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3月23日曜日、三連休を利用して、掛川へ行ってきました。
目的は… お城 前日の22日の夕方、塾帰りの息子をピックアップして、そのままGO!
名古屋からは、”新幹線の各駅停車・こだま 夜には掛川のホテルに到着。 翌日は朝一に出発して、丸一日、城郭巡りを楽しみました。 写真もiPhoneで色々撮ったので、
また個別に城郭の詳細は別途、記事にしてUPします。
が・・記憶が鮮明なうちにメモ替りに、簡単な紀行文をUPしたいと思います。
掛川城
JR掛川駅から徒歩5分。
東海の名城とうたわれた掛川城は、嘉永7年(1854)の東海大地震により損壊し、
再建されぬまま、明治に廃城となりました。
その後、掛川市民の熱意で、平成6年、日本初の本格木造天守閣として復元されました。 10年間、掛川城主であった山内一豊により、天守閣の建立と城下町の整備がなされ、
現在の掛川市街の根幹をなしています。
「功名が辻」の上川隆也さん演ずる一豊さん
桜が咲き始めていました。
やっぱ、桜と天守閣の組み合わせは最高です!
復元天守は、当時の構造をそのまま、木造で再建した熱意を感じました。
現存天守さながらの、急な階段に、石落としや、侍隠し、鉄砲狭間 等々・・・
凝った内装にも感激しました。
隣接する【掛川城御殿】は、
江戸時代末に建てられた、現存建造物で、国の重要指定文化財になっています。
江戸時代に藩が使用していた御殿が残っているのは、京都二条城(国宝)と掛川城のみです。
殿様拝謁の間!
百名城スタンプもゲッツして、満足満足です。
掛川城からJR掛川駅にもどり、
そこからバス乗車!
憧れの城・・・・高天神城へ向かいます!
高天神城
アクセス :
JR掛川北口 ”しずてつジャストラインバス” 3番乗り場 「浜岡営業所」又は「大東支所」行き
「大坂線土方(ひじかた)」下車、徒歩15分で大手門口。
バスの本数が少ないので、事前にチェックが必要です。
「土方」バス亭からは、標識も少なくわかりにくいので、地元の人に道を教えてもらいました。
特に 塾帰りの地元の小学生は、大手門口までの近道を教えてくれて、助かった!
以前旅行したときも思ったのですが、
静岡の人って、本当に親切で優しい!!!
感謝です。
で・・・高天神城。
さすが、戦国きっての【難攻不落の山城】でした。
山道や階段の急勾配ぶりがハンパなかったです
登城から3日たったけど、まだ筋肉痛・・・
戦国時代、武田軍と徳川軍が激しい攻防を繰り広げたことで、有名な山城で、
「高天神城を制する者は、遠州を制する」と言われたほどです。
決して高い山でないけれども、切り立った崖や、狭い登山口、
そしてはるか彼方まで見渡せるロケーションなど、
さすが、武田信玄が狙っただけのことはある!と興奮し、感激いたしました。
語りだしたら止まらないので、この辺で・・・
詳しくは、別記事にてUPしたいと思います。
バスの時間に間に合うよう高天神城を下山し、JR掛川駅に戻って、ランチ。
駅ナカレストランのカルボナーラ、まじうま
そして次に向かったのは、最後の目的地、横須賀城。
掛川市のお城ですが、隣接する袋井市からバスでアクセスします。
横須賀城
アクセス:
JR掛川駅から一駅の「JR袋井駅」に降ります。
駅前の”しずてつジャストラインバス”3番乗り場から
秋葉中遠線「大東支所」行又は「横須賀車庫前」行で「七軒町」下車、徒歩5分
バス亭から近いので、割とわかりやすかったです。
平山城ですが、何と言っても素晴らしいのは、石垣!
「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いているのが、はっきりと確認できます。
徳川家康が、武田に奪われた高天神城を奪取するため、家臣の大須賀康高に命じて築城した要塞です。
家康の戦国武将としての意地を感じます。
結果、天正9年、高天神城は徳川軍の猛攻でついに落城。廃城となり、横須賀城が遠州南部の横須賀藩の拠点として残されることになったのです。
以後、明治維新で廃城となるまでの288年間20代の城主を数えます。
本丸跡から息子が「海みたいなのが見えた!」というので
まさか・・・と思ったら、当時は城郭のすぐ側に入り江があったそうです。
戦略上だけでなく、海上運送の拠点としても重要な城であったことを実感しました。
さすが家康ですね。
バスの時間まですこしあったので、
バス亭近くの手作りパン屋さんで、菓子パンをかっておやつに。
メロンクリームたっぷりのメロンバン・・・こちらもゲキウマでした!
バスに乗って袋井駅から掛川駅に戻ったのは、16時過ぎでした。
掛川の城郭を3箇所も踏破した結果に大満足して、帰路につきました。
百名城ももちろん素晴らしいけれど、
高天神城や横須賀城のような、歴史的な名城もまた格別ですね。
そしてやっぱり 【現場はいい
いつになるやらわかりませんが、
掛川城、高天神城、横須賀城の詳細記事も、しばしお待ち下さい〜
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日本の城〜訪問記
[ リスト | 詳細 ]
2006年7月。息子が2歳の頃から、歴史めぐりの旅を始めました。
日本の史跡城郭を廻る旅日記のうち、
城郭に関するレポートを書庫にまとめてみました。
城郭に関するレポートを書庫にまとめてみました。
よちよち歩きだった息子も今やすっかりお城ファンになりました。
日本百名城制覇を目指しています
日本百名城制覇を目指しています
ただし名城は百名城だけでない!
歴史を刻む素晴らしい城郭を求め、旅を続けます。
歴史を刻む素晴らしい城郭を求め、旅を続けます。
石垣好きなので、石垣の写真やや多し(苦笑)
尚、旅行記の連載途中の記事が殆どなので、
旅全体に興味を持たれたかたは、該当の年月をカレンダーで選んでください。シリーズで読むことができます♪(例:2012年2月)
旅全体に興味を持たれたかたは、該当の年月をカレンダーで選んでください。シリーズで読むことができます♪(例:2012年2月)
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2013年最後のブログは、
赤穂城
師走、といえば、やはり 赤穂浪士。
日本人の心を捕らえて止まない年末の風物詩になっている。
大晦日もCSで「赤穂浪士」ドラマスペシャルを延々流している。
かく言う私も「赤穂浪士」が好きで、小説もかなりの数を読み漁っている。
故に「赤穂城」を訪問したときは、いつも以上にテンションがUPしてしまった。
とはいえ、訪問したのは、2011年5月4日・・・・ 2年半も前の出来事だ。
記憶も薄れてきている・・。
ということなので、先ずは、自分自身の記憶を喚起させるためにも、
城に関するデータを紹介することにする。
赤穂城
別名 : 加里屋城、仮屋城、苅屋城、
城地種類 : 平城
築城年代 : 慶安元年(1648)
築城者 : 浅野長直
主要城主 : 浅野氏、永井氏、森氏
文化財史跡区分 : 国指定史跡、 国指定名勝
主な遺構 : 本丸、二の丸、天守台、石垣、堀
天守の現状 : 天守は建造されず、天守台のみ残る
見所 : 縄張全体に多くの折れをもった石垣が最大の特色
復元、整備 : 平成14年まに、本丸庭園、本丸門、厩口門、二の丸米蔵、大手門枡形を復元整備。
平成11年に、近藤源八宅跡長屋門(市指定文化財)を復元整備。
二の丸庭園の整備、石垣の修理を整備中
日本百名城に指定されている。
【沿革】
正保2年(1645)、石高53、500石をもって常陸国笠間から転封された浅野長直が入封。
慶安元年(1648)から寛文元年(1661)まで13年を費やして築いた城。
縄張りは、縄張は甲州流軍学者であった近藤三郎左衛門正純が行い、12の城門と10の隅櫓を築いた。
承応元年(1652) 長直は、山鹿素行を1千石で召し抱え、築城についての意見を聞き、 二の丸周辺の造営を変更。 寛文元年 (1661)赤穂城が完成する。 おそらく、浅野長直は「軍学おたく」であったのだろう。
江戸の安定期にありながらも、実戦を想定した「折れ」を多用した縄張りは、
近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城となった。
その為、5万石の浅野氏には過度に広壮な城となり、これがために財政難に陥った。
5層の天守造営も計画されていたが幕府の許可がおりず天守台のみが今日に残っている。
しかし赤穂城完成からわずか10年後・・・
元禄14年(1701) 3代目、浅野浅野内匠頭長矩、江戸城中で吉良上野介義央に対する刃傷事件により
浅野氏改易となる。城は龍野藩主、脇坂安照預かりとなる。
元禄15年(1702) 永井直敬が3万3千石で入封。永井氏は一代のみ。
同年、12月 赤穂浪士討ち入り。
宝永3年(1706) 直敬転封により、森長直が2万石で入封。森氏12代が廃藩置県まで城主となる。
それでは iPhoneで撮影した写真をUP。
再建された【三の丸隅櫓】
iPhone買ったばかりで、操作も不慣れだったせいか、上端が切れてる
復元【本丸門(高麗門・櫓門)】
典型的な枡型である。
枡形門とは、枡型の手前に高麗門を設け、内側に櫓門を配し、敵を囲い込む最も強固な門である。
折れを多用した石垣
復元【本丸庭園】
「変形の輪郭式縄張り」がよく分かる。
【天守台】
四方石垣の独立したもので、当初から天守閣は造られなかった。
石垣は打込みハギを主としている。
【二の丸外堀】
【清水門跡】
「川口門」とも呼ばれた清水門は、刃傷事件の赤穂城明け渡しの際、 大石内蔵助良雄が最後に城と惜別した舞台として知られる門である。
後の白壁の土蔵風の建物は、往時には米蔵があった場所に建てられた赤穂市立歴史博物館。
【赤穂大石神社】
【大石内蔵介良雄宅跡】
【赤穂駅で記念撮影】
息子よ、義と志を生きる糧とせよ。
でもさ、赤穂ライダーって・・・・(^m^)
赤穂四十七士とは
大石内蔵助良雄 吉田忠左衛門兼亮 原惣右衛門元辰 片岡源五右衛門高房 間瀬久太夫正明 小野寺十内秀和 大石主税良金 礒貝十郎左衛門正久 堀部弥兵衛金丸 近松勘六行重 富森助右衛門 潮田又之丞高教 堀部安兵衛武庸 赤埴源蔵重賢 奥田孫太夫重盛 矢田五郎右衛門助武 大石瀬左衛門信清 早水藤左衛門満堯 間喜兵衛光延 中村勘助正辰 菅谷半之丞政利 不破数右衛門正種 千馬三郎兵衛光忠 木村岡右衛門貞行 岡野金右衛門包秀 吉田沢右衛門兼定 貝賀弥左衛門友信 大高源五忠雄 岡島八十右衛門常樹 武林唯七隆重 倉橋伝助武幸 村松喜兵衛秀直 杉野十平次次房 勝田新左衛門武堯 前原伊助宗房 間瀬孫九郎正辰 小野寺幸右衛門秀富 間十次郎光興 奥田貞右衛門行高 矢頭右衛門七教兼 村松三太夫高直 神崎与五郎則休 茅野和助常成 横川勘平宗利 間新六光風 三村次郎左衛門包常 寺坂吉右衛門信行
47人全てにドラマがあり、47作の小説が書けるほどだ。
しかし、私はやはり、大石内蔵助良雄 に一番魅力を感じる。
「昼行灯」とあだ名された凡庸な家老が、
松の廊下の刃傷事件を境に本性を発揮し、生まれ変わったのだ。
元禄14年(1701)3月14日、将軍の住む江戸城に天皇の使者を迎える儀式の日、
勅使接待役に任じられた赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、江戸城“松の廊下”で吉良上野介に
遺恨をもって斬りつけるという事件が起こった。
時の将軍徳川綱吉は吉良上野介を無罪とし、一方、浅野内匠頭は大名としては異例の即日切腹。 浅野家は断絶・改易という重い処分は、当時の武士の慣習法「喧嘩両成敗」を無視するものであった。
突然の事件と公儀の不公平な裁定に、徹底抗戦を主張する篭城派と、開城すべきとする恭順派に分かれて紛糾する赤穂城内を纏め上げ、速やかに赤穂城を明け渡した手腕で、大石内蔵助良雄は
一気に藩の中心人物として信望を集めるようになる。
赤穂退去後、京都山科に家族と隠棲しながら、浅野家再興の政界工作をし、かつ密かに旧赤穂藩士と連絡を
とりながら、動向を見極める冷静さ。
そして、「御家再興が絶望的」であると判断するやいなや、妻を離縁し、
長男以外の子供らを妻の実家(豊岡)へ帰し、自身は郭での放蕩生活を始めて、隠密の眼を誤魔化しつつ、
大阪や京のスポンサーから、資金援助を密かに取りつける策士ぶり。
さらに江戸の急進派を円山まで呼び出し、全員で会合の後に討ち入りの期限を決め、
急進派の暴走を抑えるリーダーシップ。人心掌握術は見事なものである。
また、討ち入り2ヶ月前に江戸へ下り、自ら陣頭指揮をとる計画性等々、
電話もネットもない時代に、これだけ大掛かりで危険な計画を、緻密かつ冷静に実行し成功させた手腕は、
驚嘆に値する。
そして何より私が大石内蔵助良雄のすごさを感じるのは、
討ち入りメンバーに何度か直接「意思確認」を行っている点である。
いわゆる 神文返しである。
これは盟約の誓紙を同志に返却し、死にたくない者は脱盟するようそれとなく促し、
討ち入りの最終確認を行ったのだ。
封建時代にあって、身分が上の者に命令されれば、逆らうことなどできない。
しかし大石内蔵助は、「討ち入りの覚悟」を浪士一人ひとりの決断に任せたのである。
公儀に逆らうことは、【死】を意味し、しかも極悪人として打ち首獄門、一族の命も危ないのである。
いや、だからこそ、あえて強要せず、【自分で決め】させたのだろう。
最初は勢いで同志に加わっても、月日が経てばそんな決心に迷いが生じることを内蔵助は許したのだ。
メンバー個々の人権を尊重した、実に現代的な思考のできる人物であったのだ。
だからこそ、最後まで残った47人の義士は、一糸乱れぬ団体行動が可能となり、
僅かな精鋭で、堂々の「討ち入り」という非常に難しいミッションを成し遂げたのである。
また、大石の何度かの意思確認で自ら脱落した者たちも、
自分の意思で決めた以上、同志を売ることもなく、秘密を最後まで守り通したのだろう。
元禄15年(1702)12月15日未明、 主君・浅野内匠頭長矩が切腹した翌年の師走。
元筆頭家老・大石内蔵助良雄を首領とする47人の赤穂浪士は、本所吉良屋敷に討ち入った。
表門は良雄が大将となり、裏門は嫡男大石良金が大将となる。
2時間近くの激闘の末に、浪士たちは遂に吉良義央を探し出し、これを討ち果たして、首級を取った。
本懐を果たした良雄たち赤穂浪士一行は江戸市中を行進し、浅野長矩の墓がある泉岳寺へ引き揚げると、吉良義央の首級を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。
足軽であった寺坂吉右衛門信行を除いた46人で自首し、翌年の2月に見事に切腹して果てた。
自らの命を捨て、幕府の不公平な裁定を糾弾し、かつ主君への忠誠を果たした。
そんな忠義ある浪士の行動を人々は讃え、その後、人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で不動の人気を得る。以来、「赤穂義士」として現代でも多くの日本人の心を魅了している。 大石内蔵助良雄の辞世の句は
「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
享年45歳。亡骸は主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られている。
【大石内蔵助良雄関連・過去記事】
個人的にお勧めの忠臣蔵を扱った小説は、
『元禄太平記』 (南條範夫先生)
『忠臣蔵』 (森村誠一先生)
『最後の忠臣蔵』(池宮彰一郎先生)
2013年、ご訪問頂き感謝しております。
尚様&八重(川崎夫妻
2014年は、どんなドキドキ&萌えが待っているのでしょうか・・?
新年も引き続きよろしくお願いいたします
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2011年9月18日
広島駅から「広島電鉄」略して「広電」に乗り「紙屋町東停留所」下車。
そこから約15分歩くと、広大な公園敷地の中央に、広島城が見えてくる。
広島市繁華街のど真ん中、という感覚だ。
「原爆ドーム」とも本当に近く、約1キロしか離れていない。
後述するが、太平洋戦争当時、広島城付近は軍事施設が集中していたため、原爆の破壊目標とされ、
天守は猛烈な爆風で倒壊、その他建築物も悉く焼失し、遺構として現存したのは、堀と石垣のみである。
戦後、復興のシンボルとして、大天守・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・表御門が復元されている。
まず、iPhoneで撮影した写真を紹介したい。
現存【石垣と堀】
復元【表御門】
復元【二の丸・太鼓櫓】
多聞櫓の東端(写真右奥)にあり、太鼓で時間を知らせると共に、城門の開閉などにも使われていた。
太鼓は1階に展示されていた。
【馬屋跡】
城の規模同様、広い馬屋だ。
【礎石】
天守閣の礎石。
実際にこの場所にあったものではなく、天守閣を復元するときに、移築したもの。
【中御門跡】
本丸に通じる門。赤い石垣は被爆で火災にあったときの名残。
石垣も真っ赤になったのだろうか・・・ 【大本営跡】
日清戦争時に、大本営が設置されたが、原爆により建物は倒壊した。
【昭憲皇太后御座所跡】
明治天皇の皇后・昭憲皇太后が、日清戦争の折に滞在された建物跡。
原爆で倒壊した。
【復元天守閣】
複合連結式望楼型5重5階、SRC造復元天守閣。
南正面から見たお姿。 本丸下から眺めたお姿。
復元天守は「博物館」になっている。
【天守閣最上階・展望台からの眺め】
南側(原爆ドーム方面)
望遠鏡で見ると、真っ正面に「旧広島市民球場」があり、その後に原爆ドームがある。
東側 展望
中央左に中国放送(RCC)の塔。
【現存石垣】
本丸の石垣
ちなみに、福島正則が改易された理由の一つが、本丸石垣の改修工事であった。
洪水被害による改修だったそうだが、哀れ・・・正則(涙
【広島護国神社】
旧広島市民球場付近にあった護国神社は、原爆投下時大鳥居を除き、当神社の建物は全て失われた。
昭和31年に現在地に移設の上で再建された。
唯一残された大鳥居は中国放送横にに移設され小祠を設けて祭祀を続けられている。
英霊及び原爆で犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒および女子挺身隊等など含め約9万2千柱が
祀られている。毎年広島カープが必勝祈願でお参りすることでも有名。
写真をご覧頂いただけでも、広島城が戦国〜江戸時代だけでなく、太平洋戦争と原爆の悲劇の歴史を深く
刻み込んだ城郭であることが分かる。
そのことを踏まえて【歴史と沿革】について、簡単にご説明したい。
広島城 (別名・鯉城)
広さ約12万平方メートルを誇り、
岡山城、名護屋城と並び、日本三大平城と呼ばれる。
別名「鯉城」。広島カープ(鯉)の由来である。
ただし、何故【鯉城】と呼ばれるようになったのかは、定かではないそうだ。
堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いからとも言われる。
その他「当麻城(たいまじょう)」の別名もある。
(当麻・・・SPECつながりかも?
広島城の築城者は、五大老の一人、毛利輝元(1553-1625)である。
築城が始まったのは、天正17年(1589)。
それまでの本拠地である吉田(現在の安芸高田市)にある郡山城は、戦国仕様の山城で
土地も狭いため、政治・経済的見地から、広島湾岸に城を建てたと考えられている。
輝元が築城前年に聚楽第や大坂城を見学したことから、
この2城を手本に広島城を作ったと言われている。
聚楽第は現存しないが、残っている絵図が広島城の縄張りによく似ているそうだ。
広島城の縄張りは、秀吉の側近で築城の名手・黒田官兵衛が設計したといわれている。
(ただし確定ではない)
輝元の叔父・三原城城主・小早川隆景と官兵衛が親しいことから、アドバイザーとして参加したようだ。
縄張りとなった土地は、五箇村と呼ばれる三角州で、
確かに土地は広いが低湿地帯で工事は困難を極めた。
1591年に毛利輝元が入城し、翌1592年 豊臣秀吉が朝鮮出兵のために広島城に立ち寄った際、
「要害が悪い。水攻めをされたらひとたまりもない」と酷評した。
官兵衛に騙されたと憤慨する輝元に対して小早川隆景は、
「それこそ最大の要害。城の要害が良かったら、毛利謀反の恐れあり、と警戒される。」
と諌めた逸話が残る。
官兵衛がそこまで考えたかどうかは不明だが、江戸期に広島城を改修した福島正則が徳川幕府によって改易された事実を鑑みると、為政者の心理をたくみについた官兵衛らしい「縄張り」に思えてくる。
尚、低湿地帯三角州での工事のため、【島普請】を行ったといわれているが、
最近の発掘調査ではその痕跡が発見されず疑問視されている。
【島普請】とは千本杭という方法で砂地に城を築く方法で、安芸宮島の厳島神社の大鳥居が有名である。
1599年に広島城は完成した。
「広島」という地名もこの頃つけられた。
由来としては、「広い島」からきた、もしくは毛利氏の祖先大江広元の「広」と「島」を組み合わせた、等諸説ある。
しかし翌年勃発した「関が原合戦」で敗戦した毛利輝元は、周防・長門2カ国へ減封となり、
1600年、清洲城から福島正則が入城し、安芸・備後49万8千石の大名となる。
ところが正則は1601年から穴太氏を雇い入れて、外堀の構築、西国街道整備等、城の本格改修を始める。
しかし、前述したように家康の不興を買い、1609年 石垣の破壊等を命じられる。
更に、1619年には無届改修を理由に福島氏は改易となり、正則は信濃国川中島へ転封となる。
1619年(元和5)浅野長晟が紀伊から移封し、
安芸と備後の一部(八郡)あわせて42万石6千石の大名となる。
以後、初代の長晟から、12代の長勲の版籍奉還まで約250年間、浅野氏が城主として続いた。
【近世】
明治4年(1871)廃藩置県。
広島城本丸に、鎮西鎮台第一分営が設置され軍都となっていくが
それにともない、明治5年ころから、広島城解体が始まった。
本丸御殿は明治7年に焼失。
明治27年(1894)7月、日新戦争勃発。城内に広島大本営が設置される。
同年9月から翌1895年4月まで、明治天皇が広島城に御幸された。
明治44年(1911) 広島城外堀の埋め立て工事が完了し、道路や路面電車として整備され、繁華街が広がる
昭和6年(1931)1月、天守が国宝(旧国宝)に指定される。
太平洋戦争が激化し、本土決戦を想定した第二総軍司令部は、広島城本丸に司令部を置き、
本丸の南端で内堀の石垣に沿って防空作戦室(シェルター室)を建設した。
そして運命の時を迎える。
1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍により広島に原子爆弾が投下される。
広島城とその周辺は軍関連施設が集中していため、破壊目標となった。
爆心地から1キロしか離れておらず、城内の建物は一瞬にして倒壊、焼失し、
当時ここ一帯には約1万人の兵士や軍関係者がいたがその多くが亡くなり、生き残った者は北へ逃走したという。
天守、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、
江戸時代からの建物はすべて 倒壊、焼失。天守閣は爆風によって、東側に自壊した。
唯一倒壊しなかった建物がシェルター化した防空作戦室であった。
そして、ここから原爆投下の第一報が通信されている。
終戦後、本丸および二の丸は用途の決まらないまま放置され、草むらと化していたが、
昭和26年(1951)、広島国体のシンボルとして、木造の仮設天守閣が建設され、天守復元への機運が高まる。
昭和33年(1958) 「広島復興博覧会」が開催され、そのシンボルとして天守閣が鉄筋コンクリートで外観復元される。
同時期に、広島護国神社が本丸に移転再建し、中堀も埋め立てられ内堀だけとなった。
平成6年(1994) 二の丸、表御門、平櫓、多門櫓、太鼓櫓の復元が完成。現在に至る。
個人的には、鉄筋コンクリートの復元天守閣はあまり好みではないのだが、
ここ、広島城に関していえば、軍事施設として原爆の破壊目的とされ、文字通り瞬時に潰滅しただけに、
平和復興のシンボルとして再建されたことに大きな意義を感じる。
復興した広島城の勇壮な姿は、広島市民の心を大いに励ましたであろう。
広島城天守閣博物館には、原爆の爆風で自壊した天守閣の無惨な写真も展示されていた。
しかし、その時この場所では・・・
おびただしい人が即死し、吹き飛ばされ、炎の中で苦しみ、痛み、怯え泣き叫び、
被曝の苦しみは未だ癒されてはいない。
そんな、黙示録のような恐ろしい光景を写した写真は、天守閣には1枚も展示されてはいなかった。
ただその光景を想像しほんの少しでも共感しシンクロするだけでも、平和に暮らせる時間の尊さを
感じることができるはずだ。
広島城天守閣博物館を閲覧した後で、
隣接する「広島護国神社」に御参りして英霊と御魂に深く深く祈りを捧げた。
戦争の愚かさを、核兵器の恐ろしさを、必ず次世代に語り継ぎますから、と。
あれから2年3ヶ月・・・その思いを益々強くする、2013年の冬である。
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2011年9月20日 もう2年以上も前になるのか・・・
当時、電車ヲタクだった息子の希望もかねて、広島から【瀬戸内マリンビュー】に乗車することになった。
し・か・も・終着駅は「三原駅」。
安芸国三原といえば、小早川氏の「三原城」
行かずにはいられまい。
しかし帰りの新幹線の時刻もある。かなりばたばたの訪問となった。
【瀬戸内マリンビュー】
海をイメージした内装でゆったりとしており、車窓に広がる海原を観ながら
実に快適な鉄道旅行であった。
約1時間20分ほどで三原駅到着。
蛸が有名なんだそうだ。 尚、三原城は、JR三原駅コンコースからしか登城できない。
駅構内に掲げられた【古地図】
三原城のスケールのでかさが一目でわかる。
狭い通路と階段登っていくと、直ぐに城郭に到着した。
【三原城天主台跡】
【石垣と堀】
立派な石垣(算木積)と遺構の規模から、相当大きな城郭であったと実感できた。
天守台とあるが、実際に天守は建造されず、櫓と多聞があったようだ。
それにしても、城跡は訪れる人もまばらと見え、雑草が多い茂っていた。
城郭は山陽線によって寸断されており、長年に渡る開発のため、遺構も殆ど残っていない。 毛利三本の矢、毛利両川の一人である『小早川隆景』の本拠地である三原城跡が
荒廃しているのは、なんとも寂しい気持ちになった。
それでは、三原城・プチ解説 を。
【三原城と小早川隆景】
浮城とも呼ばれていた。
それは、この城が海城としての機能をもっていたからだ。
海に向かって船入りを開いており、また、周囲には海水を取り入れた内堀をめぐらし、二の丸、三の丸を配し
更に32の櫓と14の城門を持つ、毛利水軍の要塞であった。
満潮時にはあたかも海に浮かんでいるようなので、「浮城」「玉壺城」と呼ばれていた。
築城主は小早川隆景。
いわずと知れた、毛利元就の三男だ。
高山城を居城とした小早川隆景は天文年間(1532年〜1555年)頃に
沼田川の河口にある三原の中洲や小島を用いて三原要害を築き、それが現在の三原城の原形となった。
当初は居城ではなく、毛利水軍の要塞であったのだ。
小早川隆景は毛利水軍の総督であり、水軍を利用した毛利家の外交、交易の責任者であった。
小早川隆景。
天文2年(1533)、毛利元就と正室・妙玖夫人の三男として生まれる。
幼名は徳寿丸。 若干10歳で、小早川氏の家督を継ぎ、初陣は天文16年(1547)、大内義隆の備後神辺城攻めに従軍し
戦功をあげた。
その後、大内義隆と毛利元就との覇権争いが勃発し、小早川隆景は毛利氏直轄の精強な水軍を指揮する。
弘治元年(1555)、雌雄を決する厳島の戦いに於いて、陶晴賢率いる大内水軍を破り、毛利の勝利に大きく貢献した。3年後の弘治3年、毛利は大内氏を滅ぼし、
また永禄9年(1566) 月山富田城合戦で、宿敵・尼子氏を滅ぼし、毛利氏は中国の覇者となる。
毛利元就の死去後、早世した長兄の毛利隆元の嫡子・毛利輝元が家督を継ぐが、
毛利家は家督争いも分裂もせず、隆景は、吉川元春と共に幼少の輝元を補佐し、
【毛利両川体制】は益々堅持された。
(本当に立派で律儀な三兄弟だ
しかし、天正に入ると、新興の織田信長の勢力が中国へと及んできた。
天正4年(1576)から始まる、『木津川口の攻防戦』である。
小早川&村上水軍主力の【毛利水軍】と、九鬼水軍主体の【織田水軍】との、日本戦史上に残る海上戦である。
天正6年(1578)第二次木津川口の戦いでは、織田信長設計の【鉄甲船】を配備した九鬼水軍に破れ、
毛利は瀬戸内の海上権を失う。
さらに天正7年(1579)になると、羽柴秀吉を総司令官とする「毛利攻め」が始まる。
羽柴秀吉による諜報と懐柔、武力を取り混ぜた戦略に、備前の宇喜田直家が織田側に寝返り、
播磨三木城、因幡鳥取城が陥落、
そして、天正10年(1582) 備中高松城は水攻めで包囲され籠城地獄へと追い込まれた。
隆景は輝元・元春と共に毛利氏の主力3万を率いて救援に赴いた。
出陣に際し、小早川隆景は、ここ三原城に備中七城の城主を招き
一振りづつの太刀を与えて忠誠を誓わせ、奮戦を促した。
しかし織田軍と毛利軍の兵力は拮抗し、長期戦が予想された・・・
しかし、【本能寺の変】で事態は一変する。
秀吉は毛利方に本能寺の変を秘したままで急ぎ和睦を結び、明智討伐のため畿内へと取って返す。
中国大返しである。
すでに秀吉による調略の手が伸びていた毛利は、秀吉軍を追撃することができず、天下統一への最大の勝機を
失ったこととなった。
尚、備中高松城の水攻めと中国大返しは、下記過去記事を参照ください。
【備中高松城〜岡山の旅①2011年春】
毛利との秘密交渉を行ったのは、黒田官兵衛と、我ご先祖様が使えた蜂須賀小六であったとされ、
来年の大河ドラマの最大の山場となるだろう。
ちなみに、蜂須賀小六は誰がキャストされるのだろうか?
この武将はまぎれもなく『智将』なのだが、過去の大河では力ばかりの武闘派としか描かれておらず、
不満このうえない。
是非、真実に近い小六親分をキャスティングしてもらいたいものだ。
【 蜂須賀小六の故郷〜「尾張・三河の旅〜’09秋①」 】
さて、小早川隆景が居城を新高山城から三原城へ移したのは、本能寺の変が起きた天正10年であった。
それまでも戦場を駆け巡る隆景は、要塞であった三原城に居ることが多く
「三原の隆景」と呼ばれたようだ。
隆景らしいではないか。
三原城の縄張りは梯郭式で、北側の桃山城を詰城とし、本丸を中心として、西に二ノ丸、西築出、
東に三ノ丸、東築出があった。先に説明したように、毛利水軍の要塞としての機能が配備されていた。
また町屋や寺社を呼び、城下町として整備した。
三原祭りの「やっさ踊り」は、この城の完成を祝い、老若男女を問わず、三味線、太鼓、笛を鳴らし、
祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われている。
柴田勝家を滅ぼし、天下を取った豊臣秀吉に対し、小早川隆景は従順な姿勢を取った。
天正13年(1585) 四国攻めでは、毛利の主力として伊予を攻め落とし、秀吉から伊予一国を与えたが、
毛利両川体制を重んじる隆景は、一旦毛利に与えらた後に毛利より受領する、という形式を取った。
律儀で誠実な隆景の人格が滲み出る話だ。
その後、天正14年(1586)からの九州征伐、更に、 天正18年(1590)小田原征伐にも従軍し
秀吉から、羽柴の名字と、豊臣の本姓を与えられた。猜疑心の強い秀吉からも信頼された武将であった。
しかし、残念ながら、小早川隆景には実子がいなかった。
子ができなくとも正室・問田の大方(沼田小早川氏の娘)を愛し、側室を置かなかったのだ。
毛利元就の末子・才菊丸を養子に迎え、小早川秀包と名乗らせて家督を継がせた。
秀吉の信任厚いが故に、文禄3年(1594)には豊臣氏から秀吉の義理の甥・羽柴秀俊(小早川秀秋)を
養子に迎え、翌年には家督を譲って隠居し、家臣団と共に三原に移る。
このとき秀吉から筑前に5万石という破格の隠居料を拝領したが、それは既に養子を取っていた隆景に
「わしの甥の秀秋へ家督を譲れ」という暗黙のプレッシャーであったろう。 ちなみに、本家からの養子でありながら廃嫡となった小早川秀包も別家を興すことを許され、
筑後久留米城主となった。これも毛利を守ろうとした隆景一流の駆け引きであったに違いない。
慶長2年(1597年)6月12日、小早川隆景急逝。享年65。死因は卒中といわれる。
隆景の死後、三原の家臣団は毛利氏に帰参した。
秀秋の素質に気がついたのか、それとも、隆景が最後まで筋を通した毛利本家への義理もあったろう。
そして小早川秀秋は秀吉から送られた家臣団が補佐することになる。
ちなみに、当時、小早川秀秋の補佐役であった夫・稲葉正成とともに、春日局が三原城で過ごしていた。
その縁もあり、三原城は江戸期に特異な運命を辿ることになる。
慶長5年(1600)関が原合戦の後は、福島正則が安芸・備後を拝領し、正則は広島城、
そして三原城には、養子の正之が入った。
しかし元和5年(1619)福島正則が改易となり、紀伊和歌山藩の筆頭家老・浅野忠長が
紀伊新宮より三原城に入り、広島藩の支城として、幕末まで続いた。
徳川の一国一城制に反し、三原城が存続できたのは、ある理由があるという。
三原浅野三代目・浅野忠真の側室・月渓院である。
この月渓院、実は、3代将軍家光のご落胤といわれ、彼女が江戸城内で浅野忠真に一目惚れをし
すでに正室を娶っていた外様広島藩の、しかも筆頭家老の男の妻になりたい、と懇願し、
三原城に縁のある、家光の乳母・春日局の後押しもあって、浅野忠真に側室として下賜されたという。
それゆえ、三原城は他藩から羨ましがらるほどの優遇を受けたという。
まずは、3万石にしては立派すぎるほどの城郭。
そして、城下で月渓院の墓がある増上山大善寺では、徳川将軍家の「葵」の御紋の使用が許されていた。
実際、浅野4代目は、月渓院の生んだ息子である。いわば、徳川将軍家の血筋であるから
支城とはいえ、別格の扱いを受けたとしても納得がいく。
しかし、将軍家の姫君をそこまで夢中にさせた浅野忠真とは、どんな男性だったのだろう。
多分ハンサムだっただろうが、私が注目したのは、将軍家の姫君を【側室】として娶ったことである。
通常なら考えられないことである。
もしかしたら、浅野忠真は、「私には妻がいますから。」と将軍家に一旦断わりを入れたのではないか?
また、広島藩本家を差し置いて将軍家との婚礼も憚られたのであろう。
しかし、プライドの高い女性ほど、拒否されれば燃え上がるものだ。
月渓院は、「側室でもいいから三原へ輿入れしたい。」とつれない相手をおっかけたのかもしれない。
そう考えると、主筋と正室の立場守り抜いた浅野忠真という男性の、真の魅力が見えてくるようだ。
小早川隆景も浅野忠真も、海風のような爽やかさをまとった武士であったのだろう。
帰りの車窓も【マリンビュー】であった。
大海原を眺めてながら、旅の帰路に着いた。
次ぎは【広島城】予定です
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出石散策〜「尚之助への旅」 ↓↓ の続きです
11月3日(文化の日)
生憎の小雨のなか、夕闇迫る【出石城跡】に登城した。
実は2度目の登城であったが、今回は「尚之助への旅」。
「八重の桜」で山本(新島)八重の最初の夫である出石藩士・川崎尚之助の足跡に
思いを馳せる登城となった。
登城門 と 登城橋(復元)
織田信長より仙石家に賜った家紋の「永楽通宝」。
幕末、小役人に取り立てられた川崎家も登城していた。
恐らく尚之助青年もその一人であったろう。
特に江戸へ遊学するには、藩の許可が必要である。
山里深き但馬の小京都から、大都会江戸へ旅立った、尚之助青年の、熱き夢と情熱と志に
思いを馳せる。
本丸西隅櫓(復元)をバックに 「息子よ、君も蒼き志を持つべし。」
石垣は現存。
苔むしてごつごつした感じが私好みである。
二の丸跡。
東隅櫓(復元)
本丸跡。
本丸からさらにそびえる稲荷曲輪の「高石垣」!これは見事であった。
有子山稲荷神社へ続く鳥居。
このお稲荷さんは、一段高い場所にある曲輪稲荷郭に1604年築城時から現在地に鎮座する、城の鎮守。
城郭内にありながら、身分を問わず参詣が許可されていた。
城の麓から始まる石段の参道には、37基の鳥居が並び、
春は桜のトンネル、秋は紅葉に彩られるそうで、風情がある。
尚之助さまも、この鳥居をくぐり、何度もお参りしただろう。
外堀
出石のシンボル【辰鼓楼】 今回撮影した唯一の写真で、肝心の時計が写ってない
明治4年に大手門脇の櫓台に立てられた鼓楼。
明治14年に医師・池口忠恕氏が大時計を寄付してからは時計台として出石のシンボルとなる。
現在の大時計は三代目なんだそうだ。
明治4年だから、尚之助さんが住んでいたころは、この鼓楼はなかった。
ちょうど、東京で苦難の裁判が始まったころだ・・・
辰鼓楼側の堀には鯉が泳いでいた。
【歴史】
但馬守護となった山名氏が、出石神社の北にある、此隅山城を築いたのが始まりである。
しかし、永禄3年(1569)織田信長の命により、羽柴秀吉に攻められ落城。
信長と和睦した山名祐豊は、標高321mの有子山山頂を天守とする【有子山城】を築き、本拠を移した。
その後、山名氏が毛利側に寝返ったため、
1585年(天正13) 秀吉による第二次但馬征伐で再び落城、但馬国山名氏は滅亡した。
山名氏の滅亡後は木下昌利、続いて青木勘兵衛が城代を勤め、
天正13年(1585)年には秀吉側近の前野将右衛門長康が但馬十一万石の国主として入城した。
しかし文禄四(1595)年、関白豊臣秀次に連座して嫡男が切腹となったことを受けて、前野将右衛門は自刃。
替わって播磨龍野城から、小出吉政が任じられた。
慶長五(1600)年の関ヶ原の合戦において、小出氏は家名存続のため
秀政・吉政父子は西軍、吉政の弟・秀家は東軍に分かれて闘ったものの、
小出秀家の軍功により吉政は許され出石の本領を安堵された。
吉政の嫡子である吉英は慶長九(1604)年、有子山城廃城とし、山麓に新たに出石城を築城した。
これが現在の出石城跡である。
一国一城令下で但馬唯一の城となったが、天守は作られなかった。
その後、小出氏九代、松平氏一代ののちに、(真田幸村の故郷)信州上田城より仙石政明が入封し
し幕末まで七代続いた。
幕末の天保6年(1835)の仙石騒動により、三万石に減封され明治に至る。
江戸期の三大「お家騒動」の一つである「仙石騒動」は、
筆頭家老・仙石左京と勝手方頭取家老・仙石造酒と、家老同士による派閥争いに跡目争いが絡んだ大騒動。 実は、この仙石騒動に川崎尚之助の祖父、「川崎才兵衛」も巻き込まれた。
才兵衛は、「造酒派」で川崎家は一時辛い境遇にあったそうだ。
結局江戸幕府まで騒動が伝わり、将軍家斉の命令で評定所が裁定し、仙石左京派が敗北。
左京は打ち首獄門、側近も斬首、左京の嫡子は八丈島へ流罪となった。
またこの騒動の責任をとって、出石藩は知行を5万8千石から3万石に減封となった。
出石の伝統工芸である出石焼はこの江戸時代中期に始められた。
また特産の出石皿そばは、仙石氏が信州からそば職人を連れてきたのがはじまりとされている。
つまり、尚之助さまもその美味を堪能したってことかなあ〜(ついミーハーになる 明治4年7月の廃藩置県により、出石藩は出石県となり、同年12月には豊岡県に編入された。
廃城令で出石城も取り壊されたが、辰鼓櫓、堀、石垣などが現存、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、
周囲一帯は公園として整備されて、観光地となっている。
明治9年3月26日に起こった火災は、旧城下町を火の海とし、家屋966、社寺39、土蔵290を焼き尽くした。
川崎尚之助の生家もこの大火で焼失し、現在残っているのは、明治9年以降に建てられた家屋である
尚、有子山稲荷からさらに山を登ると、「有子山城跡」に行くことができる。
しかし既に夕闇迫る時刻だったので、今回は断念した。
この「出石城」と日本のマチュピチュと呼ばれる「竹田城」は近く、
次回は城崎温泉セットでこの2つの山城登城をかね、出石を再訪問したいと思っている。
【出石お城まつり】
毎年、11月3日(文化の日)に恒例の「出石お城まつり」が開催される。
今年は生憎の雨であったが、それでも凄い人混みだった。
「お城祭り」の目玉は、大名行列。
【槍振大名行列】と【こども大名行列】が出石の町を練り歩く。
特に【槍振り】は出石の伝統芸能。
文久三年(1863) 出石藩主仙石久利夫人が初入国の際、江戸の赤坂奴をお供に従えたのが始まりだそうだ。
「インサヨーイ・イーヤットマカセ・ヨイヨイハーヨーイ」の独特の掛け声とともに、
3〜4mはあろうかという長〜い槍を一糸乱れず、誰にもぶつけず振り回す、絶妙な槍さばきは圧巻であった。
【子ども大名行列】
きらびやかな衣装を身に着けたちびっこ殿様
ちびっこ小姓
そして、すでに先のブログにUPしているが、今年は、我らが「尚之助と八重」も登場
NHK大河ドラマ「八重の桜」のおかげで、
尚之助さん、故郷に錦を飾ったんだなあ〜としみじみ。
【永楽館歌舞伎・口上セレモニー】
明治34年に開館し、歌舞伎や新派劇、寄席、活動写真など但馬の大衆文化の中心として栄えた
芝居小屋・『出石永楽館』は、毎年 1月5〜10日に「永楽館歌舞伎」を開催し、今年で六回目になる。
その歌舞伎公演に先立ち、11/3 「お城まつり」で幹部俳優がお練りをするのが恒例となっている。
しかし、生憎の雨となり、今年は、特設ステージ(「観光センター」前の広場)での、俳優挨拶となった。
片岡愛之助さんは、2008年杮落とし公演から毎回出演され、
「ライフワーク」と答えるほど思いいれの強い歌舞伎公演なんだそうだ。
2008年当初は売れ残るケースもあったが、今年は「半沢効果」もあり、
なんと、全公演チケットは、たった2時間で即完売したそうだ。
半沢効果はてきめんで、本降りの雨だというのに特設会場には、凄い人、人!
私ももちろんその一人である。
実はワタクシ、「永楽館歌舞伎」の事もまったく知らず、
当日出石の町でポスターを見かけて初めて、ラブリン愛之助さんが出石に来ていることを知った次第。
まったくのサプライズであった
これも一重に尚之助さまのおかげ・・・「ありがとなし〜」
口上セレモニーに登壇されたのは、
片岡愛之助さんと上村吉弥さん、中村壱太郎さん、坂東薪車さん。
愛之助さんには「黒崎〜!」と呼び声がかかっていた。
口上(トーク)では、第1回目公演からずっと出演している思いいれある「永楽館歌舞伎」を
これからも、ずっと続けたいし公演日数も増やしたい、と落ち着いた口調ながらも熱い思いを語っておられた。
最後、「お願いね〜〜」と黒崎のおねえ口調で締めてくれて、満座の観客は大喜び!
あと、東宝?の関係者さんが、坂東薪車さんを「中車さん」と呼び間違えるハプニングもあり、
(中車さんといえば、市川中車さん、つまり香川照之さんのこと)
「半沢直樹」効果で大いに盛り上がったのは、いうまでもない。
じつは、口上途中で、愛之助さんが携帯を取り出していた。
もしや?と思い翌日、愛之助さんのブログをチェックすると、しっかり写真がアップされていた
この場に自分も居たんだ!と思うと、やはり臨場感が湧く。
どうやら京都から「永楽館歌舞伎鑑賞専用バス」もあるそう。
尚之助さま再訪もかねて、来年行ってみようかな〜!
http://www.izushi-tmo.com/eirakukan/kouen/kabuki/ ← 「永楽館歌舞伎サイト」
早朝から出かけて、帰宅したのは午後9時半過ぎ。
まる1日かけての小旅行だったが、コンテンツばっちりの満足すぎる旅
永楽館歌舞伎や、煌びやかな槍振りに代表されるように、
但馬の山奥でありながらも、出石は、文化の香り高い町であり、
さすが「但馬の小京都」だと実感した次第。
この町で生まれ育った川崎尚之助さんもまた、
田舎侍でありながらも、きっと小粋で洗練された物腰の青年であったろうと想像できる。
ドラマでのように、京紅を臆することなく花嫁の唇に指す
そんな仕草もきっと、自然に振舞えたのではないだろか?
「八重の桜」で尚之助さまに注目が集まった後も研究が進み、出石、江戸、会津、そして東京と、
新たな事実とともに、川崎尚之助の生きた足跡が発見されることを、期待し希望して、このレポートを終えたい。
結局、最後は尚さま記事になってしまった・・・
お許しをば・・・!
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