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皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「平清盛」

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建春門院滋子が急死します。
清盛と平家一門が、朝廷のみならず武士や庶民から次第に孤立する引き金となりました。

建春門院滋子はどの資料を読んでも、相当しっかりした女性であったことが分かります

天敵清盛の義妹でありながらも、後白河院がその生涯で最も寵愛した女性であったことも、
そのことを物語っています。

個人的には大和なでしこ的風情のたおやかな女性をイメージしていたのですが、
今回の大河ドラマを観て、実際の滋子は、成海璃子さんが演じたような男勝りの現代的な女性だったのかな、と考え方を改めました。
後白河院は男も好きなので、なよなよした女性では物足りなかったのかもしれません(^^;
長く存命したなら、東の尼将軍・政子とよい好敵手になってたかも。

どちらにせよ、滋子の急死は、平家の衰退の予兆をはっきりと予感させる出来事になりました。

今回も時系列に出来事を並べて見ましょう


承安4年(1174) 清盛57歳
3月16日 後白河法皇、建春門院を厳島に迎える。
7月8日  重盛、右大臣に昇格
7月27日 相撲節会の復活
9月1日  院御所でも今様合

安元元年(1175) 清盛58歳
10月3日 蓮華王院の総社祭

安元2年(1176) 清盛59歳
正月30日 法皇五十賀の宴
5月9日  重盛に海賊追討宣旨
7月8日  建春門院死去
12月5日  藤原光能、平知盛を超越して蔵人頭に任じられる


では感想にいってみましょう。


兎丸の死を乗り越えて大輪田泊はついに完成し、清盛は宗銭をつかった日宗貿易を推し進めていきます。

高倉帝と娘徳子との間に皇子が誕生すれば、さらに平家は安泰になると考えた清盛は
法皇と建春門院を厳島へ招待し、子宝祈願をするのでした。

厳島神社の今までとは全く違う伽藍の配置に驚く法皇に、清盛は
「厳島神社のように横へ横へと広がることが自分の目指す世の姿」と伝えます。

明確な国作りのビジョンを持つに至った清盛に、羨望と嫉妬を抱く法皇に対し
滋子は「法皇様の考える国作りを目指してください」と励ますのでした。

この時代、安芸の厳島神社に法皇のみならず女院が参拝するのは前代未聞であり、
世の貴族を驚かしたようです。
船での長旅にも臆せず同行した滋子の、活動的な一面がよく分かりますね。

清盛は福原から同行し、平家一門では宗盛、知盛、重衡が供をし、法皇側近では西光が同行。
法皇一行が安芸厳島の風景に感激した様が『梁塵秘抄口伝集』に記されています。

「二十六日参り着けり。宝殿の様、回廊長く続きたるに、潮さしては回廊の下まで水湛え、
入り海の対へ浪白く立ちて流れたる。めでたき事限り無し。」

イメージ 1

イメージ 2



昨年観光してこの目でみた厳島神社と全く同じ風景です。
清盛や法皇、滋子さんたちが同じ風景を見たと想像するだけで、感激しますね〜。


そのころ伊豆では、大番役の務めの疲れのために北条時政の武士仲間が急死しました。
奴隷的な扱いに、東国武士の平家への恨みは募っていきます。

源氏の棟梁の御曹司である頼朝へ不満をぶつけるも、頼朝は無関心を装うのみ。
かつて平治の乱で敗戦し、巨大な清盛という存在に押しつぶされた
幼い記憶がよみがえってくるのでした。

そんな頼朝に政子は駈け寄り「このままでいいのですか?」と詰め寄ります。
いらっとする頼朝。

いきなり女子からそんな事言われたら、まあ誰でもむかっとくるでしょう。
頼朝は相手にしないものの、政子が過って落とした源氏重代の太刀には「触れるな!」と声を荒げます。

男勝りの政子は、きっとこの瞬間、恋に落ちたのでしょうね〜。
と同時に、杏さんがじゃじゃ馬から美女に変身してました。
髪をわけておろしただけでこの美貌!さすがです。。


信西が復活させた「相撲の節会」が西光の手で改めて行われることになりました。
西光は、亡き信西の志を引き継ぐ者同志と、清盛に協力を願いますが、清盛はあっさり拒否します。

福原での日宗貿易こそが信西の目指した政策だ、宮中行事などにうつつを抜かす暇はない、からと。
この言葉は西光のプライドをずたずたにします。

同じ頃、平重盛が右大臣に任官されます。
これは清盛ですら到達できなかった重職で、平家一門の栄華を物語る人事でもありました。

重盛の義兄・藤原成親も、法皇の側近として狙っていた官職でしたが、
自分をないがいろにして 平家の威光により重盛が重用されることに我慢がなりませんでした。

普段不仲の西光と成親は、「平家憎し」で次第に結託していくのです。


ちなみに右大臣は、公卿なら誰もが夢にみる花の重職でありました。
平治の乱のおり、藤原信頼がその職を望み、
信西に退けられたゆえに挙兵までした官位でした。
清盛もついに任じられることはなかったほどです。

ですから、清盛の権威による猛プッシュだけでは右大臣にはなれません。

重盛は、この頃は体調も良かったようで、法皇や建春門院によく仕え、特に法皇から信頼を得ます。
右大臣昇格には、法皇の推薦があってこそ。
それゆえ、清盛は嫡男・重盛の右大臣昇進を心から喜んだようです。

清盛と法皇の2頭政治は、このころまでは上手く機能していたのです。


そしてその二人の巨人の橋渡しをしたのが滋子であったは言うまでもありません。
滋子は自分の立場をよく理解し、平家と法皇が共に発展することに心を砕いていました。

そして法皇の孤独を慰める母のような存在でもあったのです。

後白河法皇は今様を集めた「梁塵秘抄」の編纂に取り掛かっていました。
歌など塵のようなものだが、その儚さが好きだと呟きます。
清盛のような壮大で確固たる世界ではないけれども、人々の心を癒す世界も必要なのだから
「そのような国を作ってください。滋子はいつでも法皇様の側におります」と法皇に寄り添います。

松田翔太君演じる後白河院は、歌が上手いですね・・・
今様を詠うお姿は美しくて、うっとりします。
複雑な性格の後白河を見事に演じています。今年の大河で、いい役者さんになりました。


安元2年、法皇は50歳となり、正月から華やかな賀色に染まりました。

史実によれば
正月23日 法皇、御賀の舞を観覧
2月5日  法皇、二度目の御賀の舞を観覧
2月21日  御賀の試楽
3月4日  法住寺殿で五十の算の賀宴、平家一門による「青海波」の舞
3月5日  建春門院と中宮、女房、公卿、殿上人が船にのって管弦の興
3月6日  御賀の後宴で高倉帝が笛が披露される

とまあ、祝宴続きです。


平家一門も祝いの楽や舞などを献上し、法皇は「清盛あっての我が世だ」と
清盛と平家一門の存在を認めざるを得ませんでした。

事実この時の祝賀の宴は「聖代の佳猷、稀代の壮観」と称され、
平家一門を描いた「平家公達草子」では、
右大臣重盛筆頭に、中納言宗盛、時忠、頼盛、教盛、知盛、重衡ら一門を引き連れた豪華な様や
権勢は特別であったと伝えています。
また宴が終わったあと、法皇は清盛に院宣を送り、平家一門の働きに謝意を述べているほどです。

特に 3月4日に献上された、「青海波」は、平家物語で有名な舞台です

この舞を演じたのが、重盛の嫡子・維盛。
当代きっての美男子で、「光源氏の再来」と「桜梅少将」とあだ名されて
朝廷の女御達を虜にし、今でいう腐女子にしてしまった青年でした。

いわゆるアイドル的存在でしょうね。
女御の日記に数多く登場しており、さしずめブログ状態であったようです・・(^^;

以前記事にしてますので、参照ください。


今回の大河で、美貌の平維盛を演じていたのは、なんという俳優さんなんでしょうか?

どうも今年は源氏に超イケメン俳優が揃っているので、平家は分が悪いきがします。
が、実際は平家の公達は、美形揃いで有名だったんですよ〜。


閑話休題。


そんな晴れやかな宴の後・・・思わぬ不幸が朝廷を襲います。

わずか3ヵ月後の6月、建春門院が病に倒れるのです。
祈祷の甲斐もなく7月8日、建春門院はなくなってしまいます。

享年35歳。若すぎる突然の死去でした。

法皇の嘆きは尋常ではなく、また、実の妹をなくした時子の悲しみも深いものでした。

兄・時忠は、肉親の死を悲しむと同時に、滋子の死により平家と法皇を結んでいた太い橋が失われてしうことを危惧します。
清盛も同じでした。しかし「わがすすむ道は変わらぬ」と決意を口にします。

清盛と後白河法皇の双六の賽の目が変り、清盛と重盛、そして平家一門の行く末に暗雲が垂れ込めます。


尚、先ほど紹介した「平家公達草子」にも、

「世の中も女院おはしましける程静かにめでたかるを、隠れさせ給ひては、なべて天の下嘆かぬ人
なかりけるを、誠に其後よりぞ世も乱れ、あさましける。」

と建春門院の死後に世が乱れるようになったと書いています。
平家栄華のほころびが、目に見えて分かるようになってきたのです。

事実、鹿ケ谷の陰謀が発覚するのは翌年のこと・・・

重盛ファンにとって辛いドラマの始まりでもあります。。。(涙
また一人、初回から登場していた人物が消えていきました。

兎丸・・・

架空の人物です。しかし清盛の日宗貿易の夢の共有者として、確かな存在感がありました。

私は兎丸は最後まで清盛の親友として存命し、
源平合戦での平家水軍の援軍として活躍するのではないかと推測していたのですが
まさに、志なかばで物語からフェードアウトしてしまいました。

無念であったでしょう。
架空の人物だけども、加藤浩次さんが骨太な演技が最後まで光ってました。。。


今回は大輪田の泊の改修完成までの物語でした。

今回も史実を時系列にならべます。参照ください。

承安2年(1172)  清盛55歳
2月10日 徳子中宮
3月15日 福原に後白河法皇と建春門院を迎えて千僧供養
9月   宗から牒状到来し法皇と清盛へ贈り物

承安3年(1173) 清盛56歳
3月2日 宗に返牒
3月   宗朝の使者に清盛面会せず使者立腹
この年、大輪田の泊の改修着工




それでは感想へいってみましょう。


1171(承安元)年12月。遮那王は京・五条大橋の上で、弁慶に遭遇します
遮那王を平家禿だと勘違いした弁慶は容赦なく斬りかかってきます。

身のこなしの軽い遮那王に翻弄される弁慶。
しかし、遮那王が常盤の息子・牛若だと分かり大喜びする弁慶。
自分の実の父親を知らない遮那王は、きょとんとするばかりでした

いよいよ、遮那王は自分の出自を知ることになるのですね・・・

ちなみに五条大橋の出会いは、なかなかよい映像でした。
弁慶役の青木崇高さんが細身の青年なので、もうちょっとごつい俳優さんでも、弁慶的には
良かったんじゃないかなとは思うのですが、まあ、メインは平家なのでそこは目をつぶりましょうか。

私の頭のなかは、義経=タッキーで固定されているのですが、
神木隆之介君の義経もなかなか良い! 

童顔なので、違和感なしですよ!

あの牛若を演じた神木君が、こんな青年になったんですね・・・
自分もそれだけ年取ったってことなんだな。。
あ〜なんか『義経』また観たくなったな〜。


閑話休題


そのころ福原では、日宋貿易の実現という大願成就のための万灯会が催され
京から遠く離れたこの新しい土地での新しい事業は、無数の松明のように希望に満ちていました。

しかし光あれば影あり。

兎丸は禿を黙認し続ける清盛に不満を募らせ、「禿を野放しにすれば、痛い目を見るぞ」と清盛に
忠告します。
清盛は元海賊は扱いにくいと、真に受け止めず受け流すだけでした。

またそんな清盛の態度に不安を感じているのが西行。
若き頃の純真な理想を忘れかけていないか、と妻時子に問いかけます
むろん時子も心配していましたが、それでも平家は一蓮托生、修羅の道を進みます」と答えるのでした。

西行さんがここで唐突に登場しましたね。
藤木直人さんのスキンヘッド姿、むちゃくちゃカッコイイんですが!

マツケン、松田翔太君、そして藤木さんと・・スキンヘッドのイケメン多数〜。
最近噂の「美坊主」人気の理由が、なんとなくわかるような気がします(^^;

閑話休題・・・(汗)

清盛の元に、宋・明州の長官が、3か月後に福原を訪れるという知らせが届き、兎丸に
そのときまでに3ヶ月で大輪田の泊の改修を終わらせよと命じます

しかしどんなに早くても半年以上はかかる、と反論する兎丸に対し
「わしの意思はかわらぬ」と突っぱねる清盛に、兎丸の不信感はさらに募っていったのです。



兎丸たちは、不眠不休で工事にかかりますが、無理に急いだため、けが人が続出します。
深手を負った者は、「自分は人柱になる」と悲壮な訴えまでする始末。

そんな劣悪な環境となっても、現場の声に耳を貸さない清盛に兎丸の堪忍袋の緒がきれました。

「お前がやってることは盗賊がものを盗むようなものだ!」と利己主義に堕ちたと清盛を責めて
仲間とともに京に帰ってしまいます。

五条大橋の下で、仲間達と酒を呑みながら、
自分と清盛との出会い、夢、志を振り返り、清盛の変節を嘆き、酒をかっくらっていました。


それは清盛への友情の裏返しであったのですが、罵詈雑言と勘違いした禿が現われます。
「もうそんなことはやめろ」と子供達を諭す兎丸に、無情にも襲い掛かる禿たち・・・

翌日、兎丸の姿が見えないと連絡を受けた清盛は、悪い予感がしたのか
急いで京へ戻り、そこで変わり果てた兎丸を発見するのでした。

現場に残された赤い羽根で、禿の仕業であることを察知。

後悔後に立たず。。。呆然となり兎丸の亡骸を抱きしめる清盛に。。涙

平家一門には兎丸の葬儀を盛大におこなうことを命じ、
また平時忠に「禿を始末せよ」と一言伝えるだけでした。


兎丸が言ったように、「人を殺めた子供が全うな人生を歩む」とは思えず、
人知れず命を絶ったのか、それとも寺に入れたのか?

禿の行く末を最後まで気にかけていた兎丸の為にも、命だけは救ったと信じたいですね。



その後、福原で石に経を書く清盛の側に、兎丸の子分達が忍び寄ります。
兎丸の敵を討ちに来たのでした。

しかし清盛がなぜ石に経を書くのか理由を知り、子分達は振り上げた刀をおろしました。

清盛は石に経を書き、兎丸の志とともに石を海に沈め、難航する工事の礎にしようとしていたのでした。
そうすれば人柱など立てる必要もない、と。

兎丸の妻子や子分達と、船に積んだお経の石が大輪田の海に沈むのを見送る清盛。
それは兎丸の鎮魂の儀式でもあったのです。

清盛はその後一年をかけて大輪田の泊を完成させ、日宗貿易をより拡大させることに成功したのでした。

ドラマ的に想像するなら、清盛はお経を沈めた後に、亡き兎丸の忠告を聞き入れて工事の日程を元に戻し、3ヶ月後ではなく1年かけて改修したことになりますね。


史実はどうなんでしょう。

『延慶本平家物語』では大輪田泊の修築について下記のように述べています

「太政入道の多くの大善を修せられし中でも、福原の経島つかれたりし事こそ人のしわざとはおぼえず
不思議なれ。
彼の海は泊のなくて風と波と立相て通る船のたうれ乗人のしぬる事昔よりたへず怖き渡なりと
申しければ、入道聞給て阿波民部成良に仰て謀を廻て人を進て、去じ承安三年つきはじめたりしを
次年、風に打失れて石の面に一切経を書て船に入ていくらと云事もなくて沈められにけり。
さてこし此島をは、経島とは名付られけり。」

つまり承安三年から清盛が家人の阿波民部成良=田口成良に命じて港湾を造らせ、
一切経を書いた石を沈めさせて島を築いたので「経島」と呼ばれたと書かれています。

この田口成良は阿波の豪族で、阿波水軍の頭領です。
早い時期から平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚日宋貿易の業務を担当。
後に屋島の内裏造営を行います。
一ノ谷合戦、屋島の戦いでも平氏方として参戦しますが、壇ノ浦で寝返ったといわれています。

兎丸は田口成良がモデルだと思っていたので、冒頭に書いたように、平家水軍の頭領として
ドラマの最後まで出演すると思っていたのです。

兎丸は志を忘れず、志半ばで命を落としました。


次回(つっても今夜ですが)は建春門院との無念の別れでしょうね・・・
以後、清盛のまわりで不幸な死が続き、平家の屋台骨を脆くしてゆくのです。。
「遊びをせむとや生まれけり」

テーマ曲のこの台詞が次第に重たくなってきました。

清盛と後白河法皇の、野心と権力をかけた「ぞくぞく」する遊び。

宗との交易を広め、民がみな暮らせるような武士の世を作る。
かつて描いたそんな夢や理想を忘れたように、ただ野心という「遊び」に興じる権力者。

「遊び」のために邪魔なものは排斥していく。それが民であっても。

国政は遊びではない、民も遊びの道具ではない。
そんな傲慢さにいずれ民は平家を憎むようになるだろう・・・

危うい方法を諌める時子や兎丸の言葉にも
「新しき国作りの為に、悪者になっても仕方がない」と聞く耳をもたぬ清盛。

帝という最高権力の「聖域」を野心の矛先にし、それを実現させる清盛と平家一門は絶頂期を迎え、
「平家にあらずんば人にあらず」
傲慢な驕りの影に、滅亡へのカウントダウンが始まりだしました。


今回は承安元年の出来事がメインに描かれていました

前回同様、史実を時系列に並べてみます

承安元年(1171)清盛 54歳

7月26日 羊と麝を法皇と建春門院へ献上
10月23日 法皇と建春門院を福原へ招待
12月8日 重盛大納言復帰
12月14日 徳子入内


上記を参照にドラマを思い出しつつ感想をお読みください。


福原では、宗との交易を本格化させるため、大輪田泊の改修工事が必須でした。
兎丸や仲間達は、この難工事をどうするか協議を重ね、
使い古しの船を石で沈め防波堤とする妙案を思いつくのでした。

活気づく福原とは対照的に、京では、平時忠が操る「禿」という子供の密偵が街に放たれ、
平家の政治に異を唱えるものを容赦なく捕獲し断罪していました。
「治安維持」の恐怖が京に蔓延していたのです。

時忠の強引なやり方を心配した姉・時子が諌めるも、時忠は「これは義兄の指示」とつっぱねます。
時子は、「禿」の黒幕が清盛と知り愕然とするのでした。

その頃伊豆では、頼朝の事が気になる政子は、父・時政に問いただします。
政子に嘘は通じない・・・父は娘に源氏と平家の戦のこと、頼朝は源氏の御曹司であること、
そして遠い都に住む平清盛の権力は伊豆まで及んでおり、そのため頼朝の幼子が殺されたことを
伝えるのでした。

杏さんと遠藤憲一さんの北条父娘もなかなか、シブくていいです!
頼朝と政子が禁断の恋に堕ちたとき、頼朝の出自や器、そして政子の潜在能力を信じて、
家の存続をかけて一か八かの挙兵を後押ししたのが、この時政。その時が楽しみです!


そのころ京では時子が病に臥せったと聞いて、駆けつけた清盛に時子が「京へ戻ってください」と
懇願します。
家督の重盛が病に臥せり、代わりに宗盛が朝廷で台頭するもまだ若く時忠の「禿」の評判も悪い。
権勢を誇る平家にも暗い影が忍び寄っていることを訴えるも、清盛は耳をかさず
「まだやらねばならぬことがある」と更なる野心の内容を一門に伝え、一同を驚愕させます。

それは 娘・徳子を高倉天皇に入内させるという事。

そのために徳子の伯母にあたる建春門院に協力を仰ぎます。
建春門院は徳子入内のための最大の障壁が後白河法皇であることを告げ、
法皇のホラ遊びに勝てば、もしかしたら許してもらえるかも、と謎かけをするのでした。

まあ、この段階で、法皇の答えはほぼ推測できたのですが、そこは不問にしましょう^^

清盛は宗からの貢物である「ひつじ」と「麝香」を法皇へ献上して
徳子の入内を直談判します。
後白河法皇は即答せず、変わりに噂のホラ遊びをしかけます
「どれだけ大きなものを食べたか?」
清盛もまた即答せず、次回お会いしたときに答えますといい、
二人は「腹のさぐりあい」という例の大好きな「遊び」を始めるのでした。

清盛が娘を入内させようと画策していることは忽ち宮中で噂となり
公卿の多くは眉をしかめて畏れおののきます。

筋目正しい身ながらも、冷遇されている以仁王と養母・八条院は、
都を襲っている疫病は清盛が法皇に贈った羊の病だといううわさを広めるのでした。

法皇は「羊の病」の噂に困惑して、徳子の入内を渋り始めます
事態の早期収拾を図るために、清盛は福原へ法皇と建春門院を招待し、
風光明媚なここ福原を法皇の所領として献上すると申し出ます。

そしてこの果てしない野心こそが自分の食べたものだと返答するのでした。
法皇は「ならそんな野心まるごと清盛を食ってやる」と答えれば、清盛は
「どうぞお食べくだされ。しかしすぐにその腹を破って出てきましょう」と切り返すのでした。

その回答が気に入った法皇は、徳子の入内を認めるのでした。

まるで幼稚園児のような会話でしたが、それこそが「権力遊び」に興じる姿なんですね。
子供は欲しいと思ったものは、ダダをこねてでも手に入れようとする。
ともに白河院の「もののけの血」を引いた二人。
もののけの血とは、子供の遊びのように世を支配しようとする欲望。

清盛さん!亡き父・忠盛の姿、言葉を思い出してほしい!

その後訪れる平家滅亡という歴史的事実を知りながらも、
テレビ画面に向って声をかけてしまいそうになりました。


承安元年(1171)2月14日 徳子は高倉帝に入内。
それに伴い、重盛も大納言に返り咲き、平家一門は権勢の絶頂期を迎えます。

この場面で重盛さんの装束が白色に変わりましたね。。
重盛は、病も治まり、仕事に邁進して、
5年後の治承元年には、左大将という清盛すら到達できなかった最高位に任じられますが・・・
白装束になったのは、官位の上昇を目立たすためか、それとも・・・?

重盛ファンとしては気になるところです

徳子入内の影で、さらに平家が官位を独占することへの不満や批判も噴出するようになりました。
しかし、そんな声を抹殺するため、時忠は禿を使い、平家に反発する者を厳しく取り締まりました。

身寄りのない子供を悪用するやり方に怒りを隠せない兎丸。
それは自分もかつて身寄りがなく苦労したからだったのです

しかしそんな兎丸をも冷ややかな目で見る時忠は
「平家にあらずんば人にあらず」 

そう冷酷に答えるだけでした。


鞍馬山で仏教の修行にはげむ遮那王は、寺の用事で京へ入ります
その途中、五条大橋でであったのが武蔵坊弁慶!

義経の運命も大きく変換しようとしています!


予告でちらりと見たのですが、五条大橋のシーン!
なんかぞくぞくしましたね。

そして兎丸・・・
架空の人物ながらも、清盛の幼馴染で夢の共有者たるこの海の男の身に何が起こるのか。。
次回(っても今晩ですが・・)が楽しみです。


『徳子入内』についてちょこっと解説

建春門院の権勢をバックに清盛の娘・徳子の入内が本決まりとなった。
摂関家の出自ではないため、待賢門院の例に習い、一旦、法皇の猶子となり、
12月14日に、法住寺殿から大内へと入っている。
そして26日には女御の宣旨をうけ、翌年2月10日には、中宮になった。

『愚管抄』では
「皇子生まいらせて、いよいよ帝の外祖にて世を皆思ふさまにとりてんと思ひけるにや」と
清盛の野心をはっきりと指摘している。

徳子が中宮になった際には、中宮大夫に、平時忠、亮(すけ)に平重衡、権亮(ごんのすけ)に
重盛の嫡子・平維盛が任じられ、宮司も平家一門で占められその栄華は更に頂点へと向かいます。
今回は、嘉応2年(1170)における『殿上乗合事件』と日宗貿易の本格化を中心に描かれていました。



前回からの流れを史実を時系列に並べるなら、

嘉応2年(1170)
正月17日  山門強訴で清盛上洛(前回)
4月10日  後白河法皇と清盛、共に東大寺で受戒(とりあえず休戦、ドラマでは描かれていません)
7月3日   殿上乗合事件
9月20日  後白河法皇を福原に迎えて宗人との面会を設ける


大まかに言えば、後白阿法皇と宗人との面会は、まあまあ史実を踏んでいましたが
殿上乗合事件は大胆に脚色されていました。
とはいえ、重盛の苦悩の原因を浮き彫りにするという意味で、私は評価したいです。

窪田正孝君の演技が過ごすぎます。胸が痛くなるほど繊細で誠実な重盛さま。。。


史実の『殿上乗合事件』については、また別途記事にしようかと思っておりますので
是非、ドラマとの違いや共通点、清盛と重盛の親子愛や葛藤を感じ取ってみてください。


それではさくっと感想をば。


清盛は幼少の頃からの夢である日宗貿易を本格化させるため、
福原を貿易の窓口とします。

宗の要人を福原に招き法皇と面会させ、日宗貿易を国と国の正式な貿易にすべく画策するのです。

そのためには、宗の要人への貢物として金が必要でした。
清盛の所領に金山はありません。そこで目をつけたのが、奥州の藤原秀衡。
重盛を呼び寄せ、藤原秀衡を鎮守府将軍に任じさせるのです。

これは、奥州の金を年貢として徴収することとの引き換え人事でした。
しかし「夷狄」である奥州藤原氏を将軍に任じたことに公卿達は恐れおののくのでした。

そしてさらに難問なのが、後白河法皇。
清盛との関係は冷え切っており、さらに宗人との面会など前例にないからでした。

清盛は、機転の利く平時忠を後白河法皇への使者とします。
時忠は奥州からの貢物である珍しい赤い鳥の羽を餌として、後白河院を福原へ呼び寄せることに
成功させます。
後白河は、美しく珍しいものへの執着が強く前例がないことを興じておこなう破天荒な人物。

法皇は清盛の福原の別荘を訪ずれ宗人と面会し献上された孔雀の羽を受け取りました
これによって日宗貿易は本格化していくのです。

九条兼実は「我が朝、延喜以来未曾有の事なり。天魔の所為か」と大いに嘆いておりました。
(『玉葉』)


奥州藤原秀衡役は、な〜んと京本政樹さんではありませんか〜。
目張り濃いな〜、まつげ長いな〜。。。相変わらずの美貌ですね。
息子はジャニーズJrで売り出し中!藤原3代だし、父子で共演なんてのもいいかも?


政界を引退したはずの清盛が、福原で朝廷を操ることに恐れおののく公卿達。
摂政・基房は苦々しい顔。清盛が居ない間に京の平家をずたずたにすると息巻くのです。

細川茂樹さんのお歯黒公卿さま、エキセントリックでいい味だしてますね〜。
イケメンだけに、凄みがでます。個性派俳優の相馬さんが、むしろ普通に見えるほど!

今回の大河は、俳優さんたちの「演技合戦」がすごい。レベル高い!!
視聴率が低いことで、逆に現場も吹っ切れているのでしょうね。演技が濃いです。


基房の陰謀のチャンスはすぐに訪れました。

重盛の嫡男・資盛が鷹狩りからの帰路、橋の上で基房の輿と鉢合わせそてしまいます。
因縁をつけて従者たちに資盛を襲わせたのです。

輿から引きずり降ろされ怪我までさせられる恥辱を受けたのです
当時、資盛は13歳(10歳説もあり)。

時子や一門は、これは平家と摂関家の一大事ゆえ訴えるべきと重盛に訴えます
しかし、礼節を重んじる重盛は、摂関家の前では輿を降りるという礼節を欠いた息子の方が悪いと
言い切るのでした。

この事件を聞いた清盛は「重盛らしい」と苦笑します。
真面目な盛国は「公明正大な裁断だ。」と絶賛するも、時忠は正しすぎることは間違っている、と
批判を口にするのでした。

事実、重盛は報復できないと高をくくった基房は増長し、平家を挑発する発言を繰り返します。
そんな摂関家の横暴に、六波羅の平家一門の怒りも収まりません。
「わが子が辱めを受けてもなぜ平気なのか?」と詰め寄る一門に
「棟梁たるもの私心で物事を決める訳にはいかない」と重盛は言い切るのでした

一門からの孤立を感じながらも凛とした窪田正孝君の重盛さま〜。
まさに、プリンス オブ 平家! 
ものすごいイケメンではないけど、美しさ漂うお姿でごさいました。


そんな重盛の悲壮な覚悟を余所に、また事件が起こりました。
同じ橋の袂で、基房の輿を覆面の武者たちが急襲したのです。
従者たちの髷が切り落とされて、基房も襲われ恐怖に震えます。

重盛の報復とたちまち朝廷で噂がひろまります。
摂関家や貴族達は重盛にひれ伏し、六波羅ではよくやったと重盛を褒め称えます
息子の資盛も父が助けてくれたことに大喜びでした

しかしそれは、すべて時忠の策略でした。
その背後で時忠に指示をだしたのは、清盛。その人。。

重盛はプライドを木っ端微塵に砕かれたような敗北感にさいなまれます
「私は間違っていたというのか、父上のようにはなれぬ」

遠く福原にいながら、全てをコントロールする父の大きさに
重盛の心は押しつぶされ、妻経子にすがり涙を流すのでした。

その後、都には赤い装束を身に着けた禿(かむろ)と呼ばれる諜報専門の童が出没するようになり
平家を批判する人を摘発逮捕するようになりました。京の人々は次第に平家の専横政治手法に
恐怖を抱くようになるのです。

禿の元締めは時忠、黒幕は清盛。そんな二人の行き過ぎた行動に危惧を抱く盛国。
平家はいよいよその絶頂の時を迎えます。徳子の入内です。

しかしその一方で、平家転落の小さなほころびも見え隠れしはじめました

伊豆・・・北条時政の館に集まった関東武士たちは、平家の絶大な権力を噂しあい
元治の乱で源義朝が敗北したから、こんなことになると嘆き始めます

そんな会話を末席で聞いていたのはふぬけな頼朝。
しかし父・義朝のことに話が及ぶと堪えきれなくなり
涙ながらに「源氏は滅ばない」とつぶやきます。

源氏の嫡男・頼朝の、目覚めの時が近づいてきました。

そして京では遮那王と弁慶の運命の出会いがまっているようです!
楽しみです〜!
さて今回は、嘉応の強訴をメインに描いていました。

どうでしたか、皆様?
わかり易かったでしょうか?

個人的には、平重盛を神経質に描きすぎていたのがやや不満でした。

あと天台座主の明雲が、すっかり悪僧になっていたのが気になりますね。
強訴をおこなった張本人でもないく、清盛とは生涯友関係をたもった高僧です。

あの眉毛が、アニメぽくてやや笑えました。



さて感想。

鞍馬寺で修行に励む遮那王。
常盤の希望で、実の父が源義朝であり、父と慕う清盛が敵だと教えてもらっていません。

「子等の命を守るため。もし実の父を知れば、牛若は命を落とすでしょう」

武井咲ちゃんって、多分神木隆之介君と同年代のはず。
でもしっかり母親の顔になっていました。

民放のラブストーリーの主役だと超・ダイコンなのに、
大河ドラマではなかな良い演技を見せてれます。
時代劇のほうが向いているのかな? 私は咲ちゃんの常盤、悪くないとおもってます。

仁安4年(1169年)後白河院は、福原の清盛の別荘に立ち寄り、千僧供養に参列します。
清盛と延暦寺との親密な関係に危惧を抱く後白河院。
近臣の藤原成親は、西光への鞘当もあり、義弟・重盛と酒を酌み交わして平家の内情をさぐります。

正妻時子の子でない孤立感を深める重盛に、冷ややかな目線の成親。
とはいえ、藤原成親自身もトラブルメーカーで、院の寵臣として媚び諂いしかできない男なんですが。


福原から京へ戻った院は、すぐに嘉応と改元し、滋子に建春門院の院号を宣下します。

院の寵愛を独り占めし、天皇の国母となった建春門院の権勢は増し、滋子と姻戚関係にある
宗盛や時忠もまた地位を上昇させていきました。


京から離れた福原で、兎丸らと大輪田泊の大改修工事について話し合う清盛は
水を得た魚のように生き生きとしていました。
しかし自分の居ない京を守る重盛の「清すぎる」心も心配だったのです。


その頃伊豆では、なぞの男が気になる政子の姿がありました。
もののけと間違って捕獲したその人は、自分を殺してくれとすがる幽霊のような男性。

そんな政子を見かけた父時政は、頼朝の正体を明かさず、二度とくるなときつく命令するだけです。

いやいや、そんなこと言われたら、余計に気になるのが女心でしょう。
源頼朝は、なかなかの美形であったようで、京仕込みの雅漂う青年でした。

そんな貴公子が、田舎娘の目の前に現われたのです。
政子のような肉食系女が、黙っているはずありません。
一説には一目ぼれと言われる、政子の一生かけた恋が始まるのです。。。

6月17日、後白河上皇法住寺殿において出家、法皇となります。
出家の戒師など8人の役僧は、全て園城寺の僧でした。延暦寺へを牽制する行動でした。

ちなみに、延暦寺(山門派)と園城寺(寺門派)は同じ天台宗。内部対立だったのです。
後白河が園城寺に肩入したことで、延暦寺は院近臣出身の国司を攻撃対象とし、
神人との衝突が頻繁していました。延暦寺は強訴のきっかけを狙っていたのです。

その罠にはまったのが藤原成親でした。
嘉応12月、尾張守・藤原家教の目代である右衛門尉・政友が、
延暦寺領・美濃国平野荘の神人と揉め事をおこします。事件自体は小さいものでしたが、
尾張守・藤原家教が、後白河法皇の近臣中の近臣である権中納言・藤原成親の同母弟だったのです。

延暦寺は尾張国知行国主・藤原成親の遠流と目代・政友の禁獄を求めるも、
朝廷側はこれを拒否。

憤慨した延暦寺大衆たちは、後白河法皇の仙洞御所・法住寺殿法住寺殿ではなく、
神輿八基を担いで内裏に向かい、待賢門・陽明門の前で騒ぎ立てました。

法住寺殿は強訴に備えて重盛ら平家一門らが警備を強化していましたが、
内裏は手薄で、平経正・源重定、平経盛、源頼政らが僅かの兵で警護していました。
そして、高倉帝の側には、天台座主の明雲もお使えしていたのです。

明雲は強訴を指揮したのでなく、むしろ延暦寺の僧を説得してました。
法皇は幼帝を驚かせ奉るのは不当であり、院御所に来れば要求を聞く」と再三に渡って伝えも、
大衆は「幼主であっても内裏に参って天皇に訴え、勅定を承るのが先例・恒例である」と拒絶し
明雲の説得にも応じようとしませんでした。

後白河は法住寺殿の警備に当たっていた重盛に、内裏へと兵を動かすよう命じましたが、
清盛から「兵を動かすな」と秘密指令をうけていた重盛は、「神輿が破壊される恐れがある」と
院からの出動命令を3度も拒絶したのです。

清盛からの指示があったかどうかは不明ですが、
平家と延暦寺の友好関係を保つために、後白河院の命令に背いたのです。

12月24日武力による解決を諦めた法皇は延暦寺に屈し、成親を流罪にすることを決め、
強訴は解散し叡山へ帰っていきました。

重盛は館へ帰り、妻であり成親の妹である経子に誤りますが、
経子は何も聞かずに「お疲れ様でした。朝餉の用意をしましょう」と重盛をねぎらうのです。

しかし、事体は急転します。
12月28日後白河法皇は裁定を覆して成親を呼び戻し、
その代わりに事件処理に当たった平時忠を検非違使別当から解官し配流としたのです。
そして成親を、検非違使別当の後釜に据えたのでした。

法皇のあまりの無茶ぶりに、兼実は「天魔の所為なり」と唖然とします(これは事実)

それと同時に、後白河法皇が、滋子の実兄を直接解官したことは、
滋子の朝廷における権勢は盛んであっても、いざとなれば、平家と対決するためには
手段を選ばない、後白河法皇の強気をも見せ付けることになったのです。

事実、後白河法皇の出動命令に3度も背いた重盛には何の咎もなく、
この事件の後も、むしろ重盛の地位は上昇していきます。

後白河院は平時忠よりも重盛がお気に入りだったんですね。


さて、
突然の裁定の逆転に叡山は黙っているはずもなく成親配流を求めて強訴の準備にかかります。
重盛に苦しい選択が迫っていました。

事体を重く見た清盛は、頼盛、重盛を呼び寄せて状況を報告させ
「六波羅へ兵を集めよ。しかし、何があっても兵を動かすな」と指令をだします。

六波羅に平氏の大軍が集結した噂に不安を感じた摂関家と後白河法皇が六波羅を訪ね
重盛を詰問します。何も答えられない重盛。
そのとき、清盛が六波羅へ帰京し、
「武門が鍛錬をおこなうのは日常のこと。叡山には山登りでもしようか」と逆に法皇を威嚇します。

後白河は清盛の威嚇に屈指て裁断を覆し、時忠の流罪を解き、
成親は流罪は免れたものの官職を奪われました。

この時の処遇で成親は清盛に深い恨みを抱くようになり、これが安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀の
伏線となるのです。


また重盛率いる六波羅の平家一門にとっても、清盛の存在感の大きさを痛感させることとなり
巨大すぎる清盛の影に飲み込まれる結果となってしまうのでした。


重盛の受難はまだまだ続きます。
次回は殿下乗合事件。

「平家物語」と「愚管抄」等史実とでは、清盛・重盛の描かれかたが違います
さてドラマはどのように演出するのでしょうか?

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