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皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「天地人」

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天地人・・・最終回です。


良いところと無茶苦茶なところが、ごっちゃになってたな〜。



良かったところ。

政界を引退した兼続が、お船を伴い越後の八海山に登山して、
「直江家は、わしの代で終わりじゃ」と告げるシーン。

ここはもうジ〜ンとして涙がでました!

妻夫木君、最高の演技でしたね。
後で分かったのですが、このシーンが「天地人」のクランクアップだったそうです
あのシーンの妻夫木君の涙は、演技ではなく、万感の想いがこめられていたんですね。納得だなあ。

亡き景明の位牌と共に、お船と越後に戻り、あの頃と変わらぬ風景を見ながら
直江家の終わりを決めたのは、名ばかりの「家督」にこだわることの空しさよりも
家族で過ごした日々や直江自身の生き様を大切にしたいという想いからだったのでしょう。

直江夫妻が越後へ旅にでた・・・ってのは勿論史実ではありません。
でも、恐らく史実の兼続も、懐かしい越後の風景を想い出しながら、
この重大な決断を決めたのかもしれません



とはいえ最終回でも、

「天地人」は「天地人」でした・・・ 歴史の常識を知らなさすぎる〜!


ということで、これからは辛口です。
「天地人」への最後の辛口かと思うと・・・妙に寂しいなあ。

さて、どうしても云いたかったのは、

兼続、お前は絶対に、謝らへん男やな〜!


病弱だった嫡子・景明臨終の場面。

兼続さん、あなた、可愛い息子にしでかした酷い仕打ちをすっかり忘れてはいませんか?
直江の家督を、「上杉家のため」と言って本多政重に譲りましたよね?!
元々病弱で繊細な竹松が、どれだけ傷ついたことか。
そのショックでますます病弱になったのかもしれないのに。

せめて、一言「あの時はすまなかった」と言って欲しかった。
でなければ、「紅葉の家臣になりたかった」と無念の想いを胸に逝ってしまった景明が
ますます哀れです・・(涙


そして結局、石田三成にも謝らず。
それどころか、江戸城で、三成を擁護した発言だけで
「三成との約束をやっと果たせた・・・」と言い出す始末。

おいおい。

直江兼続が、江戸城で「三成擁護」したなんて史実はまったくないけど、
それを差し置いても、それだけで、友情を締めくくるとはあんまりじゃないですか〜〜?

三成が望んだのは「豊臣家を守るために家康を討つことこそ義」であったはず。
徳川家が天下を取ったその城で、徳川家に尻尾を振る直江に、友情を語られても
三成が喜ぶはずなどありません。

「三成擁護」でご満悦の直江の顔をみて、
なんだか、三成の「義と志」が汚されたような・・・そんな不快なシーンでした。


それと、
駿府で病床の家康と、伊達政宗と直江兼続が面会するシーンもこけそうになりました。

直江兼続は、上杉景勝の陪臣です。
陪臣が、伊達家の領主と一緒に家康に拝謁するなんて、
伊達政宗の威厳も地に落ちたと・・・政宗公もお怒りでしょう。

やはりあのシーンは、上杉景勝&陪臣・直江兼続が、伊達政宗と一緒でなければいけません。
当時の武家のしきたりは、かなり厳格であったのです。
上杉景勝の影の薄さ、これに極めり、って感じでしたね。

事実、外様大名で、病床の家康に親しく話しかけられたのは、藤堂高虎公だけです。
外様・譜代の厳格な線引きは、徳川秀忠の時代により厳しくなりました。
もちろん家康が、秀忠の行く末を案じて、伊達と直江に指南役を頼んだ・・・
なんてのもフィクションです。


「秀忠はわしを避けている」と家康公が父親の寂しさを吐露するシーンもありましたが
史実の秀忠は、避けるどころか、江戸城をほとんど留守にして、
駿府にかけつけ病床の家康にべったりだったのです。

むしろ、そんな秀忠を、人生最期まで叱り続けた親父、それが、家康公でした。


さらに、もっと目が点になったのは、
久しぶりにご登場の初音さん。

「三成さまの夢のため、南蛮船に乗り世界を旅します」

って・・・もう鎖国体制に入っているんですが・・・?!
謀反人になっちゃいますよ。

初音さん、結局最後まで意味不明の存在でしたね。
原作のように、直江兼続の「最初のおんな」であったほうがよっぽど存在感がでたのに・・・
あきらかなミスキャストでした。


上杉景勝が、引退を決意した兼続とともに、
春日山の岩屋に似た場所を見に行って、そこに謙信公の遺骨を納めると言うくだり。

え? 米沢の上杉神社って、洞窟だったんですか〜?初めて聞きます
確か、私の記憶では、米沢城と上杉神社は、とても近かったはず。

なんと、観光名所まで捏造してまで、
固く結ばれた主従関係を描く必要があったのでしょうか?



そして、兼続の最後のシーン。。。

何故かまだ米沢にいるお船さんに
「わしは紅葉の家臣であったろうか・・・」とつぶやき、眠るように息絶えます。

え?
このドラマのテーマって「愛」じゃなかったけ?
なんで最後の最後は「紅葉の家臣」なわけ?
結局、上杉家や領民、家族や同胞への「愛」に生きたのではなく、
上杉景勝への忠義が、直江兼続にとって最も大切なテーマだったのかい?
と突っ込みを入れてしまいました。


と、最後まで「辛口」になってしまい、恐縮です。
「天地人」ファンの人、お許しください。


では、「天地人」最後の「勝手に補足コーナー」。
最終回は直江兼続の晩年について。

関ヶ原以降の直江は、米沢での復興に尽力を注いでいました。
過去の「勝手に補足コーナー」でも何度か、その素晴らしい政治力をご紹介してきました。

しかし、米沢が次第に活力を取り戻してくると、
直江兼続は、学問の普及、発展に力を入れるようになります。

直江兼続は、米沢藩士の教育を重視して、禅林文庫という学問所を開きました。
そこには、直江の蔵書が納められ、いわば図書館のような機能であったようです。

直江は、禅林文庫の開設だけでなく自ら本も出版しています。
慶長13年(1607) 『文選』という書物60巻を、三十冊にまとめて刊行しました。
すべて自費です。

『文選』とは中国・周から梁、千年間の文書、詩賦などを細目に分類した古書で
梁の昭明太子が編纂したものを、子良・呂延済ら5人の学者が注釈を加えた「五臣注」が
一般的には普及していました。
ところが、兼続は、その5人に加えて、最も権威のある学者・李善の注釈を加えた「六臣注」の
『文選』を刊行したのです。

いわば、直江兼続の”勝手に「文選」”とでもいえるユニークな研究書でありました。
この『文選』には、諸葛孔明の「出師の表」も含まれており、
当時の文人にとって垂涎の書でありました。

直江の『文選』は、家康お抱えの儒学者・林羅山ですら入手が困難で、
強力なコネを頼んでやっと実物を手にしてた感激を巻末に書き込んだほどでした。

兼続は、『文選』以外にも『論語』や『春秋左氏伝』も自費出版しています

武人、政治家、だけでなく、学者としても一流であった直江兼続。
古書の収集や、『文選』の刊行、禅林文庫など、学問の普及のために、
その私財を殆ど投じたことは、案外知られていません。




そんな、直江兼続が、人生の最期に決めたのは、

「直江家の断絶」----- これは史実です。


長男・景明は、1615年、若くして死去。
景明は結婚はしていたのですが子ができず、
また娘二人の早世しているため、直江兼続には実子や孫が一人もいなかったのです。

しかし、当時、子供を全て失う武家は、珍しくありませんでした。
戦乱の世でありまた、医療もいい加減なものでした。

そんな場合は、養子を迎えて家督を存続させるのが普通です。
ましてや直江家は、名門中の名門。養子に入りたいと望む子弟は多かったはずなのです。


しかし、史実の兼続は、そうはしませんでした。
お船や、主君・上杉景勝も、強く養子相続を勧めたのですが、
兼続は、頑として拒んだといわれています。

直江家の家禄1万5千石を上杉家に返還する!

その決断の裏には、
依然として財政状況の苦しい上杉家への配慮がありました。
それと同時に、やはり、関ヶ原で三成と結託し、結果、主家を窮地に追い込み
移封のため、4分の1まで俸禄が削られた責任を、強く感じていたからでしょう。

関ヶ原敗北の責任を、直江家の断絶で贖いたい・・・。

多分、直江は、関ヶ原の敗戦の咎で、死ぬ覚悟であったでしょう。
しかし「生きて、上杉の復興を助けたい」と決意したとき、同時に
「自分の代で直江家を断絶しよう」と覚悟したように思います。

元和5年(1619)12月19日
直江兼続逝去。59歳でした。

お船さんは、夫の死後剃髪して、貞心尼と名乗りました。

直江家の娘であるお船も、「直江家断絶」という夫の意思に従いました。
自身の両親や祖先の事を考えれば、断腸の想いであったでしょうが、
夫と同じ道を生きることを選んだお船さんは、当時としては自我の強い女性でした。

お船さんは、上杉景勝の嫡子・玉丸(定勝)の養育係として、
江戸上杉家の奥の差配を一手に引き受けるようになりました。

上杉景勝の死後・領主となった定勝は、お船を母のように慕い、断絶した直江家に替わり
扶助料・三千石を与え、40人の家来をつけたといいます。
夫と子供に先立たれたお船ですが、定勝の支えもあり当時としては長寿を保ちました。
寛永13年 81歳で死去し、林泉寺で夫・兼続と並んで眠っています。

さあ、
次週より「坂の上の雲」
そして来年は、「龍馬伝」
すご〜く期待しちゃいます。

そして・・・「天地人」
時代考証無視しすぎで、個人的には正直殆ど評価できない大河ドラマでした。
妻夫木君は、好きな俳優さんだけに、もっと殻を破って、あらためて大河ドラマで観てみたいです。

しかし、小栗旬君の演じた石田三成は、絶対忘れません。鮮烈でした。
私にとって、もはや石田三成は旬君の顔でしかありえません。
小栗君主役の大河ドラマ、観てみたいなあ。

写真:上杉家の菩提寺・林泉寺の直江兼続・船の墓
妻夫木&常盤貴子さん写真も、NHKホームページより拝借しました

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インフルエンザ感染のため、テレビを見る余力もなく
やっと、2回まとめて録画をみましたので、感想もまとめて書かせて頂きます。


2回観て思ったこと(憤慨したこと・・)


兼続、なぜ、一言も泉下の三成へ謝らなかったのか?!!!



これにつきます。


史実はさておき、ドラマで、あれほど三成と兼続の友情をことさら美化して描いたのであれば、
豊臣家への忠義のため死んでいった親友に、
なんらかの言葉や想いがあっていいはずです。

多分史実の兼続もそれぐらいの感傷はあったでしょう。根が詩人なのですから。

しかしドラマの兼続は、まるで三成との友情を忘れたかにように振舞っていました
描かれていたのは、意味不明の家康との問答。

あのやり取りを聞いて、家康の言っていることのほうに理があると感じたのは私だけではないはず。


このドラマで、中心のテーマであるはずの「愛」も「友情」も結局、あいまいなまま、
一体この兼続は、何を信じて関ヶ原以降も生きたのかが、描きいいれていませんでした。
景勝の存在感の薄さも、はなはだ疑問であります。


三成を演じた小栗君の、最期のシーンが余りに鮮烈で素晴らしかったので余計かもしれません。
正直、これほど落胆した、大河ドラマは初めてです。


インフルエンザでしんどいときに、観なくて良かったと思いました
観たら、憤慨のあまり、高熱がもっと上がってしまったかもしれません。。。。


と、体力もまだ回復しておりませんし、憤慨のあまり体調を崩すのもいやなので
指摘したい場面は、まだ多々ありましたが、これくらいにして、「勝手に補足」のコーナーへ。


今回は、「大坂の陣」に関する史実のコネタを集めてみました。

「方広寺鐘銘事件」
「大坂の陣」のきっかけとなったこの事件。
ドラマでは家康の側近にまで昇進した遠山の悪知恵となっておりますが、
史実の黒幕は、南禅寺の僧で家康の側近である金地院崇伝(以心崇伝)です。

問題となったのは、慶長19年(1614年)4月、片桐且元の号令で京都方広寺大仏殿の再建工事において
南禅寺の高僧・文英清韓が起草した「梵鐘の銘文」に、家康や徳川幕府を呪詛する内容が含まれていると
金地院崇伝 と 幕府の儒官・林道春が指摘したことに始まります。

すなわち、「国家安康」と「君臣豊楽」の文言です。

「国家安康」は家康の文字を安の一字で切断しており、
また「君臣豊楽」は豊臣家を君主として末永く楽しむという意味を含み
結果、「方広寺の梵鐘に徳川家への呪いをかけ調伏せんとしている」と言いがかりをつけたのでした。

この銘文を起草した文英清韓は、当代一の漢学者で、
その語学の知識を頼まれて、朝鮮の役で加藤清正と共に朝鮮に渡り、和議の交渉にあったという学者でもありました。
そんな当代一流の学者の起草文に子供だましのような、愚かないっちゃもんをつけたのは、
高齢の家康が、なんとしても自分が生きているうちに、豊臣家を滅ぼしたいという
執念の表れであたことは、明らかです。


文英清韓は、ただちに駿府へ伺い釈明をしたものの許されませんでした。
じつは、家康の側近である金地院崇伝と文英清韓との対立も背景にありました。

金地院崇伝にとって、「方広寺鐘銘事件」は家康への貢献度UPだけでなく
自身のライバルをも蹴落とす、一石二鳥の「悪巧み」であったのです。

とはいえ、この「方広寺鐘銘事件」がきっかけとなり、
慶長19年(1614年)10月2日、徳川幕府は、豊臣家討伐の陣触れとなりました。
しかし、朝廷からの「豊臣成敗」の綸旨はでませんでした。
「方広寺鐘銘事件」の言いがかりが無茶であることを朝廷は充分理解していたのです
とはいえ、前年に幕府は「公家衆法度」を制定し、朝廷を圧迫していたため
綸旨なくとも、豊臣討伐を強行できたのです。

ちなみに、問題の鐘は現存しており、重要文化財に指定されて東大寺、知恩院のものと合わせ
日本三大名鐘のひとつとされています。

本多正純の手紙
駿府で徳川家康の重臣として頭角を現した本多正純。
直江家の養子となった勝吉のお兄さんですね。
この本多正純が、慶長19年(1614年)10月2日に、江戸に逗留していた藤堂高虎へ宛てた書状が
現存します。
藤堂高虎は当時、伊予・板島城主でした。
外様でありながら、家康の側近と同格の扱いを受けており、
「城名人」として当の大坂城普請に携わったことから、家康の作戦立案に貢献しておりました。

手紙の内容は
「大坂攻めと決定して、大御所様(家康)は、急に若々しくおなりあそばしました。
これまでは、御体の具合がすぐれず、御機嫌もよくなかったのですが、
さて開戦と決まってからは、めきめきと御元気になられました。まとこに奇特であります」

若かりしころ、乱世、戦国の世を生きた過去のせいか、
すでに70歳となった老体に、若々しさがよみがえったというのです。
家康の「戦国武将」としての血が騒いだのでしょうね。
そして家康自身も、豊臣討伐が、人生最期の合戦になると思っていたのでしょう。
家康の一面を彷彿とさせるエピソードです。


福島正則の言葉
豊臣側は、秀吉恩顧の大名達に密使を派遣し、大坂入城を促しました。
当然、福島正則も例外ではありません。
福島正則は当時広島城主でしたが、「方広寺鐘銘事件」の直前に幕府から江戸への出府が命じられ
江戸に居て飼い殺しの状況にありました。

豊臣側からの密使・雨森三右衛門が、江戸に駆けつけ豊臣秀頼から「大坂に御味方願いたし」との
言葉を伝えたとき、福島正則は涙を浮かべて
「この度の右府様(秀頼)の御決心は、三年遅く、三年早しと申し上げたい」と答えたといます。

つまり、3年前であれば、加藤清正も浅野幸長も池田輝政も生きており、
豊臣恩顧の戦力が結集すれば、家康と対等に戦もできただろう。
そして3年後であれば、70を超えた家康も故人となっている可能性もあり、
家康の居ない徳川幕府であれば、付け入る隙もあったろう・・・という内容です。

福島正則は、豊臣家の滅亡を予測し、家を守るために秀頼からの誘いを断わりました。
一方、警戒心をもつ家康からは、江戸留守居役を命じられ、
駕籠の鳥のように、何も出来ない状況に甘んじるしかありませんでした。

福島正則の苦しい胸のうちを推測するエピソードの一つです。


五人衆
豊臣家は、先述の福島正則をはじめ、豊臣恩顧の大名へ密使を派遣したものの、
まったく反応がなく、彼らは密使が持参した「秀頼の親書」を幕府へ提出し
二心ないことを誓う有様でした。

結局、大坂城に入城したのは、牢人だけでした。
とはいえ、その兵力は10万人余で、なかでも、
真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登は
五人衆と呼ばれて、大坂側の参謀となったのです。
しかし、所詮は寄せ集めの牢人たち。
また、秀頼や淀君の側近達に作戦実行を妨害されるなど、内部統制が取れないことが
結局、敗戦の原因のひとつとなったと言えるでしょう。

しかし衆目が「徳川側の大勝利」と予測が一致するなか、
幕府の大軍を相手に一歩も引かない戦を展開した、一騎当千の五人衆の奮戦は、
見事であったといえます。
なかでも、当時無名であった真田幸村の、見事な戦ぶりは、東軍をも感嘆させたのです。

2代目将軍・徳川秀忠の焦り

東海道を大坂目指す東軍は
先鋒 伊達政宗・上杉景勝・佐竹義宣 3名で東北の諸大名でした。
特に上杉と佐竹は、関ヶ原で西軍に組したため、今回の大坂の陣では必死の忠誠を示さねばなりません。

続く第一番陣が、酒井家次
第二番陣は、本多忠朝(本多忠勝の次男)、幕府の譜代大名が続き
そして6番陣に、将軍秀忠の本軍2万が続くのでした。

しかし、関ヶ原で真田親子に足止めを喰らい、
結局合戦に間に合わなかったトラウマのためか、秀忠は「急げ!」と
自ら馬に鞭打って、走り出したといいます

そのためなんと、秀忠が先鋒の伊達政宗の部隊に追いつきそうになり、
将軍に先鋒が追い越されては一大事と、伊達政宗も、訳も分からず先を急ぎ、
武器や兵糧をもった大荷駄や、徒歩の兵士達は疲労困憊したといわれています

家康も、息子のあわてた行動を聞きつけ
「おろかな振る舞いをするな、将軍家としてあるまじきことだ」と叱責しました。

それだけ、秀忠の、関ヶ原での失策は、彼のコンプレックスとなっていたのでした。


等など、
書き出したら止まらなくまりました(汗

大坂の陣は、真田ファンならずも書きたいエピソードがてんこ盛りです。
天地人ではあっというまに、大坂城が炎上してしまい拍子抜けでしたね。
ちなみに千姫を救出したの直江兼続ではありません。
史実としては豊臣側の堀内氏久や、津和野藩の坂崎直盛などの名前が挙がっています。

さて、次回はいよいよ最終回。
最後はせめて、いい終わり方をして欲しいです。
「坂の上の雲」のあおりをうけて、放送回数が短縮されるなど、不遇な一面もありましたが、
せめて、兼続の人生を、理屈にかなう「愛」で仕上げて欲しいですね。


写真は方広寺の鐘銘

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上杉景勝の命で「勝吉」と名を改めた本多政重とお松の祝言が行われます

ささやかながらも温かい祝いの席でありながらも、
毒を気にして酒を飲まぬ婿殿に一抹の不安を感じる直江家の面々・・

お松は、形ばかりの夫婦であることに悩み、「勝吉さまと本当の夫婦になりたい」と
母であるお船に打ち明けます。

「いつでも相手を思いやることが大切」

お松は、勝吉の心が開かれることを願うのでした。



一方、兼続は、上杉家の勘定までも勝吉にみせる豪胆さです。
もちろん、上杉の内情はそのまま徳川へ筒抜けとなるのでした。

兼続の細やかな政策で米沢も活気を取り戻しつつあります
しかし、悩みの種は、大雨で決壊する堤。

直江は、米沢生まれの伊達政宗に、治水の方策を尋ねることにします
伊達政宗は、もっぱら上方の情勢に興味があるようすが
肝心の直江兼続は、われ関せずの態度であります

「直江山城守が天下について語らぬとは・・」とあきれる政宗に
「私にとって米沢での民の暮らしこそが天下である」と答えるのでした。


ところが、米沢に悪疫が流行ります。
直江家の次女・お梅が命を落とし、その涙も乾かぬうちに、お松が倒れてしまいます。

「勝吉さまと夫婦になれて幸せだった・・・無念です」
余りにも短い結婚生活、余りにも儚い新妻でありました。

お船は、お松が病をおして縫い続けていた勝吉の着物を仕上げます。
健気に生きた娘達を立て続けに失った悲しみに堪えきれず
「今晩だけは泣かせて下さい。明日からはもう泣きません」と涙を流すのでした・・・


勝吉は、「お松を失った以上米沢に留まる必要のない」からと、
竹松に直江の家督を譲ってほしいと兼続くに申し出ますが、

直江は、米沢の秘密の武器工場を勝吉に見せ、
「わしの娘が愛した夫だから隠すことなどない。米沢に残れ」と伝えるのでした。

やがて時が経ち、伊達政宗が、治水の助言のために直々米沢へやってきます。

直江が作りつつある米沢の国づくりに感嘆し
「悪くはない、ここは一つの天下をなしている」と政宗流に賞賛します。

直江は政宗の言葉に「自分の進むべき道がみえた」と答えるのでした。


一方、上方と江戸では、徳川と豊臣の最後の覇権をかけた戦の予兆が見えてきました。
上杉が、そして直江が、どのような道を選ぶのか。。。
天地人、最後のクライマックスが近づいてきました。

と、

今回は、本多政重の婿入りがもたらした新たな悲劇が主題でありました。
お松の、勝吉に対する切ない想いと悲劇、そして家族の哀しみは胸を打ちました。

正直、この主題だけに絞って描けばよかったのに、
それ以外は、まったくもって、いただけませんでした・・・


前回の「実頼追放」のように史実に忠実であればそれだけで深イイ話になるのに、

なんで、無意味な脚色で歴史をひんまげて、ドラマをつまらなくしちゃうのでしょうか?


特に、直江が伊達政宗の元へ直々に訪問し、治水について援助を求めるなんて、言語道断です
あのシーンでこけそうになりましたよ。まじで。


当時、治水という「軍事機密」を他国の執政に教えるような、そんな馬鹿な領主はいません。

事実、「奥の細道」における隠密・芭蕉の裏ミッションは、
ずばり、東北諸国の治水事業の偵察だったと云われています。
それほどの機密事項なのです。



さらに、政宗と上杉は、関ヶ原以前から天敵の間柄。
事実、上杉VS伊達の小競り合いは関ヶ原のあと、米沢へ上杉が移封される2年間も続きます。

慶長6年(1601)1月 伊達軍が二本松へ出兵、撃退される
        2月 伊達軍が伊達郡へ侵攻、しかし福島城の本庄繁長が撃退。
          伊達軍は400人以上の死者を出した
        
その後も、福島城、梁川城、白石城・・・と伊達政宗は執拗に会津へ侵攻します
しかしすべて撃退されるという惨憺たる結果。

伊達にとって会津は旧領、
領土に異常な執着を見せる若き伊達政宗にとって
これだけ強い軍でありながらも「義」を掲げて領土に執着しない上杉の存在に、
自己否定されたような「憎悪」を抱いたのかもしれません。


だからといって
直江兼続と伊達政宗に友情が芽生えていた・・・なんて
少女マンガじゃあるまいし。

直江にとって、治水を含めた都市計画は、ずばり、「国家防衛」を基本としたものでした。
国家防衛=米沢の民を守る。
それで充分じゃないでしょうか?

そんな、直江の米沢での都市計画の根幹を成す「治水事業」について、
プチ「勝手に補足コーナー」です。


四方を山に囲まれた盆地であったことから、米沢は水害が発生しやすい地形でありました。
しかし、効果的な治水事業を施せば、豊富な水源があるだけに開墾や農業に有効となるのです。

兼続は、驚くべきことに、農業だけでなく治水事業にも精通していました。
堰堤、堤防を築いて水害を防ぎ、農業や生活用水として利用したのでした。


米沢で直江は築いた堤防を列挙すると

「御入水堰」: 松川上流から米沢城の内堀まで全長10キロに及び、40余もの分水路があり
        城下の生活用水として活用された
「諏訪堰」: 浅立村と広野村の600石以上の新田開発に利用された
「長堀堰」: 小松三村の新田開発に利用された
「大塚堰」: 大塚村の開発、増産に貢献
「谷地河原堤防」 : 現代でも米沢市を守る堤防である


等々・・・・圧巻の一言ですね。

兼続の徹底した治水事業で、
米沢の生産高は年々増加し、財政難で瀕死の状態であった国の力も蓄えができるほどになりました
兼続はその余力を使って、米沢に秘密の鉄砲村を作ったのです
そこで鉄砲を増産し、国防の一環としたのでした。

なぜか?

それは、本多家を通じて入手した江戸や上方の情報から
徳川と豊臣の天下を揺るがす大戦が起こると予測していたからでしょう。




さあ、次回より「大坂の陣」。
上杉家は東軍として豊臣家を攻めます。
その「義」をどう説明するのか・・・今年の脚本だとちょい不安です。



またあんまり期待していませんが、
どうか、真田幸村様、ラストに向かって今度こそのご活躍、願っております!!



写真は、米沢市内を流れる「御入水堰」。
松田政宗&妻夫木兼続は、NHKホームページより拝借いたしました

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お松と本多正信の次男・政重との婚礼の日が近づき、
京で婚礼の準備を進めているはずの弟、大国実頼から、
何の連絡もこないことに不安を覚えた兼続は、泉沢を京へ遣わして
事情を探らせます。


元々、京や大坂で上杉家のための外交を担っていた実頼は
心情的にも豊臣恩顧であり、上杉の誇りを捨てて家康に尻尾を振る兄の政治方針に
不満を抱いていました。

大坂では福島正則を相手に、愚痴をこぼすものの
「口先だけで実行できねば・・」と福島に言われて、内心忸怩たる思いを、酒に紛らしていたのです。

泉沢は、そんな実頼に「兼続を信じろ」と諭し、
二人で婚礼の打ち合わせのため、本多正信の屋敷に赴くのでした。

ところが、どうしても納得できない実頼は、後先も考えずに勝手に婚儀を断わってしいます。

「なんたる無礼!」
本多正信の長男、正純は激怒します。
そして家康はこの不祥事を政治に利用しようとしたのです。

すなわち大国実頼の行為を「上杉家の謀反の証拠」として糾弾し、
改易や取り潰しを免れたくば、上杉景勝の嫡子・玉丸を江戸へ人質として差し出すか
大国実頼の首を差し出せと、兼続に迫るのでした。

上杉家の取り潰しはもってのほか、ましてや、生まれてすぐに母を亡くした景勝の嫡男・玉丸を
江戸へ引き渡すことなどできない相談でありました。


兼続は京に上り、本多正信と正純に直接謝罪し、
上杉家に謀反の兆しなどないこと、
直江家と本多家の婚礼を、是非とも執り行いたいことを、率直に伝えます。

兼続の実直な態度に感銘を受けた本多親子は、
穏便に計らうことを決め、予定通り婚礼を行うことにしたのでした。


米沢で蟄居していた大国実頼への処分が決定しました。
「高野山追放」です。

兄から弟への命令でした・・・

「何故死罪にしないのか?
このまま生きて、本多家に直江家が乗っ取られる様など見たくない」と激怒する弟に対して

「本来なら死罪の所、助命嘆願に動いたのが、その本多様だ。
このまま今生の別れになるかもしれぬが、それでも生きていればこそ・・・」

と、生きることを諭す兄の姿でありました。


高野山へ追放された実頼を、同じ高野山で蟄居中の真田幸村が訪ねてきます。
兼続から便りがあり、「弟を頼む」と。

離れていても人と人は心で結びついている・・・

米沢で「生きていくため」屯田兵として開墾に励む同志を見舞う兼続は、
畑仕事を仲良く手伝う幼い兄弟の姿に、
かつての自分と弟の姿を重ねるのでした。

「兄上・・・!」
幼い与七の声が、遠く聞こえてくるようでした。


と、今回は

ものすご〜く良かった!
正直、「天地人」の中でも、小栗三成の最期を描いた「三成の遺言」に匹敵するくらい、
最高にいい出来だったんじゃないでしょうか!!

何よりドラマの内容が、ほぼ史実を踏襲しているのがいい!

正直、「天地人」はウワッツラの脚色で歴史を曲げる傾向があり、それが大いに不満だったので、
今回のような史実にほぼ忠実な展開のほうが、やっぱり重厚で深いなあ〜と思った次第です。


妻夫木君の、
上杉家を守るため、実弟を処断するという苦渋の決断が、

叫ぶでもなく、泣くでもなく・・・
一人伏見の屋敷で、黙ってに盃を重ねる・・・その苦しそうで寂しげな背中に篭められてて
じ〜んとしてしまいました。

多分、史実の兼続も、
同じように苦しみながらも誰にも相談せず、黙って実弟の処分を決めたんじゃないでしょうか?
直江とは、そういう男です。


そして 小泉孝太郎君演じる実頼も、
高野山で懐かしい幸村と再会し、頑なだった心がほんの少し氷解する様を

泣くでもなくわめくでもなく
「柿をもらおう」と静かにに答えることで演じてみせました。

上杉の誇りを最後まで貫いたことを、後悔しない!
そういうすがすがしい姿でしたね。


そしてドラマの終盤・・・

与六と与七の、愛くるしい姿が
米沢の里の景色に溶け込んで、直江兼続の心に回想されたシーンは、
戦国の世に共に助け合った兄弟の、
お互いを思いやるがために生まれた悲劇とその今生の別れが胸に迫って、
不覚にも、涙が溢れてしまいました。。。


関ヶ原以降の上杉家と直江家のお話は
史実どおりに描けば、それだけで深い話になる。。。

以前から何度もこのブログで力説していた自説だけに、
これから最終回までの残り少ない回も、同様の演出を是非ともお願いしたいです!!

ちなみに、ドラマで実頼が追放された原因は、本多家で勝手に婚儀を断わったため、としていますが

史実は、本多家への政重を迎えるために,兼続が京へ派遣した上杉家の使者二人を、
実頼が伏見宿の旅宿で長刀を振るって殺害したことが原因です。

理由はドラマ同様、直江家と本多家との養子縁組、家督相続に反対したためです。

ドラマでは、実頼は、米沢へ一旦帰りそれから処罰されたことになっていますが、

史実では、使者殺害後、追手を恐れて、自ら高野山へ逃亡しています。
そして上杉家での「実頼追放」の処分後も高野山に留まり隠棲しました。


追放後の実頼の消息ですが、

兼続の死後、密かに米沢北郊の中小松村に戻り元和8年(1622年)に死去したとも、
また、追放の翌年、慶長10年(1605年)に高野山で自害したとも伝わっています。

兼続は、弟への想いは強かったのでしょうね。
実頼の残された家族を、少ない俸禄のなかで養います。

実頼の娘の「お虎」は、兼続の養女となり、本多政重に嫁いでいます。
兼続の長女、お松の婿養子となった本多政重の、後妻となっているのです。

ということは、お松は・・・・?

そうなんです。
直江兼続が、上杉家のためと進めた、本多政重との養子縁組は、
実頼追放という悲劇だけでなく、更なる悲劇を生むことになるのでした・・・

直江の後半生は、
深い悲しみに包まれながらも、それでも上を向いて希望を探し続けた、そんな人生でありました。

に、しても・・・

ここんところ、北村さんの景勝、印象、薄いなあ。
執政兼続が、ほとんど藩主の役割果たしてますけど?いいんですか〜〜?
ちと不安です。



では、「勝手に補足コーナー」です。

今回は、ドラマの最後、兼続が見舞った、自給自足の屯田兵について、ちょっとご説明。

リストラを断行しない代わりに俸禄を3分の1に減らす条件で、米沢への移封に従った家来達ですが
薄給による困窮に、たちまち生活苦にあえぐことになりました。

そこで兼続は、2千人余の下士や家来とその家族を、郊外の荒地に住まわせ
自給自足の農業に従事させることにしたのです。いわゆる「屯田兵」としたのです。

そして、最下級の足軽であっても、宅地と小屋を与え、
年貢の取りたても免除して自由に開墾させたのです。

更に、兼続の凄いところは、自ら「農業指導」まで行っている点です。

武士にとって農業はまさに「畑違い」、ノウハウなど知りません。

そこで兼続は、収穫の早い、大豆、稗、ソバ、人参、大根、ゴボウなどの栽培を奨励。
また宅地内に、柿、栗、梅、杏など、果物の採れる植樹を指導し、
さらに、垣根は「ウコギ」を植えさせました。
ウコギの若芽は食用になり、葉っぱは茶になり、根っこは疲労回復薬になるからです。

このように兼続の農業指導は、具体的で詳細を極め、まさにプロ並です。
上杉家の筆頭家老でありながら、これだけ農業に詳しいのは、

半農の下級武士の子供として、越後上田庄で農作業を手伝った幼い経験だけでなく
兼続自身が、「土いじり」や「畑仕事」が大好きだった証拠でしょう。

兼続が指導した屯田兵たちは「原方衆」と呼ばれていました。
彼らの集落は、米沢の城下町を取り囲むように配置されていました。
いざとなれば、城を守る兵士とすべく、防衛策の一環でもあったのです。

兼続の米沢の都市計画は、周到に練り上げられた見事なものでありました。


屯田兵となった「原方衆」は、
直江の熱心な農業指導の影響や、年貢の優遇策もあり収穫量も増えて、生活も安定してきました。

原方衆は自分達の開墾事業を直江兼続の法名をとって「達三開き」と称し、直江兼続の遺徳を忍び
子孫達に語り継ぎました。

このように、直江兼続は、自身が、泥にまみれ、土にまみれて
米沢での上杉家の復興を成し遂げたのでした。


だから、

泥まみれの、妻夫木・兼続が見たいです。
泥かぶってもイケメンはイケメンだから、大丈夫だと思うのですが、
事務所が許さないのかな〜。
きっと最終回まで、おぐしも乱れない兼続なんだろうな・・・(トホホ


写真は、原方衆の武家屋敷とウコギの垣根の様子(米沢市芳泉町)
兼続と実頼の写真は、NHKホームページより拝借しました。

イメージ 1

イメージ 2

直江兼続の実子、竹松が再び病に倒れてしまいます。

高熱にうなされながら「母」を慕う息子の姿・・・

京伏見で、上杉景勝の正室・菊姫とともに人質の生活を続けるお船に
菊姫は、「上杉家のため直江の家督を譲った忠義の子を守ることこそが上杉のため」と
米沢へ帰らせたのです。
母の帰宅は直江家に希望を与えました。竹松の容態は徐々に安定してくるのです。


しかし、
伏見で一人暮らす菊姫は、やがて病に倒れるのでした。


「秀頼公のため」と諸侯を説得し、石田三成の率いる西軍を破り天下の実権を握った家康は、
いよいよ本当の天下取りを実現します。

慶長8年(1603年)3月、家康は将軍宣下を受け「征夷大将軍」として江戸幕府を開きます。

上杉家は、すでの敗者の身となれば無駄に異議を唱えて、
米沢での苦しい生活に耐える家臣や領民を路頭に迷わせてしまう。。。

上杉景勝と直江兼続は、「生きるために」家康へ祝賀を述べるため江戸へ赴くのでした。

しかし、その江戸屋敷に、「菊姫さま病に倒れる」の一報が届きます。
景勝は直江に後を託して急ぎ京へと駆けつけるのでした。

菊姫の・・・やつれ果てた姿に絶句する景勝に
「上杉家のために、側室をお持ちください」と懇願する菊姫。
菊姫は、「殿の子を生んで見せますと誓ったのに、本願果たせず・・」と無念の思いを吐露します。
景勝は、菊姫の、命懸けの想いを汲み取り、側室をもつのでした。

そのころ江戸では、突然姿を消して京へ向かった上杉景勝へ、家康より猜疑の目が向けられます。
直江は、「奥方さまの病気見舞い」と堂々と答えます。
「妻や子を思う気持ちが分からなければ天下など治められない」とも断言します。

それは、「生きるために」屈服はするけれども、精神は決して卑屈にはならず。
堂々と「上杉の生き方」を家康に見せ付ける、直江の気概の表れでした。

翌年の春・・・年始の挨拶に大坂城へ登城した上杉景勝の元に、
「菊姫逝去」の知らせが届きます。
悲しみを堪えて豊臣秀頼に拝謁する景勝。

「お喜びもうしあげます・・」
その言葉が、どうしても口にできない景勝は、菊姫を失った悲しみで嗚咽を漏らすのでした。
側にいた直江兼続は、景勝の悲痛な想いを受け取り、景勝に代わって秀頼に年賀の祝辞を伝えます。

米沢に帰った兼続は、菊姫の死を悼むお船を励まします。
お船は菊姫を守るために10年間も伏見で共に暮らしたのです。

すっかり病状のよくなった竹松には、
「そなたの命は、菊姫さまに助けていただいたのだ。決して粗末にしてはいけない」と諭し
愛に生きた菊姫の冥福を祈るのでした。

と・・・

今週は、常盤孝子さん祝・ご結婚!という寿ニュースもあり、
ご祝儀感想文にしたったのですが、
やっぱり正直に書きます・・・

なんとも・・・かんとも、う〜ん・・・な回でした。

まず、後で説明しますが、史実がむちゃくちゃ。

そして、ドラマ的に納得できないのが、
本多の次男を婿養子とし、直江の家督を継がせるという婚儀を
一体いつ、どんな理由で景勝が承諾したのか、まったく触れていない点。

このポイントは、次回の「実頼追放」と深くリンクするだけに、
きっちりと描いて欲しいです。

それと、菊姫が執拗に景勝へ「側室を持って」と哀願するシーン。。
あんまりしつこくて、同じ女性として、なんかイラっときました
何より、史実の菊姫は、決してそんな「はしたない」真似などしない、プライドの高い姫でした。

それと、「領民のために生きる」といいながら
ドラマの直江は、いつも屋敷に篭って書類見てるか、もしくは、家族の看病してるだけ。
泥んこになって率先しながら、農業改革や、水利事業(堤防建設)してほしいし、事実、
本物の兼続は、そういう現場主義の執政だったのです。

直江の米沢での政治やその事業は、ドラマが終わった後の「天地人紀行」でちょっと触れるだけ。
これでは、負け組からの出発の現実味が伝わりません。
いつだって、キレイな衣装で髪型もばっちりの直江では、民もついてはこないでしょう。

妻夫木くんには、是非とも「泥まみれ」の演技を期待したいです。
イケメンは泥かぶってもイケメンだから、大丈夫だって〜!


さて、「勝手に補足のコーナー」ですが、
今回は菊姫の逝去前後の出来事を時系列に並べてみて、
景勝と菊姫の夫婦愛を検証してみたいと思います。


文禄4年(1595年)秀吉の命で、越後より上洛し、伏見の上杉屋敷で人質としての生活が始まる

共に伏見で人質となっていたお船は、慶長3年(1598)上杉家が越後から会津へ移封となった際、
夫とともに会津へ帰国していた。(ドラマとは違いますので要注意)

また、慶長8年(1603) までに、
景勝は、秘かに公家の娘四辻氏を景勝が側室として米沢へ迎えていた。
四辻氏の実家は、西園寺家の一門で、公家の名門。

慶長8年(1603)3月、二条城で徳川家康が将軍宣下を受け、征夷大将軍となる。

慶長8年(1603) 10月、上杉景勝と直江兼続は、家康の将軍宣下の祝賀のため京へ上洛。
豊臣秀頼と千姫(家康の孫)との婚儀の祝賀も兼ねてである。
途中 江戸城へ登城し、徳川秀忠に拝謁している。

(家康と景勝主従が対面したのは江戸ではなく伏見です、ドラマとは違いますので要注意)

その後、翌年8月まで、景勝は伏見に滞在する。


尚、米沢に暮らす四辻氏はすでに妊娠しており、出産は翌年の5月。

慶長8年(1603) 冬、菊姫が病に倒れる

一説には、景勝が側室を持ち、妊娠させたことに傷つき、鬱病になったとされる。

慶長9年(1604) 2月、病状が悪化したため、菊姫の義弟・武田信清が伏見へ駆けつける。

景勝は、菊姫の病気平癒のため神社仏閣への祈願を行ったり、名医を招いたりしている。

慶長9年(1604)2月16日、景勝と信清に看取られ、伏見の上杉屋敷にて菊姫逝去。

『上杉家御年譜』には、「公(景勝)ヲ始メ奉リ、諸士ニ至ルマテ悲歎カキリナシ」と、
景勝や家中の者が、菊姫の死を悲しむ様子が伝えられている。

しかし、菊姫は病死ではなく、側室の妊娠に嫉妬し絶望して、自害したという説も有力である。

墓所は、京都妙心寺亀仙庵(現隣華院)。後年米沢林泉寺にも墓碑が建立された。



慶長9年(1604) 5月5日、米沢で側室四辻氏が玉丸(定勝)を出産した。
上杉景勝の唯一の実子である。しかし、産後の肥立が悪く・・わずか3ヵ月後、

慶長9年(1604)8月17日 側室四辻氏亡くなる。

一説には、菊姫の怨霊に祟られたといわれている・・・

慶長9年(1604)8月21日 上杉景勝、伏見から米沢へ帰国の途につく。

母に先立たれた乳飲み子の玉丸(後の定勝)は、直江兼続夫人・お船によって養育される。



如何ですか?
ドラマとは一味も二味も違う、夫婦の姿が見えてきませんか?

菊姫は、名門武田家の、しかも武田信玄の実の娘として生まれ(母は側室の油川氏)
美貌でもあり、才色兼備と誉れの、プライドの高い姫君でした。

夫・上杉景勝も、自身が名門・上杉(長尾家)の出身だけに、
この美貌の姫を慈しみ生涯尊敬の念を持ち続けたことは間違いなく、
豊臣秀吉の命で、伏見で人質の生活を余儀なくされなければ、終生仲睦まじく暮らせたはずでした。

しかし、長すぎる別居生活のため、子宝に恵まれず
子供がいないことが、景勝や上杉家の最大のウイークポイントとなってしまいます。

景勝は、大名として、側室を入れました。
当時としては当たり前のことだったからです。

しかし、菊姫は、頭ではわかっていても、心で許すことができなかったのでしょう。
しかも相手は、公家の名門の姫。自分と遜色ない出自であることも、
プライドを傷つける要因であったと想像できます。        

菊姫の発病が、四辻夫人の妊娠発覚の頃と重なるのは、決して偶然とは思えません。
「病は気から」と云います。
私は、菊姫が鬱病にかかっていた可能性は高いと思います。

しかし、景勝は、関ヶ原の敗北による減封で、どん底にある米沢へ帰らず、
菊姫のいる、京に滞在しています。

執政・直江兼続の手腕を信じていたのも大きな要因でしょうが、
景勝は領国よりも妻を選んだとも言えます

恐妻家だったのでしょうね。
でも恐妻家は、イコール、愛妻家なのです。

武田と上杉の和睦の証として甲斐から越後へ輿入れし、
越後から人質として伏見屋敷で夫と離れて暮らし、10年。
結局、会津へも、米沢へも帰国することができませんでした。
享年 42歳。法名 大儀院殿梅岩周香大姉

他の戦国時代の姫君同様、悲しみの色を感じさせる人生でしたが、
最後、愛する夫に看取られたことが何よりの救いです。


さあ、次回は、大国実頼の悲劇です・・・(涙



写真は、二条城、勅使の間です。将軍が朝廷からの使者(勅使)を迎えた対面所です。
上段に勅使が座り、将軍は下段に座っていました。

景勝&菊姫は、NHKホームページより拝借しました。

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