結局首を絞められたといえます。

(現代でも通じる政治のお話です・・・涙)


事態の打開と、天下安寧のため、将軍家茂は上洛を決意します。

その気骨ある剛毅な態度に天璋院が


「よくご決意されました」

と家茂の行動を後押ししたのは、政局を見定め、天下のために働く息子の行動を天晴れと思う母心です

しかし、攘夷実行のため江戸へ降嫁した和宮は家茂が「攘夷は無理だ」と考えていることを知っており、
「尊皇攘夷」の志士が跋扈する京都へ上洛する危険性を感じていたのです。


「上様のことを案じて江戸で暮らすことが厭なのです」


そんな危険な場所へ行くよう後押ししたことを、直接夫から聞かされた妻は
逆恨みに近い感情を天璋院へ抱くのでした。


共に上様のご無事をお祈りしましょう、と声をかける姑に対し

「いやじゃ・・・」と応える嫁。

姑と嫁の溝はますます深まるばかりなのでした。


正直、堀北真希さん演じる和宮のあまりにもツレナイ言葉に、私も胸が痛くなりました。


「自分も姑さんに、あんな態度してなかったか?」と自問しましたよ。


幕末モノでありながら、大奥という豪華絢爛な舞台で展開する家族の物語は
現代へとも置き換えられる普遍のテーマであるといえます。

視聴率NO.1 の秘密は、登場人物の心を繊細なまでに表現する脚本と演出にあるのでしょうね!


実際過去の大河ドラマで「幕末モノはヒットしない」と言われていたのは
政局や事件の複雑さが視聴者に伝わりにくいというのも理由の一つでしょう。


当時の政局の背景を少し説明しますと、


島津久光の真の目的が公武合体の推進であることが次第に露呈され、
薩摩は京都における権威を次第に失墜させてしまいます。

その代わりに、過激な「尊皇攘夷」を叫ぶ勤皇の志士は、長州や土州の力を背景に、
三条実美や姉小路公知などの公卿と結託して、

「勤皇」「倒幕」

という過激な運動を猛烈に展開していくのでした。



事実「薩長同盟」までの僅かな間に、薩摩も、朝廷も、諸藩も、変節と裏切りを繰り返し、
血を血で洗う闘争と暗殺を繰り返します



しかし京都においては一貫して「勤皇」「倒幕」の旗頭であったのが「長州」。
(藩内での勢力闘争はありましたが、それも一時)

そして一方、一貫して左幕であったのが「会津」。

戊辰戦争の悲劇は、一面、おのれの思想に純粋であった武家同士の
最後のプライドをかけた戦いでありました。


その遠因が関が原合戦と言われていますから、歴史というのは面白いのですね。

関が原で西軍の総大将であったのが毛利輝元。東軍はもちろん徳川家康です。
その屈辱的な敗北以来、「徳川打倒=倒幕」の機会を秘かに窺っていたというから
長州というのは、とんでもない外様なのです!

(拙文参照ください ⇒ 『長州藩のお正月』

その長年にわたる執念深さがあったからこそ、長州は地獄の底から這い上がって
明治維新という大革命を成し遂げたともいえるでしょう。



そんな倒幕の気運が高まり始めた文久3年当時、自ら京都へ上洛すると家茂公が決意したのは、
この青年将軍様が、「相当の器量」を持ち合わせていたことの証といえます。


実際、まっすぐで純粋な家茂の人物に接し、孝明天皇はこの「妹婿」をいたく気にいり
攘夷はさておき、倒幕へと傾きかけた朝廷が、一時「公武合体」をよしとした時期もあったのでした。

将軍家茂の悲劇は・・・・

武家の棟梁としてふさわしいそのカリスマ性に危険を感じた勢力が存在したため
といっても過言ではありません。(涙、涙)




それでは勝手に補足のコーナーですが、

ドラマで家茂公の上洛のルートについて、陸路を主張する天璋院と
海路を主張する勝との間で、激論が交わされていましたね。

これは事実なんです。
北大路勝麟太郎が「囲碁勝負で」なんて(笑)・・・かなり脚色されていましたが・・(^^;


当初は経費節約のため海路上洛する予定でしたが、天璋院が反発し、
更に生麦事件で英国艦隊が江戸に迫っていたこともあり、陸路へと変更されたのです。

薩摩出身のまだうら若い天璋院が、大奥だけでなく幕政の表向きにおいても
絶大な影響力を持っていたことを証明する出来事でした。


和宮の宰相典侍である庭田継子、ドラマでは中村メイコさんが演じていらっしゃいますが、
彼女の日記に家茂上洛時の江戸大奥の様子が綴られていました。

『和宮御側日記』文久3年

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二月九日
御錠口、来る廿一日御乗舟にて御発駕のところ異舟もおひただしく参り候まま
御りく相成候よし・・・・
来ル十三日御発駕のよし御治定との御事、内々滝山方申入・・・

ドラマ同様、滝山さんが天璋院や和宮の連絡役、調整役としてがんばっている姿が推察できます。

中村メイコさんの庭田継子は、大奥にて公家風を撒き散らし、天璋院と対立する食わせ者を
熱演されていますが、実際の庭田は、天璋院の実行力と政治力を認めていたようです。


ドラマではまだ先の話になりますが、
家茂の2度目の上洛が決定したときの庭田の日記に

十一月八日
此度御上洛付、御留守主中御城内の所時せつからて深御安事遊し候侭
天璋院さまもあらせられ候事故、表方も如才なくと思しめし候・・・「和宮御側日記」 


「天璋院さまがいらっしゃるので城内は安心だ]

とあの庭田継子が綴っているのです。

宮崎あおいさん演じる天璋院同様、実際の彼女の行動力、統制力は
当時の女性としては、格段の実力であったと言えるでしょう。


いよいよ幕末の動乱は、加速をつけて廻り始めます。
「薩英戦争」を契機に、あの男が沖永良部島から帰ってきます。

そしてもう一人の英雄・坂本龍馬が、勝海舟と運命の出会いも果たしました。

私達を夢中にさせているこの大河ドラマも残すところ11回のみです。
ジェットコースターのように疾走する時代に対して、大奥はどう立ち向かったのか?!

女たちのプライドと意地とど根性を一緒に応援しましょう!



TOP写真は「生麦事件」錦絵。
島津久光と小松帯刀がヒーローとして描かれています。

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尚五郎さんと篤姫の久しぶりの対面

初恋の相手は、大御台所として大奥を統率するご身分。
しかも、すでに夫を亡くし落飾して「天障院」と名も改まっておりました。

そして尚五郎さん自身も、小松家の息女おちかさんと結婚して婿養子となり自身の名前も
「小松帯刀精錬」へと改めておりました。

6年という月日の間に、二人にはそれぞれ歩んだ日々があり、
大きな歴史のうねりの渦中で皮肉なことに、敵対する当事者として、相対することになりました。


島津久光は、朝廷の勅使 大原重徳を護衛するという名目で江戸へ上洛し、
外様の、しかも国父という権限のない身分でありながら
幕府、そして将軍家へ勅状を提出する行為は、幕府側からみれば、言語道断の態度でありました。

しかもその内容が、将軍家茂の地位をないがしろにする、無礼な要求。

幕府との話し合いは平行線を辿り、業を煮やした島津久光は大久保に非常手段を取れと命令します。
脅迫に近い態度で無理やり勅状に同意させたやり方に納得のいかない小松さん。
大久保が暗躍したのは事実とされています。


「小松さんと私の考えは、すこおし違っておるようですな。」


大久保と小松のこの微妙なずれは、とてもよい演出でした。
実際、小松は、大久保がこの後急速に推し進める倒幕運動には100%賛同していなかったと言われております。

坂本龍馬との厚い友情が生まれたのも、どりらかといえばリベラルな二人の思考ベクトルが似ていたからと言えるでしょう。


憂鬱な気分のまま、松平春嶽の屋敷にて勝燐太郎(海舟)とであった小松帯刀は、
「人を動かすのは武力ではなく、心です」という勝の言葉に深く感銘されます。





そのころ、薩摩の強引なやり方に不安を感じた天障院は、島津久光と極秘裏に会見します。
そして、手段を選ばず野望をのみむき出しにする久光の姑息な手段に真っ向から反意を述べます。

しかも、久光の側に懐かしい友、尚五郎さんのの顔を見つけ、余計に薩摩に裏切らた気持ちとなります

落ち込む天障院に対して和宮は

「故郷を忘れることなどできません。天障院さんも同じでしょう?」と励ますのでした。

身分も官位も違えど、徳川将軍家へ輿入れした嫁という立場は同じ。
和宮の言葉を受け、天障院は尚五郎さんと直接合うことを決意します

それは、裏切られた故郷・薩摩を、もう一度愛するための手段であったといえます。


大奥で久しぶりに囲碁を指す二人。
(史実では絶対に、ありえないことですけど・・・ま、ドラマ的には良かったです)

近況を語りお互い本音を語り合い、互いに歩む道は違えど、変わらぬ友情を確かめ合う二人。

「私は大奥にて徳川を守る覚悟ゆえ、薩摩をどうか守って欲しい」と
天障院は小松帯刀へ頭を下げるのでした。


私ときたらもう・・・この辺りで涙腺がゆるみ・・・
宮崎あおいさんと瑛太さんの、万感の想いがあふれるそのすばらしい演技に感激しておりました。



さて今回のドラマは、小松帯刀さんがいよいよ幕末の大舞台へ登場した回でもありました。


心で人を動かす。
まさに小松帯刀の政治信条にあてはまります。


倒幕運動の大きな転機となった慶應2年正月18日の「薩長同盟」も藩の利害をこえた「心」が
人を、そして歴史を動かした結果といえるでしょう。

その立役者はもちろん坂本龍馬です。

しかしこの秘密の会合が行われたのは京都御所近くの小松の屋敷であったことは案外知られていません。
小松帯刀という薩摩藩の家老が、当時敵対していた桂たち長州の面々にも信頼されていたことの証であります。


薩長同盟のキイとなる小松帯刀と坂本龍馬の友情が、いつから始まったのかは不明です。
ただ、龍馬がまだ神戸の幕府海軍操練所の見習いであったころ、というのは分かっていますので、
二人の出会いに、勝海舟の仲介があったというのが定説です。


ほんま、勝安房守、あっちこっちで、人と人の出会いを演出してますね!
しかも討幕運動の機動力となる出会いばかりです。


勝海舟は、幕臣でありながら品行方正じゃない「不良おやじ」なのが魅力なんです。
だからなんでしょうね、北大路欣也さんの安房守は、年取りすぎだし貫禄ありすぎだし。
正直、まだしっくりきていません(涙


個人的には「新選組!」の野田英樹さん演じる勝さんが、とにかくイメージぴったり。
ちょっと軽薄で大法螺吹きでの毒舌家で。

福沢諭吉なんか、不良な勝海舟をけちょんけちょんにけなしてまして、その内容なんてミニコント(笑)
また時間あれば、勝さんの面白話についても記事にしたいです。


それでは、恒例?の「勝手に補足のコーナー」です!

今回は「篤姫と尚五郎さん、史実では本当はどんな仲だったの〜?」というシーゲルさんのご質問に、
私なりにお答えしようと思います。


篤姫(於一)と小松帯刀(肝付尚五郎さん)は、同じ天保6年生まれ。
坂本龍馬も同年なんですよ!

西郷や大久保と違い、尚五郎は上級武士の身分。鶴丸城への登城も許される家のご子息でした。

一方、於一は島津分家の姫様。家格は、篤姫のほうが上でした。
ただ狭い城下ですので、何かのお祝い事などで、顔を合わせたことはあったかもしません。
ですから、小説やドラマの題材で「幼馴染」的に使われても、まあ許せる範囲ではあります。

ただし、結論から言えば、二人の関係を示す書状などは見つかっていないので、
天障院と小松帯刀の友情と恋の物語はドラマだけの設定と言えるでしょう。



では今後二人の再会の可能性はありえるのでしょうか?
ドラマの展開を史実の隙間から大胆予想してみますと・・・


小松帯刀は、28歳にして薩摩藩家老となり、京都、江戸において
幕府や朝廷との政治駆け引きにその手腕を発揮します。

家老格となれば、当然、江戸表への参勤も可能となります。
しかし、いかんせん、大奥は男性の出入りが厳しく詮議された禁断の場所。

となれば、江戸城無血開城の後、天障院が大奥を引き払ったあとなら、
二人が再会を果たしても、問題ではありません。


ただし、実はその当時、小松帯刀には別の女性の存在もあり・・・
(もてたんですよ。彼は〜〜〜!  ネタバレなのでここらへんで)


そして個人的には、やっぱり夫である家定公を天障院は終生忘れずにいたと思いたいですね。


写真は、芋焼酎「小松帯刀」吹上焼酎。
辛党の皆様、ドラマみるときの晩酌にいかがでしょうか。

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島津久光が「寺田屋事件」の後、朝廷の勅使を伴い江戸へ出立します。
江戸城内では、「裏で糸をひいているのは天璋院ではないか?」と陰口がささやかれます。

政治や世情に疎い、隔離された大奥での噂話であれば、天璋院も我慢はできます。

しかし、将軍家茂からの疑いに接して、深く心が傷つきます。

それは島津久光が孝明天皇へ提出した「建白書」に

一橋慶喜を将軍家茂の後見職に任命するとの一文があったからです。


天璋院(篤姫)が将軍家へ輿入れした真の目的が、一橋慶喜の将軍擁立であったことは周知の事実。
まだ若い家茂は、養母のそんな過去を思い出して、つい疑ってしまったのです。

信頼する身内から疑われる辛さは、身を切るような悔しさであったでしょう。

懐かしい薩摩ゆかりの品々を焼いて、身の潔白を証明すようとする天璋院。

「私は徳川の人間です!」

その想いは、家茂だけでなく大奥の女性達の心に強く響いたのです。
天璋院自身も自分の進むべき道がはっきりと見えたことでしょう。


宮崎あおいさんの「一本道」を貫く演技は素晴らしかった。

恐らくこのような緊迫した人間関係が江戸城内で本当に繰り広げられていたのでしょう。
そう思わせる見事な演出でありました。


しかし、一方。。。

「寺田屋事件」については、正直落胆しました・・・・

あまりにも事実を曲げすぎてます。


以前より別の記事で何度かこの寺田屋事件を取り上げたことはありますが、
もっと、陰惨で残酷で血みどろの惨劇です。

これでは有馬新七さん、うかばれません。

彼は本物の「尊皇攘夷の志士」でした。
久光の「公武合体路線」に真っ向から反対し、自分の思想を行動に移したまでのこと。
薩摩藩のために命を捨てたのではないのです!


そして島津久光もドラマのように甘い人間では決してありません。


この寺田屋事件では、首謀者であった田中河内介と、その息子・磋磨介という、京では名のしれた
勤皇の志士も薩摩藩に捕縛されました。

明治天皇の御生母の実家である中山大納言家の家来でもあった田中河内介は
その教養と人格の素晴らしさから、幼き明治天皇の教育係でもありました

この中山親子を薩摩へ向かう船中で、久光の命で暗殺し海へ投棄してしまいます。


しかし、田中親子の無念の想いがあったのでしょうか、
二人の死体は翌日、小豆島の福田海岸へ流れ着き
その「なぶり殺し」の無残な姿に、福田の村民も凍りついたと言われています。


西郷は京都で活躍していたころ、田中河内介とも面識があり、
朝廷を守るといいながらも、中山大納言家の家来である田中親子を暗殺した久光のやり方を
痛烈に批判しました。


同時に、ドラマでの西郷どんの描き方も不満です!
小澤征悦さん演じる西郷どんには、ど〜んとしたでっかさが欠けているようで気になります。


有馬さんたち同士の突出を食い止めるため、必死に説得を試みた西郷さんの
「重さ」が描ききれていません。
もっと言えば、ドラマの西郷さんは、遠島という処置に愕然とする小物にしか見えません。


私は大河ドラマ「義経」で、木曾義仲を演じた小澤征悦さんが大好きでした。
あの義仲のような、剛毅さをもっと前面に出して演じてほしいです。


それと、もう一点。


ドラマで有馬新七が「大山どんがこの場に」と言っていましたが、
この大山は、後の陸軍元帥大山巌ではありません。大山格之助という藩士で、
まったく別人ですので、誤解のないように!


大山巌と西郷の弟・西郷慎吾(従道)は、
有馬と共に決起せんと寺田屋に集結していた勤皇の同志でした!

しかし鎮撫隊の大山格之助や奈良原喜八郎の必死の説得に投降し、
京都藩邸に収容された後に、帰国謹慎を命じられたのです。

「大山」違いという些細なことのようですが、とても重要なのであえて書きます。
なぜなら、西郷ともども、寺田屋で捕縛されたり遠島となった藩士の多くが
明治維新で活躍し、新政府の要職に就いたからです。


今回、寺田屋の真実が曲げられ放送されたのは、それが、ドラマのための脚色とはいえ、
歴史を愛する者としてやっぱり認めることはできません。


寺田屋の真相を別記事にしようかと思うくらい、ちょっと残念な演出でした。。



気をとりなおして・・・
次回、尚五郎さん(小松帯刀)と天璋院との再会に、期待しましょう!



前回、モモアンビーの飼い主さまから、和宮替え玉説について質問がありました。
ただでさえ長い感想文が更に長くなってしまいますので、別記事として簡単にまとめましたので
参照くださいませ。




写真は、
薩摩切子 紫色ちろり (サントリー美術館蔵)
ちろりとは酒を注ぐ容器の呼称。薩摩切子の高度な技術が光る一品です。

天璋院所用のお品ではありませんが、ドラマにて火にくべた薩摩切子のなかに
似たようなお道具がありましたね。


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