ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「平清盛」

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大晦日になってしまいました。

師走のバタバタも落ち着きやっと時間が見つかったので
大河ドラマ『平清盛』最終回の感想を書くことにします。

最終回・・・

本当は拍手で終わるべきなんだけど、申し訳ない。そういう気持ちになりません。

「これはないわ・・・」が視聴した後の正直な感想。

清盛の生霊、亡霊が4回も登場してましたよ〜〜。

前回までかなり史実に沿ってドラマを描いていただけに、裏切られた気持ち・・・


しかたないので、清盛の亡霊中心に感想を述べてみます 【汗】



清盛の死の間際、伊勢・二見浦にいる西行の庵に現われた清盛の生霊。

武家の頂点に立つベく、源頼朝との決戦に英気を高めていた矢先の突然の病に
自分の死を受け入れることができない清盛に、西行は「運命(さだめ)だ」と諭すのです。


そして、治承5年(1181)閏2月4日、九条河原口の平盛国の家で、清盛死去。

「きっと、わが墓前に、頼朝が首を供えよ!」
そう遺言して絶命したのです。平清盛 享年64歳でした。


まあ、ここまでなら許せます。西行の物語における存在意義も十分ある内容でした。

ところが・・・

清盛亡き後、京の平家一門の前に現われた西行が、
「清盛殿の遺言をお伝えする。」と言い出し、清盛の亡霊が現われ。。。!
そして家族それぞれへの清盛の思いが伝えられ、一門は涙するのです。

つうか、清盛の遺言っていっても、それ生霊だし・・・


清盛亡き後、平家はますます追い詰めれ、1183年には都落ちします。
そして元暦2年3月 壇ノ浦にて平家滅亡。
時子は安徳天皇を抱き、「海の底にも都はござりましょう」と言って海に身を投じたのです。


平家滅亡の後、源頼朝は、弟・義経の処遇に苦慮していました。
義経は兄の許しも得ず、後白河法皇より官位を得ていたのでした。

実の弟を討つことにためらう鎌倉の頼朝の御所に、
西行が訪ねてきます。

頼朝と会話する西行の姿がいつしか清盛の姿に変わります。再び亡霊が出現したのです。

清盛は頼朝へ「まことの武士とはいかなるものか見せてみよ」と言い、
頼朝はその言葉に背中を押されて、義経の追討を決意するのです。

1189年、頼朝軍に負われた義経は衣川で兵に襲われます。
義経を守るために弁慶は多数の矢を受け立ち往生し、義経は自害して果てました。

身内を粛清し、強固な幕府体制を気づいた頼朝は、1190年上京し、後白河法皇と対面します。

後白河法皇は頼朝と双六勝負をします。
しかしその勝負は面白みがなかったのか、一年あまりの後、後白河法皇は亡くなります。

1192年、鎌倉幕府を開いた頼朝も、その7年後に死去します。

源氏は3代で滅び、足利幕府の世となり、清盛の目指した交易が再び盛んになります。

子兎丸やその仲間が、大海原を自由に行き来しています

いつしか海の中を落ちていく宋剣を掴む大きな腕・・・

若かりし日の清盛でした。。四回目の亡霊です。

兎丸の声に導かれある館に入っていくと、そこには懐かしい一門の顔・・・

「海の底にも都はありまする」

若き清盛は、笑顔で答えるのでした。

最後は、泉下の世界。

そして、語り部は、とうに亡くなったはずの頼朝の声・・・

ALL SPIRITS の世界ですよ。こんな大河ドラマは初めてな気がする。



『遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。』


『梁塵秘抄』の童唄は、何の意味があったのでしょうか?

清盛亡き後は、淡々と史実を描くだけで、
平清盛なくして武士の世はならなかったということも、また、
充分「遊びをせんとや生れけむ」のテーマは伝わったと思います。


視聴率云々など気にせず、
本当に素晴らしいドラマだと思っていただけに、最終回は辛口になってしまいました。

でも、特に、保元の乱と平治の乱は、「ネ申」でした。
この評価は絶対に揺るぎません。

本当、本当にに一年、楽しませていただきました!!
特に松山ケンイチ君はじめとする俳優陣の、ソウルフルな演技合戦は、見ごたえがありました。

一年間ありがとう、「平清盛」!



さて清盛の最期ですが、史実をちょっとご紹介。

『玉葉』によれば、正月27日、清盛は病に倒れ、
閏2月1日には、清盛はもう絶望的だという重大情報が、藤原兼実にもたらされます。

閏2月4日、朝方に死を予感した清盛は、円実法眼を後白河法皇の許に遣わし、

「自分の死後のことは万事につけ宗盛に命じておいたので、
宗盛とともに天下のことを計らってほしい」と伝えました。

ところが法皇からの明瞭な返答がなく、それを怨んだ清盛は
「天下のことはひとえに宗盛が計らうので異論あるまい。」と再び法皇に伝言したといいます。

最期の最期まで、後白河法皇との双六遊びは続いていたのです。

さらに一門への遺言として
「死後三日以内に葬儀をなし、遺骨は播磨の山田法華堂に納めること、
仏事は毎日行う必要はなく、七日ごとに行えばよい。
京都で追善を行ってはならず、子孫はひとえに東国の謀反が治まるよう計らうべし。」と命じ

「子孫がたとえ生き残る者が一人になっても骸を頼朝の前に曝すまで戦え」とも遺言しています。

葬儀の日程や納骨、仏事にいたるまで命じる清盛の、合理的精神が最期まで貫かれています。
また「子孫が一人となっても頼朝を討て」と言い残しているのは、頼朝に平家が負けるかもしれない、
という分析しているのですね。
病床にあってもこの冷静さ、清盛の底知れぬ人物像が伝わってきます。

清盛は高熱を発して、身は火の様に熱かった事から、当然ながら
それは東大寺と興福寺を焼いた報いだとの噂が流れました。

ただし病状からは「マラリア」ではないかと推測されます。
海外からの伝染病です。

日宋貿易に人生をかけた、清盛らしい最期ではないでしょうか。


- 了 -
さあさあ、49回を観ましたよ〜。

清盛と後白河法皇との最期の双六遊び・・・

淡々とした二人の会話に、
どうしたことか、私は涙を流しておりました。

「貴方様との双六勝負はこれで最後にさせていただきたい。」

「そうか・・・」と答える後白河法皇の寂しげな声。。。

反発し、利害を共有し、権力闘争という双六遊びの最強で最良の好敵手。

松山ケンイチ君と松田翔太君の演技格闘技は、今年の大河ドラマの大きな華でありました。

さて・・

清盛と平家一門が、栄華の頂点から一挙に転がり落ち始めた治承4年治承4年(1180) は
南都焼失という最悪の事態で終わりをつげ、治承5年の年明けを迎えました。

清盛の年表もあと僅かです

治承5年(1181) 清盛 64歳
正月8日  畿内惣官職を設置し、宗盛を補任
正月14日 高倉上皇死去。後白河法皇の院政再開
2月7日  丹波総下司職を設置し、平盛俊を補任。
閏2月4日 九条河原口の平盛国の邸で清盛死去


今回も史実をざ〜〜とご紹介しながら、ドラマの感想を挟み込んでいきたいと思います。


*****

治承5年(1181)は憂鬱は年明けだった。

正月早々、平氏の本拠地・伊勢国が熊野の暴徒に襲われたり、平家配下であった菊池高直が反逆し、
延暦寺の衆徒が再び蜂起・・・等々、反平家、謀反は全国に波及していった。

更に追い討ちをかけるように、高倉上皇の容態が悪化し、重態に陥ってしまった。

高倉上皇は、清盛にとってまたとない傀儡。できるだけ長生きしてほしかったろう。

なぜなら上皇亡き後、幼き安徳帝に代わって、朝廷で実権を握るのは、
天敵・後白河法皇であるのは明白だからだ。

焦った清盛は、上皇が臨終の後は、中宮徳子を後白河法皇の後宮に据えようとし、
時子までもが賛成したという。

九条兼実も「およそ言語の及ぶ所にあらざるものなり」と呆れ顔で『玉葉』に記している。

いくら平安末期といえども、夫の崩御後、すぐにその父の後宮に入れる無理難題が通るはずもなく
徳子はきっぱりと父母からの申し出を拒否して出家を望んだ。さすが清盛の娘である。
後白河院も、この平氏の策謀には辟易としたらしく辞退した。


ならば・・と清盛は、徳子の身代わりとして、厳島の内侍に生ませた娘・御子姫君を、
法皇の後宮に入れた。

法皇のご機嫌取りに汲々する、清盛の焦りが伝わってくる。
しかし、後白河はこの娘を寄せ付けず「ただ付女の如くなり」と全く省みられることはなかった。


婚姻関係がダメであれば、迫りくる後白河法皇の院政再開の前に、平家の基盤を磐石にしようと、
清盛は、新たな軍制を定めた。

危篤の高倉上皇の名の元に、畿内近国の『惣官』を宣旨し、宗盛に任じさせたのである。

『惣官』とはいわゆる軍総司令部長官である。
五畿内・近江・伊賀・伊勢・丹波の9ヵ国にまたがる強力な軍事指揮権を持ち、
軍事作戦遂行のために必要な諸権限を平氏が全面的に掌握することを公的に認めるものだった。
しかも惣官による軍事行動は、法皇の介入なしに遂行できるのである。

これにより畿内近国に兵士役と兵糧米を課し、宗盛を頂点とする臨戦態勢をしいて
西上してくる東国軍に対抗しようとした。

正月14日、高倉上皇は御年21歳の若さで崩御された。
そして後白河法皇の院政が再開されることとなった。

ドラマでは、幽閉の身分から解き放たれた後白河法皇が、四面楚歌となった清盛を皮肉り、
清盛による「治承三年の政変」も自分の筋書きであったことをにおわせ、清盛をがく然とさせる。
平家一門も、法皇は幽閉されながら世を操っておられたのだと、改めて法皇の陰謀に驚くのであった。

確かに法皇は幽閉中も不穏な行動をみせており、事実、富士川合戦で源氏方についた甲斐源氏の武田有義は法皇の近臣であった。
そこで清盛は、武田有義、平知康 ら院近臣の危険分子を解官して、後白河院の勢力基盤削減を図った。

後白河法皇の院政が復活したが、実際は清盛による制限付きの院政であった。


ドラマでは、高倉上皇崩御後、院政を再開した後白河院の御所へ清盛が夜半訪ねて行き、
双六の勝負を申し込む。「負けた者が勝った者の願いを聞き届ける。」という条件付きで。

二人は犀をふりながら、であった頃から今までの二人の「双六遊び」を語り合う。
権力闘争という名の「双六遊び」
時に勝ち、時に負け・・・そして二人は共にこの世の頂点にたったのだ。

やがて夜明けとなり、最後の一振りで清盛が勝利した。
そなたの願いはなんだ?と問う後白河法皇に、清盛は答える。
「貴方様との双六遊びは今回で終わりにしたい。」と。

それは、清盛が倒す相手はもはや後白河ではなく、
鎌倉に武士の都を建設している源頼朝であること。
武士同志の勝負に双六など無用。刀による勝負がまっているのだと・・・

後白河法皇は、朝廷や王家による社会は終わりを告げ、武士が頂点に立つ新しい世が幕開けたことを、
清盛の言葉から察したのだ。

源頼朝という新たな敵に対峙するため
清盛は後白河法皇の許から、静に立ち去っていった。


清盛は、平家と源氏の武門による覇権争いに備えるべく、
京で新たな本拠地を作ろうとしていた。

ところが・・・「冬なのに暑い」と。
清盛の体調に異変が起きたのだ。


史実によれば、
『吾妻鏡』は正月25日、『玉葉』では正月27日ごろ、
清盛が「頭風」を病んでいるとの情報が、京を駆け巡る。

全身が火の様に暑くなる「熱病」で、
大陸から伝来して流行していた風土病であるマラリアに罹ったとされる。

当時の人々が南都で焼失した仏罰だと恐れたのは、言うまでもない。

今回、ドラマの最後に、熱にうなされた清盛が、西行の元に生霊となって現れる。
藤木直人さん演じる西行は、崇徳上皇の生霊にも出会っている、いわば鎮魂の使者なのであろう。

松山ケンイチ君の魂の演技に期待したいです。


さあ、何とか、12/23の最終回に間にあった!


遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。


後白河法皇が編した『梁塵秘抄』の童唄。

清盛へのレクイエム・・
人生や栄華など、童の遊びに等しい夢幻なのか。

子どもが穏やかに遊び戯れる、そんな穏やかな世界は何処、
そして遊び疲れた童は、母の胎内に帰っていくのだろうか・・。
48回を観ました。

いつになく、回顧シーンが多かったのは、
主人公である清盛の最期が近づいてきたからでしょうか。

それとも、清盛の「武士の国を作る」という長年の夢が破れ、
替わりに頼朝がその夢を引き継いだ事を暗示させたかったからでしょうか。

とはいえ、清盛はまだ63歳。
平成の63歳は矍鑠として野心も旺盛。

松山ケンイチ君演じる清盛の老体ぶり、弱気な姿をみると
このころから、体調を崩していた設定・・・そんな印象もうけました。

ともかく、激動の治承4年(1180)をご理解頂くためにも、
しつこいですが年表をUPします。

治承4年(1180) 清盛 63歳
2月20日  大輪田泊の修造認可
2月21日  高倉帝攘夷し、院政開始
      安徳、受禅。
3月19日  高倉上皇を福島・厳島へ迎える
4月7日   以仁王令旨
5月15日  以仁王の乱発覚
5月26日  以仁王の乱を鎮圧
6月2日   福原遷都
7月から、飢饉の兆候
8月17日  源頼朝、伊豆で挙兵
9月5日   頼朝の追討宣旨下る
10月19日  富士川合戦 
11月23日  還都
12月23日  南都追討し、南都焼失


治承5年(1181) 清盛 64歳
正月8日  畿内惣官職を設置し、宗盛を補任
正月14日 高倉上皇死去。後白河法皇の院政再開
2月7日  丹波総下司職を設置し、平盛俊を補任。
閏2月4日 九条河原口の平盛国の邸で清盛死去

今回も史実をざ〜〜とご紹介しながら、ドラマの感想を挟み込んでいきたいと思います。


**** 


富士川合戦の大敗から体制を立て直すため、
清盛は新たな宣旨をだし教盛や強盛を派遣するべく協議を重ねていた。
そんな一門に伝わってきたのは、
「遠江以東の15カ国が、草木に至るまで頼朝になびいている」という情報であった。

さらに、宗盛が清盛へ主張した還都(都を戻す)の方向で、事態は動きだしていた。
一度動き出した還都への流れを、さすがの清盛も抗することはできなかったのだ。

皇族、貴族はもとより、都生まれ都育ちの宗盛以下平家一門の殆ども、福原から京へ戻ることを熱望しており、平家一門で還都に反対したのは、平時忠だけだった。


ドラマでは、宗盛が、自身の幼きころからのダメダメエピソードを吐露しつつ
涙ながらに父・清盛へ還都を訴えてた。
兄・小松殿(重盛)に遠く及ばないが、今は還都すべきと父上をお諌めすることが棟梁の仕事だ、と。

私は、「もし重盛が生きていれば、やはり還都を進言したか?」と考えてみた。
いや重盛ならきっと、福原へ遷都することから反対したであろう。

やはり重盛が生きていたなら平氏離れはここまで進んでいなかったろうと、思えてくる。

朝廷や宗盛の熱望だけでなく、清盛が遷都をやむなく決定したのは、
高倉上皇の病気が著しく悪化したことも要因であった。
病に苦しむ高倉上皇は、京へ帰ることを望んでいたのである。

また、山門の勢力が、遷都すれば平氏に敵対しないと表明したことも大きい。

清盛が福原に新造した内裏への安徳天皇の行幸が11月11日にあり、13日に万機の旬、
そして15日には五節が行われ、それを機にして、遷都が定まった。

出来立ての内裏が清盛の最後の栄華であった。

遷都の決定に貴族達は狂喜した。
九条兼実は
「福原に下ってからというもの、神は何も福をもたらさなかった。天変地妖、関東鎮西の乱など災異は
遷都によるものであるから、還都によって、一天の下、四海の中すべての人々に喜びがもたらされる」と『玉葉』に記しているほどだ。

ドラマでは、福原で行われた最後の五節の舞を見ながら、
清盛が福原へたどり着くまでの長かった道のりと
音をたてて崩れてゆく夢の都を思い涙する姿に、私ももらい泣きしそうになった。

清盛が京から移住して10年かけて築き上げた福原の街。
満を持して遷都して、わずか6ヶ月。
人心だけでなく、一門の心までも福原から離れてしまい、孤独の中、
清盛の夢はあっけなく散った。

11月23日、福原を出た天皇、上皇、法皇の一行は26日には京にもどり、
清盛もまた29日には上洛した。

鎌倉で着々と土台を固め、勢力を拡大していく頼朝に対抗すべく、
清盛は、まず畿内の掃討作戦に着手した。

12月2日には、近江へ知盛を、伊賀に資盛、伊勢に藤原清綱をそれぞれ派遣し、
15日までにはすべて平定している。

このあたりの手腕はさすが、であろう。

しかし問題が残った。南都大衆である。

南都は末寺や荘園の武士を総動員して上洛し、朝廷を襲撃する、との報が京に届いた。

清盛は京での完全復権のため、南都追討を果たす決意をする。
延暦寺や三井寺はこれまで何度も追討の対象になっていたが、
南都は今まで直接軍隊が攻めたことのない、いわゆる聖域であった。

天下一の東大寺の伽藍があり、興福寺は藤原氏の氏寺で、古代より朝廷から手厚く保護されていたが、
それだけにこの機を逃せば、再び平家へ害を成すと判断したのである。

12月23日 清盛は南都へ官軍を派遣し、悪徒を捕縛し房舎を焼き払うべしとの命令を下した。
12月25日 平重衡が南都攻めの総大将に任じられる
12月28日 重衡軍は、奈良坂、般若寺の城郭を突破し、南都へ攻め入った

今まで軍に攻められたことのない南都は、大軍になすすべもなく打ち破られ
火がつけられると、折からの強風に煽られ、火は奈良中をなめつくした。

九条兼実の日記「玉葉」には
「興福寺、東大寺以下、堂宇房舎地を払いて焼失す。」と記されている。
恐らく清盛も焼き討ちを命じたとはいえ、これほど甚大な被害を想像はしていなかったろう。

聖武天皇が東大寺創建に発した詔が、予言のように人々の脳裏をかすめた。
「若し我が寺興復せば、天下興復し、我が寺衰弊せば、天下衰弊す。」

12月29日 平重衡が凶徒の首49を長刀につけ、悪法師一人を捕縛して凱旋したとき、
京の貴族、僧侶達は仏罰を恐れ、清盛、重衡、平家一門は、仏敵となってしまったのである。

ドラマでは、南都焼失の報を聞いた清盛が「天は平家を見放した」と嘆く。

ところが、父の命令を完全に遂行したことを誇らしげに報告する重衡に絶句し、
それでも我が子のために、ねぎらいの言葉をかける、気弱な清盛の姿が描かれていた。

その清盛と対比するように、弁慶から「祇園闘乱事件」の顛末を聞いた頼朝が、
自分の進むべき道を見つけていた。

それは、祇園乱闘事件で、清盛は敢えて神輿に矢を射たエピソードであった。
仏法など恐れぬ若き清盛。
「わが力だけが頼りだ。我の放つ矢で腐りきった世の中を変えてみせる。」

しかし武士の心を失った清盛に、その気概はもはや残されていなかったのである。



尚、南都を焼き討ちしたのは、平重衡の他に、
「乱世の梟雄」と呼ばれた戦国武将・松永弾正久秀がいる。
この男、敢えて東大寺を焼き討ちしている、とんでもない武将だが、私はかなり好きである。

お時間あれば拙文を・・・
『松永弾正久秀〜乱世の梟雄〜』 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/37381895.html


いよいよ次回、後白河法皇が登場のようですね。
しかもタイトルが「双六が終わるとき」・・・

松山ケンイチ君と松田翔太君の「双六遊び」の結末を、観させて頂きます。

最終回放送まであと3日。間にあうか・・?!
「近況報告」いたしましたように、やっと今晩47回を観ることができました。

残すところあと4回。
清盛の最晩年、それはすなわち、平家転落の道。
安徳天皇を誕生させてわずか1年・・・
この世の極み、人知最高の栄華から転がりおちていく一門。

ドラマがやたら展開が速く見えますが、あれが正解なのです。
年表を御覧になればわかるように、治承4年 8月17日 源頼朝が伊豆で挙兵してから
わずか2ヵ月後の10月19日に富士川合戦となったのですから。。。

久しぶりなのでおさらいのため、年表を。

治承4年(1180) 清盛 63歳
2月20日  大輪田泊の修造認可
2月21日  高倉帝攘夷し、院政開始
      安徳、受禅。
3月19日  高倉上皇を福島・厳島へ迎える
4月7日   以仁王令旨
5月15日  以仁王の乱発覚
5月26日  以仁王の乱を鎮圧
6月2日   福原遷都
7月から、飢饉の兆候
8月17日  源頼朝、伊豆で挙兵
9月5日   頼朝の追討宣旨下る
10月19日  富士川合戦 
11月23日  還都
12月23日  南都追討し、南都焼失


治承5年(1181) 清盛 64歳
正月8日  畿内惣官職を設置し、宗盛を補任
正月14日 高倉上皇死去。後白河法皇の院政再開
2月7日  丹波総下司職を設置し、平盛俊を補任。
閏2月4日 九条河原口の平盛国の邸で清盛死去


今回は、頼朝挙兵から富士川合戦がメインです。
史実をざ〜っとご紹介しつつ、ドラマの感想を挟み込んでいきたいと思います。



以仁王の乱(5月26日)の顛末が伊豆の源頼朝の元へ届いたのは6月だった。
源頼朝の凄いところはここで諦めず、源氏再興のために直ぐに挙兵を決断した事だ。

平家への不満が爆発寸前であることを冷静に判断したあたり、やはり将軍の器であったと思う。

8月17日。挙兵した頼朝軍の最初の標的になったのは、山木兼隆。
平家一門である平信兼の子で検非違使であったが、父と不和になり解官となって、
伊豆の目代に左遷されていた。
とはいえ、平家一門出身である。格好の血祭りの対象であった。

京に「頼朝挙兵」の報が届いたのは9月に入ってからだ。
藤原忠親は『山槐記』9月4日に記している。
翌日 9月5日には「頼朝追討の宣旨」が出されている。福原に衝撃が走ったことが伺える。

宣旨の内容は「伊豆国流人源頼朝が凶徒を語らい、伊豆や隣国を虜掠しようとしているから、
平維盛、忠度、知度を追討使として派遣するので、東海・東山両道の武士はこれに加われ」という内容であった。

ところが、凶徒を語らったはずの頼朝が相模国の早川で破れ敗走たとの報が9月7日に伝わってきた。

8月23日の石橋山の戦いである。
平家軍3万に対し、頼朝はわずか300騎。散々に打ち負かされて僅かな供回りと山中に逃れ、
船で安房国へ逃れた。

梶原景時が洞窟に頼朝らを発見したが、「ここに人跡は無い」と大庭景親に述べ他の峰に誘った、という
ドラマにも描かれたシーンは『吾妻鏡』による。
その後、頼朝の軍師となった景時への信頼の高さから、このエピソードは事実であろうと推測する。

尚、この石橋山戦いで敗走中、頼朝は先頭にたって闘っている。
弓矢をもって自ら戦い百発百中の強弓を見せ、武者の片鱗を見せ付けている。
その後、最前線で闘うことは無くなったが、武士としても一流であった事も、関
東武士を束ねた要因であった。


この頼朝敗退の報に清盛は安堵したのであろう。安芸厳島詣の予定を立てた。
後から出発予定の高倉上皇を厳島で迎える手はずを整えるためであった。

若い頃の清盛なら、頼朝の首を見るまで追撃の手を緩めなかったろう。
しかし、追討よりも安芸詣でを優先する姿には、武将の片鱗は見えない。

ところが、安房に逃れた頼朝が、関東の主だった豪族を与力とし破竹の勢いとなったことが伝わり、
清盛の安芸詣は延期となった。


治承4年(1180年)8月29日、安房国へ上陸した頼朝は、
房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤の支持を受け勢力を拡大し、瞬く間に関東を平定してしまう。
そして10月6日、父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ入り、大倉御所をかまえて、政治の拠点とした。

関東で源氏の地盤を固めた父と兄。
二人の英傑に自分をダブらせ、源氏の嫡流であることを最大限に活用したのである。


東国だけでなく、九州でも叛乱が起こる。
鎮西は平家の拠点であったため衝撃は大きく清盛は宣旨を取らず、私的な追討軍を急遽派遣する。

更に福原から、9月21日 維盛を総大将とする頼朝追討軍が出発した。
同日、高倉上皇は安芸へと向かった。厳島神社に勝利を祈願するためである。

しかし一度広がった叛乱の火の手は、そうたやすく鎮火はできない。
熊野でも叛乱軍が決起し戦いは熾烈となり、信州では武田太郎信義が甲斐国を占領して、
東海道へと向かう頼朝軍に合流、頼朝軍は4万騎まで膨れ上がっていた。

しかしそんな尋常ならざる事態になっても、10月初め、清盛は厳島と宇佐へと出立した。
拡大する戦火のなかでの頻繁な参詣は、清盛の人望を失う結果となった。

清盛は裸の王様となっていたのだろう。事実を分析するにも実態が伝わらなければ、
正確な判断はできない。
追討軍の総大将にまだ弱年の維盛をあて、兵もわずか4千弱であったこともその結果であろう。

追討軍は福原から六波羅に入って戦陣を整えた。
総大将の維盛と次将の藤原忠清が吉日を選ぶ選ばぬで悶着があり、
京を発したのは9月29日となってしまった。

また西日本を襲った飢饉のため食料調達もままならず、4000の兵が2000まで減ったとも言われている。

10月19日、富士川をはさんで、頼朝軍と維盛軍は対峙する。
士気のあがる源氏軍に対し、食糧難の平家軍は兵力の差から全く士気は上がらなかった。

源氏の奇襲を恐れるあまり、最中に水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍は潰走し、
頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得た。
(もしくは兵力差から撤退中の平家軍が、水鳥の羽音に驚き壊走したとも言われている)

平家方は恐慌状態に陥った自軍の混乱を収拾できず、平家方は総崩れになって逃げ出した。
遠江国まで退却するが、軍勢を立て直すことができず、全軍散り散りになり、
維盛が京へ逃げ戻った時にはわずか10騎になっていた。

この時逃げ惑う遊女達が馬に踏み潰されたとの記載もあり、今回の大河ドラマは富士川合戦を
かなり忠実に描いていたと思う。

合戦の翌日、9月21日 黄瀬川で、頼朝は若武者から取次ぎがあると聞かされた。
頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉から駆けつけた弟の九郎義経であった。
有名な「黄瀬川の対面」である。

近習は怪しんで取り次ごうとしなかったが、頼朝は「その者の歳の頃を聞くに、陸奥にいる九郎であろう」と言い、対面がかなった。
頼朝は平泉で藤原氏の庇護を受けていた異母弟の事を承知していたようである。

ドラマでは、異母弟の出現に戸惑う頼朝の表情がなんとも。
純粋な義経に対し、すでに政治力をつけつつある兄。

岡田将生君と神木隆之介君の美形兄弟・・・絵になっておりました。


追討軍壊滅の報は、京に大きな同様を与えた。
11月1日、厳島から福原に帰ってきた清盛が激怒したのは言うまでもない。

ドラマでは、総大将維盛が福原で清盛から足蹴にされるシーンが描かれているが、
史実は違う。維盛は近江の瀬戸に留まり、清盛へ使者を送って一部始終を伝えている。

維盛は、当時でいうところの「イマドキの若者」であったのだろう。
平成ならメールで報告、という感じかもしれない。

清盛はその報告を聞き、当然ながら激怒して
「追討使を承るの日、命を君に奉り了ぬ。喩え骸を敵軍に曝すと雖も豈恥たらんや。
未だ追討使を承るの勇士、徒らに帰路に赴く事を聞かず。若し京洛に入りて誰人に眼を合わすべけんや。
不覚の恥、家に胎し、尾籠の名、世に留めんか。
早く路より跡を暗ますべきなり。更に京に入るべからず。」

さらに清盛を激怒させたのは、宗盛が「還都すべき」と清盛へ進言したことであった。
従順であるはずの宗盛に言われたことも腹がたったのであろう。
清盛と宗盛は口論となり、一門を驚かせたとある。


ドラマでは、史実とは違いますが、敗戦の責任をとって藤原忠清は死を給うと言い、
清盛へ命懸けの諫言をする。
「平家はもはや武門ではなく、清盛自身ももはや武士ではない。」と。

裸の王様となっていた清盛は怒り狂い忠清を自ら斬ろうとするも、宗剣の重さに耐えられず
ぶさまに転倒してしまう。

そのとき、亡き父・忠盛の言葉が脳裏をかすめた。
「心の軸が体を支え、心を支えるのだ。」
父は死ぬまで軸を持ち続けた武士であった。清盛は権力に執着するあまり、武士という心の軸を
失ってしまったのだ。

転がった宗剣が、いつしかさび付いているように・・・。




48回は後白河法皇降臨のようですね〜!
今週末の最終回まであと2話。
とりあえず48回を見なきゃ〜。
今年の大河ドラマも残すところあと5回。

いよいよ清盛の最期の時が近づきつつあります。

前回登場した愛妾「仏御前」に仏法説話のようなありきたりの結末になるのじゃないか・・・
不安をを覚えたのは、私の不覚でありました。

今回、その「仏」を射殺させようとした独裁者、清盛!
暗闇に落ち込み幼児返りのようになって、気が狂ったのか、それともアルツハイマーなのか・・・!

そして、人の死の場面になると、なぜか登場する西行法師。
彼がこのドラマで果たす役割、その意図するところも、今回分かったような気がします。


権力亡者となった老人の末期を、ここまであからさまに描いていいのか!NHK!

ほんまにすごすぎて、暫く呆然としてしまった。

どんな最期を描こうとするのか、

「遊びをせむとや生まれけん」童子が唄うこの歌が今も頭のなかに流れています。


それでは年表を。

治承4年(1180) 清盛 63歳
2月20日  大輪田泊の修造認可
2月21日  高倉帝攘夷し、院政開始
      安徳、受禅。
3月19日  高倉上皇を福島・厳島へ迎える
4月7日   以仁王令旨
5月15日  以仁王の乱発覚
5月26日  以仁王の乱を鎮圧
6月2日   福原遷都
7月から、飢饉の兆候
8月17日  源頼朝、伊豆で挙兵
9月5日   頼朝の追討宣旨下る
9月19日  富士川合戦
11月23日  還都
12月23日  南都追討し、南都焼失


治承5年(1181) 清盛 64歳
正月8日  畿内惣官職を設置し、宗盛を補任
正月14日 高倉上皇死去。後白河法皇の院政再開
2月7日  丹波総下司職を設置し、平盛俊を補任。
閏2月4日 九条河原口の平盛国の邸で清盛死去

とうとう、年表にも清盛の没年月日を書くこととなりました。


それでは感想へ。


以仁王が諸国の源氏に宛てた平家打倒の令旨が、伊豆の源頼朝の元にも届きました。

『吾妻鏡』によれば、源行家が訪ねてきたのは、4月27日で、
その令旨を頼朝は、義父・北条時政とともに読んでいます。

頼朝は圧倒的な平家の武力を思い出し戸惑います。

しかし今回の挙兵には、三位頼政も加わっていると聞き、気持ちが変ります。
冷静沈着な頼政殿が挙兵するほど平家打倒の気運は高まっているのだと。

頼朝は、政子や時政の後押しも受け、ついに戦支度を始めます。

その頃清盛は『福原遷都』計画に夢中になっていました。
愛妾「仏御前」を側から離さず、かつて愛妾であった祇王と祇女は、哀れ捨てられてしまったのです。

そんな清盛の破廉恥爺ぶりに、兎丸の息子・小兎丸は疑問を抱くようになるのです。
「入道様が目指す国は、おとうの目指した国と同じなのか・・?」

小兎丸は勿論架空の人物だけれど、何か重要な役どころがあるのかもしれませんね。
先週辺りから顔だすようになってます。


以仁王の邸で挙兵計画を進める源頼政の元に、清盛から呼び出しがかかります。
清盛は知盛の見舞いのため上洛していたのです。

もしや陰謀が露見したのか?と不安を胸に秘めて冷静に対応する頼政に
清盛は、『福原遷都構想』を打ち明け、「武士の世を作る」という源義朝との約束を果たす為に
協力して欲しいと伝えるのでした。
『福原遷都』という仰天計画に頼政も度肝をぬかれた様子。
清盛の治世に更なる不安を感じたのかもしれません。


その後、清盛は病に倒れた知盛を見舞います。
彼は「清盛最愛の息子」と呼ばれています。

【平知盛 〜平家・花の公達】 ↓ 
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64410108.html

ちなみに知盛が病に倒れたのは史実です

治承4年(1180)5月8日夜から重態に陥ったものの、
「万死に一生、頗る物狂い」と、奇跡的に助かったとあります。

清盛は5月10日に、福原から上洛し、翌日慌しく帰っています。
知盛重態の知らせにあわてて見舞いに駆けつけ、峠を超えたので安堵して福原へ帰ったのです。

重盛に続いて知盛まで失いたくなかったのでしょうね。
父の息子への愛情がよく分かるエピソードです



その知盛が「病床にあると外の喧騒がよく分かる。近ごろ馬が駆け回る音がよく聞こえる」
と告げます。その一言が発端となって、「以仁王の陰謀」は露見します。

清盛は不遇な王の謀反など取るにたらぬと高をくくっていましたが、
三位頼政が一族郎党を引き連れて以仁王に加担したことを知り、激怒します。

「あの頼政が?もののふの頼政ですら、わしの考えについてこれないというのか!」

自分が目を掛けて信頼してきた頼政の謀反。独裁者は自分が独裁者であることに、往々にして
気づかないものです。そして裏切ったものへの容赦ない攻撃。

頼政は宇治川で善戦するも、平家の圧倒的な武力の前にやがて敗走。
宇治平等院で頼政父子は自害、以仁王も討ち死にし、以仁王の乱はあっけなく鎮圧されてしまいました。

頼政は平治の乱で義朝を見限り平家政権で三位まで出世した老獪な男。
そんな自分でも清盛という男が最期まで計りきれなかったと、敗因を認めます。

しかし、以仁王の令旨は、源氏の魂をよみがえらせる導火線となりました。
伊豆で頼政父子と以仁王の最期を聴く頼朝の心の中に、「武士」の魂が芽生え始めていました。

矢を射る頼朝を演じる、岡田君の・・・鬼気迫る表情!
岡田将大君って、今回の頼朝役で、絶対に一皮向けたいい役者になったと思います!

どちらかといえば草食系の王子さまキャラが、一人前の武将へと成長してました。

視聴率が悪くても、登場する俳優さんたちの、迫力ある演技合戦。
視聴率に踊らされない、真の役者魂を魅せてくれています。


さて、京では、乱を短時間で鎮圧し上機嫌の清盛が、
「福原遷都決行」を一門に伝えます。

突然の話に驚く一門。
彼らにとっても京はふるさと、福原は見知らぬ土地なのです。

しかも今回の乱で京の政治に嫌気がさした清盛は、内裏も出来上がらぬうちに遷都を強行すると
宣言、それに逆らうものは、平家の敵、頼政や以仁王と同じ処罰にすると言い出しました。

頼盛は「清盛の兄上が目指そうとしたのは、横へ広がる国ではなかったのですか?」と痛烈に批判します。清盛は自分の野望を理解できないものは、この国にいらぬ、と言い返します。

そして6月2日、天皇、法皇、上皇らの福原遷都は強行されたのです。

史実によれば、6月3日、福原に到着した一行は、内裏が未完成のため
頼盛の家が内裏にあてられ、高倉上皇は清盛の家、後白河法皇は教盛の家、摂政は安楽寺別当安能の家に
それぞれ留まったといいます。

高倉上皇は「なぜ遷都など必要なのか?」と清盛を暗に批判します。
すると清盛は「上皇さまはすべて私にお任せくださればそれでいい」とそっけなく答え、
高倉上皇は、治天の君どころか、清盛のお飾り人形でしかない自分の現実に悔しさを滲ませます。

高倉上皇演じる美少年・千葉雄大君も期待の新人ですね・・・!


伊豆の頼朝の元にも、清盛が強行した福原遷都の悪評判が聞こえてきました。
清盛がクーデターで巻き上げた諸国の知行地では小競り合いが広がり
地方武士の不満も募るばかりです

「平家だけがいい目にあうような、そんな国をつくりたいのか?」

源氏重代の「髯切」を手にした頼朝。
同じ武士である源氏の嫡流としての自覚が頼朝に湧き上がってきました。

福原の都に西行が訪ねてきました。
藤木直人さん演じる西行・・・!正直、プライスレスの藤木さんよりも美しい坊主姿(^^

清盛の盟友として、西行は福原遷都の悪評判についてやんわりと清盛に伝えます。
高倉上皇が病に倒れられたのも、慣れない土地での生活とストレスが原因ではないか?と。

途端に気分を害した清盛は、愛妾・仏御前を呼び寄せ、
かつての愛人であった祇王と祇女を、仏の前で踊らせる座興を行いました。

女心をもて遊ぶ残酷な余興に、西行は
「かつて義朝、清盛、私と三人で夢を語り合ったことがあり、清盛はおもしろき世を作りたいといった。
それがこの世なのか?」と問い詰めます。

さらに追い討ちをかけるように、頼盛が、高倉上皇の病芳しくないこと、高倉上皇は、死後摂政・基通に政治を託したいと願っており、都を京へ戻したいという声も高まっていることを告げました。


逆上した清盛は「この世はすべて自分の思うがままに動かす。逆らうものは死罪だ!」と
狂ったようにわめきます。

その恐ろしい形相に逃げ出そうとした仏御前に「殺せ」と命令する清盛。

矢に囲まれた仏の姿は、亡き母を彷彿とさせ
そして母を殺した張本人である白河法皇は、自分の今の姿にそっくり。

それこそ、もののけの血。


「助けてほしい・・・まわりは暗闇で何も見えぬ。欲しても欲しても光が見えない。」
孤独な独裁者は心まで暗闇に取り込まれて
幼児のような声をあげ、狂気なのか、それともぼけてきたのか、言動が怪しくなってきました。


そこへ忠清が火急の知らせを伝えにきました。

「伊豆で源頼朝、挙兵」

清盛は亡き父・忠盛から譲られた宗剣を握り締め、すくっと立ち上がります。
その顔は、武士に戻っていました。

頼朝挙兵の知らせが、清盛を暗闇から救い出したのです。

二人の父。
権力と愛欲にとりつかれた白河法皇のもののけの姿から、
平氏の棟梁・忠盛に叩き込まれた、武士の魂。

清盛は武将として、盟友・義朝の息子達と対峙します。

しかし清盛は、すでに老いていたのでした・・・


清盛演じる松山ケンイチ君の・・・
もののけに取り付かれた姿に、彼のプライドを見ました。

視聴率云々を越えて、俳優さんたちが皆、魂の演技を見せてくれるのは、
やはり松山ケンイチくんの人しれない努力と気持ちに、応えているからなんでしょう。

最終回まで目が離せない!しっかり目に焼き付けます。

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