ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

日本の城〜訪問記

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2006年7月。息子が2歳の頃から、歴史めぐりの旅を始めました。

日本の史跡城郭を廻る旅日記のうち、
城郭に関するレポートを書庫にまとめてみました。


よちよち歩きだった息子も今やすっかりお城ファンになりました。
日本百名城制覇を目指しています

ただし名城は百名城だけでない!
歴史を刻む素晴らしい城郭を求め、旅を続けます。

石垣好きなので、石垣の写真やや多し(苦笑)

尚、旅行記の連載途中の記事が殆どなので、
旅全体に興味を持たれたかたは、該当の年月をカレンダーで選んでください。シリーズで読むことができます♪(例:2012年2月)
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姫路城 と 天空の白鷺 〜その壱 ↓↓
 
・・・からの続き。
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【天空の白鷺】見学後、西小天守へと向かう。
 
工事期間は大天守見学は休止だが、
水五門、ハの渡櫓、乾小天守、ロの渡櫓、東小天守、イの渡櫓などは、見学できる。
 
奇跡的に殆ど混んでいない。
こんなチャンスを逃す手は無いと、迷わず登閣。
 
【西小天守(右)と乾小天守(左)】
 
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ちなみに、池田輝政による築城は、
関が原後、大阪の陣直前の時期であったため、極めて実戦本位の縄張となっている。
リアルに戦(いくさ)を想定した城ではあったが、
不思議なことに、築城されてから一度も大規模な戦火にさらされることや甚大な被害を被ることがなく
国宝木造現存天守群として、平成の世にその美しい姿を残してくれている。
 
ゆえに、不戦の城、不敗出世の城とも呼ばれている。
 
また、姫路城は、来年の大河ドラマの主人公 「黒田官兵衛」が生まれ育ち
秀吉に出合うまで、彼自身が城代を務めたことでも有名だ。
 
縁起のいい城、というのも頷ける。
 
 
  
【武具掛】
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【武者格子】
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【八ノ渡櫓】
 
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【隠れ鉄砲狭間】
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侵入してきた相手を狭い通路や、小さく区画された部分に追い込むよう工夫された造りで
実際、まるで迷路のようである。 忍者でも迷う??
 
【乾小天守】
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狭間が多く造られており、実戦を想定した大要塞であることがよく分かる。 
と同時に、白鷺の様に美しい・・・
 
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野面積み? 秀吉時代の石垣か?
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恐らく、ニの丸近辺の写真(場所不肖)
うねるような櫓群。敵を袋小路に追い詰める縄張りである。
 
 
 
本丸を散策してから、西の丸へと向かう。
 
【西の丸】
徳川の安泰が確かなものとなった頃、本多忠政が嫡男・忠刻と千姫がのどかに過ごすために築いた城郭。
とはいえ、地形上のウイークポイントをカバーするために、城外に向け石落としや狭間、鉄砲の煙出しの窓も付設されている。
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【西の丸長局(百間廊下)】
西の丸の中書院に当たる場所で、御殿を囲むように造られた300mもの廊下に並ぶ部屋には、千姫に仕えた侍女たちが住んでいた。
 
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 【化粧櫓】
内部は畳を敷いた御殿のような造りで、西の丸長局より男山を拝んだ千姫が、この櫓を休息所としたので、この櫓を化粧の間、または化粧櫓と呼ぶようになったそうだ。
千姫をイメージした人形も飾られていた。
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化粧櫓は眺めもよく、
風が吹き抜けてとても気持ちがよかった。
 
西の丸から本丸&天空の白鷺を臨む。
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天気が回復して青空がみえた。
そして緑深い庭園がなんとも気持ちがいい。
 
実戦を意識した本丸とは違い、
戦火が収まり徳川250年の安定を享受する時代の始まりを象徴するようだ。
 
 
最後に【黒田官兵衛】について。今、これを語らずにはいられまい!
 
2年前、姫路城を訪ねたときは、2014年の大河ドラマの主人公が黒田官兵衛になるとは、想像もしてなかった。
今、こうして取り上げるのも、何かの縁であろう。
 
【生粋の播州人〜黒田官兵衛】
 
黒田孝高(諱) 通称「官兵衛」は、黒田職隆の嫡男として、姫路城で生まれた。
天文15(1546)年11月29日、雲(雪)の降る「姫路城」で生まれ、「万吉」と名づけられたと「黒田家譜」にある。
 
黒田家は官兵衛の祖父・重隆の代に、備前・福岡(岡山県瀬戸内市)から播磨に移り住み、
戦国大名の小寺氏に使えた。
浪人であった黒田重隆を小寺則職は重用し、黒田家は小寺家で頭角を現す。
そして、官兵衛が生まれる前年の天正14年、重隆は家老に取りたてられ小寺の苗字を与えられている。
本拠地を姫路から御着城へ移した政職に替り、重隆・職隆父子は御着の「出城」である姫路を任されていた。
 当時の「姫路城」がどこにあったか定かではないが、現在城のある姫山山上ではなく、
その東南側一帯のどこかに「館」の建物があったと推測される。
万吉少年は、姫路城で成長する。
永禄2年 13歳で母を亡くした万吉は、文学に傾倒した。
母方(明石氏)の祖父・明石正風(まさかぜ)が関白の歌道師範だった影響もある。
 
彼の軍師としての凄みは、彼の人の心を読み取るずば抜けた能力にもよる。
天下覇権の野望とは裏腹に、殺傷を嫌い愛を信じてキリシタンとなった官兵衛の
複雑で深みのある魅力は、姫路での少年時代の影響が大きいだろう。
 
しかし世は戦国。官兵衛は武芸に励み、主家・小寺政職にその才能を認められ
永禄5年(1562),、17歳の時、名を孝高、通称・官兵衛と改め、政職の近習として異例の禄80石を与えられる。
そしてこの歳、父とともに出陣し、初陣を飾る。
龍野の赤松政秀と戦った二度にわたる「青山合戦」で大きな手柄を立て、
小寺官兵衛の若武者ぶりが評判となる。
これは、妹の弔い合戦でもあった。
永禄7年(1564)浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に赤松政秀に攻められ殺されたのだ。
永禄8年、主君・小寺政職の姪にあたる、志方城主・櫛橋伊定の娘・光姫(てるひめ)を正室として迎え、
嫡男・松寿丸(後の長政)をもうけていた。
官兵衛は側室を一人も置かず、この光姫を生涯愛し続けることとなる。
永禄10年(1567)20歳の頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、姫路城代となった。
永禄12(1569)年6月、赤松軍 3000人の再来襲に対し、わずか300人で父とともに姫路城から出陣し、
裏をかくという智略で劣勢を跳ね返す逆転勝利を収め、小寺官兵衛の名前は一気に評判となった。
 
その後、二十四騎として黒田家を支える有力家臣団も抱え、官兵衛は、若き姫路城代として
飛躍の時を待っていた。
その頃、織田信長が天下覇権へと着実に勢力を拡大し、中国地方もそのターゲットとなる。
播磨国内は織田につくか、毛利を頼むかで混乱し、激しい対立がおきる。
長篠の戦いで武田軍を破った信長の力量を高く評価していた官兵衛は、
主君、小寺政職に、毛利ではなく織田信長につく事を進言。
天正3年(1575)羽柴秀吉を通じて、岐阜城にて信長に謁見した。
 
天正5年(1577)5月、毛利・三木軍5000を、わずか500で撃退。(英賀合戦)
この戦のあと、官兵衛は嫡男・松寿丸を人質として信長の元へ送った。
 
同年10月、織田信長の命をうけた羽柴秀吉が、播磨へと侵攻してきた。
官兵衛は一族を国府山城へ移し、姫路城本丸を秀吉に譲り、自身は二の丸に居を移して
秀吉の軍師として働くようになる。
 
ところが、天正6年、織田家の重臣で、摂津国城主・荒木村重が信長に対して謀反を起こし、
有岡城に籠城した。【有岡の戦い】である。
 
村重の謀反に対し、主君の小寺政職も呼応しようとしたために、
孝高は村重を翻意させるため、決死の覚悟で単身、有岡城に乗り込んだ。
しかし、既に捨て身の村重の説得に失敗し、幽閉されてしまう。
小寺氏への恩義と、秀吉への忠義心と・・・どちらも裏切れない小寺官兵衛。
まさに人生最大の危機であった。
 
このとき、官兵衛を疑った信長公は、人質となっていた松寿丸を殺害しようとしたが、
秀吉の軍師、竹中重治(半兵衛)は、官兵衛の忠義を信じ、万寿丸を密かに匿った。
このとき 竹中半兵衛は重い病にかかっており、信長の命に逆らってでも、万寿丸の命を守る事を選んだのだ。
それは、官兵衛への友情と信頼であると同時に、官兵衛を敵にまわすことの愚を、
自らの身をもって秀吉や信長公へ示したのではないだろうか。
竹中重治は、結果を知ることなく、三木合戦の陣中で病死している。
 
また、姫路城の家臣達は、官兵衛の救出作戦を練り、変装して城内に潜入し、幽閉場所を特定した。
1年後、信長軍に有岡城は落城し、孝高は家臣・栗山利安によって救出された。
 
尚、信長公は、有岡落城後、荒木村重の一族郎党を、女・子供・嬰児に至るまで、
文字通り「皆殺し」にした。(ドラマで描くのか否か・・) 
 
毛利についた 小寺政職は没落し、官兵衛は、織田信長家臣として、秀吉の与力として正式に取り立てられ、
苗字を小寺から、旧姓の「黒田」へ戻した。
【黒田官兵衛】の誕生である。
 
有岡城の幽閉は、官兵衛の人生の最大の転機となった。
おそらく、来年の大河ドラマでも、前半の一つの山場となるであろう。
配役を含め、実に楽しみである。
 
最悪の環境衛生下での幽閉だったため、官兵衛の膝は、生涯曲がったままになってしまった。
唯一の慰めは獄の窓から見える藤蔓であった。
大名となった際に、黒田家の家紋を【藤巴】選らんだのは、その時の光景が忘れられなかったからだという。
また、荒木村重の家臣  加藤重徳は孝高に同情し、世話を焼いていたので、
感謝した孝高は後に加藤重徳の息子を養子扱いにして家臣に取り立てている。(黒田一成)
 
また、自身の幽閉の原因となった最初の主君であり、妻の叔父でもある小寺政職に対し
官兵衛は恩義を忘れることはなかった。
小寺政職の息子・氏職は、後に黒田家に使え、子孫も福岡藩士として代々続いた。
 
天正8年(1580)、別所長政の三木城が陥落し、秀吉によって播磨が平定されると
秀吉は、秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を黒田官兵衛にに還そうとするが、
官兵衛は「姫路城は播州統治の適地であり、本拠地として姫路城を居城にするよう」進言。
官兵衛は、姫路城の南西にある国府山城に移った。
 
同年、秀吉より、姫路城改修工事の普請を命じられ、石垣で城郭を囲み、3層天守をもつ、
近世城郭へと生まれ変わった。
 
羽柴秀吉もまた、姫路城にて黒田官兵衛と出合い、
本能寺の変後、姫路城を起点として、中国大返しを成功させて、
天下人へと一気に駆け上がった。
 
姫路城は、確かに縁起がいい、出世城だと言えよう。
しかしそれは、人との出合いを積み重ね、大切にしてきた上の結果である。 
 
 
姫路城は、来年(2014年)には、5年に及ぶ平成の大修理も完了するそうだ。
縁起のいい城だ。是非とも再訪問したい。
ただし、大河ドラマとも重なって、大変な人混みだろう。
大雨の日に行くか・・・!?
 
 (了)
 
2011年10月23日
姫路城 と 天空の白鷺 を観光した。
 
2年も前になるんだなあ。 光陰矢のごとし。
 
 
ブログ記事資料のため、【天空の白鷺】HPを閲覧したら、
 
な、なんと、予約制になってる!! まじですか?
 
2年前は、天気があまり良くなかったこともあるけれども、殆ど並ぶことなく、観光客もそれほどでもなく、
すいすい、くまなく入館できたのに・・・!
 
むっちゃラッキーだったんだ〜!
 
 
とはいえ、すでに2年も前の事で、記憶がかなりあやふやである。
でも、城マニアのサガとして、iPhone で撮影した写真がかなりある!
 
そこで、今回も「簡単な説明」+「写真」を中心として記事を構成したい。
 
 
 
先ずは【概要】から。
 
【姫路城】
別名: 白鷺城
城地種類 : 平山城
築城年代 : 天正8年(1580)
築城主 : 羽柴(豊臣)秀吉、池田輝政
主要城主 : 豊臣氏、池田氏、本多氏、松平(奥平)氏、松平(越前)氏、榊原氏、酒井氏
文化財史跡 : 国宝8件(大天守、東・西・乾小天守、い・ろ・は・にの渡櫓)
          重要文花財 74件
天守 : 木造現存天守。望楼型。五重六階地下一階
主な遺構 : 天守群、櫓、門多数。 本丸、二の丸、西の丸、三の丸、石垣、堀
 
【見どころ】
現存する城郭建築として、日本一の規模を誇る。
天守群の美しさと縄張の複雑な構造。
 
【概要】
姫路城の創建は、南北朝の初めとされる。
天正8年(1589)羽柴(豊臣)秀吉が姫山に三重の天守を築いて近世城郭の体制を整え、
姫路城と改称した。 
今日に残る城の形にしたのは、徳川家康の娘婿・池田輝政で、慶長6年(1601)から9年の歳月を費やし
慶長14年(1609)、五重六階地下一階の大天守に3基の小天守を結んだ天守群を中心に
多くの櫓と門が並び立つ大城郭を築き上げた。
その後、本多氏忠政が西の丸などを増築し、複雑な縄張りをもつ名城が完成した。
明治時代に失われた部分にあるが、昭和の大修理がほどこされた後、
平成5年に、日本を代表する城として【世界遺産】に登録された。
 
 
 
 
それでは
【 PHOTO アルバム紀行 】
2011年10月23日(日曜日)
午前中、小ぶりの雨が降っていた影響もあり、姫路城は観光客もまばらだった。
 
姫路城が大好きな私は、2010年4月4日 にも姫路城を見に来ている。
息子の小学校入学を祝して、縁起のいい白鷺城を訪問したのだ。
ただし、この日は2時間超待ちだったため、天守には登閣できなかった。
とはいえ、
桜の大天守群は、本当に、本当に美しかった!
 
その時の訪問記 
姫路城と桜は天下一の組み合わせであった。
 
実はその翌週から天守は素屋根に覆われるとのことで、まさに最後の勇姿であったのだ。 
 今回(2011年10月)は、歴史的大修理の進捗をこの目でみるための「天空の白鷺」登城でもある。
 
姫路城天守は通常1〜2時間待ちが当たり前であるが、
午前中に雨が降ったこともあり、この日は まったく待ち時間なく、天守エリアに入場することができた。
 
混んでなかったので、大手門(桐ニの門)の門番コスプレのお姉さんも、
息子に槍まで貸してくれる余裕もあった。 
 
国宝&世界遺産の大手門で槍を担ぐ息子。なんと贅沢なこと・・・

(2年前の息子。まだ幼さが残ってる )
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【菱の門】
櫓門と呼ばれる型式の二の丸の入口を固めた門で、両柱の上の冠木に木彫りの菱の紋のあることから、この名前が付いている。門全体に安土桃山時代の様式を残しており、城内で最も大きな門。
 
 
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【扇の勾配】
石垣好きにはたまらない!
 
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【ぬの門】
門の両側に石垣を築き、その上に櫓を乗せた城独特の櫓門で、この櫓には床板を外して石を落としたり、槍で突いたりできる仕掛けがある。下部には鉄板が貼られた頑丈な造り。
 
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【りの一渡櫓】
姫路城天守の鬼瓦・鯱(しゃち)・瓦・漆喰などの実物の展示や、甲冑が展示されていた。
ナマツバもの〜。
 
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【お菊井戸】 
上山里丸にある。
怪談「播州皿屋敷」の井戸だと言われている。
 
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【太鼓櫓】 
時刻を知らせる太鼓が置かれている。
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 【井郭櫓】
ちの門から備前門に通ずる天守の東側に搦め手口を擁護するように置かれた。この櫓の内部は東、西、北の三室があり、西室の中央部に井戸を備え、井枠を囲んで流しの設備をつくり、井戸の深さは16.0m、水深1.0mで、つるべを釣っている。  
 
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【帯の櫓】
帯の櫓下には腹切丸への入口がある。
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【備前門】 
備前門脇の石垣には石棺が用いられている。築城の際、石不足のため当時姫山にあった古墳の石棺をこの石垣に使用した。
 
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【天空の白鷺 / 姫路城大天守修理見学施設】
 
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平成21年秋から 姫路城大天守の傷みや汚れを修理するため、
約5年に渡る「平成の保存修理」が始まった。
 
大天守が素屋根に覆われている間の見学スペースとして、
平成23年3月26日より、8階建ての「天空の白鷺」がオープンした。
改修の様子を公開し、解体された城郭内部の構造などが見学できる。
海抜100Mの最上階の見学スペースからは、目の前に迫る大天守最上層の大屋根、破風、懸魚など
普段では観ることのできない近距離から観ることが可能。
 
 
待ち時間なしで、いざ、入館。
エレベーターで8階最上階へ。
8・7階と1階が展示見学スペースになっている。
 
五重屋根が眼前に!
 
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いわゆる「鳥視線」
今しか観られない光景だ!
 
屋根の修理工事では、屋根瓦は全面的に撤去し、一枚一枚傷み具合の調査を行ない、記録に残し、選定を進めながら、瓦の葺き替え工事を行っている。
  
最上階からの外を眺める。殿様視線だ。
眼下の堀は【三国堀】
菱の門内にある空壕、二の丸の本道と間道の要所をおさえる重要な位置にある。
 
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車椅子の方たちのグループが最上階で記念撮影を行っていた。
歴史が好きな方たちなのだろう。
現存天守は通常、車椅子では登閣は困難だけれども
【天空の白鷺】はエレベーターで最上階まで見学可能だ。
とても感激していると、仰っていたのが印象的であった。
 
 
7階に降りる。
大天守の心柱、東・西2本の位置と大きさが展示されている。
(西大柱・・・息子の靴と比較してみた)
 
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この大きさの丸太2本で、大天守を400年近く支えてきたのか、と思うと感無量。
 
修理の模型もあった。
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【天空の白鷺】見学終了!
お〜っと
ここで、写真のキャパオーバー
まだまだ姫路城訪問記は、その弐に続く
(ただ今、鋭意作成中 )
 
尚、【天空の白鷺】は2014年1月15日で閉館し、素屋根の解体に取り掛かるそうだ。 
まだの人はお早めに

二条城

2012年5月5日   
 
京都・ 二条城へ行ってきた。
 
 
天守は現存しないが、このお城も「国宝」かつ「世界遺産」の城。
勿論 日本百名城に選ばれている。
 
何よりも、徳川家康への将軍宣下による幕府の誕生(1603)と、
徳川慶喜の大政奉還(1867)による 幕府終焉の現場となった城だ。
 
日本史上、超重要な城なのである。
 
 
 
とはいえ、すでに1年5ヶ月も前になると、記憶が薄れている。
 
そこで、まず簡単な解説をして
その後は、iPhone で撮影した写真を基に、ブログ記事をUPしようと思う。
 
【解説】
 
二条城は、徳川家康が京都における儀礼施設として築城に着手し、
慶長8年(1603)、この二条城で、征夷大将軍拝賀の儀式を行っている。
このときの城は、現在の二の丸に相当する場所にあった。
 
その後改築が行われ、
寛永3年(1626)家光のとき、後水尾天皇行幸を迎えるため
本丸御殿と総塗籠の白亜の五重天守がつくられ、現在の規模となった。
しかし天守は寛延3年(1750) 落雷で焼失。
現在の二の丸御殿が徳川幕府の栄華を伝えるが、
本丸御殿は市中の火災による類焼で失われたため、
その場所に明治27年(1894) 京都御苑内の旧桂宮邸が移築されている。
平成6年には「古都京都の文化財」のひとつとして、世界遺産に登録された。
 
 
城地種類 : 平城
築城年代 : 慶長6年(1601)
主要城主 : 徳川氏
 
国宝6棟 : 二の丸御殿 遠侍、車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院(小広間)
        白書院(御座の間)
        重要文化財22棟(建造物)、954面(美術工芸)
天守の現状 :天守台のみ残る
 
主な遺構
二の丸御殿、二の丸東大手門などの諸門、二の丸南隅櫓、西南隅櫓
本丸、天守台、石垣、堀、二の丸庭園
 
門や櫓などの現存建物は姫路城に次ぐ数の多さを誇るが、
最大の見どころは、『二の丸御殿』。
御殿内部の絢爛豪華な障壁画など、石垣や堀とは違った城の魅力を感じさせてくれる
 
 
 
 
 
【PHOTO アルバム】
市営地下鉄東西線「二条城前」下車してすぐ、
東大手門が見えてきた。
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22棟ある重要文化財の一つ。 
さすが徳川の城。門がでかい!!
屋根は本瓦葺造り、妻は木連格子、棟には鯱が飾られている。
 
 
【東南隅櫓】
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こちらも重要文化財。
東大手門の南側に位置する五間X6間の巨大な二重櫓。
一重目に、千鳥破風が遣われている。
天明8年の大火の際に多くの櫓が焼失してしまい、今はこの東南隅櫓と西南隅櫓が残っているだけとのこと。
 
 【本丸櫓門】
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重要文化財。
二の丸と本丸を結ぶ門。
狭い門で、一旦下って、のぼりになっており、
戦時には本丸を防御する目的で、設計された門であったと推測される
 
【本丸御殿】
 
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現在の本丸御殿は,京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を
明治27年、本丸内に移築したもの。
 
この旧桂宮御殿は京都御所にあった当時、仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍家茂に嫁がれる前、
約1年8ヶ月にわたって住まわれた由緒正しき建物。
 
 
【天守閣跡】 から内堀を臨む。
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殿様視線で、本丸御殿を眺める。
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かつて、ここには五層の天守閣がそびえていたが、寛延3年(1750年)落雷のため焼失。
その後、再建されることはなかった。
 
この高さから更に五重の天守となると、ほとんど「タワー」状態だと思われる。
都を上から目線で威圧する、徳川家の象徴だったのだろう。
 
 
そして、いよいよ、【国宝・二の丸御殿】へと。
 
【二の丸御殿】
遠侍、式台、大広間、黒書院、白書院などからなる武家風書院建築。
寛永3年(1626) 後水尾天皇行幸に合わせて、改修した姿で現存している
 
【二の丸御殿の「車寄」(右手前)と「遠侍」 】
 
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【車寄】
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欄間彫刻は表と裏のデザインを変えており、」表側には五羽の鸞鳥(らんちょう)・松・ボタン、
上部には雲,下部には笹を見ることができる。
屋根は桧皮葺(ひわだぶき)になっており,床は牛車で中に入れるように四半敷になっている。
 
 
1626年(寛永3年) 後水尾天皇行幸を経て
1634年(寛永11年) 秀忠死後、家光が30万7千の兵を引きつれ上洛し、
二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、
その後 230年間、二条城に将軍が入城することはなく、歴史から一旦姿を消す。
 
しかし黒船来航以後、不穏な京都の情勢を反映して、
二条城は再び、歴史の表舞台に登場する。
 
1862年(文久2年) 第14代将軍  家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修工事が行われ、
二の丸御殿を全面的に修復。
 
そして、家茂の逝去後、15代将軍・徳川慶喜の京都における居城として、
 
幕府の終焉を見届けるのだ。
 
 
二の丸御殿に入ると、
とにかく、天井が高くゆったりとしたつくりに驚かされる。
日本の天守閣の狭い空間というよりは、洋館のような広さだ。
 
そして各部屋には、絢爛豪華な襖絵や壁画、天井画が施され、その作品群も多数重要文化財に指定されている。
 
当然ながら、館内は撮影禁止。
「この襖絵、どっかで観た事ある〜!」の連続。一流美術館クラスといえよう。
保存管理作業は大変だろうが、有難いことだ。
 
各部屋を簡単に説明すると
 
【遠侍】 二の丸御殿最大の部屋で、城に参内した大名の控えの間。
【勅使の間】 朝廷の勅使と将軍が対面した部屋。上座は勅使が座った。
【式台の間】 参内した大名が老中とあいさつし、献上品を奉った部屋。
 
【大広間の一の間】 この部屋で慶応3年(1867年)10月13日、
15代将軍慶喜が40諸藩の重臣を集め、大政奉還を諮問した歴史的な部屋。
 
この部屋を見たときは、背筋がぞくっとするような感激を覚えた。
映画やドラマのような大広間ではないと知っていたが、想像したよりも狭くなく、
「ああ、ここか!」と感慨無量。
 
 「大政奉還」とは、戦争を避けるため、坂本龍馬の秘策「船中八策」が結実したその日であった。
 
しかし、龍馬は暗殺され、岩倉や西郷らの陰謀により、わずか2ヵ月後の慶応4年正月早々、
戊辰戦争が勃発した後は、【八重の桜】が描く悲惨で非情な歴史が訪れる。
 
たった2ヶ月で歴史は暗闇へと転がり落ちる。実に脆弱なものだ。
歴史を繰り返してはいけない!と、・・・ このブログを書きながら痛切に思う。
 
 
【大広間 四の間】 将軍の上洛のときに武器をおさめた場所。襖の「老松」は狩野探幽(伝)。
 
【黒書院】 将軍と親藩大名・譜代大名、内輪の謁見の部屋。襖絵は探幽の弟,尚信。
慶喜と容保公が火花を散らした場所かな〜。(ミーハーな想像)
 
【白書院】 将軍の居間・寝室。落ち着いた内装。癒しの空間。
落ち着いた水墨山水の絵は、狩野興以または長信作。
 
賢明な若き将軍・家茂さまにお似合いの御殿だ!
二心殿・慶喜には、ちょっともったいない?!
 
 
 さて
最後に大好きな石垣の写真をUP。
 
見事な「切り込みハギ」
 
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外堀と東南隅櫓。城郭の規模の大きさが実感できる。
 
 
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同じ国宝の城だが、彦根城や姫路城ほどの混雑もなく、ゆっくりと散歩感覚で観覧できた。
なによりも、歴史の劇的瞬間を味わえる場所だ。
幕末好きの聖地としても、お勧めである。
 
 
 
 

彦根城

ちょうど1年前、2012年9月、
国宝彦根城へ行ってきた。
 
実は2回目。
前回は息子が保育園児だったので、国宝でもある現存天守へ登城できなかった。
そのリベンジである。
 
彦根市は滋賀県とはいえ、結構遠く、日帰りできるぎりぎりの距離だ。
そのため、滞在時間も限られている。
そこで今回の目的は、前回見ることができなかった「天守登閣」と「埋木舎」に絞ることにした。
しかし・・・思わぬハプニングが待ち受けていようとは・・・
 
 

【天守の概要】
天守構造 : 望楼型 三重三階 木造 (現存天守)
         
「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様に配しており、
2階と3階には「花頭窓」、3階には高欄付きの「廻縁」を巡らせるなど外観に重きを置き、
変化に富んだ美しい姿を見せている。
 
通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく【連郭式平山城】
全体として櫓の上に高欄を付けた望楼を乗せる古い形式である。
昭和32年から35年にかけて行われた解体修理により、墨書のある建築材が発見され、
天守の完成が慶長12年(1607)ころであることが判明した。
 
更に 建築材の調査結果、もともと5階4重の旧天守を移築したと判明した。
彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、
彦根城の天守が大津城(大津市)の天守を移築したと考えられている。
大津城は、京極高次お初の城として有名だ。

その他の移築元としては、
石田三成の居城であった佐和山城から佐和口多門櫓と太鼓櫓門、
小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城から太鼓門・・・などの移築伝承が多くある。
 
建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮を可能とし、
現代風に言えば「ECOでリサイクルなお城」と言えよう。

【沿革】
徳川四天王の一人・井伊直政は、慶長5年【関ヶ原の戦い】軍功により18万石にて
石田三成の居城であった佐和山城に入城した。
佐和山城は「三成に過ぎたるもの」一つともいわれたが、直政は三成の居城であったことを嫌い、
湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していた。
しかし関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。
その後、幼少の井伊直継が家督を継ぎ、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談し
直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)彦根山(金亀山)に彦根城の築城を開始した。

築城は所謂【天下普請】で公儀御奉行3名に、尾張藩や越前藩など12大名(15大名とも)が
手伝いを命じられた。
1606年(慶長11年)天守完成し、井伊直継が入城した。
1622年(元和8年)すべての工事が完了した。
1633年(寛永10年)井伊氏は加増を重ね、
徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石の大名となった。
 
明治になり廃城令で彦根城も解体の危機に瀕した。
しかし、明治11年10月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に、城の保存を命じたため破却は逃れた。
もしくは、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説もある。
1952年(昭和27年)、天守・附櫓及び多聞櫓が国宝に指定された。
 
【国宝四天守】 姫路城・松本城・彦根城・犬山城。
今回の訪問で、すべて登閣とあいなった。(どや顔
 
 
【城郭訪問記&事件簿】
 
彦根駅に着いたときは、すでに正午を廻っていた。
京都駅で買った駅弁は、車窓を見ながら平らげている。
 
彦根駅から徒歩15分ほど。
9月とはいえ、この日はうだるような暑さだった。
ぺっとボトルのお茶が、みるみる無くなっていく。
彦根城に到着したときは、すでに汗だくになっていた。
「ひこにゃん」人気もあり、前回よりも観光客は断然多い。
 
外堀
イメージ 1
 

石垣の「犬走り」がはっきりと確認できた。
(石垣と堀の境に組まれた、細い道のような段差のこと)
 
 
これだけの人混みだ。
とくに国宝天守は長蛇の列が予想される。
帰りの電車の時間もあるので、寄り道せずに、一気に天守を目指す。
 
天秤櫓
太鼓丸入口に構えられた櫓で、多聞櫓の中央を開けて門を設けている。
イメージ 2
 

天守(国宝
 
 
 
                                   
イメージ 3
 
                                   
イメージ 4
 

しかし、思ったとおりの長〜い列。
係員に聞くと、1時間待ちだそうだ。
 
しかし、ここで諦めては何のために彦根まできたのか、無意味になる。
並ぶことにした。

とはいえ、ここは本丸、山のてっぺんだ。周りに陰などない。
太陽は真上からじりじりと照りつけ、立っているだけで体力が奪われていく。
人混みで空気も悪く、風もないため、湿度が凄い 
 
1時間待って、いざ登城!
現存天守独特の、急勾配の階段を、順番待ちで登る。
 
当然ながら、空調もなく窓がないため蒸し暑い。
とにかく最上階まで上がる。  風が吹き抜けてやっと一息ついた。
 
天守窓から階下を見下ろす。 
歴史ヲタの至福の時間。殿様気分だ 
・・・ところがここで思わぬハプニングが起きてしまう。

息子が突然座り込んでしまった。
顔色が悪い・・・
『やばい、これはもしかして熱中症・・!?』 
殿様気分も吹っ飛んでしまった。
天守最上階は狭く、人でごったがえしている。
抱えるようにして急勾配の階段を降りる。

しかし2階に降りたところで
息子がうずくまってしまった・・・

すると、異変に気がついた係員のおじさんが駆けつけてくれた。
「大丈夫ですか?救急車呼びますか?」と声をかけてくれた。
 
顔色ま真っ青だが意識ははっきりしている。
でも気分が悪そうだ。
無理して動かすより休ませたほうがいい、と判断し
「すみません。ご迷惑おかけして・・・」
このまま、ちょっと休ませていただけたら、多分大丈夫です。」
 
というと、
「ちょっとまってて」と云うと何処かへ立ち去り、3分ほどたって戻ってくると
「こっちへ来れるかな? 涼しい場所があるから」と
私達親子を誘導してくれた。
 
そこは廊下なのか楼なのか? 人混みから離れた別室。
窓際で風通しもよい静かな場所で、
なんと、枕替りにと、タオルまで置いてある。
それだけでなく、気分悪くなった時用にと、雑巾まで貸してくれた。

「何かあったら声かけて、僕もまた見にくるから」
係員さんは、持ち場に戻っていった。
 
なんて親切なんだろう 
大勢の観光客の誘導でただでさえ忙しいのに、
わざわざ息子の為に、時間だけでなく場所まで貸してくれる
しかも・・・ここは国宝だ。汚したりしたら大変なのに・・・感激した
 
涼しいところでしばらく休憩し、
息子の顔色も段々良くなってきてきた。

親切な係員のおじさんがわざわざ見に来てくれた。
気分も良くなったのか、歩けるようになった息子とともに、
本当にありがとうございました!」と深々と頭を下げた。
おじさんは
「元気になって良かったね。」と笑顔で言ってくれた。
息子もほっとした様子だった。

正直・・・
世知辛いこの世の中で、見知らぬ人に子供を守ってもらった。人の温かさに触れた。
9月の3連休だ。
恐らく一年でも最も入場者の多い日のひとつだろう。
なのに、たった一人の子供の為に、時間と場所とを融通してくれた。ありがたい。
 

そういえば、藩祖 赤鬼・井伊直政も勇猛ながらも人の情に厚い武将だった。
 
関が原合戦での島津の退き口で、島津義弘の身代わり(捨て奸)となった、島津豊久を討ち取り
義弘にも猛追するも敵の銃弾を浴びて落馬、大怪我を負った。
結局その怪我が元で破傷風を患い慶長7年(1602)2月1日に死去するのだが、
井伊直政は、死の直前まで西軍の戦後処理に尽力し、
特に、わが身への傷を恨みもせず、むしろ勇猛果敢に君主を守り通した島津と徳川の仲立ちを買って出、
島津の領土安堵を実現させた。
また真田信幸の嘆願を受け、家康の天敵・真田昌幸と次男・幸村(信繁)の助命に尽力した。
 
そんな井伊直政の温情が、平成の世で国宝天守を管理するスタッフにも、息づいているのだろう。
 
『過去記事』 ↓ 【関ヶ原!③ 島津義弘陣跡】
 
 
 実はこの「彦根天守事件」をブログに書くべきかどうか、随分迷った。

もっと早く息子の異変に気づくべきだった。恥ずかしい話である。
しかし、反省と彦根城のスタッフへの感謝を込めて、一年後の今、告白することにした。

息子のことが気がかりで、実は天守の写真も殆ど撮れていないし、
天守内部の記憶もすべて吹き飛んでしまっている。
 
あの日を思い出そうとしてすぐに頭に浮かぶのは、
 
彦根天守の喧騒から離れたあの場所で、
身体を休めている息子の側で爽やかな風を感ながら、
ふと見上げた大きめな窓から見えた白っぽい青空だ。
 
しかし、これこそ宝物のような記憶だと、私は思っている。
 
 
息子はすっかり元気になり、走り回れるようになった。
まだ少し時間に余裕があったので、「埋木舎」に立ち寄ることにした。
 
江戸末期、最も重要な人物の一人、井伊直弼が青春時代を過ごした屋敷である。
とても小さな屋敷であることに驚いた。
 茶の湯の達人だった井伊直弼らしい、質素ながらも美しい庭園が涼しそうだ。
イメージ 5
 
 
 

井伊家の十四男として生まれた井伊直弼は、
藩主になる可能性は殆ど無く
まるで「埋もれ木」のように15年もの不遇の時期を過ごした場所なのだ。
「埋木舎(うもれぎのや)」は直弼自身を自虐して命名した。
しかし、奇跡は起こる。
あり得ない偶然が重なり、13代藩主となった直弼は、とんとん拍子に出世し幕府の重臣に登用される。
 
そして、運命の時を迎える。
嘉永6年(1853年)黒船来航」だ。
 
私は運命論者ではない。
しかし、歴史上において、井伊直弼と吉田松陰がこの黒船来航に遭遇したことは
やはり「天命」だと私は思う。
 
黒船に圧倒された二人は、義憤と正義と理想のために、突き進んでいく。
井伊直弼は、勅許を得られぬままハリスとの間に、日米修好通称条約を調印して開国を断行し、
吉田松陰は、密航事件で長州に幽閉され松下村塾を主宰し維新の種をまく。
そして井伊直弼の安政の大獄が始まり、吉田松陰は安政6年(1859年)10月27日に斬刑。
その僅か半年後の安政7年3月3日、井伊直弼は桜田門外で攘夷派の水戸浪士に暗殺される。
 
互いに刺激しあい、最期は刺し殺しあうようにあの世へ旅立った二人。
二人は歴史を変えるために天から配された人間、しかも表裏一体、陰と陽の存在のように私は思える。
天が黒船来航の時間軸に二人を配置し、
維新革命へと歴史の歯車を始動させる使命が終わったと同時に天へ召したかのようだ。
 
『過去記事』 ↓ 【井伊直弼〜埋もれ木の英傑〜 】
 
さて帰ろうとすると、「埋木舎」受付のおじさんと息子がなにやら話しあっている。
井伊直弼について、息子が質問して丁寧に教えてもらっているようだ。
 
電車の時間もあるので、受付のおじさんに挨拶して帰ろうとすると、
「僕、これもって帰っていいよ!」と、
な、なんと【埋木舎】の絵葉書セットを息子に渡してくれた!!
 
「え〜いいんですか?」
「未来ある子供に、井伊直弼についてもっと知ってほしいから」と、笑顔で言われた。
 
なんてカッコイイんだ
 
息子は彦根城と縁があるのかもしれない。
この「絵葉書セット」も、もちろん我が家の家宝となった。
 
広大な彦根城のほんの一部しか散策できなかったが、
人の優しさに救われた登城であった。
 
茶の湯とてなにか求めんいさぎよさ  心の水をともにこそ汲め  (井伊直弼)
 
さすが、『一期一会』という言葉を生み出した英傑・井伊直弼のお城であった。
 
 
 
 

丸亀城

2013年5月の連休、讃岐の旅 二日目。
 
目指すは「丸亀城」!
 
今回の旅のメインである。
 
現存木造天守の12城のうちの一つ。
そして、日本一の高石垣! 城&石垣ファン垂涎の城である。
 
勿論 日本百名城に指定されている。
 
子供の日だったため、
城下の大きな広場と駐車場では、お城祭りが盛大に開催されていて、
出店やイベントでかなりの人混みだった。
 
たこ焼きやらいか焼きやらポップコーンやらフライドポテトやら
おいしそうな匂いに負けそうなお腹を我慢して、
 
城の入り口、大手門にたどり着く。
 
内堀には鯉のぼりが泳いでいる。そして、天守の姿も見えた。
「いいショットだ〜!」と喜ぶ。幸先がいい。
 
イメージ 1
 
 
石橋を渡ると、高麗門式の大手一門(太鼓門)。
お祭りのためか、京極家の「四つ目結」が翻っている。人ごみだ。
 
イメージ 2
 
三の丸へ続く坂は「見返り坂」と呼ばれている。
いきなり、目前に美しい高石垣!!
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20m以上の城壁が続き、算木積みがはっきり分かる。
まさに、「扇の勾配」
忍者など敵の侵入を拒む防御性と美を兼ね備えた、曲線美にうっとりする。
 
 
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高浜虚子の句碑があった。
虚子が延寿園にて飯野山を詠んだ歌だそうだ。
 
「稲むしろあり  飯の山あり  昔今」
 
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二の丸から石垣を見下ろす。
打ち込みハギの手法は、急勾配を可能とした。
戦国時代に発達した手法である。
 
イメージ 10

二の丸から讃岐富士(飯野山)が見える。
讃岐の人たちのランドマークなんんだそうだ。
 
イメージ 11
 
 
本丸に到着する。
目の前に、現存天守!!
イメージ 12
 
 
高さ15mの三重三階の層塔型木造天守で、
現存12天守の中ではもっとも小さいものの、
漆喰白亜の城壁と、唐波風(2階)や千鳥破風(3階)を取り入れた外観は
美しく、威厳に満ちていた。
 
 
イメージ 13
 
 
尚、山麓から本丸まで4重に重ねられた石垣は、総高60メートルもあり日本一高い。
三の丸石垣だけで一番高い部分は22メートルもある。
 
日本一高い石垣に鎮座する白亜の現存天守である。
 
 
天守内に登閣できる。(*冬場は閉鎖されるとのこと)
現存天守ならではの、急勾配の階段を登る。
 
窓から瀬戸内海が見えた!
 
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鉄砲狭間だろうか。
二の丸搦め手の備えである。
高石垣といい、戦(いくさ)を想定した縄張りであるといえよう。
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本丸からの眺め。讃岐平野が広がりため池も確認できた。
イメージ 4
 
豊作をもたらす讃岐平野と、瀬戸内海を持ち温暖な丸亀藩は、
恐らく6万石を越える石高を持ち得、江戸時代も豊かな藩政を布く事ができたのではないだろうか。
 
 
此処で城の歴史・沿革を簡単に紹介しよう。
 
【丸亀城の歴史】 
初代城主は、高松城と同じ、生駒親正
慶長2年(1597)から自身の隠居城(支城)として丸亀城の築城開始し、
慶長7年(1602)ほぼ現在の城郭が完成
しかし、元和の一国一城令で、丸亀城は一旦廃城となった。
 
寛永19年の生駒騒動で生駒氏が転封となり、讃岐ニ分国が決定。
 
寛永18年(1641)山崎家治が 天草富岡から西讃岐に入り、丸亀立藩。
 
寛永20年(1643) 二代藩主 山崎俊家が城の改修に着手する。
高石垣はこの時代に築かれた。
瀬戸内に住む隠れキリシタンの蜂起に備えるための改修工事といわれ、
幕府は丸亀藩に銀300貫を与え、参勤交代を免除し、突貫工事をやらせている。
内戦を想定した城つくりであった。
 
明暦3年(1657) 三代目 山崎虎之助が8歳で夭折。嫡子なく絶家となり、叔父豊治が、備中成羽へ転封。
 
万治元年(1658) 京極高和が、播磨龍野から6万石で丸亀へ転封となり、京極氏のまま明治維新を迎える。
明治2年藩籍奉還。七代目藩主 京極朗徹が丸亀藩知事となる。
明治四年廃藩置県後の県知事となる。
 
 
【ちょっと、寄り道】
尚、京極氏は、宇多天皇から始まる宇多源氏の一族で、名家である。
近江佐々木荘に住み佐々木氏を称した。
鎌倉時代、承久の乱で活躍した佐々木信綱の時、所領を四子に分け、
四男・氏信が北近江を領し、京極氏を名乗る。
 
婆娑羅大名で有名な、京極高氏も輩出し、室町時代には四職の一家として権勢を誇るも
戦国時代にはいると没落し、京極高次は織田信長の人質となり、後に家臣となる。
しかし、本能寺の変で明智光秀に味方したため、存続の危機を迎えるが、
高次の妹、竜子が秀吉の側室となったことで、許される。
その後秀吉によく使えて各地を転戦し、大津城主となる。
 
尚、高次の正室は、浅井三姉妹の二女・お初。彼女も美女で有名だった。
長女は、秀吉の側室で秀頼の生母・淀の君、三女は、二代目将軍秀忠の正室、江。
 
関ヶ原決戦の際、東西どちらにつくのか京極夫妻は苦慮するも、土壇場で徳川側に味方。
大津城で西軍の援軍を食い止めた功により、若狭小浜8万5千石を得る。
 
京極忠高(高次の庶子)の時に、出雲松江に移り、26万石の大名となる。
しかし、忠高に子がなく断絶の危機に瀕するも、甥の高和を藩主として、播磨龍野で家名存続が叶い、
その後、高和は丸亀6万石へと転封し、以後7代続いて明治維新を迎え、華族にも名を連ねる。
 
鎌倉から続く名家・京極氏は、何度も家名断絶の危機に直面しながらも
閨房や人脈をフルにつかった処世術で見事に危機を脱して明治維新をも乗り越えた。
さすが、佐々木信綱を祖先とするだけのことはある。
 
閑話休題・・・
 
丸亀城は、現存天守・大手一の門・大手二の門 が国の重要文化財に指定されている。
そして、何よりも、自分が想像していた以上に、高石垣が美しかった!!
お城好きな人も、それほどでない人も、是非登城して、日本が誇る質実剛健な建築美を御覧頂きたい。
 
 
 
 
 
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おまけ。
丸亀城からの帰り道に見つけた謎の標識。
男800m??? 男(ますらお)への道?? 女はないのか・・・?
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