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会津籠城戦の緒戦。
悲しすぎて観るのが辛かったです 多分、今世界の戦時下にあるどこかの町は、同じような惨劇の連鎖が起っているのでしょう。
太平洋戦争での沖縄は、このドラマよりももっと悲惨だったのです。 戦争というのは人を狂わせます 同時に、私の・・・ 【尚之助様症候群】は益々重症になってきました。
尚之助さんの「八重さん!」という声を聴いた瞬間に、涙がでました。 この優しい声を聴くもの数回なんだな・・・と思うだけで・・・胸が痛いです 尚之助さんは、三郎君の軍服に身を包んだ八重さんの戦士姿をみても、驚きもせず
「やはり来ましたか」 と一言だけ。
その瞬間に、私は自分の見識の狭さを恥じ入りました。 前回、八重さんが、三郎君の復讐に囚われすぎて夫をないがしろにするなんて、尚之助さんが可哀想だ、と思ったのですが、 尚之助さんは、そんな八重さんもすべて受入れて見守っていたのですね。 そして思い出しました。 新婚時代。 「新しい日々へ」の尚之助さんの言葉を。 「世間並みの奥方になどなる必要はありません。
私の妻は鉄砲の名人・八重さんだ。それでいい。」 あの頃から全くぶれていない、尚之助さんの愛!!
(感涙です) そして四斤砲を曳いて今から城外で砲撃戦に臨むと凛凛しいお姿。
八重さんに「いってきます」と、からりと一言。
銃撃されて命を落とすことも覚悟の上なんでしょう。かっこよすぎます どんなときも慌てず冷静沈着で・・・本当に心の強い御仁なんですね。
平石辧蔵著『會津戊辰戦争』に
「城砲只一門、護衛兵と共に豊岡にありて、小田山上の敵砲と相対す。
砲師 川崎尚之助 克く戦い、山本八重子 亦能く之を助け、
遂に小田山上の敵砲を沈黙せしめたる・・」
と記述が残されています。
この一文だけでも、川崎夫妻の深い絆が感じられます。
戦友のような夫婦なんでしょう。
城を守りぬき、共に生きるために闘っていたはずなのに・・・何故、別れてしまうのでしょうか。
想像するだけで辛くて、辛くて。
・・・この文章を書きながらも、涙が滲んでしまいます。
た、だ、し、 尚之助さんの出演がたったこれだけってNHKどうなのよ? そりゃまあ、容保兄弟の別れ、西郷頼母一家の悲劇に白虎隊エトセトラと、 1時間の枠内に事件てんこ盛りであったけど、
全国の尚之助ファンは、これじゃあ納得しませんよ〜。
尚之助さんとの別れのカウントダウンが迫っているだけに、
1分でも1秒でも多く、優しくて強くてカッコイイ尚之助さんを見せてください。 とはいえ、尚之助さんが登場したわずか数分のシーンだけで、
ここまで浸ってしまえる自分にも呆れてしまいますけどね・・・
ミーハー冥利に尽きるというものです。
それでは、会津籠城戦の緒戦に至るまでを、簡単にご説明します。
会津の最後の要所である十六橋が西軍にあっけなく突破されたのは、
慶応4年(1868) 8月22日の午後5時頃であった。
一番乗りを果たした薩摩の川村隊は、そのまま進撃せずに、陣地確保の上、後続を待った。
土砂降りの雨に加え、猪苗代湖畔に広がる赤井谷地は広大な泥地で、底なし沼もあったという。
大山弥助が大砲隊を率いて十六橋を越えたのが、夜9時ごろであった。
続々と西軍が集結し、会津若松城下へむけて、怒涛の進撃が始まったのである。
その頃、後詰として戸ノ口原に塹壕を掘り、雨の中じっと待ち続ける白虎隊士中二番隊の少年達は
寒さと空腹に耐えて、敵を待ち続けてた。
育ち盛りの少年達へ食料の調達すらできないほど、会津藩の指揮系統は混乱していたといえよう。
隊長、日向内記が、本隊へ食料調達を頼みにいったのは、いたし方ないとも言える。
しかし隊長はなかなか帰ってこなかった。少年達は耐えられず前戦へと進むことに決めた。
そして敵と対峙する。
白虎隊や会津藩士の持っていた銃は旧式のヤーゲル銃であった。
南北戦争の中古で、銃身が焼けると直ぐに故障し、撃鉄が打てなくなったという。
それに比べて西軍は、最新のミニエーやスナイドルなのの新式ライフル銃で、
銃撃戦ではまともに戦えない状況であった。
銃がだめならと抜刀し、敵兵へと切り込んだが、仲間達はばたばたと倒れていく。
混乱し相互連絡も途絶え、白虎隊も散り散りとなり、次第に孤立していったのである。
その一組が、篠田儀三郎をリーダーにした17人の少年達であった。
空腹と疲労のまま闇夜の山中をさまよい、敵の銃撃に曝され、負傷者を助けながら、
不動滝まで辿りついた。
飯盛山の中腹には、洞門がある。
蒲生氏郷の時代から、猪苗代湖から会津へ水を引くために掘られた水道である。
そこなら敵の目を潜ってお城へ帰れる・・・
少年達は、共に手をつなぎ、水に流されないよう腰帯につかまったりしながら、漆黒の洞窟を進んだ。
洞窟を出たときはすでに陽は登っていた。
しかし、飯盛山の中腹から見た鶴ケ城は、業火と煙に包まれていた。そして砲撃と銃声も響いている。
少年達が目指した城も主君もあの火のなかに・・・
「会津は破れたのだ、生きていても仕方がない。」
空腹感と疲労と絶望感が、少年の純粋な心を「死」へと導いてしまったのだ。
後から加わった3人を加え、20人の少年達全員が、刺し違え、自ら喉を突き、切腹して自刃を遂げた。
八重の教え子伊東悌次郎もその一人であった。
しかし、炎上していたのは、鶴ケ城ではなかった。
周辺の武家屋敷の猛火と小雨による煙を見間違えてしまったのである。
無念である。
彼らに一個のおにぎりが与えられただけでも、この悲劇は回避できたかもしれない。
豊臣秀吉が戦上手なのは、兵站の備えが完璧だったからだ。
戦場で重要視したのは「飯」である。
お腹が一杯になれば、生きる気力も生まれただろうに・・
武器だけじゃない。会津はプライドが高すぎたのだ。
この20人のうち只一人、奇跡的に蘇生したのが、飯沼貞吉だ。
しかし貞吉少年は、死に損ねたことを恥と思い、長らく白虎隊の転末について口をつぐんでいた。
だが、白虎隊の只一人の生き残りとして、重い口を開き、歴史の証言者となった。
飯沼貞吉が蘇生せず、20人全員が自刃して果てていたなら、白虎隊士中二番隊の真実は
闇に埋もれてしまっていた。
彼らの遺体が発見されるのはずっと後の事で、
持ち物から僅かに判別がつくくらいの状況であったからだ。
(会津藩士の遺体は見せしめのため長らく放置されていたのだ)
白虎隊が飯盛山の洞門にたどり着いた頃
松平容保公が陣頭指揮をとる滝沢御本陣も、圧倒的は敵の攻撃に曝されていた。
容保公はしかたなく、僅かな護衛兵とともに、城へと帰還した
滝沢本陣を後にするとき、実弟・松平定敬に、「米沢へ行け」と命じている。
援軍要請を依頼してのことであるが、実弟を地獄の道連れにするに偲びなかったとも言われている。
実は山川建次郎も、滝沢本陣に居た。
15歳のため白虎隊に入隊できなかったが、前戦と本陣の連絡役(斥候)として志願したのである。
彼は、昼夜を問わず戦場を駆け回った。
そして運命の8月22日、睡魔に勝てず、奥の納戸で眠り込んでしまった。
強心臓の持ち主なのである。
敵の凄まじい銃声にやっと目が覚めたが、容保公は既に本陣を出払ったあとで、もぬけの殻であった。
健次郎少年は銃を片手に、単身、城を目指して駆け出した。
この咄嗟の判断が、健次郎少年の命を救い、未来へと導いたのである。
8月23日、飯盛山で白虎隊士中二番隊の20人が自刃したこの日、
会津城下でも悲劇の連鎖が起こっている。
前日からの雨が降りしきる早朝、城下に早鐘が鳴り響いた。
鶴ケ城への緊急避難を告げる合図であった。
天下の名城、鶴ケ城は籠城すれば、数ヶ月は持ちこたえると言われるほどの、大要塞であったのだ。
さらに旧暦の8月であるが、現代の暦で換算すれば、10月、冬総軍が来れば西軍は撤退するだろう。
そんな希望的観測が、重臣たちの判断を迷わせたのであろうか。
城の出入り口は6箇所あるが、早鐘により城下はパニックとなった。
数千の藩士の家族が一度に城へと殺到したのである。
更に追い討ちをかけたのは、西軍の進撃の速さであった。
23日の午前9時ごろには、城下に急襲したとある。
滝沢本陣からの帰路、容保公の乗った馬が狙撃された記録もある。
各藩士の大多数の男性は、諸隊に属してすでに出陣し、また城内で警備にあたっていた。
残されているのは、老人、女性、そして子供たちだ。
命からがら容保公が入城した後、甲賀町口の郭門は閉ざされた。
西軍の急襲で六門は次々と閉ざされ、城郭内に避難できなかった者が多数でた。
城に入れない者たちのなかには、足でまといになるからと自刃する者も多くいた。
子供は食い扶持を減らすのみと、子供を殺して母が自刃したのだ。
会津藩家老の神保内蔵助と田中土佐は、甲賀町口で敵を迎え撃ったが、
西軍の侵攻を止めることはできなかった。
備前藩の「アームストロング砲」が炸裂したからだ。
射的距離数千メートルを誇る最新式の巨砲。
難攻不落の鶴ケ城がひと月しか持たなかったのは、この破壊力と言っても過言ではない。
頑丈なはずの郭門が破壊され、西軍がどっと進入してくる。
会津藩を背負ってきた家老・神保内蔵助と田中土佐は、
御側医師の土屋一庵と共に、切腹してはてている。二人とも負傷し、一庵の治療を受けていたのだ。
神保内蔵助は、3月に自刃した息子・修理の平和の願いを噛み締めただろうか。
前日、修理の妻・雪子を説得して実家に帰していたことからも、その覚悟が分かる。
そして筆頭家老の西郷頼母邸でも悲劇が起こっていた。
8月23日、頼母の家族の女子9人、西郷家に身を寄せていた親戚11人、
合計21人が、白装束に着替えて、水盃をかわし、集団自害したのである。
姑の律子、妻・千恵子、妹・眉寿子、由布子、娘の細布子、瀑布子、赤ちゃんも、4歳と9歳の幼子もいた。
辞世を読み、泣きじゃくる幼子を刺し殺し、自刃した。
しかし死に切れなかった娘がいた。16歳の細布子である。
土佐藩の小隊長であった中島信行がその光景を目の当たりにし、証言している。
「十六、七歳のあでやかな女子が、未だに死にきらないで、足音を聞いて起きかへったが、
此の時はもう眼が眩んで見えなかったらしく、幽かな声で
「敵が味方か」といった。自分はわざと
「味方だ」といった所が、身をかき探って懐剣をさし出した。それでは之にて命を止めて呉れといふ事であった。
自分は見るに見かねたから、涙を振るって首を斬って外に出た。」
娘の懐剣に九曜の紋があったことから、西郷頼母の家族だと判明したのである。
妻千恵子の辞世
「なよ竹の風にまかする身ながらも、たわまぬふしはありとこそ聞け」
会津精神を象徴する悲劇として有名だが、子を持つ母として、どうしても受け入れることができない。
東北復興がドラマの目的であるなら、辛いけど・・敢えて書きます。
もし震災や津波が襲ってきたら、子供は足手まといだからと見捨てて逃げる母親がいるだろうか。
むしろ逆だろう。自分の命と引き換えにしても子供を守るはずだ。
私も阪神淡路大震災を経験している。子供をどう守るか、いつも頭の片隅にある。
子供を手にかけるなど通常の精神状況ではない。
戦争は異常なのだ。人を狂気へと導く。
一方、出遅れて城内に入れず、やむなく郊外の農村に避難した婦女子は1万を越えていたという。
しかし彼女達の話は殆ど伝わってこない。
明治から戦前における軍国主義の風潮にあって、籠城や自刃が美談にされても、
避難は肩身が狭かったと言われている。
生きることを選んだ彼らの選択に、何の恥があろうか。
八重の幼馴染、日向ユキ(剛力彩芽さん)も祖母、継母、弟二人、妹と6人で、農家の栗城伝吉のもとで
保護されることになる。
次回は中野竹子さんの悲劇が描かれるようですね。
尚之助さんが、史実のように活躍してくれることを期待してます。
ブルーレイの最高画質録画で、一コマ、1秒たりとも見逃さず
尚之助さんのお姿を見つめる所存です。
「新選組!」の山南さん以来の、惚れっぷりです。
山南さんを越えてしまってますね。
大河で号泣する夏、再び・・・。
参照: 「会津士魂」 早乙女貢先生
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大河ドラマ「八重の桜」
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いよいよ会津戦争に突入しました。
八重さんの和製ジャンヌダルク姿が評判になっておりますが、
し、か、し、
当方は、尚之助さんミーハーブログ
尚之助さんの、黒マントル姿
おひげのせいか、すごっく精悍になった尚之助さんにぴったりの装いです。
ここんところ黒羽織姿に完全ノックアウトされておりましたが、こちらもなかなかでございます。
でも、でも、でも
出陣式の八重さんには、正直、がっかりでした・・・・
「三郎の仇を取るために出陣したい」って気持ちはわかるけど
旦那さまが戦士としてお城へ向かうにのに、夫の武運を祈る言葉がまったくない、ってのは
あんまりではありませんか。
そんな妻を前に尚之助さんも辛そうでした。
やっぱり、夫として、一人の男性として、愛する妻にしっかりと見送ってもらいたいですよね。
次回予告でも、「私は山本覚馬の妹だ」って言ってましたけど
そこは当然、「川崎尚之助の妻です」であるべきでしょう。
最近、八重さんのブラザーコンプレックスが酷くなっているような・・・
私が保守的なのかもしれないけど、
夫を前にして、自分の兄や弟ばかり口にするのは、さすがにNG
もしかしたら、これが尚之助さんとの離縁の理由?!
夫のプライドを傷つける言葉や態度が原因で夫婦間に亀裂・・・ うわ、ワイドショーみたいにリアルだ。
以前の八重さんは、もっともっと、夫の気持ちに寄り添う奥様だったのに。
三郎君の仇を討つことに囚われてしまって、
尚之助さんの優しさと強さを、すっかり見失ってしまったのだとすれば、
私は八重さんが嫌いになってしまうかもしれません。
それでは、会津籠城戦至るまでを、プチ解説します。
二本松を攻略した新政府軍は、次の攻撃目標を会津に絞った。
大村益次郎は、仙台・米沢の攻撃を主張したが、板垣退助と伊地知正治の会津攻撃の主張が通ったのだ。
会津への進行であるが、
新政府軍は母成峠を選んだ。脇街道で手薄であったからだ。
事実、当時の会津の布陣をみると、母成峠とは反対の、猪苗代湖南・御例霊櫃峠に重点を置き
精鋭部隊が配置されていた。
母成峠を突破されれば、会津領内への侵攻は確実であるのに、
肝心の会津若松城下には、殆ど正規軍が残っていない有様であったのだ。
更に、保守的な藩風に加え、新政府軍の怒涛の進撃に情報が錯綜して、
正確な状況が把握できていなかったのも、会津の大きな敗因であろう。
慶応4年8月20日 二本松から進軍した新政府軍は、翌日 8月21日には早、母成峠を突破した。
そして会津への通り道である猪苗代城(亀ケ城)へ進撃してくる。
僅かな備えの兵がいるのみで、猪苗代城代・高橋権太輔は火をつけて若松へと退却している。
尚、母成峠は新選組も布陣していた。
山口次郎(斎藤一)は間違いなく参戦しているが、土方歳三については諸説ある。
ただし、この母成峠での敗戦を境にして、土方歳三は会津を離れているのは確かである。
会津に残る山口次郎に新選組を托し、歳三は援軍要請のため庄内に向かい、
その後、仙台の榎本艦隊に合流するのである。
村上淳さんの歳さま曰くの 「俺の戦いをする」 ためである。
とはいえ、宇都宮城を陥落させた実績で歳三の名前は既に東軍で評判であり
多くの新選組隊士や旧幕府兵が、歳三とともに五稜郭へ向かっている。
軍議どころか戦術についても口を挟むことができない会津の保守性に
土方歳三は飼い殺しの状態であったとも言える。
自分の武将としての腕を試すために、新天地を目指した歳さまを、会津は引きとめる理由など
なかったのである。
ちなみに私が戊辰戦争に興味を持ってあれこれ調べたのは、土方歳三サマの大ファンだから。
京都の新選組鬼の副長時代もいいけど、戊辰戦争から函館戦争にかけての歳サマは、
軍略家としての才能を開花させたのもあるが、とにかくカッコイイのだ。
個人的には榎本さんとのコンビもかなり好み。
ついつい八重の桜でも村上淳さんの歳さまを応援してしまう自分がいます
個人的には山本耕史さんの歳さまが鉄板だけど
長谷川博己さんの歳三サマ
色白で長身の超美形でむちゃくちゃモテた・・・おお、これはいい
戊辰戦争から函館戦争の歳サマを演じて欲しいな。
(また妄想・・・閑話休題
会津城下への最後の要所は「十六橋」のみとなった。
容保と重臣達は、十六橋を含む戸ノ口防衛隊の総督として、佐川官兵衛を抜擢した。
鬼官兵衛のあだ名どおり、獅子奮迅の働きをみせる剛毅な男なら、防衛線を死守できると信じていた。
参謀には秋月悌次郎も配され、会津正規軍、敢死隊、奇勝隊、誠志隊、砲兵三番隊など約700人。
「橋を毀せ」と伝令が飛んだ。
しかしこの橋は木橋ではなかった。
猪苗代湖から流れ出る日橋川が急流のため、十六橋は、土台から橋脚、橋げたすべて石材の
堅牢な石橋であったことが、あだとなった。
殆ど作業が進まないうちに、猪苗代から、薩摩の川村与十郎率いる新政府軍の先鋒が、急襲してきたのである
8月21日 母成峠突破の報を受けた松平容保公は、自ら出馬して兵の士気を鼓舞するため、本丸を出た。
容保御出陣である。
佐川官兵衛を先頭とし、日輪の馬標を立てて側近数人が随行する。
藩内の精鋭が城外へ派遣されており、留守備えの兵が少なかったため、白虎隊士中二番隊を護衛とし、
滝沢村に入った。滝沢は飯盛山の麓にある。
田中土佐や容保の実弟の桑名候松平定敬も兵を率いてやってきた。
白虎隊の編成については、以前にも紹介したが、
16歳から17歳の少年達で編成された備えの兵で、
士中 (一番隊44人、二番隊37人)、寄合(一番隊101人、ニ番隊62人)、足軽(71人)
今回容保に随行した士中ニ番隊は、いわゆる日新館で学ぶエリート予備軍であった。
息つく暇もなく、滝沢本陣に伝令が駆け込んできた。
「十六橋に敵が迫り、戸ノ口危うし、救援の兵を至急!」
しかし今派遣できるのは、護衛の白虎隊だけである。
容保は苦渋した。滝沢本陣に控える少年達はあまりにも幼い。
しかし大目付達の意見は、「白虎隊出陣やむなし」であった。
白虎隊士中ニ番隊は、戸ノ口へと勇んで出立した。
七百石の上士、日向内記中隊長が率いていた。
八重が鉄砲を教えた伊東悌次郎の姿もあったのである。
詰襟の洋軍服にマンテルをはおり、黒ズボンあるいは義経袴に脚絆をつけて草鞋履き
太刀を長い白木綿の紐で肩に下げて、旧式のヤーゲル銃を担いでいた。
髪は束ねて茶筅に切り下げ、韮山笠を被って行進する。
佐川官兵衛は、しかし白虎隊を十六橋の最前線に出すことを許可しなかった。
子供の命を戦場にさらすのはさすがに憚られたのである。
そして、こもつち山と呼ばれる強清水近くの小丘で塹壕堀を任された。
雨に降られながら、そして空腹になりながらも、少年達は敵襲に備えていたのである。
ところが会津の生命線であるはずの十六橋は、8月22日夕刻午後5時ごろ、
新政府軍の電光石火の進軍によりいとも簡単に突破された。
十六橋一番乗りを薩摩と長州が功を争い、薩摩の川村与十郎は、「長州に先を越されるな!」と
兵を叱責し、駆けさせた。その進撃の早さは、予想外であった。
石橋のため会津が十六橋の破壊に手間取っている間に、十六橋に到着した川村隊は
銃撃を浴びせながら、戸板を橋に架けて、あっという間に対岸へと渡ってきたのだ。
十六橋は西軍の手に落ちた。残るは、会津若松城だけである。
そして翌日、白虎隊の悲劇が起きるのである。
私は松平容保公の至誠を心から尊敬している。
孝明天皇の御ために、命がけの働きをして京都守護職をまっとうした。
苦難の連続であったが、天職であり天命であった。
しかし、戊辰戦争が始まってから、いや、孝明天皇が崩御されてからのの容保公は、
その輝きを失っていくように思える。
聡明な殿なら、二本松が落城したとき、白河奪回が不可能となったとき、そして母成峠が突破されたときに
もはや、会津若松城が落ちることは容易に想像できたはずだ。
負け戦が長引けば長引くほど、流れる血も命も膨大となろう。
何故、すぐに降伏して城を明け渡さなかったのだろうか?
母成峠が突破され猪苗代城が落ちたとき、
重臣との軍議で藩論が「和議」へと傾いたことがある。
ところが、今まで非戦で恭順派の筆頭だった西郷頼母が、それを強烈に批判し
「もうここまできたら、城を枕に討死するしかない。」と一蹴してしまった。
頼母が何故態度を豹変させたかは計りかねるが、これで和議の話は打ち切りとなった。
だが、容保公が自分で決断すれば良かったのだ。
一説には、容保公は養子だったため、重臣達に自分の意見を押し通せなかったとも言われている。
神保修理を自刃にまで追いやった、かたくなな藩風ではあるが、しかしあと一言の決断が遅れた事が、
悲劇を拡大させていった。
「会津城はもう詰んでいる」のだから「降伏する」タイミングが早ければ早いほど多くの命は消えずにすんだ。
敵兵迫る、の報に、会津城下は一気に緊張した。
8月22日朝五ツ絆(午前7時)、15歳以上60歳の男子は入城するようにと屋並触があった。
山本家では川崎尚之助はすでに入城していたが、60歳の父・権八も鎧兜姿で登城した。
二本松城同様、老兵や白虎隊などしか城下には残っていなかったのだ。
8月22日の夜、猪苗代方面の空に火の手があがり、砲声も聞こえてきた。
8月23日六ツ頃(午前5時)、激しい雨が降る早朝、城の半鐘が打ち鳴らされ、
屋敷町の婦女子、老人達は、急ぎ三の丸へと向った。
籠城の合図であった。
「三郎の仇をうつ」と敵と戦う覚悟を決めた八重は、三郎の形見の着衣、黒羅紗筒袖の上着に
黒のだん袋(ズボン)を履き、最新式のスペンサー銃を担ぎ、両刀をたばさんで、麻の草履を履いた。
完全な男装であった。(ドラマの八重さんと同じです)
新政府軍の先鋒の進撃は恐ろしく早く、この時すでに城下は敵兵の銃弾が飛来し、
城下はパニックとなった。
狂乱の状況下で人は冷静な判断を失う。
山本家のように城に籠城して藩候とともに闘うものもあれば、城に入れなかった者は、
郊外の農村に避難するものもいた。
最も悲惨なのは、子供や老人とともに城に入って足手まといになるなら、敵兵から陵辱を受けるまえに、
子供を殺し、自刃することを決断する婦人も数多くいた。
ドラマの八重さんが「賊軍呼ばわりし会津を滅ぼすものと闘う」と言っていたけれど
薩長や土佐、大垣出身の視聴者は、この言葉にどう思っただろうか?
新政府軍にも大義があり、禁門の変や長州征伐で多くの血を流した仇だと反論するだろう。
関西在住者として、正直、複雑な気持ちになった。
八重が狙撃した敵兵にも家族がおり、結局「復讐の連鎖」は止まりはしない。
今世界で頻発するテロも同じだ。殺し合いで解決する事などありはしない。
立場が変われば大義も変わる。
会津戦争は確かに悲惨で酷い。臨場感を持たせるために、新政府軍=悪と描くことはたやすいだろが、 一方的な立場で描くことは、公平さを欠くのだ。
悲劇となった理由がある。
そして何故悲劇を事前に止められなかったのか、そういう問題意識をもつことも忘れてはいけない。
戦争に大義などないのだ。生きてこその命である。
特に、大人の勝手な理屈で、子供の命と無限の未来を無惨にも奪ってしまうことを、許すことはできない。
やや辛口になってしまいましたが、個人の感想なのでお許しを。
次回は「八重の桜」会津編クライマックスですね。
和製ジャンヌダルクの八重さんの本領発揮です。
砲隊を指揮する尚之助さんの活躍にも多いに注目しましょう!
でも、個人的には、尚之助&八重さん夫婦の絆がどうなるのか、とっても心配です。
隙間風が吹いて離縁だなんて、それはあんまりにもリアルすぎです・・・
(角場の夫婦寄り添うシーンも見れないのね・・・
参考:「会津士魂」早乙女貢氏著
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録画を観たのは水曜日、それから数日間、
何も手につかない状況です
尚之助さんの熱視線
尚之助さんファンなら分かりますよね・・・
八重さんを優しく強く強く見つめる、あつ〜い・・・あのシーンです
前後をかいつまんで説明するなら、
奥羽鎮撫総督府から会津討伐の勅命を受けた仙台藩ら25藩の奥羽列藩が
白石城に会して「会津救済嘆願書」を提出することになりました。
山本家の居間で、権八さんと尚之助さんが、八重さんにこの嘆願書について説明し、
八重さんは「これで会津が朝敵でないことがはっきりする。」と安堵します。
そこへ、早速新式銃の使い方を習いに米沢藩士が尚之助を訪ねてきた・・・という流れです
いわば、歴史の状況を台詞で説明するト書きのシーンで、夫婦愛とは無縁のはずなのですが、、
米沢藩士が登場するまでの、僅かの空白の時間に・・・
尚之助さんが八重さんを、熱く熱く見つめていたのです。
もう、こちらが赤面するほど・・・
熱視線ビームを八重さんに発していました。
カッコイイ尚之助さんから、あんなとろけるような笑顔で熱くじっと見つめらたら
殆どの女性が落ちてしまうでしょう。。。私なら卒倒したかも。
八重さんよく耐えた!そしてしっかり見つめ返してましたよ〜
背中からのカットだったため、八重さんの表情は分からず残念でしたが、
きっと微笑み返していたと思われます。
(でないと、尚之助さんはあんなに長時間、見つめないよね
普通に撮ればなんの変哲もない風景なのに、
尚之助さんの愛がスパークする、ハイボルテージ・ラブシーンに様変わりでした
(権八さん・・蚊帳の外でした 苦笑)
つうか、あの10秒間は、NHKから尚之助ファンへのサービスショットなのか?
それとも、偶然撮影したシーンだったのか?
もし後者なら、長谷川博己さんが綾瀬はるかさんを公共の電波をつかって口説いていたのか?
いや、流石にそれはないだろうけど・・・
と3日間ほどあれこれ妄想を逞しくして、ドラマ感想どころじゃない状態に陥っておりました。
ただ分かるのは、
前回「弟のかたき」の熱い抱擁シーンから始まって
尚之助さんの八重さんへの愛が、深く激しさを増しているなぁ・・・という事です。
覚馬は行方不明、三郎は戦死と悲報の続く山本家と八重さんを、
自分が守っていかなければならない、という責任感が、尚之助さんを只の居候から、
一人前の男へと成長させてますよね!
会津藩士として、同僚たちとの会話や他藩の人との会話にも、強い自信が伺えます
黒羽織をまとった姿は、白羽織だった以前にはない、雄雄しさや逞しさも感じられます。
そして八重さんへの強く激しい愛を全面に出すことで、
二人の別れをより際立たせる効果もあります。
長谷川博己さんは、それらをしっかり計算して演技しているのでしょう。
実は、先週、「週刊朝日」で林真理子氏が長谷川博己さんと対談しているという、耳よりな情報をゲッツし
早速立ち読みをしました。
林真理子さんが「雲の階段」の大ファンで、殆どその話だったのですけど。(
会話のなかで、「三郎の性格を演じるために演技を徐々に変えていった。」的な発言があり、
「あ〜、この人は、緻密に計算して演技を組み立てていく俳優さんなんだな〜」と感心しました。
会津戦争へのクライマックスにあって、すでに長谷川さんの頭にはイメージが出来上がっているのでしょう。
つまり、尚之助さんの八重さんへの思いは、会津戦争に比例して燃え上がって
お堅いNHKの常識など破る、「熱視線ビーム!」のような熱演で魅せてほしいです。
でも尚之助さんと会えるのももう数回なんですよね・・・涙がでます
では、今回のメインテーマである「奥羽越列藩同盟」について、プチ説明を。
下記年表を御覧ください。
3月19日 奥羽鎮撫総督・九条道孝が仙台に入り会津出兵を強要する。
仙台藩は、新政府への恭順派と、親会派(会津救済派)に真っ二つに藩論が割れるも、
朝敵となることを恐れて、3月27日、会津藩境に出兵し、4日間の小競り合いが起こってしまった。
とはいえ、会津に非がないことは明白である以上、本格的な戦闘には至らなかった。
そして仙台藩の親会派と、米沢藩等は会津藩と接触を保ち、
4月29日、七が宿・関宿にて仙台・米沢・会津藩が談合し、謝罪嘆願について同意がもたれた。
(関宿談判)
ドラマで尚之助が梶原平馬らとともに談合に参加しているのは、この関宿でしょう。
この会議を率先したのは、河原善左衛門。
会津藩にあって数少ない非戦派であった。
「国境から兵を戻し鳥羽伏見の戦の首謀者の首をも差し出し恭順嘆願すべし。」と
松平容保を必死に説得している。
しかし抗戦派の大声にかき消され、河原善左衛門の平和への願いは叶わなかった。
そして総督府への嘆願書の内容も、
「会津藩の名誉回復」訴えるだけで、とても新政府が納得するものではなかった。
会津は、仙台や米沢と嘆願救済の道を模索しつつ、一方で庄内藩との軍事同盟も動きだした。
庄内藩は、江戸市中警備を行っていた新微組の本締めであり、薩摩藩邸焼き討ちの主力兵であったことから
朝敵の落胤を押されていた。
庄内藩は、東北にあって唯一スナイデルなど新式銃を揃えており
江戸市中を警護した実績もあり、士気は高く、会津の抗戦派と「会庄同盟」を結ぶ。
ちなみに庄内藩は、戊辰戦争敗北後、西郷隆盛の寛大な処置に感激し
それから西郷と交友を保つようになる。
西郷の人柄や精神を伝える『南洲遺訓』は、旧庄内藩士が西郷を慕って鹿児島を度々訪問し
教えを請うた時の内容である。西南戦争の折は、西郷とともに戦った旧庄内藩士もいた。
もし西郷が奥羽鎮撫の無能さに気づき、対処していれば・・・会津の悲劇も回避できたかもしれない。
ドラマで山本覚馬が西郷に直訴したのは、正攻法だったのだ。
しかし遅すぎた。 世良修蔵という男のせいで。
世良は安井息軒の三計塾長代理になるなど、それなりの知識人のはずなのだが
地位が人格を変えた典型で、会津救済の嘆願書を悉くその手で握り潰してしまった。
きちんとした手続きをとれば、無益な戊辰戦争は免れた可能性が大きい。
しかし世良修造は、万国公法を無視し、野蛮な思考で東北を戦火にするつもりだった。
福島藩の金沢屋という旅籠で妓楼を囲い、
東北諸藩の重臣への高圧的な態度を取り続けた。
閏4月11日 白石城に奥羽列藩重臣が一同に会し、
翌日、仙台中将(伊達慶邦)、米沢中将(上杉斉憲) の両中将の名前で
「会津救済嘆願書」が総督府へ提出された。
奥羽列藩は、あくまでも戦争を避ける事を主目的にしていたのだ。
しかし、この嘆願書が世良の一言で却下されてしまう。
世良が元凶である、と奥羽列藩は認識しはじめる。
そんな不穏な空気のなか、世良修蔵が金沢屋から、同じ下参謀の大山格之助へ宛てた密書が
仙台藩・瀬上主膳や姉歯武之進に渡った。
その密書を一部抜粋しよう。
「奥羽皆敵ト見テ逆襲之大策ニ至度候・・・
「米仙ノ俗朝廷ヲ軽ンズルノ心底片時モ難図奴ニ御座候・・・」
仙台と米沢を罵倒する言葉が続く。
この密書に憤慨した仙台藩士は 暗殺を決意し、
閏4月20日、金沢屋にて世良を襲撃、同日、阿武隈川の河原で斬首された。
世良修造は護身用にピストルを持ち歩いていたが、このとき不発であったのは、
世良に遊ばれた妓楼が、事前に鉄砲玉を抜いていたといわれている。
そして偶然にも、世良斬首された閏4月20日、会津藩兵が、白河城を襲撃占領し、
戊辰戦争最大の「白河口の攻防戦」の火蓋が切って落とされた。
世良修造の惨殺の後、戦火は避けられない状況となり、
奥羽列藩は会津救済の緩やかな連合から一転、共闘する「軍事同盟」へと動きだす。
5月3日 仙台にて25藩による「奥羽越列藩同盟」が成立し、5月6日には北越6藩も加盟して、31藩による
大同盟になった。
しかし、その機運も、閏4月29日の白河城の攻防が、影を落とすことになる。
会津にとって南の関門である白河口は、最大の要所であった。(尚之助さんの視察もそのためでしたね)
白河城を落した会津は、西郷頼母を総督、横山主税を副総督として約700人の兵で、新政府軍の攻撃に備えた。
新選組や仙台、二本松、棚倉藩も白河城に入っていた。
負けるはずがない、と誰もが信じていた。
しかし新政府軍参謀・伊佐治正(薩摩)は、戦上手であった。
5月1日、新政府軍は東西南の三方から5手に分かれて進撃してきた。
兵は同盟軍とほぼ同じ700人ほど。
そして、最新のスナイドル銃、そして大砲6門、火箭砲1門で、雨あられと砲撃してくる。
それに引き換え、同盟軍の銃器は旧式で、大砲も2門のみ。
新政府軍が動きやすい軍服で揃えてあるが、同盟軍は重い甲冑をつけ銃弾の標的になるばかりであった。
そして、銃器を避けるための壁も土俵もなく、新政府軍の火器が圧倒的に勝っていた。
実は白河口での攻防戦が始まる前に、新選組の山口次郎(斎藤一)が西郷頼母に献策をしたが
一蹴されている。
山口次郎は鳥羽伏見の戦いを経験しており、敵の銃器の性能を理解していた。
西郷頼母の憶測が甘かったのだ。
京都守護職拝命に反対したり、恭順を唱えたりと、政局を見るめは確かであったが、
やはり実戦経験がないことが、致命傷となったのだ。
副参謀の横山主税は、戦が始まって直ぐに銃撃されて即死したと伝わる。
同盟軍の戦死者は300人、ほぼ半数が戦死したことになる。
それに対して新政府軍はわずか70人。会津の完敗だ。
わずか1日で、白河城は、新政府軍の手に陥ちてしまい、
それから3ヶ月、激しい攻防戦が繰り広げられたが、結局、同盟軍は白河城を奪回出来なかった。
もし要所である白河口を、鳥羽伏見を経験した佐川官兵衛や山川大蔵が指揮をとれば
また違った戦況となったかもしれない。
例えば、宇都宮城を陥落させた土方歳三が、参謀として軍議に加わっていれば、
違う展開も出来ただろう。
(土方歳三は、足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送され、会津では約3ヶ月間の療養生活を送り、
この間に、容保公の許可を得て天寧寺に近藤の墓を建立している。)
しかし連日行われる軍議に、新選組は参加できなかった。
身分の低い者も同様である。
ここが、会津と長州の違いであろう。
同じく朝敵となり圧倒的に数で勝る幕府軍に攻められても潰れなかったのは、
長州が、身分や年令の関係なく才能ある若者を重用した事も大きい。
療養後、足の怪我が治った土方歳三が、新選組から離脱して仙台へ向ったのは、
会津の保守的な体制に、勝機を見出せなかったからなのかもしれない。
そして、最大の要所白河を突破した新政府軍は、二本松、そして会津若松城下へと、
怒涛の進撃を繰り出してくるのである。まさに地獄への一本道である。
尚、斎藤一は、確認できるだけで5度も変名している 山口一 ⇒ 斎藤一 ⇒ 山口次郎 (今ここ)⇒ 一戸伝八 ⇒ 藤田五郎 時尾さんとの結婚の際、松平容保から賜った「藤田五郎」という名で、
その後の長い人生をまっとうしたのである。
次回は二本松少年隊の悲劇です。
尚之助との旅で、八重さんが渡した「白河だるま」と屈託のない少年の笑顔が
血にと涙に染まるのでしょうか
滂沱の涙を拭くタオルを用意しないとね。そしてきっと私は怒ってしまうと思う。
なぜ、子ども達までも・・・と。 これは戦争の狂気です。
TOP写真は、尚之助さんの熱い抱擁場面です
ああ刻一刻と尚之助さんとの別れも近づいてきました・・
尚之助さんが居なくなった大河ドラマなんて、カレールーのないカレー、味噌の入ってない味噌汁
「雲の階段」も次週が最終回だし・・・・
7月からアタクシは何を楽しみに過ごせばよいのでしょうか。 参照: 「会津士魂」 早乙女貢先生
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22回は尚之助さんが小まめに登場し、
ほぼ2週間にわたる・・・
尚之助様禁断症状がやっと緩和されました。
特に二人の あつ〜い抱擁
冒頭から尚之助さんについて、語ちゃいます
江戸へフランス式軍事調練を学びに行った尚之助さんは、悲しい知らせももって会津へ帰ってきました。
三郎の死と、覚馬の幽閉、処刑(の噂)・・・です。
尚之助さんは、三郎の遺髪と遺品の軍服を山本家へ持ち帰りました。
「別人だ!」と言い張る八重も、軍服に施された「南天」の刺繍を見て言葉を失います。
八重が夜なべをして三郎のために縫ったのですから。
覚馬については、鳥羽伏見の戦の初日に薩摩藩に捕らえられ、四条河原で処刑されたと噂があると。
絶望が家族を支配します。
「ふたりとも山本家の男としてなんら恥じることはねえ、と存じる」
一度に二人の息子を失った父は気丈に答えますが、溢れる涙をこらえることはできませんでした。
しかし、「遺髪も遺品もない。兄つぁまは生きている。」八重さんの直感が働きますが、
かわいい弟の死は認めざるを得ません。
「尚之助さま、どうしたら三郎のかたきが討てる?私はかならず討つ!!」
和製ジャンヌダルク八重さんの、会津戦争はもう始まっていたのでした。
私も弟がいるので、八重さんの気持ちは分かります。
いくつになっても、おっさんになっても、弟は、かわい弟なんです。
ましてや三郎はまだ18歳・・・直ぐには受け入れがたい現実でした。
八重はそれでも気丈に近所の少年達に鉄砲を教えていました。
15歳のため白虎隊に入れない少年達が自主的に習いに来ていたのです
(山川健次郎が初登場ですね〜)
しかし少年に弟の姿を重ねてしまい、つい「三郎!」と呼びかける八重さん。
尚之助さんも、八重さんの様子がおかしいことに気がつきます
すると八重さんは突然銃を持ち、家を飛び出します
偶然訪れた山川大蔵の腕を振りほどき、
「かたきを討つ!」 と城下へ駆け出す八重を止めたのは、夫でありました。
「何処へいくのです?誰を討つのです?」
「しっかりしなさい!!!」 尚之助さんは八重さんを叱り付けます
夫の声で我に返った八重は、弟への思いを切れ切れに言葉します。
そんな八重さんをしっかりと見つめる尚之助さんの目には、愛
(私はこのまま二人がくちづけでもするのか、と思ったほどでした。でもキスよりも強い愛でした・・)
八重さんは感情を抑えきれず・・・
「さぶろ〜〜〜!!」
と叫び泣き出します。
尚之助さんはその言葉も涙もともに、八重さんを強く強く抱きしめるのでした。
ワタクシ、二人の熱い抱擁に魂を抜かれて、もうすでに3回もこのシーンをリピしてるので分かったのですが、
尚之助さんは、画面の端の見えないところで、八重さんを、ぎゅ、ぎゅっと、数回も強く抱きしめているのですよ!
「骨が折れるほど」 ってやつです
長谷川博己さんの見えないところでも手を抜かない役者魂をみました
そして八重さんは尚之助さんの胸に抱かれて、いままでこらえていた涙を流すのでした。
(私も八重さんになりたい・・・)
そしてもう一箇所、ステキなシーンがありました。
それは尚之助さんが会津藩士に洋式訓練を指導しているシーンです。
・・・相川(田坂)三郎ヒゲ姿でしたね
共に会津藩内の軍制改革を推し進める山川大蔵(玉山鉄二さん)と尚之助の会話です
これから日光口へ偵察に出かける大蔵さんは、
「八重さんは大丈夫ですか? あんな八重さんの姿を見たのは初めてです」
と尚之助さんに問いかけます。
大蔵さんにとって八重さんは初恋の人。今でも思いを残しているのです。
幼馴染の大蔵でさえ、見たことがない八重の姿とは・・・
我を忘れて取り乱す姿なのか、
それとも、男の人の胸で声をあげて泣く姿なのか・・・・
すると尚之助さんは、無言で頷き返すのでした。
しかし、私には尚之助さんの心の声がはっきりと聞こえました。
≪大丈夫です。私が八重さんを守りますから≫
大蔵君にもその声は届いたはず。
こーいう、男の友情もまた、たまらないですよね〜。
二人のイケメン(しかも大蔵は妻がいる)から、これほど深く思われている八重さん。
でも綾瀬はるかさんの可憐さなら、納得ですよね。
いよいよ会津戦争が始まり、尚之助と八重さんの別れのカウントダウンが始まりました
ならば、二人の激しく深い愛を、余すことなく描いて欲しいです。
川崎夫妻の愛の数え歌・・・しっかり見届けたいです。
(注意: ここからは「雲の階段」を見ている人だけにしかわからない内輪の話です)
でも、でも、相川(田坂)三郎ひげはやめて欲しいな〜
やっぱり、川崎夫妻は、美肌自慢の夫婦なんだから・・・
三郎ひげをみると、つい「雲の階段」を連想してしまうんです。はい。
八重さんが「さぶろ〜〜」と叫び、ぎゅ〜っと抱きしめられるシーン
「あの、目の前にいるし!」って突っ込んだのは私だけじゃないはず
照姫が容保公の苦悩に「その重荷を分けていただきたい」涙するシーンも、まるまる明子さんの台詞だし・・・
NHKと日テレは、番組協力でもしてるのかいってほど、がぶっちゃいますね。
「雲の階段」見て、とろけながらも、 つい八重さんの「さぶろ〜〜!」が頭をよぎるんだろうな (*^_^*)
でもね、八重さんは幸せだよ
やっぱ、男の人がぶれるとダメだってことだね。
相川(田坂)三郎くん、「しっかりせ〜よ!」 と、権八さんの台詞でまとめてみました。
次回も尚之助さんがたくさん登場してほしいです。
どうやら、奥州同盟にも絡んでくるみたいだし・・・史実とは違うけど、尚之助さんがたくさん出演するなら
なんでも許しちゃいますよ!! たっぷりと魅せてくださいませ
ではここから史実のプチ解説を!
「江戸城無血開城」については、現地(史跡)にも行ってきましたし、是非過去記事をお読みください。
「新選組!」旅日記④〜薩摩藩江戸屋敷 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/61161154.html
篤姫 第48回「無血開城」 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/59266681.html
「松平容保公の会津帰国と軍事改革について」
松平容保公が江戸を去ったのは、慶応4年(1868) 2月16日である。
千葉権助を先備としわずか20人ほどの藩士に守られて帰途についたのである。
28万石の譜代大名としては、余りにも寂しいものであった。
2月22日、会津領内に入った容保公は、会津若松城内には入らず、城外の「御薬院」別邸へ入った。
そして家督を養子の喜徳に譲り、恭順謹慎に勤めた。
しかし、会津藩内の徹底抗戦の声は益々拡大し、そのため国境から兵を引かず、武装解除もしなかった。
ドラマの綾野容保公の台詞どおり、「攻められれば反撃するのみ。」
すなわち和戦両様、「挙藩防衛」の構えを崩さなかったのだ。
そして藩の軍政改革を断行した。
年齢によって、朱雀、青龍、玄武、百虎 の4つの隊に編成された。
朱雀隊 : 18歳〜35歳 最も戦闘能力が高い精鋭主力部隊
士中、寄合、足軽と身分によって区分されて、各4中隊で編成されていた。
青龍隊 : 36歳〜49歳、後備兵。
士中3中隊、寄合2中隊、足軽5中隊。
玄武隊 : 50歳〜60歳
士中、寄合 それぞれ1中隊で編成された
白虎隊 : 16歳〜17歳の少年たちの部隊。
士中(一番隊44人、ニ番隊37人) 寄合(一番隊101人、2番隊62人) 足軽(71人)で編成された。
後に飯盛山で自決する19人は、士中ニ番隊の少年達である。
そして洋式訓練を実施した。
容保公が江戸を去る前に、佐川官兵衛(中村獅童さん)を中隊司令官に抜擢して
江戸城内にて幕府兵士達とともに、フランス式撒兵訓練を受けている。
(ドラマでは尚之助さんが会津藩内でフランス式調練を指導した、という設定になっているのですね〜!)
そして何よりも急務であったのが、新式銃器の購入であった。
鳥羽伏見の戦いで、戦力は倍以上もありながら幕府軍が惨敗したのは、
新政府軍の備えた新式銃の威力に他ならない。
江戸へ落ちてきた土方歳三が「これからは銃の時代だ」と嘆いたのは有名な話である。
江戸に残った家老・梶原平馬らは、横浜の貿易商から小銃800挺と弾薬等を購入した。
しかしすでに銃は売り手市場で、最新の銃は手に入れにくかった。
会津藩が購入したのは、旧式に属する銃の寄せ集めだったという。
結局何もかもが後手になったのだ。
ドラマの話であるが、
もし1年早く、会津が尚之助と八重さんの開発した新式銃を採用し、尚之助さんの提案した反射炉を鋳造していたなら・・・・・会津戦争の様相はもっと違ったものになっていただろう。 会津が鳥羽伏見の敗戦で、やっと重たい腰をあげて軍政改革を始めたころ、既に新政府軍による
東北征伐の軍が編成され、3月2日には、すでに京を出立していた。
奥羽鎮撫総督 : 左大臣 九条道孝
副総督 : 従三位 沢為量
参謀 : 醍醐少将忠敬
下参謀 : 大山格之助 (薩摩)
下参謀 : 世良修蔵 (長州)
当初 下参謀は 黒田清隆 と 品川弥二郎が選ばれていたが、急遽変更されたという。
黒田も品川も、新政府軍にあって、穏健派で常識人であった。
もし人事がこのままなら、会津の悲劇は避けられたかもしれない。
一方、八重の桜の世良修蔵は絵に描いたような「悪人」になっていたが、
騎兵隊上がりのなりあがりもの特有の凶暴な人物であったことは間違いないだろう。
次回予告で「地獄の使者」と呼ばれてましたね・・・
奥羽越列藩同盟については、また次回にでも。(なかなか複雑ですので、字数が足りない
尚、私はこと「会津戦争」については、新政府軍(薩長)=絶対悪 と捕らえるのはバランスに欠くと思っている。
会津も判断を誤ってしまったのだ。
会津戦争の悲劇を NHKがどの程度描くのか測りかねるが、
中野竹子(黒木メイサさん)や二本松少年隊をすでに登場させている点から、それなりの覚悟を持って
観る必要があると思うし、ところどころ辛らつにになるかもしれない。
また所感を交えて、感想を書いていきたいと思う。
もちろん、尚之助さんラブ
(↑がメイン目的だったりして・・
参照 「会津士魂」 早乙女貢先生
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