ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「天地人」

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上洛した菊姫とお船を待っていたのは
大奥のおんな達の勢力争いでした。

秀吉の正妻として、ゆるぎない地位にあるはずの北政所に対し
秀吉の嫡子を生んで益々秀吉の寵愛を受ける新興勢力の淀君です。


北の政所に拝謁した菊姫は、
ともに子のない身の上ゆえと語りだす政所に、なぜか反感を感じてしまいます


一方、淀君は、
北政所が生けた、ひめささゆりの美しさに感激し、
菊姫へ越後より大量のひめささゆりを送るよう、申し付けるのでした。


淀君からの命令とあれば、上杉家も無視はできません。
庄内の一揆鎮圧で多忙を極める中でも、蕾のひめささゆりをかき集めるのでした。


そして京に届いたひめささゆりの花々は、淀君の部屋に咲き乱れ・・・
北政所にも喜んでもらおうと、無邪気な淀の気持ちとは裏腹に
なぜが、浮かないお寧の表情なのでした。



そんな浮世離れした大奥に悲劇が・・・
秀吉の一粒種の鶴松がわずか三歳で亡くなってしまったのです。

泣きくれる秀吉と淀。

「腹を痛めたわが子の死が、これほど辛いこととは・・・」

鶴松を失った秀吉は、その悲しみを打ち消すために、朝鮮出兵の実現に熱中し始めます。
嫡男を失った淀の権威はまたたくまに失墜し、こびへつらうおんな達の、出入りもぴたりと止みました。


しかし、菊姫はそんな淀を励まします。
「ここで負けてどうするのです?!」

ともに、名門の血筋を受け継ぐプライドの高い姫君同士。
それゆえ、悩みも悲しみも分かり合えるのです。

淀は、菊姫の言葉に再び花を咲かすことを、誓うのでした。


秀吉は、子は望めぬと諦めたのか、家督も関白職もを甥の秀次に譲り、自身は「太閤」と称します。
身内の悲しみから目をそらすため、自身も海を渡り、大軍を指揮するといきまくのです

しかし、北政所は、徳川と上杉に、秀吉の守役として決して渡海させないよう懇願します
それは、名護屋城へ秀吉が同伴するのが自分ではなく、淀であることへの牽制でもあったのです。

兼続は、大義名分もなく他国へ侵略することの愚を
三成へ問いただします。

しかし三成は、たとえ愚かであったとしても、
豊臣政権の基盤を磐石にするために朝鮮出兵は必要だと断言します。

虚しい思いにかかれる兼続。
異国での戦ゆえ、生きて帰れないかもしれない・・・

しかしお船は、
「愛の旗印を揚げているのであれば、どんな功名もいりません、生きて帰ってください」と
夫に願うのでした。


やがて、上杉にも出陣命令が出され、
景勝も兼続も海を渡り、朝鮮へと出兵しました。

「無駄な戦。おんなの花戦よりも性質が悪い」
「このような戦で、無駄に命を失いたくはない」

悲壮な覚悟の主従をよそに、

京では淀君が菊姫に仰天の告白をします

「おんなゆえの策があります。
 子ができたのじゃ。太閤殿下の気持ちも変わるであろう」

またもや、無邪気に笑うのでした。



とまあ、

日本史の恥部、朝鮮出兵までの経緯を花仕立てで描いておりました


が、

今回も、なんとも消化不良。
テーマをてんこもりにしすぎてまとまりもなく、
上杉主従が、単なる阿呆にしか見えませんでした(涙


まず、赤ん坊を背負い、おむつ替えまでする兼続にがっくり・・・

おいおい、上杉の筆頭家老ですぞ。
侍女もおらんのか〜?!!!
そりゃ現代のダンナさまは、おむつ替えするのは当たり前かもしれないけれど
戦国時代にあの姿はありえないでしょう。

武士の中の武士と世に広く聞こえた直江が、あの世で泣いてますよ。

そして、庄内の一揆の鎮圧も、
「はやく平和な世にしたいものじゃ」と一言で片付けられているし・・?!

元来、庄内は、上杉の所領ではなかったのです。
景勝と兼続は、一揆鎮圧を名目に、庄内へ侵攻し領有したのです。
決してきれいごとではありません。

戦国武将として、武でもって制する景勝と兼続の姿をきちんと描くべきだと思うのです。
大体、天地人は、新発田征伐も、佐渡平定も、庄内領有も、
越後本国で起こった内乱、侵略をほとんど無視しているのは、何故なんでしょう??

草食系武将としてのイメージを保ちたいためなのかなあ?
食うか食われるかの戦国時代に、それは絶対無理です。根本が間違っています。



そして、菊姫。
前回の感想でTOMMYさんもご指摘されていましたが、
京であのワガママは、上杉を滅ぼします。
史実の菊姫は、子がなくとも、上杉家中から広く尊敬され慕われた奥方なのに
あれでは単なる気位の高い「ヤな女」でしかありません

菊姫の悋気や気位の高さについていけず、景勝が側室を持ったと思われても仕方ありません
史実の菊姫が、泣いてます・・・

そして北政所。
酷な言い方かもしれませんが、、富司純子さん、年取りすぎ・・・(すみません)
文禄・慶長の役の頃のお寧はまだ50歳。
まだまだ現役のおんな丈夫だったので、ちょっと上品すぎてイメージが違うんです。


そして、おんなの花戦と朝鮮出兵を重ねていますが、
解釈のスケールが違いすぎ。

これは史観の問題かもしれないけれど、
結果、朝鮮出兵は豊臣政権の土台を揺るがす結果となりました。

文禄・慶長の役は足掛け6年にも及ぶ大戦。
動員された兵の数も、浪費された金銭の膨大さも、そして渡海した者達の精神的ダメージも
想像を超えるものであったのです。

ただし、太平洋戦争以後の東アジアにおける対日感情への配慮から、
これまで、大河ドラマで朝鮮出兵を真正面から描いた作品は、ほとんどないそうです
唯一、名作「伊達政宗」が取り組み、反響を呼びました。
ただし、このことが原因で、NHKでのDVD出版がなかなかできなかったそうです

いわゆる、タブーなんですね。

だから、今回「天地人」で、奥歯にはさまったようなあやふやな演出しか出来ないのは致し方ありません

ただし、どんな手法を使ってでも、この愚なる朝鮮出兵の輪郭をあぶりだすことはできたはずです

例えば最近だと「功名が辻」で、朝鮮での兵役に耐えた武闘派の武将達と
日本に残されて渡海しなかった武将達の、確執や苦悩など結構印象に残っています。



ということで、今回は、
多分タブーとしてドラマでは描かれないだろう、上杉の朝鮮出兵をご紹介します


ちなみにドラマでは名護屋城に1年滞在とナレーションしてましたが
正しくは2ヶ月です・・・


文禄元年(1592年)秀吉は諸大名に朝鮮出兵を命じます
上杉景勝が兼続と5000の兵を率いて春日山を出陣したのは同年3月1日。
肥前・名護屋城(現・佐賀唐津市)に到着したのは、4月21日でした。

兼続は名護屋城での滞在2ヶ月の間、句会を催すなどして時間を潰していたようです。
この頃から戦意のかけらも感じられません。

そして同年6月2日、秀吉の名代として上杉景勝は渡海します
秀吉が乗船するはずであった「小鷹丸」で釜山に上陸したのが6月17日。
釜山近郊の熊川城に入り、城の改修をしながら、諸将の指揮監督を行います

秀吉の名代であったことが幸いしたのでしょうか

景勝も兼続も、朝鮮ではほとんど出陣しませんでした。
血なまぐさい戦闘が行われた前線を尻目に、
兼続は熊川城でも句会を催したり和歌の勉強会を主宰しています。

そして特筆すべきは、戦場で華々しく配を振るうことよりも、
戦争で焼かれる危険のある朝鮮の古典や書籍を、金銭を惜しまずに買い求めたことです


熊川城にありながら、医書『済生救方』三百巻を筆写させ、
現存する『諸薬方書』『薬方抄』は直江蔵書の写本といわています。

そして無益な戦であるからと、兼続は家来に強奪などを禁じていました。

まさに、これは、兼続の、
大義名分のない愚かな侵略戦争への、声にはださない無言の抵抗でした。

平凡な武将がこんな態度をとれば、「弱腰、職務怠慢」と罵られるでしょう。
後に悶着となる三成の「戦場評価」も散々であったはずです。

しかし、景勝と兼続を戒めるものなどいませんでした。
御館の乱、新発田征伐、佐渡平定、小田原攻め、庄内一揆鎮圧と、
越後でみせた上杉軍の強さ、戦略先述の鮮やかが、評判になっていたからです。

ドラマでは全く描かれてはいませんが、景勝も兼続も戦場にあっては血を恐れず命を惜しまない
一級の武将であったことが、諸侯への牽制になっていたのです。


翌、文禄2年(1593)9月8日、秀吉の命で、上杉軍は肥前・名護屋城へ帰陣しました。
1年3ヶ月にも及ぶ長期出兵であったにも関わらず、上杉軍は熊川城の修築を行っただけで
ほとんど戦もぜず、よって華々しい戦功もありませんでした。

しかし、それは、景勝、兼続があえて選んだ戦略であったのです
他の武将が疲弊しきって、なんの恩賞もなく領国へ帰った事実と比較すれば
ほとんど無傷のまま越後へ帰ることができたのです。


日本史の恥部、朝鮮出兵について、
ドラマでは信長公の野望を秀吉が具体化したものだとの説明がありましたが、
もし信長公であれば、こんな稚拙な作戦は取らなかっただろうと断言できます。

もちろん、信長公であったとしても私はいかなる侵略戦争を肯定はしません。反対です。
しかし、戦国時代の背景、そして大航海時代を迎えた当時の世界史の動きを俯瞰すれば、
他国からの侵略をうけると仮定した信長公の戦略眼は、正しかったし特筆すべきだと思うのです
決して領土拡大の野望だけでなく「安保」の理念から
信長公の視野は世界に向けられていたからです。

一方、

秀吉公は・・・淀君という傾国の美女に出会い、精力を吸い取られたのか、
かつての研ぎ澄まされた鋭敏なバランス感覚を、すでに失いつつありました。



ご先祖さまが蜂須賀小六親分に従い使えた縁もあり、当然、豊家びいきの私ですが
この文禄・慶長の役、すなわち朝鮮出兵は、見過ごすことの出来ない過失であり、
タブーにせずもっとOPENにすべきだと私は思っています


過去記事参照頂ければ幸いです。



写真は、「肥前名護屋城図屏風」 名護屋城博物館蔵
面積は約17ヘクタールもあり、当時では、大坂城に次ぐ規模であり、
金箔を施した豪華な天守閣は、まさに天下人の城であったことを表しています。
http://www.pref.saga.lg.jp/web/nagoya-jinato.html

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今回は・・・先ほどビデオ観たのですが、あれ???

むちゃくちゃ、面白かった〜!


天地人、久しぶりに見ごたえのある満足できる内容でした!!!


以前、感想文でも絶賛した、神山繁さん演じる千利休と、北村さんの景勝のシーン。
今回も、静のなかに込められた二人の濃厚な演技に魅了されました。

そして、菊姫やお船の苦悩の決断。

気をてらうでなく、史実をゆがませるでもなく
歴史に翻弄される人々の生き様を、じっくりと正攻法で魅せてくれました。

やはり大河ドラマは、こうでなくっちゃ!

それでは、感想、LET'S GO〜♪♪




1591年、利休は突然秀吉の勘気に触れ堺で蟄居の末、京で切腹を命じられます
理由はいくらかあれど、秀吉の天下にあってその命をまっこうから拒絶する者があってはならぬという
三成の意思も働いていたのでした。
秀吉は、上杉軍に利休屋敷の警護を命じます。


利休は己を監禁する景勝を茶の湯に招きます

「茶人の私からみれば、権力に迎合する武士が多いようです」
と景勝をやんわりと非難します

「間違っているとわかっていても、わが民を守るため従うしかないのです」

「私は茶人です。死をもって守るものもあるのです」

このときの・・・北村・景勝のやるせない苦悩の表情。
そして対極には、何か悟りきったようなすがすがしい利休の顔。


千利休は景勝に、未来につながる何かを暗示したかのようでした。


死を前にして利休は、娘のお涼に
「秀吉公に屈すれば、茶の心は汚される、わが身滅びるとも、茶の心のなかに父は生き続けるのだ」
と諭すのでした。

分かり過ぎる「茶人の誇り」ではあっても、娘としてその死を納得することなどできません。

お涼を心配し側に付き添う兼続に茶をたてながらも、
その手は乱れ・・・・兼続の胸で、涙を流すのでした。


利休の死は、大名への牽制となりました。
いくらお気に入りの人物とて、命に逆らえば死を賜るのだと。
それは上杉家でも同様でした。

秀吉は諸侯の妻子を京へ上洛させるよう命じました。あからさまな人質です

景勝の正室・菊姫は、武田から盟約の人質として景勝へ嫁してきた経緯もあり
上洛を拒否します。
しかも菊姫は、誰にもいえない苦悩をその胸に抱え込んでいたのでした

しかし、秀吉の命にそむけばどうなることか・・・すぐさま謀反心ありと勘ぐられるでしょう。
たとえ上杉とて、三成は例外など許しはしない、と秀吉から釘を刺されています。

景勝と兼続が上洛した後、
留守をまもるお船が身重でありながら菊姫を説得します

そんなとき、お船に陣痛が・・・
出産という現場に居合わせた菊姫は、嬰児を抱きながら

「わたくしも母となってみたいものじゃ」とつぶやくのです。

お船は、菊姫の苦悩に気が付きます。

景勝様へ嫁して幾年たっても子が生まれず
もし自分が春日山を出て京へ上れば、必ず側室があてがわれ、子も生まれよう。
心から景勝を心から慕っているがゆえ、そんな状況になったら惨めで生きてはいけない。

景勝の主命に絶望した菊姫は、自害してでも
景勝の側で唯一の女として生きていきたかったのでした。

戦国の女の悲しみは、現代でも通じる「おんなの苦しみ」なのでした。



お船は、今菊姫を支えることができるのは、女である自分しかいない。
上杉家のため、夫のため、愛の旗印を心に、菊姫の供として京へ行こうと決意します


子等と離れて暮らすという決断。しかも生まれたばかりの乳飲み子との惜別は
大きな覚悟があったでしょう。

兼続も、お船の覚悟を理解し、「子らのことはわしに任せろ」と
送り出すことを決意します。

笑顔で京へ旅立つお船さん。
不安や涙を見せれば、子らも不安を覚えてしまう・・・
精一杯の母の心なのでした。

そして京では、秀吉を廻る北政所と淀君との、おんなの戦いが待っているのでした。

・・・

やっぱり、ドラマが面白いと感想も書きやすいです^^v

女性にとって子供とは・・?家庭とは、仕事とは・・・?
同じ子を持つ母として、身につまされました。

今回は少し個人的な事も書かせて頂きます


息子が生まれ、3ヶ月の産休を終えて私は職場に復帰しました
そして、復帰2ヶ月後に海外への出張が待っておりました

これは、出産前に会社と約束した仕事だったので、当然断るつもりはありませんでした。
実家の母に頼み込んで息子を預けての出張です

でも正直、実家含め、家族からは、反対されました
当然だと思います。
兼続のように「子供のことは任せておけ」と言ってくれたら、どんなに嬉しかっただろうと
お船さんが、羨ましくもありました

恐らく、お船さんの京都行きはもっともっと厳しい条件だったはずです

戦国時代、電車も飛行機も、電話も携帯もない時代。
人質であるがゆえに、もう二度と春日山へ帰れないかもしれない。

自分の意思で、子と離れ上杉家の為に京で人質として働くことを決意したことは、
もちろん賛否両論あると思うのです。

でも、あの時の自分の行動を後悔はしていません。
お船さんもきっとそうだと思うのです。

恐れ多いことですが、
歴史の中で生きた人々の生き様、苦悩、喜びの跡を辿り、自分自身を振り替ったわけです。
でも歴史ってそういう見方こそ大事だと思うんですね。


実際、直江夫婦って、史実でも結局最後まで、家族よりも上杉家を優先した夫婦だったんです
NHKとしては、家族愛を全面に演出したいのだろうけど、
真実は、今回のドラマのごとし、です。
だから・・・・・兼続もお船さんも、生き様に何かしら、悲しみがあるのです。

大河ドラマでは、この直江一家の悲しみも描くのかな? (ネタばれなのであえて書きませんが)
いや、むしろ「愛」がテーマなのだから是非とも描いて欲しいですね。

それと

お船さんを演じる常盤貴子さん。
やっと、や〜っと本来の演技力を見せ付けてくれました。
今までは、脚本にあわせてなんか無理してた感じがあったのだけど
(夜叉になる!とか・・・絶対、無理すぎ)
多分、実年齢と近くなって本来の演技力を自由に出せるようになったのかな?
不倫妻、猛女のイメージをやっと払拭して、北国の女を演じてくれました。


なによりも今回私の好感度がUPしたのは、

そうです・・・兼続の髪型です!


今まで散々酷評して、やっと通じたのかな(^^;
お稚児さんみたいな前髪さらさらを脱して、総髪になってましたね。

しかも

妻夫木君、男らしさが増して、かつら、似合ってるじゃん〜!

この調子で、次は月代へ。。。!
小泉孝太郎君の与七も進化してますし、妻夫木君の、かつらの変遷に、
100%個人の趣味ではありますが、引き続き注目していきたいです!!


さて、今回の「勝手に補足コ〜ナ〜」ですが、

出番はわずかながらも、抜群の存在感を魅せてくれた神山繁さん演じる千利休について。

千利休が、秀吉の茶頭の役目を解かれ、堺への蟄居を命じられたのは、
1591年2月のことでした。

茶道具もそのまま、聚楽第側の京都・葭屋町の利休屋敷を出て、伏見から淀川を下る船に乗るとき
利休七哲の二人、細川忠興と古田織部だけが見送りました。

他の大名達は、秀吉の怒りをはばかり恐れて見送ることができなかったのです


利休は堺での蟄居の間、2本の茶杓を作りました
そしてその2本を、秀吉の勘気を恐れず見送ってくれた、忠興と織部へ与えます。
己の命運を悟った上での形見わけだったのです。

細川忠興へ贈られた茶杓の銘は、「ゆがみ」
そして古田織部への茶杓の銘は、「泪」 


私は細川家の家宝として伝わっている「ゆがみ」の実物をこの目で見たことがあります

何の意匠もない小さい茶道具でしかないのですが、
でも、まるで雷に打たれたような衝撃を受けました

魅入られて、その場から動けなくなってしまったのです

こんな経験はそうあるものではありません。
利休の、時を越えた思いが、私の心を金縛りにしたのでしょうか。

「ゆがみ」とは

それは、権力者のゆがみ、権力にこびへつらうもののゆがみ、人間の本来の心のゆがみ
そして利休自身の・・ゆがみ。

「泪」とは
茶道を極める道半ばで命を落とすことへの泪、残された家族への泪、弟子達の泪・・・

小さな茶杓に、利休は万感の想いを込めたに違いありません。

利休は秀吉より再び京への出頭を命じられ切腹を申し付けられます。

そして、利休の七哲と呼ばれる大名達(細川・古田)らによる利休奪還を恐れ、
葭屋町の利休屋敷の警護を命じられたのが、上杉景勝であったのです。


景勝はまるで戦場へ赴くような軍備で兵を出動させ、蟻一匹許さないほどの厳重な警備を行いました。
秀吉は、たとえ一人の茶人のためだけであっても、上杉の大軍を自由に動かせる事を
世間にアピールしたのです。

1591年4月21日、利休切腹。

利休の首は一条戻橋で梟首されました。
首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたといわれています。


利休の死の頃より、
秀吉の精神は、徐々に病んでいくのです。

尚、利休の妻子は、秀吉からの追討命令で危険な状況に晒されますが
北政所、徳川家康、そして会津へ転封された蒲生氏郷の庇護を受け隠棲しました。

特に利休の七哲であった蒲生氏郷の懸命な援助活動は特筆すべきです。
そしてこの事も要因となり、三成によって暗殺されたとも噂されました。

秀吉の心のバランスだけでなく、豊臣政権内部の亀裂も徐々に深まっていくのでした。



この「ゆがみ」については、過去、記事にしています
補足コーナーの「補足」として、興味のある方は是非ともお立ち寄りください。


「ゆがみ」と遭遇した、あの時の感激は今でも脳裏に焼きついています。

TOP:『後陽成天皇聚楽第行幸図』(堺市博物館収蔵)

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今回は、

小田原城攻め!

松田龍平君の伊達政宗観たさに、ビデオを観たのですが


一言・・・「もったいな〜い」



天正18年(1590年)小田原攻め。

秀吉が関東の大大名・後北条氏を攻め天下を統一するこんな格好の材料を

なんで、こんな形でしか料理できないのか・・・?



ということで、今回は全編「勝手に補足コーナー」
ドラマとは違う小田原攻めの真実をご紹介したいです


ただし、毎回ご説明するように、これはあくまで個人の感想なので、
「天地人」ファンの人は、スルーしてください。宜しくお願いいたします


秀吉は「惣無事令」を発し、大名間の闘争を禁止していました。
その命令に真っ向から反対したのは、東北の伊達と、関東の北条。


北条が真田の支城・名胡桃城を奪ったことで、秀吉の大義名分整ったのです


天正18年(1590年)3月。
秀吉の発令のもと、大軍が京を発しました。

同時に、北陸・越後にも動員令が発され、上杉景勝は前田利家・真田昌幸らとと共に、
上野・武蔵野の東山道方面の北条側の城を攻略することなりました。

上杉景勝が直江兼続とともに春日山城を出陣したのは、天正18年2月10日。
上州の松井田城・武蔵の鉢形城、八王子城を落として、6月には秀吉の本陣がある
小田原攻囲軍に合流したのです。

しかし、

関白秀吉の発令を無視し続ける男がいました。

伊達政宗です


再三の上洛命令も無視し、また「惣無事令」無視して芦名を滅ぼし会津を分捕った伊達政宗。

そむけば朝敵としてとして征伐する口実になります。

しかし「伊達家は、鎌倉時代よりの奥州探題の家柄ゆえ・・」という理由で動きません

秀吉は卑賤の出身。
伊達政宗が振りかざす名門のへ理屈が、秀吉の癇に障ることを知った上での挑発でした

このとき政宗。若干23歳。
この豪胆ぶり。

松田龍平くん・・・ぴったりじゃないですか〜!



しかし、北条攻めは長期戦となり、ただでさえ大名達の懐は厳しくなっております
もし、北条を討った後で、東北へ出陣ともなれば、軍の維持費だけでも相当なもの。

秀吉の側近達は、秀吉の暗黙の了解を得て、
伊達政宗懐柔に力を入れます。
特に熱心だったのが、前田利家と浅野長政。

利家は自身が北国軍の戦陣にあっても、せっせと伊達政宗に書状を送り続けています

(書状を送ったのは直江ではありませんので、ご注意ください!)

秀吉の圧倒的な軍事力と戦況を知らせ、小田原城はもう落ちる。
落ちてから参陣しても手遅れだ。 と 説き続けたのです。

伊達政宗は、もちろん小田原の状況を把握しておりました
そろそろ腹を決めなければ、伊達家の命運も尽きると。

しかし、伊達家は実母・義姫と実弟の伊達小次郎という内因を抱えていました。

義姫は、政宗ではなく弟の小次郎に家督を継がせようと画策していたのでした。

事実「小田原への参陣」の挨拶に、義姫を訪れた政宗は、
母の差し出した膳で、あやうく毒殺されかかったとされます。(異説あり)

政宗は、小田原へ出立する直前、
実弟・小次郎を殺害し後顧の憂いを絶ちました。
そして母の妄執を封じ込めたのです。

同母弟です。
断腸の思いであったでしょう。

5月9日、伊達政宗は、側近の片岡小十郎らわずか百人ほどの手勢を率いて会津を出立しました。
しかし、北条領を迂回して甲斐・信濃路を通ったため、小田原へ着陣したのは、6月5日だったのです

激怒する秀吉は、政宗を引見せず、箱根の底倉に監禁されてしまいます。
秀吉は、政宗を見せしめのため切腹させる腹積もりでした。

しかし、絶体絶命のピンチにあって、政宗は
「今生の思い出に千利休から茶を習いたい」と申し出たのです

側室の茶々だけでなく千利休も呼び寄せていたことを政宗は知っていたのでした

秀吉の許しを得て利休は、伊達政宗に茶をたてました
東北の田舎侍と思われていた政宗は、見事な茶さばきで対応します

千利休は、政宗の風雅に魅了されたのでした。

利休だけでなく、前田利家も、浅野長政も、伊達政宗と秀吉との仲介を続けるうちに
この若者に惚れこんでしまいました。
政宗のカリスマ性なんですね〜。

政宗の魅力は、彼ら側近達からも秀吉に伝えられます。
ひとたらしの秀吉は、俄然、政宗に興味をもち、直接謁見することとなりました。

天正18年6月9日、
底倉で監禁されてわずか4日後、
豊臣秀吉は、小田原石垣山本陣で、大勢の大名達と共に、伊達政宗を引見しました。

これがドラマでも取り上げられた、有名な場面です。

伊達政宗は、髪を切り、白装束で現われました。死を覚悟しているというパフォーマンスです

派手好きの秀吉も、お得意のパフォーマンスで対応します。

平伏する政宗に向かって太刀(杖とも)を振り上げ、衆目が固唾を呑む中
肩のところでピタリと止め、

「政宗、よく来た!」と一喝し許したのです

秀吉と政宗のこのど派手な引見劇は評判となり
政宗は、一躍人気者となりました。

政宗は、秀吉に気に入られたものの、侵略した会津を召し上げられることを、承諾しました。
そして他の大名達と交誼をかわし数日後、小田原を風塵のごとく去りました。


どうです?!

この史実を、最初から最後まで松田龍平君に、演じてもらったら、凄いことになると思いませんか?

実母や実弟との確執、千利休との監禁場所での茶の湯。ドラマでは無視されていましたが
かなりドラマティックではないでしょうか?

せっかくの名場面・・・もったいないんです。



もうひとつ、もったいない場面。
我らが直江兼続と秀吉の陣中問答・エピソードです。

松井田城・八王子城など北条の有力な城を攻め落とした景勝と兼続に謁見した秀吉は、
陪臣である直江に「小田原をどう攻める?」と質問しました。

直江は「北条が崩壊するのは自明の理。このまま熟した柿を待つべき」と堂々と答えました。
秀吉の長期包囲を堂々と後押ししたのです。

秀吉は直江の模範解答に満足し、刀を与えて
「直江に20万の兵を預けて、高みの見物をしてみたい」と絶賛しました。
伊達政宗同様、直江も小田原でその評判をさらに揚げたのです。


妻夫木君に、ぴったりの場面だと思うのですが?!どうでしょう。
朗々とした声で、衆目の中で答えて欲しかったです。
あ・・もったいない。

そして


個人的に不可解だったのが、魚津城の悲劇を、何故小田原で?ってこと。
確かに、八王子城の全滅・落城は悲劇でした。

しかし、共闘した前田利家は、柴田勝家の与力として、魚津で上杉と敵対した相手です
いわば敵です。
秀吉もしかり。
織田信長の部下だった男で、実際柴田と仲違いするまでは、共に上杉をせめていた織田軍の一員です

北条を攻略することで、景勝が「御館の乱」で滅ぼした景虎や華姫だけを思い出すなら納得ですが、
何故、魚津の霊に報いることになるのか・・?とっぴに思えてしまいました


そして「上杉を守れ」という彼らの遺訓が、小田原攻めで成就したかといえば、むしろ逆です。


わざわざ越後・春日山城から大軍で参陣し、北条を支える堅固な支城を数多く攻略したにもかかわらず、
北条が降伏した後の論功で、上杉景勝への加増はまったくありませんでした。

ただ働きだったのです。
「上杉をこれ以上太らせてはならぬ」秀吉の本音が現われています。

その危機感は、当然、直江にもありました。
それが、次回の「奥方の京への人質」へとつながるのです。

それと、

本当に細かいことで恐縮ですが、
北国軍の本陣で、前田利家の後ろに、「義」「愛」の旗指物・・・。
大体、上杉軍には「義」も「愛」の旗は存在しないのですが、ま、これは目をつぶるとしても
前田利家の後ろにこの旗はありえないでしょう。
時代考証が売りのNHK大河ドラマだったはずなのに・・

戦国武将にとって自軍の旗指物はそれほど重要なアイテムであったのです。
せめて「梅鉢紋」の旗を利家の後ろに飾って欲しかったです


余談ですが、上州・松井田城の城将・大道寺政繁。
武勇で知られ、上杉・前田軍を苦しめました。

しかし北国軍の兵糧攻めに耐え切れず、降伏を申し入れます。
ドラマのように降伏条件は寛大で、大道寺政繁以下城兵の命はすべて助けることになりました。
しかし、関東の北条側の城を攻めるときは、常に先導することも条件となっていました。
戦国の習いとして、同士討ちを強要させたのです。

しかし、小田原城が落ち、北条が降伏した後、
大道寺政繁は、戦犯として桜田門で切腹させられました。結局命を落としたのです
ただし、息子の命は助かりました
家族と城兵の命を守った立派な武将であったといえるでしょう。

さて、

小田原評定の甲斐もなく、北条氏直は秘かに家康に降伏を申し入れます
氏直の妻は家康の次女で、家康にとっては婿にあたります。

天正18年7月6日、北条は降伏し、小田原城が明け渡されました。
徳川家康が秀吉の名代として入城し、北条氏政・氏照は切腹。氏直も高野山へ追放されます
北条の他の一門は助命され、北条氏規の子孫は細々ながらも長く続きました。

秀吉は、小田原攻めの論功一番と、北条氏の領土はそっくり家康へ与えました
しかしその代わりに家康の駿・遠・三の三国は召し上げられ、
豊臣恩顧の武将へ細かく配分されました。

徳川へのあからさまな牽制策でした。

今回のドラマで唯一、すごい!と思ったのが、
小栗・三成が松方・家康へこの巧妙な人事異動を申し伝える場面。

「石田殿、戦はとんと弱いようで・・・」

松方さんの凄みと、小栗君の鋭い視線が、スパークしてました!
上杉はまあ棚に上げてでも、関が原前後のこの両雄の対決が楽しみになった一瞬でした。



写真は、石垣山一夜城・南曲輪の石垣跡と、本丸跡からの眺めです
石垣山HP ↓
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/public-i/park/ishigaki-p.html

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いよいよ御登場!

北の独眼竜、伊達政宗です。


松田龍平くんの独眼竜、
存在感抜群、オーラ満開でした!

直江兼続と伊達政宗。
戦乱の世に共に"遅れて生まれた"ライバルの出会いが、描かれておりました


伊達政宗は、若年ながらも東北から天下を狙う武将であり
秀吉から上洛の命を受けても無視し、秀吉との対決姿勢を強めていました

葦名をはさむ越後の上杉家は、伊達の鎮撫を秀吉に命じられ
兼続は上杉景勝の名代として米沢城へ出向きます。

もちろ史実ではありませんが・・・

ドラマの設定では、葦名との摺上原合戦以前なので、恐らく政宗は若干 21歳。
直江よりも7歳も年下でありながらも、不遜な態度を取り続けるます

天下統一、戦乱の世が終わり平安の日々が来ようとしている今、
武力でもって新たな戦乱を巻き起こそうとする独眼竜に、
直江は、織田信長の姿を重ねます

人を愛し親兄弟を愛さずして人の上にたつことはできないと語る兼続に
伊達政宗は斬りかかります。
側近の片倉景綱も見てみぬふりをするのですが、正室の愛姫の視線が正宗の行動を抑制するのでした

母からの愛を失った政宗の
空白の心の中を愛姫は察するのでした。


春日山へ帰還した兼続に新たな使命が待っていました


秀吉からの承諾を得て、上杉景勝と直江兼続は、佐渡平定に乗り出します

上杉の電光石火の進軍に、わずか12日で佐渡は陥落します
日本有数の金山を手中として管理統制を行う兼続。

そのとき、与板城でお船が娘を出産したとの吉報が届きました。

多事をこなしやっと与板へ駆けつける兼続。
仕事の差しさわりになってはいけないと、たったひとりで出産に臨んだお船と娘の姿に、
決して命を粗末にはしない、家族のために生きるのだと
決意を新たにするのでした。




今回は、松田龍平くんの伊達政宗、に尽きますね!
迫力ありました。


でも、一方で、見事に突っ込みどころ満載の回でした。
伊達政宗のファンとして、見過ごせない間違いもありましたよね。

まず、葦名との摺上原合戦前であれば、
政宗は、実母・義姫の毒殺未遂も未だですし、当然、実弟・伊達小次郎も存命でした。

まるで、もう二人が生きていないかのような演出。誤解を招きます
何より、義姫は関が原以後も存命し、元和9年(1623年)に75歳で仙台城にて病没しています

そして父・伊達輝宗との親子関係も、「不和」であったと誤解を招きそうです

輝宗と政宗・・・特に隻眼となった嫡子への教育という点で
父子の関係は素晴らしかったといえるのです

政宗の素質を早くから見抜き、隻眼といえども英才教育を施しており、早々に家督も譲っています
まだ迷信や偏見のあった戦国時代に父の態度は理想といえるのではないでしょうか。

確かに、輝宗の最期は悲劇でした。
しかし、それは息子の窮地を救わんがため、自らの命を差し出したと言えるでしょう。


心寂しい独裁者として政宗を描くのは、構いません。
実母を成敗できないがため、実弟の伊達小次郎を斬殺したのも、
武家の棟梁として苦渋の決断だったでしょう。


まあ、直江兼続が米沢城へ景勝の名代として直談判、
なんてことももちろん史実ではないのでうが、
上杉のドラマなので、これくらいの演出は目をつむりましょう。

しかし、史実をゆがませ、小田原前(正確には、葦名滅亡以前に)すでに家族を失っているかのような
小細工はやめて欲しいです。(マリア像など置かれてましたし・・・)
伊達政宗ファンにとって、冒涜だと思うのです。



それと、

私が今回、悲しかったのが、「佐渡平定」
兼続は仁愛で戦に勝ったかのような描かれた・・・まるで血の一滴も流れていないようでした。


これは、まったく史実に反しています!

ありていに言えば、史実は

佐渡に先住していた一族を武力で制圧し一掃し、
越後の上田衆を移住させて、上杉の属領として、佐渡金山を管理し搾取したのです



やはり史実をちゃんと伝えたい!

そこで・・・

今回の勝手に補足コーナーは
佐渡平定の真実について、ご説明したいと思います。

天正14年(1586)の上杉景勝の最初の上洛のとき
秀吉から「佐渡の仕置き」を任せられたことは、以前のこのコーナーでご説明しました。

3年後の天正17年(1598)6月、
上杉景勝、直江兼続は、満を持して、佐渡への軍事行動を開始します

佐渡は元来、本間一族の所領で、一族同士の抗争が泥沼化しておりました

特に、南佐渡の羽茂城主・本間高茂と、北佐渡の河原田城主・本間高統が2大勢力であったのです

兼続は、この内部抗争の隙を狙って、戦略を練りました。

すなわち、本間一族の中で上杉にすでに通じた沢根城の本間高次の手引きで
1千余隻の船にて真野湾の沢根浦へ上陸したのです。

不意をつかれた河原田城はあっけなく落城。本間高統は城に火をつけて自害しました

そしてもう一方の勢力である本間高茂軍も、上杉軍の精鋭には歯が立たず、
高茂は妻子、郎党とともに佐渡を脱出したものの、捕縛されてしまいます

上杉景勝は、見せしめのため高茂と妻子を国府川の河原で磔刑に処したのです。
残酷かもしれませんが、これは戦国の世の習い。特別なことではなかったのです。


佐渡を武力で制圧した景勝は、直江兼続に戦後処理を任せ、越後へ帰還します

直江は、まず本間一族の領土をすべて没収し、最も信頼のできる上田衆や与板衆を代官として
所領を与えました。

佐渡上陸の手引きをした本間高次も例外ではなく、領土は没収され
上杉家の家臣として、越後本土にて新たな所領を与えたのです

このように、佐渡に長年巣食った本間一族を一掃し、
上杉の直轄地として、日本最大の金山を管理することに成功したのです。

ドラマのエピローグ「天地人紀行」で紹介された、直江兼続の所領安堵状は
佐渡の古刹・妙真寺へ宛てたものです。
本間一族の本願地である雑太城を廃城とし、その跡地を妙宣寺に与えています

島内の寺社に制札を立て、諸軍勢の乱暴狼藉、竹木伐採を禁じました。

上杉家の属領となった佐渡で、寺社が民・百姓に与える影響を考慮したのでしょう。

このように、佐渡平定は、上杉景勝と直江兼続が、武力にも頼る戦国武将であり
また、領国経営に通じた大名であったことを物語っています。

決して血も流さない、仁愛の武将などでななかったことを心に留めておいてください。



写真は、佐渡金山跡
上杉、豊臣だけでなく、徳川三百年の財政をも支えた金山。
狸堀りの小穴、無宿人の墓・疎水坑など往時の労苦を今日に伝えているそうです。

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今回は直江兼続の弟、与七のお話でした。

兼続の計らいで、上杉家でも屈指の名門・小国家へ婿養子に入り
小国実頼と名前を改めた与七。

しかし、優秀な兄の陰に隠れてイマイチぱっとしません・・・

ふがいない婿殿に、小国家の養父母や妻からも冷ややかに遇され肩身の狭い毎日でした。

兼続はそんな弟の境遇を案じ
景勝の名代として秀吉の建立した聚楽第落成の祝いの使者となり上洛するよう計らいます

大役に張り切る与七。

秀吉はしかし、そんな与七を、徳川家康への面当てに利用するため
勝手に官位を授けてしまいます
更に、側室茶々の思いつきで、名前も小国から「大国」へ改名させられる始末。

しかし、与七はそれを秀吉の厚遇だと勘違いしてしまうのでした。

越後へ帰国後、兄・兼続は、弟の軽率な態度を叱ります
上杉の家臣である以上、勝手な官位受諾などもってのほかと・・・

「与七には、大役すぎた」と言われ
「兄上は私をねたんでおいでか?」
「私はもう与七ではありません」と兄弟間に亀裂が生じてしまうのです。


弟のためよかれと思ってしたことが、すべて裏目にでてしまうことを嘆く兄。

やがて、秀吉から再び景勝と兼続へ「官位をさずけるから上洛せよ」と書状が届きます

今回は与七も共に京へ上ります

そして秀吉の面前で、兼続は

「官位など不要。上杉の義をお疑いなされすな。」と一喝するのです。

秀吉も己の小者を恥じ「すまぬ」と素直に謝るのでした。

与七は、兄の大きさを改めて見せ付けられ
一人の男として兄から独り立ちすることを決意します

「兄上とはなれて、今一度、この京で己を見つめなおしたい」

幼い頃の思い出に浸って弟の自立を妨げていたのであろうか・・・
与六と与七は、お互いを思いやりながらも、別々の場所で成長する道を選ぶのでした

そして、お船から「子供を授かりました」と嬉しい知らせが。

父となる兼続は、やはり【仁愛】の道を貫こうと決意を新たにするのです。



新発田征伐をスキップしてしまったことは、200%不満でしたが
与七との関係を見つめなおすドラマの内容は、見ごたえがありました。

今までまったく存在感のなかった弟役の小泉孝太郎君

がんばってました!

私、「派遣の品格」のときからの孝太郎君ファンなので
今回の見事な化けっぷりがとても嬉しかったです。

孝太郎君自身も、有名な父親の存在を超えるため芸能界できっと苦労したんだろうな・・・
そう納得させるに充分な、演技だったと思います

兄として幼い弟を守りたいと、
あれこれ気を回す直江を演じた妻夫木君も、

いじらしくて良かった。

個人的に及第点の回でしたね〜。
兄弟の確執と自立というテーマに絞り込んでたぷっり演出したのが良かった

今までも「天地人」は、あるテーマの途中から、別のエピソード(初音さんとか)が割り込んできて
重厚感の薄い展開で、どれもこれも中途半端な感じは否めませんでした。

奇異をてらうでなく、やはりオーソドックスな手法で演出したほうが断然面白い!

スタッフも脚本も、この調子で基本に戻ってほしいですね。


茶々役の深田恭子ちゃん、可愛い〜!
まじではまり役じゃないですか〜?

再来年の「お江」でも茶々は深キョンでお願いしたいくらいです。
笹野・秀吉との絡みがまた楽しい。
これは期待できそうですね。


さて勝手に補足のコーナーですが
出張中のためさっきドラマを観たところで、まったく準備ができてません

で大国実頼について軽くご紹介。

直江山城守兼続の2歳年下の実弟。

天正10年(1582)、上杉景勝の命により小国重頼の養子になり天神山城主となります。
小国家は清和天皇を祖とする由緒正しい源氏の名家と言われています。

知行高9千石は上杉家中では兄直江兼続に次ぐ屈指の大身です。

(史実では決して影の薄い婿殿ではありませんのでご注意ください)


天正15年(1587)、景勝の命により小国を大国に改め大国但馬守実頼となり、
景勝の賀使として聚楽第で秀吉に謁し、会津移封後は関東への護りの要、
西会津の南山城2万4千石の城主になりました。
しかし、南山城へは殆どおらず、もっぱら伏見にて上杉と京都との外交を担っておりました。

そして、関が原後、大国実頼には過酷な運命がまっています


ドラマのネタバレになったら面白くなくなるので、
かる〜く予告程度にしておきます。


このふたり兄弟仲は本当に良かったのです。
でも、関が原のあと、弟は兄の事を思いすぎて二人は決裂してしまいます。

なぜなら、直江は、関が原で敗北した上杉家を守るため、自分の家族を犠牲にしてしまうからです
つまり、直江夫婦の子供にも悲しい運命が待っています

弟として、そんな兄の決意を、なんとか阻止したかったのかもしれません。

しかしそれは、直江夫婦共々、上杉家を守るため、覚悟のうえの決断であったのです。



決裂後、米沢に帰れなくなった実頼の、残された弟の娘を引き取り、
養子とし嫁にだした兄・兼続・・・

兄弟二人は離れていても心は通じ合っていたのでしょう。


仲が良すぎるため、相手を思いやりすぎたため
悲しい未来がまっている兄弟、そして子供達。

今回は、兄弟の確執と、直江の子供の誕生と・・・
関が原以降降りかかった、与六と与七、そして彼らの家族の悲しい運命の
序章なのかもしれません

(そういう脚本だと深みが増すと思うのですが)

ちなみに

上杉の2度目の上洛は、天正16年8月17日(1588年)
景勝(34)・兼続(29)の秋でした。

秀吉は、兼続に豊臣の姓を与え、山城守の口宣案を賜ります
直江は正式に「山城守」と称されることとなりました。

この年(天正16年)は、秀吉の刀狩令が発令されています。
秀吉の天下人としての権力が、民百姓まで及ぶとこととなり
そして秀吉の側近として天下の采配を担う石田三成もますます頭角を現していくのでした。


でもさ・・・
それでも不満はあります!


新発田征伐をまったく描かず、スルーするのはいかがなものでしょう?!

佐渡平定も無視されるのでしょうか?

上杉の筆頭家老として君臨した、戦国武将としての直江の姿を、しっかりと描いてほしいです

来週は、いよいよ独眼流の登場ですね〜!
渡辺兼さんのイメージが強すぎて、松田龍平君、苦戦しそうな予感
とにかく、イケメン武将たちの、髪型がどうもダメです。

そんななか、
勇気をだして月代の鬘を着用し続けている小栗君、


応援してるよ〜!

TOP写真はNHKホームページより拝借しました

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